570冊目『お母さんは忙しくなるばかり』(ルース・シュウォーツ・コーワン 法政大学出版局) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

インド映画『ピザ』(2014)は、スラム街に住む兄弟二人が、偶然目にしたピザの風味に魅せられて、とにかくピザを食いたい一心で、あの手この手で奮闘するコメディ映画でもあり、インド社会の底辺層の境遇を描いた社会派映画でもある。石炭を盗んで売るといういけないバイトで現金をゲットした兄弟は、意気揚々と新しくオープンしたピザ屋に向かう。しかし、警備員にスラムに住む奴らのひやかしだと思われ、排除をくらってしまう。兄弟は入店さえさせてもらないのだ。

 

それにしても、なぜ警備員が二人の兄弟をスラム出身だと分かったのか。それは、彼らの身なりである。兄弟は、よれよれの着古したシャツに傷んだパンツを履いていたために、門前払いを食らったのだ。その後、兄弟は服を新調するために再び奮闘するのだが、ここで注目すべきは、「清潔さ」がひとつの資格となっていることだ。本書の主題は、テクノロジーが主婦の家事労働をますます追い込む経緯の歴史的実証にあるのだが、ここでは、この清潔さの起源に焦点を当てよう。工業化以前、家が生産の現場であったときは、労働は夫、妻、子で分担されていた。しかし、この状況はテクノロジーの進展によって一変する。

 

テクノロジーの進歩によって、衣食住の材料は家庭が自ら生産するのではなく、市場を通して購入する商品となった。マルクスが「商品交換は、共同体の終わるところに始まる」というように、かつて自ら生産していた衣食住も、それがいったん、商品として流通すると、その共同体(家庭内)内部においても商品として機能し始める。したがって、男は家庭生活の維持のために商品購入できるだけの賃金を求めて、市場に出なければならないのだ。ここに男は市場、女は家庭という〈男女別領域〉が始まる。

 

この問題が根深いのは、テクノロジーが衛生的な劣等感を作り出してしまうことである。浴室が普及するようになれば、体をを洗っていない人は不潔だと思われるし、服が購入品となってしまえば、糸がほつれた服を着ているものは、貧乏人というスティグマに苦しめられるようになる。テクノロジーは人類の生活を便利にしたが、一方で、衛生的な劣等感も作り出した。そのため、便利な家電製品を購入し、衣食住を常に新調し続けるために、男は働かなければいけないし、場合によっては、妻も働きに出なければならない。ここでは、「清潔さ」への追求は、もはや強迫観念となる。さて、映画『ピザ』の結末だが、やっとのことでピザにありつけた兄弟は生まれて初めてのピザを食した後でこう言う。「たいして、うまくないな」。この少年たちの素直な一言は、子どもの発言だからこそ、「清潔さ」を追い求める現代社会のイデオロギーに痛棒を食わらせているのである。