759冊目『惜別』(太宰治 新潮文庫) | 図書礼賛!

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太宰治の唯一の国策小説である。発表は、戦後(一九四五年九月)だが、執筆は戦争中になされている。小説『惜別』は、情報局と文学報告会の委嘱を受けて書き上げた長編で、戦時中における日中親善が題材となっている。太宰が、中国人の主人公として選んだのは、魯迅である。魯迅は、明治三五年(1902年)に国費留学生として日本に留学したが、留学生として使命を忘れて放蕩に耽る同胞に嫌気がさして、中国人が誰もいない場所を求めて、東北にある仙台医学専門学校(東北帝大医学部の前身)を新たな学びの場所とした。国語教科書にも掲載されている『藤野先生』は、この仙台医専時代に魯迅が世話になった先生で、『惜別』においても、藤野先生は魯迅に強い影響を与えた人物として描かれている。小説『惜別』は、東北地方の田舎で開業している医師の手記という体裁で、書き手の医師と魯迅との交流を描いたものである。魯迅は、周という名前で出てくる。日本留学時代の魯迅の心境を細部まで描いたものとして、大変興味深い。

 

ところで、当時の中国人の留学事情は、次のようなものだったという(259‐260頁)。

一、路近くして費をはぶき、多くの学生を派遣し得べし。

一、日本文は漢文に近くして、通暁し易し。

一、西学は甚だ繁、およそ西学の切要ならざるものは、日本人すでに刪節して之を酌改す。

一、西支の情勢、風俗相近く、順い易し。事なかばにして功倍する事、之にすぐるものなし。

日本は西洋文明を取り入れて大国にのし上がった国であるのだから、わざわざ西洋に行かなくても、近くの日本で学んだ方が、簡単に西洋文明を吸収できるのだという一種の便宜主義で、日本への留学をめざす中学人留学生が増えていったとのことである。魯迅もその一人であったが、先ほども述べたように、彼は最初の留学先である東京で、同じ中国人の留学生が堕落し切っているのを見て、場所を仙台に移した。当時は、中国にも革命が必要だという中国人留学生の革命戦士がいたが、魯迅は彼らとは距離を取り、ひとりで思索を積み重ねることを大事にした。

 

魯迅は、医学を志して留学したのだが、最終的には、文学を志すこととなった。魯迅のこの転機には、幻灯事件と呼ばれる屈辱が背景にあるとされている。魯迅の仙台滞在中は、ちょうど日露戦争が起った年であり、ロシアの捕虜が仙台でも見られたことなどが、『惜別』には書かれている。幻灯事件は、この日露戦争中に起った事件だが、中国人の周にとって、ショッキングなものだった。この事件は、仙台医専の講義で、中国人がスパイ疑惑でロシア人に打ち首にされようとしている映像を見せられたことを指すが、例えば、ウィキペディアでは、この事件について次のように書いている。「このとき、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯事件を見て、小説家を最終的な職業として選択した」(1)。同胞の屈辱的な姿を目の当たりにすることと、小説家へと転向することが、一直線につなげられているが、あまりにも論理が屈折しているだろう。ひとまず、本書によれば、周は、同胞がスパイとして殺されたことよりも、あの画面もぼんやりと眺めている中国人の愚かしい表情を見たことが、どうにも耐えきれなかったと書かれている。

 

たとえば、周は次のように言う。「僕には、あの裏切者よりも、あのまわりに集まってぼんやりそれを見物している民衆の愚かしい顔が、さらに、たまらなかったのです。あれが現在の支那の民衆の表情です。やっぱり精神の問題だ」(373頁)。そして、周は、中国人の精神の改革を目指すために、文学の道に足を踏み入れていくのだという。その際、日露戦争でロシアを打ち負かした日本を礼賛するのだが、ここで興味深いのは、科学先進国のロシアを打ち負かした日本の精神力を称賛していることである。周によれば、日本には得体の知れない不思議な力があり、これを中国人は見習わなければならないという。言うまでもなく、もちろん、これは戦時中のプロパガンダである。とはいえ、解説の奥野健男によると、『惜別』は国策小説ではあるが、当局からの要請がなくても、太宰にとって書いてみたいテーマだったらしく、すでに構想も練っていたようである。そういう意味では、この小説を単純にプロパガンダ小説と括ってしまうのは乱暴であろう。実際、『惜別』で描かれる周こと魯迅は、帝国のプロパガンダに包摂されつつも、等身大の生を生きている。その描写には太宰なりの抵抗があったのかもしれない。

 

(1)魯迅 - Wikipedia