760冊目『典子は、今』(松山善三・高峰秀子 潮出版社) | 図書礼賛!

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実家に映画『典子は、今』(1981年)を録画したビデオテープがあって、たしか6歳か7歳くらいにときに見た覚えがある。サリドマイド薬害によって手がないまま生まれた松原典子の逞しく生きる姿を描いた映画だ。現在、仕事で障害について色々と考える機会があり、この映画を思い出した。もう一度観てみようと思ったのだが、アマプラやネトフリなどの動画配信サービスにはないし、いっそのことDVDで買おうかと思ったが、覗いたアマゾンのサイトではなんと八万円超えだ。名作を見るのにこれほどの障壁があるのは社会にとって大きな損失だ、などと嘆いていると、youtubeで映画一本分、まるごとアップされているのを発見した。ありがとう、youtube!! 記事の下に添付しているので、是非、観て欲しい。

 

『典子は、今』の主演は、辻典子本人である(役名は松原典子)。典子は、生まれた時から手がない。妊娠中の母が服用していたサリドマイドの薬害で、手が欠落したまま生まれてしまったのだ。典子は手がないから、足を使うしかない。盲目の人間が芸術の分野で異常な才能を発揮するように、人間は欠落した身体の機能を、別の分野で埋め合わせようとするのかもしれない。典子の足の動きは、まるで芸術的だ。食事のときも足でお箸を挟んで上手に口元にもっていく。ミシンもするし、習字もするし、楽器の演奏もするし、なんと水泳だってする。映画では両足を器用に使って、針の穴に糸を通す場面があるが、実に見事で思わず唸ってしまった。

 

とはいえ、やはり手がない典子にはできないことが多い。例えば、雨が降れば傘を差すことができない。だから、典子は、雨の降る日は、友達の傘に入れてもらって登校している。『典子は、今』を観て、非常に心に安らぎを感じるのは、典子の周囲には、典子を思う心優しき友人がたくさんいることである。冒頭に書いたように、私は小さいときにこの映画を一度観たきりで、ほとんど内容を忘れてしまっていたのだが、公務員試験を受ける典子のために、校長先生と友人が、試験会場に典子専用の机を持ち運び、精いっぱい激励する場面だけはよく覚えている。障害があっても、こんな素晴らしい友人に囲まれて、典子は幸せだなと思った。

 

さて、映画後半の典子のひとり旅は見所である。典子は友人を訪ねるために広島に行く。母親に反対されながらも、ひとり旅を決行するのだ。松山監督によれば、このひとり旅は、まったく脚本がないという。手のない障害者が社会に出たときの現実をありのままに映し出そうという、いわば社会実験である。ここでも安心するのは、手がない典子を見知らぬ親切な人たちが手伝ってくれることである。典子も積極的に「わたし、手がないんです。助けてください」「すいません。手伝ってもらえませんか」と声をかける。強い意思で現状を前に進めようとする典子の生き方には感動を禁じ得ないが、一方で、障害者に「すみまんせん」と連呼させるこの社会とは、一体何なのだろうかと考えざるをえない。「障害」は障害者個人に還元されるものではない。障害者を障害者たらしめているこの社会の仕組みこそ、もっとも問われなければならない。