757冊目『その情報はどこから?』(猪谷千香 ちくまプリマー新書) | 図書礼賛!

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誤情報が、人々を狂気に駆り立てた事件がある。二〇一八年八月にメキシコのアカトランで、男性二人が、ネット上で児童人身売買をしていると名指しされ、それを信じた群衆が、この男性二人を暴行し、ついには焼き殺したという事件である。しかし、この人身売買の噂は全くのデマだった。また、同種の事件としては、二〇一六年一二月の「ピザゲート事件」(1)があるが、いずれにせよ、誤情報の拡散が、ただのエンタメの消費で終わることなく、「正義」感を強くもった人々によって、殺戮にまで発展していったのである。なんともおぞましいことである。情報技術の発達によって、今や誰でも自由に情報を発信できるようになったが、その反面、真偽の定かでない情報まで出回ることになってしまった。デマ、フェイクニュース、陰謀論は、こうした情報化社会が必然的にもたらしてくる現象だが、私たちは、こうした誤情報に対して、いったいどのように対処すればよいのだろうか。

 

ファクトチェックという言葉がある。誤情報に駆り立てられる社会を少しでも是正するために、世に拡散している真偽不明な情報を検証することが必要だ。特にパンデミック禍における混乱した状況では、よりいっそう、デマが人々のパニックにつけ込んでくるだろう。こうした誤情報の氾濫を食い止めるために、日本では、二〇二二年に「日本ファクトチェックセンター」(初代編集長古田大輔)が設立された。とはいえ、ファクトチェックによって誤情報の氾濫を食い止めるといっても、ことはそう簡単ではない。というのも、デマと真実はそうはっきりと峻別できるわけではないからだ。世の中には、真実のふりをしたデマもあれば、デマの顔をした真実もある。そこに専門家や科学者の知見が加わると、それを権威として、デマが「科学的事実」に格上げされてしまうこともある。私も含めて、普通の一般人が、こうした情報を科学的知見に基づいているのか、それとも科学のフリをしたデマなのかを判断するのは、恐ろしく困難である。

 

ファクトチェックは、こうした科学を装った誤情報に関しては、ほとんど無力だと言われざるをえない。内田樹が言うように、陰謀論を唱える人は、驚くほど博識である。予想される反論に対して、それへの有効な回答となる論文をいくらでも知っている。今回のパンデミック禍においても、たとえば、マスク着用の感染予防効果、ワクチン接種の効果等について、市民の間でも意見が分かれてるし、そしてそれぞれが専門家による知見を持ち出して、自説を補強している。ファクトチェックセンターが、こうした科学的議論の審級に立って、「ファクトか、否か」について妥当な判断を下すのは、まず無理だ。だから、ファクトチェックは、せいぜい「ビル・ゲイツの娘がワクチン接種してないという情報は、誤り」(2)という、瑣末なガセネタ程度しか、扱うことができない。もちろん、こうした科学的議論の妥当性については、ファクトチェックの対象ではないと言われるかもしれない。しかし、今の日本の分断は、まさにこのマスク、ワクチンといった科学を巻き込んだ領域で起っているのであり、この問題に関して、ファクトチェックが無力だというなら、一体、ファクトチェックに何の意義があるのだろう。

 

そもそも人には、自分の思想信条に沿うように物事を解釈したいという「動機づけられた推論」というのがあり(730冊目『陰謀論』)、私たちは物事を見たいようにしか見れない。当然、そうした心性が歪んだ認知を生み出し、デマに加担していくわけであるが、ファクトチェックセンターは、どのようなイデオロギーや価値観からも独立した審級に立っていると言えるのだろうか。そもそも、ファクトチェックセンターは「コロナワクチンにはマイクロチップが埋め込まれている」といったデマが拡散していることを危惧して設立された機関であり、ワクチンに否定的なデマをファクトチェックの対象としている。無論、それはおおいに結構なのだが、一方で、「二億回打っても死んだ人はいない」、「そもそも感染すらしない」といった誤情報を垂れ流した河野太郎ワクチン担当大臣(当時)の発言は放置しているあたり、「ファクトチェックセンター」も、ワクチンに対しては疑ってはいけない、というのを思想信条としているようだ。彼らもイデオロギーからは逃れられない。以上見てきたように、ファクトチェックは、分断の根源である科学的議論には全く無力であること、そして、ファクトチェックを行う者自身も、自分が信じる思想信条から免れないことを考えれば、このデマが跋扈する時代において、ファクトチェックが果たす役割は、きわめて限定的なものでしかないだろう。

 

(1)ピザゲート - Wikipedia

(2)日本ファクトチェックセンター(JFC)さんはTwitterを使っています: 「「ビル・ゲイツの娘はワクチンを接種していない」という情報は何度も拡散し、海外メディアによって検証されています。再び日本で拡散したのを機にJFCも検証しました。ゲイツ氏の家族は新型コロナウイルスが広がる前からワクチンに関して積極的に発信しています。 https://t.co/bVP6r4r95e」 / Twitter