724冊目『病院の世紀の理論』(猪飼周平 有斐閣) | 図書礼賛!

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パンデミックが終わらない。現在、緊急事態宣言やワクチンパスポートはないが、相変わらずマスク社会が続いている。専門家は科学的エビデンスの名の下にマスク社会の正当性を力説し、多くの国民がそれに従っている。まるで社会全体が病院になってしまったようだ。ワクチンも懸念される副反応についての熟議もないまま、大量接種体制に踏み切り、これもまた従順な国民がそのまま接種を受け入れている。もはや過去のものとなった、患者の医者への全面的な協力を定式化した「病人役割」(T.パーソンズ)が再び蘇ってきたようである。もちろんパーソンズが生きていた20世紀中葉であれば、医師と患者のあいだに主従関係を構築しておくことは、それなりに根拠があった。当時は感染症の時代であり、ウイルスを巻き散らす特性上、患者の意向に配慮せず、隔離して強制治療を行うことが正しい医療行為であるとされていた。

 

病院の世紀の理論とは、医療供給システムの型を史的に捉える理論だが、20世紀と現在では、求められる医療システムが全く違っている。20世紀において、病院は、医学の大幅な進歩を背景に専門的で技術的な医療を供給できる最も信頼できる場所となった。それは、医者が患者の自宅に伺い往診するといった19世紀的な治療からの根本的な治療改革であった。こうした20世紀的な医療システムを支えたのは、治療イノベーションによるものである。しかしながら、その医療技術の進歩のおかげで人間は簡単に死ななくなった。その代わり、生活習慣病や老化による障害が現代病として大きくクローズアップされてきた。こうした病は、感染症のように隔離する必要もなければ、迅速な措置が必要という病でもない。またこうした病は療養期間が長期に渡ることもあって、病気と生活の満足度とのバランスを考えながら治療していくという病気との付き合う方法が主題になる。ここにQOL(711冊目『QOLって何だろう』)という考えが出てくる。

 

感染症から生活習慣病へ。こうした疾病構造の変化によって求められる医療システムも大きく変わってくる。そして、それは医者にとって多大な負担を強いるものである。というのも、20世紀の病院であれば、医者が指示した客観的に必要な治療を、患者は黙って受けいれればよかったが、しかしこれは、治療医学が決定的な役割を果たす病に限られる。生活習慣病や老化による障害に対して、治療医学が果たす役割は限定的である。なぜなら、そこには病気だけではなく、患者の生活の質も考慮に入れなければならないからである。そもそも生活の質というのは、きわめて曖昧なものであり、医者はおろか、患者本人にさえ、どうすることが最善なのか、しっかり分かっている人の方が稀である。QOLとは、「究極的に不可知であると考えられる概念」(3頁)であるそれでも医者は患者の人生観や、社会的価値にコミットしながら治療を行わなくてはならない。「医師の果たすべき役割や必要とされる知識・技能は、大きく変容し、医師はこれに適応していくという課題を負わされることになる」(230頁)

 

こう考えていると、現在のパンデミックは、20世紀の病院の時代に後戻りしてしまったような感がある。ただ生活の質という概念を手にした我々は、20世紀的な反応をすることはできない。感染症の専門家の意見をただ黙って拝聴しなければいけないというのは、医療支配を感じさせる。息苦しくてマスクが嫌だという人に配慮はなく、「マスクが有害という論文はありません」という、人体の個別性を無視した「科学的」知見が専門家から、印籠のように示されるだけだ。パンデミックに対処するのは当然だが、規模が大きいほど、それへの対策は国民の日常生活を強く圧迫する。緊急事態宣言が出されたとき、非正規労働者が路頭に迷った。ホームレスとなった女性がバス停で寝ているところを殺害されたという事件も起こった(546冊目『縁食論 孤食と共食のあいだ』)。この事件は、私にとって現在の社会防衛第一主義が本当に正しいのかを考えさせる機会だった。感染防止といいながら、実は感染リスクも経済的損失も一部の弱者に担わせただけではないのか。コロナ禍になって3年も経つのに、今だにコロナ・パンデミックを総合的に考える視点が確立していない。評論家の東浩紀は「人類は残念ながら、生き残るためには家畜になってもいいと判断したようだ」(189頁、『忘却にあらがう』朝日新聞出版)と書いているが、いつまでこんな社会を続けるのだろうか。