546冊目『縁食論 孤食と共食のあいだ』(藤原辰史 ミシマ社) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

 先日、幡ヶ谷のバス停に行ってきた。渋谷ホームレス殺害事件の現場である。死亡した女性は、大林三佐子さん(64歳)。派遣社員としてスーパーで食品販売をしていたという。勤務場所も、東京、千葉、神奈川、埼玉と移動範囲が広く、衰えた体に鞭打っての日々だったろう。数年前に家賃が払えなくなり、以降、路上生活者となるが、仕事自体は続けていた。だが、コロナ禍が追い討ちをかけ、仕事が激減。携帯も解約され、もはやなすすべもなく辿り着いたのが、渋谷区幡ヶ谷のバス停留所だ。大林さんは、夜中になるとこのバス停のベンチで体を休めて、朝になるとまたどこかへ出かけていたという。そして、2020年11月16日、深夜、ベンチで休んでいた大林さんは46歳の男によって撲殺された。大林さんのこの時の所持金は8円だった。

 

 幡ヶ谷のバス停を訪れたとき、私は大林さんが体を休めていたというベンチに座ってみた。ベンチというにはあまりにも狭く、お尻ひとつをなんとか預けられる程度だ。とても安眠できる環境ではないし、むしろ長時間座り続けていたら、身体に負荷がかかり、かえって悪影響ではないかと思われた。そもそも、ひとりの女性に、最終的な拠り所としてこんな劣悪な「住居」を求めさせたものは何だったのだろうか。以下、著書の文章からヒントになりそうなものを引いてみる。「「食べものがある」という言葉は、食べる行為までの近さを思い起こさせ、聞き手を安心させる。「食べものが売られている」という言葉は、現在から食べるまでの時間的ギャップを感じさせる。食べものを買うだけのお金がある人間に「食べものがある」ことと大きな差異は生まれないが、それだけのお金がない人間には、空腹が満たされないつらさのみならず、目の前にある食べものが食べられない、というもどかしさまでついてくる。」(61頁)

 

 大林さんをここまで追い込んだ理由のひとつが貧困だったのは間違いない。わずか8円の所持金しかない大林さんには、「あるもの」と「売られている」ことの差を埋める手段がなかった。食が市場化した現在、「あるもの」と「売られている」ことの差を埋める行為と責任はひとえに消費者にのみ担わされている。しかし、そうではなくて、たとえ金がなくても、誰でもふらっと立ち寄れて腹を満たすことができるような場所を提供できないだろうか。類似の試みは現在でもある。ホームレス専用の炊き出しだったり、「子ども食堂」だったり、その社会的存在意義は論を俟たない。しかし、こうした試みは貧困層の救済という社会メッセージ性が強いゆえにスティグマを恐れる社会的弱者をカバーしきれない問題がある。ならば、共同意識の制約をもっとゆるやかにした食べる空間、すなわち、孤食でもなく共食でもなく、誰でも出たり入ったりできる食堂はつくれないだろうか。それが、著者のいう縁食である。

 

 非正規雇用の増加によって、貧困の問題がクローズアップされて久しい。その解決策は、ベーシックインカム(BI)であるとよく言われる。大方の労働者は、金を稼ぐために働いているのだから、だったらまずそのお金を渡そうというアイデアである。近年、このBI論が一部の新自由主義主義によるセーフティネットの効率化に利用されているのが気に入らないところだが、発想としては悪くないアイデアである。BIが単なる金よこせ運動ではなく、思想的な運動であることは私も過去記事に書いた(本ブログ169冊目、山森亮『ベーシック・インカム』光文社新書)。しかし、「なぜお金を稼ぐのか」という問いはさらに遡及できる。私たちがなぜお金を稼ぐのかといったら、それは食べるためである。人間は最悪、衣服と住居を失っても死にはしないが、食べなければ間違いなく死ぬ。それならば、生の基本を支えるベーシック・フード・サービスが、より根源的なセーフティネットであろう。これに著者のいう縁食を組み合わせれば、貨幣経済に取り込まれた食を人間の尊厳を満たすものとして取り戻すことができるかもしれない。私はこんなことを思う。部屋から追い出され、職を失った大林さんが、ふらりと街中の縁食食堂に入る。「仕事クビになっちゃったよ」などと店の人と話しながら食事をしているところに、偶然居合わせた客が「私が仕事紹介しようか」と声をかける。大林さんは、お願いしますなどと言いながら少しだけ胸をなでおろし、目の前の食事に集中する。そういう縁をもたらす社会を大林さんに届けたかったと思う。