711冊目『QOLって何だろう』(小林亜津子 ちくまプリマ―新書) | 図書礼賛!

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QOLは、quality of lifeの略で、「生命の質」とも訳されるものだが、こうした言葉が生まれる背景には、疾病構造の変化がある。医学の長い歴史で見ると、大半は感染症との闘いだった。人にウイルスを巻き散らし、場合によってはパンデミックの元になる感染症は、たとえ患者が拒否したとしても、強制的に隔離することが正当化されていた。患者の意思よりも公衆衛生を優先していたのである。しかしながら、医療技術の向上、衛生環境の整備のなかで感性症の脅威がだんだん減じてくると、今度は生活習慣病が現代の病の代表となってきた。生活習慣病は他人にうつる病気ではない以上、公衆衛生という観点は存在しない。さらには対応処置が緊急性を帯びていないため、感染対策のように患者の意思を無視してとにかく収容して治療するという選択は取れない。こうして患者の意思も尊重される環境が整い、それが治療方法に反映されることになる。インフォームドコンセントやQOLは、そのような背景から出て来た患者のための医学用語だ。

 

病気であれば適切な処置をして治してあげることが医学的には正しいが、とはいえ、患者が望まない治療を強制的に行うことはできない。患者は、医学的に見たらどんなにバカげたことでも、当人がそれを望んでいる限り、適切な医療を拒否することもできる。いわば、愚行の権利が患者にはある。むろん、破滅を望む患者などほとんどいないだろうが、それほどまでに患者の人権が尊重されるようになったということが重要なのだ。とはいえ、問題は残る。たとえば、人工呼吸器でどうにか命を保っているのに精いっぱいで自らの意思を表明できない患者の場合、その患者の意思は誰が代弁すべきなのだろうか。それとも誰にも代弁できないものなのだろうか。1989年に米国では、脳に障害を負い回復する見込みがないまま昏睡状態に陥った息子の姿を見かねた父親が、医者を銃で脅し、息子の人工呼吸器を外される事件があった(リナーレス事件)。父親が息子のためを思って取った行動であることは間違いないにせよ、いくら父親とはいえ、「息子はこんなになってまで生きたくないはずだ」だとどうして判断できるだろう。

 

リナーレス事件について思うことは、本当は子供はまだ生きたいと思っていたのではないか、ということだ。本当なら外ではしゃぎたいし、両親とハグしたいし、友人とたくさん話したかったはずだ。しかしそれが叶わなかったとしても、それでも子供は生きたいと思っていたいのではないか。父親の決断は、息子の代弁ではない可能性がある。とはいえ、回復不可能なほどに脳に障害をもった子供に自分の意思などあるはずがないという意見もあるかもしれない。はたして、そうだろうか。1983年にベルギー在住のロム・ホウベンは、事故に遭い、植物人間になった。医者はロムを「何も感じないし、何も聞こえない」と診断したが、おそよ20年後、最新のスキャンシステムで検査したところ、ロムの意識が明瞭にあることが確認されたのだ。身体は動かないが、意識はクリアであることを「ロックト・イン・シンドローム」というが、ロムは、約20年ものあいだ、この状態にいたのである。しかもロムは、医師が家族に「もう望みがない」と言っていたこともちゃんと聞こえていて、それを覚えていたのである(133頁)。

 

医療技術の進展によって、従来、脳機能が停止と判断された人でも、実は意識を明瞭に保っているケースがありうることが分かってきたのだが、これは実に厄介な問題を孕んでる。ロックト・イン・シンドロームに陥っている患者は、自分の意思はあるのにそれを表現する手段がない。だから、患者本人はもっと生きたいと思っているに、家族が「こんな生き方は子供も望んでいない」と延命治療の中止を要請する場合がありえる。これはあまりにも絶望だろう。逆に本人は周りに迷惑をかけるくらいなら無理に延命などしたくないと思っていても、家族が延長治療をお願いするケースもありうる。生死のいずれを決断するにせよ、ロックト・イン・シンドロームのような場合、このような齟齬は避けられない。もちろん生前意思表示としてリヴィング・ウィルはそのひとつの方法だが、平時の日常感覚での判断と、リアルに死を目の前にしたときの判断とを同一視できないという理由で、リヴィング・ウィルも絶対視できない。正直、この問題はこれといった唯一解はないだろう。一時的にくだした判断を絶対視するのではなく、患者、家族、医者がコミュニケーションを充分に行い、信頼関係を構築するなかで、患者の死生観に向き合う営みだけが、こうした問題に「答え」を与えるだろう。