710冊目『朴正煕時代』(李祥雨 朝日新聞社) | 図書礼賛!

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朴正煕は、1961年に軍事クーデターを起こし政権を握った。民主的手続きを経た政権奪取ではないため、「革命の課業が成就されれば、斬新にして良心的な政治家たちに、いつでも政権を移譲してわれわれは本来の任務に復帰する準備をととのえる」(革命公約)と述べたが、側近の銃撃によって暗殺されるまで、18年間ものあいだ権力にしがみつづけた。そもそもこの革命公約には嘘がある。1960年、李承晩政権が四月革命によって大統領自身がハワイへ逃亡するという形で幕引きした後、張勉政権が後継した。革命勢力は、クーデターはこの張勉政権の無能、腐敗のために決行されたと主張したが、しかし、このクーデターの決行は、すでに前年の1960年9月10日には決められており(忠武荘決議)、張勉が国務総理に就任して一か月も経っていない。「(クーデターは)張勉政権の無能とか腐敗によって起こったものではなく、それ以前に計画されたものだった」(48頁)

 

韓洪九は、『韓国・独裁のための時代 朴正煕「維新」が今よみがえる』(651冊目)で、朴正煕は、日本の昭和維新に感化されたことを指摘している。朴正煕自身、朝鮮半島が植民地支配された時代において、帝国軍人として生きる道を選んだ。大邱で教師を数年務めた後、軍官学校に入学し、陸軍将校にまで昇りつめ、濃厚な日本的、軍国主義的な空気のなかで、おのれの気概を育ててきた。また朴正煕が貧農出身だったことも、昭和維新へ共感を呼び起こしたかもしれない。朴正煕自身、直截的に皇道派との接点は持たなかったものの、同じ立場から政治に憤慨したテロを決行したニ・二六事件の陸士たちは憧憬の対象だった。しかし、朴正煕の五・一六クーデターに、そのような昭和維新の影響があったにしても、その主なエネルギーは自身の軍人キャリアにおける挫折とそれへの反骨精神だったのではないか、というのが本書の見立てだ。これはどういうことだろうか。

 

朝鮮半島は解放直後、左右のイデオロギーの陣営がせめぎ合う場所に様変わりしたが、その象徴ともいえる麗順反乱事件によって朴正煕は軍法会議にかけられている。ことの真相は不明だが、朴正煕が南朝鮮労働等の幹部だったという金炯旭(元中央情報部長、米国へ亡命))の証言がある。軍法会議の結果、無期懲役の宣告を受けたが、同僚将校たちの減刑運動によって釈放された。しかし、この思想的な前歴は朴正煕の軍人の経歴にとって大きな傷となった。同僚や年下の者がどんどん昇進していくのに対して、朴正煕自身は地味な仕事を割り振られた。このような屈辱体験から「一挙に現実を否定しようという衝動」(43頁)に駆られてしまったのではないか、というのである。そして、朴正煕の狭量な自尊心から起こされたこのクーデターは完全に成功する。クーデター発生後、現政権の張勉はすぐに寺院に逃げ込み、徹底した抵抗をしなかったし、当初クーデターに反対していた米国も、朴正煕政権を正式に韓国のトップとして認めた。

 

著者は、米国の対韓政策について興味深いことを述べている。「第二次大戦以来、アメリカが韓国に求めてきた二つの柱は『親米・反共』と『民主化』だが、これが矛盾する場合、アメリカは常に前者を優先してきたのである」(64頁)。朴正煕は根っからの反共だった。半島統一も、韓国が北朝鮮の体制を転覆させる「勝共」による統一が唯一の解であった。北朝鮮とのネットワークを持ち、国家を転覆させたとして学者、学生、言論人を多数逮捕した人民革命党事件は、朴政権の反共ぶりを象徴する事件である。逮捕されたものは、根拠不十分でも有罪になり、なんと翌日には死刑が執行された。その他にも民主的な活動を反共を名目に封じてきた朴政権を、米国は本格的には批判しなかった。それどころか、権力にしがみつくための三選改憲のときには、米国は「民主主義に向かって前進」(72頁)だと喝采を送った。朴政権もまた、米国に恩を売るためにベトナム派兵を決定するなどしたが、朴政権の対米観は実際どのようなものだったか。そしてその対米観が韓国人にどうような影響を与えたのか。こうした問題について、今後の課題として考えたい。