709冊目『じぶん・この不思議な存在』(鷲田清一 講談社現代新書) | 図書礼賛!

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「自分探し」という言葉が、一時期流行った。第77回芥川賞受賞作のタイトルは『僕って何』(三田誠広)である。こういう実存への不安を生んだ社会背景は多くの要因が複合的に絡まり合っているだろう。正しい生き方のレールを敷いてくる社会のイデオロギーだったり、大衆消費社会で個人が記号になったことだったり、自由や主体性が称賛されることだったり等々、さまざまである。自分という存在になにか大きな枠がはめられたような気がすると、どうにも居心地が悪い。そして、人は社会的な文脈から切断された純粋なる自己を取り出そうとする。ただ、この「自分探し」が残酷なのは、たいていの人間にとって「探すほどの価値が自分にあるわけではない」ということを突き付けてくるからだ。私も20代の頃は、30代後半にもなっていればひとかどの人間になっていることを当然の事実として疑わなかったが、結局、「何にもなれなかった」事実を受け止めて生きるしかない。

 

「じぶん」という不思議な存在について多角的な視点から考察する本書で目指されているのは、直線的な自己像を解体することである。直線定な自己像とは、一般的にいえば、いい大学に入って、いい会社に就職し、そしてできれば出世競争に上手く乗り、幸せな家庭を築くことだ。もちろん、これが素晴らしい人生であることは間違いない。しかし、自分の人生を階段のように捉えてしまうと、最初の階段につまずいただけで、人生そのものが失敗したように思えてくる(ちょうと受験の失敗が人生の失敗に感じられるように)。中学生のとき、とある名門の高校野球部の監督が発した「人生の勝者になれ」という言葉に違和感を持った。人生の勝者がいるということは、人生の敗者がいるということか。一人ひとりの人生は違っていいはずなのに、なぜ勝ち負けなどというものが存在するのか。おそらく着実に階段を登っていくことが、人生の勝者だということなのだろう。

 

著者は、直線的な自己像を解体し、時にはリセットする自由を持つことで自分の可能性をより開けたものにすべきではないかと提案している。ただリセットする自由とはいっても、多くのひとにとって会社を辞めたり、家族や親族の元から離れたりすることなど到底できそうにない。それにリセットをすることと「自分を知る」ことの関係性も曖昧だ。私はむしろ、直線的な自己像を「徹底」することによって自分の可能性は開けていくように思う。そもそも人は言うほど直線的に自己の姿を捉えているだろうか。進学、就職、出世、結婚などというのは社会規範を受け入れているだけで、直線的な自己像とはまた別の話である。個人データが蓄積できる情報技術の発達によって、私たちは意外と自分のことを知らないということに気づいた。私がどんな本を読み、どんな映画が好きで、何を好んで食べるのかのは、むしろグーグルの方が知っている。

 

ひとは、意外と自分のことを知らない。情報化社会においては、個人データの履歴にこそ自分がどういう人物であるかを知る鍵がある。私はかれこれこのブログを八年ほど書き続けているが、数年前に自分が書いた記事をよく読み返す。そのたびに自分がどういうことを考え、どういう分野に興味を惹かれる人間だったのかを知って、その意外な自己像に驚くことがある。当の本人は、そんな自分がいたことなどすっかり忘れ去っていたのだ。今の自分とは、そうでありえた無数の過去の自分を捨象することで初めて成り立つものだが、その放棄したものに自分の潜在的な可能性があるなら、捨象した自己像に再びアクセスできる仕組みを作っておくのはとても重要なことだ。だからリセットする自由を持つよりも、そうでありえた過去の自分とつながることを私は大事にしたい。だから、私は、これからもずっとブログを書く。