708冊目『ぜつぼう』(本谷有希子 講談社) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

本谷有希子という小説家は気になっていた。正直、顔が好きである。一体、どういう小説を書くのだろうと前から気になっていたのだ。まずに手に取ったのが、本書『ぜつぼう』である。なぜ「絶望」と漢字で表記しないのだろう。なぜわざわざひらがなで表記されているのだろう。読み始める前にそんなことを考えた。また、表紙が真っ赤かに染まっているのも気になった。絶望という状況にもし色があるとしたら、それは赤なのだろうか。青ではダメなのだろうか。

 

主人公戸越は、売れない芸人である。いやかつては売れていた。猿岩石のように体当たりの旅番組で一躍ときの人となり、ちやほやもてはやされた。しかしブースが過ぎ去るのも早いのが芸能界である。仕事もなくなった戸越は、精神に変調をきたし、不眠症に悩まされ、部屋に引きこもるようになる。売れない芸人のままであれば、まだよかった。誰も戸越のことなど知らないからだ。しかし一時的にであれ有名になってしまった戸越は、「あの人は今」のごとく、その凋落ぶりをあざ笑われる生き方しかない。

 

人生に絶望した戸越は、ひょんなことからまだ足を踏み入れたことのない田舎へ向かうことになる。そこはまさにド田舎で芸人戸越のことなど全く知るものはいない。戸越はそこで若い女性と奇妙な共同生活を送る。戸越のストレスはやがて減退していき、きちんと眠ることができ、それどころか、食欲や性欲まで湧き上がってくる。しかしここでなぜか戸越は自分の人生が絶望であることにこだわるようになる。肉体的には健康でも、精神的には絶望しているのだ、と自分の絶望を願うようになる。

 

この戸越の絶望へのこだわりを読み解くのが、小説「ぜつぼう」のひとつの読みどころであるように思える。戸越はなぜ絶望に拘るのか。それはおそらく絶望に裏に張り付ている希望を手放したくないためである。絶望とは、わずかながらでも宿している希望に対してそれへのアクセスが遮断されていることを意味するが、しかしそれは裏を返せば、希望の光がまだ絶えていないことを示している。絶望は、希望に拠りかかることでその定義は完成する。希望を持っている者にしか絶望は訪れないのだ。