712冊目『あなたにオススメの』(本谷有希子 講談社) | 図書礼賛!

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「推子のデフォルト」は、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(649冊目)を彷彿とさせるような、近未来管理社会のディストピア小説である。監視社会を描く伝統的な手法は、人々の生を監視下に置く巨大な黒幕の存在を設定するが、小説「推子のデフォルト」では、ビッグ・ブラザーのような象徴的な権力者はいない。そこで人々の生活を支配しているのは、私たちにもお馴染みのデジタル機器だ。そこでは、人間の体にデジタル機器を内蔵し、24時間ネットに接続していることが「人間らしい」生活とされている。外で遊んだり、自然に親しむことは、「オフライン依存症」と診断され、治療すべき現代病とされる。デジタル化に伴い、人々も均一化することが理想とされ、個性や人間らしさをどんどん摩滅させていくことが、この世界の美徳になっている。文学や映画を観て人生の意味を考えることは邪道だし、直感や逡巡よりもてきぱきとした情報処理だけが、この世界に住む人間の条件である。

 

主人公推子は、このデジタル・ファシズムともいうべき世界にたいして、違和感があるといえばあるし、ないといえばないといった程度のかすかな疑念を頭の片隅の残しながら、このデジタル世界にしっかり慣れきってしまっている。幼稚園のママ友こぴくんママは、デジタルで人間性が消失していく世界におおいに違和感を抱いているが、どうにもできないでいる。そして最終的にコピくんママもデジタル社会の餌食になる。現実世界においても、生活圏へのデジタルの加速化は、世界的な趨勢でもはやこの流れを止めることはできない。しかし、デジタル化は、『デジタル・ファシズム』(692冊目)でも指摘されていたように、ファシズムとの親和性があることには最大限の注意を払わなくてはならない。ファシズムとは、政府、専門家、産業、娯楽、共同体が一致団結して、「この道以外に生きる道はない」と、本来無限に開かれている我々の世界からオルタナティブの可能性を奪ってしまうことだ。

 

推子には、ときどき自分の頭にもうひとりの自分の声がやってくる。この声は、ファシズムにたいして、人間として違和感を持つように促すのだが、推子はそうした声を押し殺すことでファシズムの論理を内面化し、加担していく。おそらくファシズムに抗する最後の抵抗力は想像力になるだろう。新自由主義は、この最終的な拠り所の想像力さえ手放すことを我々に強いるが(644冊目『官僚制のユートピア』)、この想像力を手放したとき、私たちは完全にファシズムに屈することになる。この小説のなまなましいリアリティは、単に近未来という舞台設定ではなく、いま我々が生きているパンデミックの世界と地続きであるからだろう。パンデミックは、推子がもうひとりの声を押し殺したように、私たちに想像力や直感を放棄するように強いる。エビデンスや論文の裏付けがない意見を言ってはいけないのであり、市井の民はただ黙ってワクチンとマスクをありがたらなければならない。今回のパンデミックで社会が病院になってしまったが、それはこの小説におけるデジタルファシズムと瓜二つの光景である。

 

「マイイベント」は、スーパー大陸上陸に備えるタワーマンションの住人たちが登場人物である。田代渇幸は、タワーマンション最上階に住む、世間から見れば勝ち組とされる人間で、当の本人もそれを当然のように考えている。なにせ展望台に登れば、「見ろ、下界の蟻どもがあくせくしてやがる」と本気で言ってしまうような人だ。妻張美も特にそれを特に何とも思わない様子である。小説の粗筋は、いよいよ台風がやってくる直前、浸水を心配した一階の住人が最上階に住む田代一家宅に避難させてくれという話だが、階級社会を内面化してる渇幸と、いけ図々しい一階住人とのドタバタ劇が面白い。最近読んだ本谷有希子の『ぜつぼう』(708冊目)はいまいちだったが、本書の収録されている小説二編とも実に面白かった。私は基本的にどんな小説家でも三冊を読むようにしている。三冊読了したのち、もう忘れ去ってもよい作家になるのか、これからも追いかける作家になるかが、だいたい決まる。もちろん、本谷有希子は後者だ。