692冊目『デジタル・ファシズム』(堤未果 NHK出版新書) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

ケン・ローチ監督『わたしは、ダニエル・ブレイク』では、イギリス行政の怠慢によって、いかに市民の生が脅かされているかが描かれている。デイブ・ジョーンズ演じる家具職人の主人公ダニエル・ブレイクは、医者から心臓発作の可能性を指摘されて、仕事ができない。仕方なく役所に傷病手当を申請しに行くのだが、行政はあの手この手で申請を受理しようとしない。そして、高齢のダニエルにとって、もっとも苦労するのが、行政的手続きがすべてオンライン化されていることである。役所の人間の口癖は、決まって「オンラインでお願いします」だ。デジタル難民のダニエルは若者に助けてもらいながら、なんとか申請手続きを行うが、思わず心の声が出てしまう。「ふざけるな、俺は鉛筆派だ」。一見、オンライン化は簡素で円滑的な手続きが可能となり、市民の利益に適っているように見えるが、この映画を見ると、オンライン化は、福祉への依存度が高い高齢者を、行政手続きから締め出すための方便のように思えてくる。

 

実際、行政の効率化が公共の福祉に資するのではなく、公共の福祉を破壊する方に作用した例がある。本書で紹介されている米国ジョージア州フルトン郡から独立したサンディ・スプリング市がそれだ。市は、行政サービスをすべて民営化した「完全民間経営自治体」として法人化されており、この都市に住めるのは富裕層だけである。つまり、税金が低所得住民の福祉に使われるのに我慢がならんと思った富裕層が、富裕層のためだけの自治体を立ち上げたのだ。公共サービスはすべて民間企業が効率的に運営しているため、警察や消防車は、たったの90秒で来てくれる。一方、富裕層がいなくなって税収が激減したフルトン郡は、財政難から公務員削減に取り組み、警察署もなくなってしまった。だからフルトン郡で犯罪が起こると、隣の群に応援を求めることになるが、警察が来るまでには2日もかかる。90秒と48時間。これが効率を重視した行政サービスの成れの果てである(第2章)。

 

日本だけでなく、いまや世界中がデジタル化しつつある。5G,キャッシュ決裁、オンライン教育等、これらはたしかに便利であるが、同時に諸刃の剣でもある。デジタル先進国の中国では、個人情報をデジタル化し、「信用スコア」によって点数化されるらしい。学生時代の態度、成績、思想信条、前科歴などによって「信用スコア」の点数が悪いと、融資を受けられなかったり、不利益を被る可能性がある。実際、中国では党幹部が政府が好ましくないと判断した人間は中国社会でまともに生きていけないと公言するなど、デジタル化が独裁と結び付いている。スピード、効率と引き換えとなる代償がファシズムだとしたら、その痛手はあまりに大きいだろう。中国よりも、一段とデジタル化が進むスウェーデンでは、現在、現金化への回帰があるという。あるスウェーデン人はいう。「通貨が完全にデジタル化されたら、システムを止められた時自分を守る術がなくなる」(172頁)

 

私はアナログ人間なので、急速に進む世界のデジタル化を歯がゆく思っている。カードやスマホで決済するより、現金でその場で払ってしまいたい。生活上のもろもろの煩瑣な手続きに辟易することもあるが、それでも隅から隅までデジタルに管理されたいとは思わない。しかし、そんな私の思いとは関係なく、世のデジタル化はどんどん加速していくだろう。デジタル化の怖さは、資本主義の怖さと同じようなところがある。つまり、その外部に抜け出ることはできないということだ。『ダニエル・ブレイク』を観てて思うのは、どうしてデシダル難民の救済にまで考えが及ばないのかということである。今はどうにか「俺は鉛筆派」だと叫んでみせても、次第にデジタルなしでは生きていけない世界がやってくる。米国では、こうしたデジタル社会で不利益を被るひとたち、すなわちスマホも持たず、クレジットカードも作れないような人たちの生活を守ろうという自治体の動きもあるらしいが、デジタルファシズムから逃れる、そんなアジールのような空間の創設こそ、我々が着手しなければならない課題であろう。