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1丁目住人のブログ

一人一人が楽しく生きるためのブログ。

森山未來という俳優がいる。いや今はダンサーなのか。僕は同世代としてけっこう好きな人である。

さっきのNHKの「その街のこども」という震災ドラマを観て、やっぱり良いなぁと思ったので、こうやって書いている。

一番の理由は、その才能の伸び代である。株にはバリュー株とグロース株という分け方があるのだが、彼は代表的なグロース株と言えよう。ザ・長期投資したい銘柄である。彼は俳優業が順調に行っているときに、突然イスラエルにダンス留学した。自分が自分自身のオマージュになることを避けたかったからなのだという。良いではないか。そういう、確固とした芸を既に持ちながらも、長期的な成長願望を持ち、リスクを取ってゼロから挑戦的に行動できるタレントは数少ないのではないか。

多義的な経験を積み、自分を磨いていると、謙虚でいながら、同時に深みを伴った人格を付けることができるのだと思う。多義的な経験は、人に無知の知を教えるからだ。それに、人間、年をとるにつれてその人の人柄が顔にでてくるものである。森山未來くんは、引き締まったシャープな顔立ちで、決して一般的なジャニーズ系イケメンではないのだが、ますます、コクのあるシャープな顔立ちとなり、色気を増している。

一方で、ジャニーズ系全般は最近本当に相対的にカッコよさが薄れてしまったように思う。

僕が思うに、これには二つ理由がある。一つは一昔前よりも、色んな工夫と努力がなされて顔面偏差値の均質化が進んでおり、人々の目鼻顔立ちに対するピュアな憧れが薄れてきたと思うのである。それゆえに、ルックスが綺麗であるということだけではバリューが出せなくなってきている。二つ目はアイドルという性質上、ファンの期待や声援に応えるというビジネスモデルでは、抜本的な変化をつけにくく、リスクが取りにくい分リターンは小規模に留まり、想像以上のリターンを狙えないという点である。

この二点目に関しては、森山未來くんに至っては、留学する前に、自分のことを忘れるなら忘れるで結構という発言をしている。通常の古典的な人気商売では、こういったファンに対する強気な交渉力を持てず、絶えずファンに感謝の意を伝えて、おもてなしをし続けないといけない。大胆なことをするには、余程自分の腕っ節に自信を持ちながらも、将来のまだ分からぬ状況にもさらに自信を持っていることが必要だ。だから、現在ではなく将来を見据えて舵を取れるのである。

まあとにかく、そういう時代であり、この森山未來くんの良く読めないポテンシャリティから来る株価上昇、ジャニーズタレントたちのマンネリ化したビジネスモデルによる株価低迷からうかがえる通り、世の中の変化に対しての圧力が増していると感じる。今起こっているのは、いままで通りの価値観からの脱却願望と、まだ見ぬ新たな価値観に対する憧憬のダブルウェーブである。

システムをシャッフルする準備が整ってきたタイミング。そしてそのシャッフルの頻度もインターネットとコンピュータの進化によってますます早まってくるかもしれない。そういうとっても面白い時代に、僕たちは生きている。
この前中学の塾の先生と飲んだ。なんと現在は某地方のテレビ局で天気予報士をやっているとのことで、驚きである。当時彼が塾の先生をやっていた時は30代前半だったのだ。当時はオッサンのイメージだったのだが、僕のいまの年齢くらいかと思うと何とも感慨深いものがある。時は流れる。

2015年、今年は大きな仕事ができそうだ。僕はずっと世の中の役に立つものが作りたかった。わがままなので、エリートなビジネスマンとなって世の中の役に立つものをやるんじゃ物足りなくて、自分でゼロから理想形を作りたかったのだ。俗に言うアントレプレナーシップなのかもしれないけど、とにかくそういう生き方に憧れたし、いまでもそうである。そんな僕の意向が満たされることができていて、しかも一流の人たちとできて、つくづくラッキーだなと思う。

いまの仕事はレベルの高いアウトプットを要求されるため、インプットの量、質共にものすごく高いものを求められる。ライバルはみな、海外の一流のMBAやPhDを持っているのが当たり前の世界で、僕も取らなくてはならんと思っている。

そういった意味で、仕事も軌道に乗ってきているなかで、年齢的にも勉強も一世一代の規模でやらなくてはいけない時期であり、厳しいタイムマネジメントが求められる。呑気にしていると、あっという間に時が過ぎ去る。かといって、欲張るとからぶる。中身を入れすぎると溢れる。時間と自分自身のフィジカルやメンタルと、どううまく付き合ってゆくか、どううまく絡ませてゆくか、効率を常に上げてゆかないと、淘汰される世の中である。

さて、来月遅ればせながら、初めてシリコンバレーに行く。こんな仕事をしていて初めてなのでお恥ずかしいのだが、なんととある学生や若手社会人のコミュニティの現地ツアーのメンターを引き受けることになってしまい、行ったこともないのにこんなんで良いのか?と思っている。

ほんで極めつけは年末からとある経営コンサルも引き受けてしまったことであり、これがますます僕のスケジュール帳を埋め尽くしている。僕はこの件で、生まれて初めて時給数万円というコンサルティングフィーを頂くことになる。これも、たまたま僕が少し経験があった分野だったこともあり、コンサル会社から委託してもらったという話なのだ。

起業と勉強と経営コンサルを掛け持ちしてるので、睡眠時間以外フル稼動していないと回らなくて、困っているっちゃ困っているのだが、こういう掛け持ちは性格上嫌いではない。

その通りである。こんなスケジュールだとうかうか彼女を作っている暇がなくなっており、周囲のおじさんやおばさんに心配されてしまっている笑 資産家の知り合いからお見合いの件も何件ももらっているのだが、僕はやる気はない。皆無である。僕のバリューをもう少し上げてから、少し余裕が出てからでも伴侶探しは遅くないだろうと思っている。それまで僕は一目散に踊り続けるのだ。

というわけで今年もよろしくお願いします。

イギリスから帰国した。非常に学びの多い出張であった。今回面談した人達のレベルも格段に高い。僕がこの旅で感じたことは、イギリスは仕組みの国であるということだ。資本市場も蒸気機関の製造革命もISO(品質基準)もクラウドファンディング(新たな大衆金融手法)も、イギリスが発祥である。しかしながら、その仕組みを最大限活用して、世界を席巻するというようなところまではどうやら至らないようで、常に米国などの他国がその大きな市場を創り、収益をかっさらってゆく。技術やサービスレベルが高いが大きなビジネスモデルが描けない日本と似たような立ち位置な気がしている。僕はこの”仕組み作り”というものに興味があり、もしイギリスで勉強できる機会が得られるのであれば研究したいと思っている。そうなるとどの大学が良いのだろうか。オックスフォードかロンドンか・・

帰りの成田空港ではたまたま知り合いのイスラエル人起業家たちとばったり会ってしまい、しばし話し込んだ。僕は彼らの日本での資金調達を手伝っていたので、恩を感じているようで、イスラエルへの招待を受けた。なんでも僕がいま取組んでいる領域のイスラエル一の人を紹介してくれるそうだ。これは行かなくてはいけない・・ 色々と総合的に考えると、イスラエルからイギリスのどちらかに引っ越したほうがよさそうだ。
2週間くらいの出張でロンドンに来ている。前半は3人で、後半は1人となった。英語は今まですっごく勉強したので、聞き漏らすことはほとんどないし、突撃大物にアポ取っても何とかやれている。コミュニケーションはもう問題ない。これぞ僕がバックパッカーを始めた19歳の頃から目指していた”自由”である。あらゆる尺度から漏れ無く詰めたので、やはり結構時間がかかった。

まあそれはスタートラインにしか過ぎないので、いかに面白いと思ってもらうか、「その通りだ」と思うことを言えるか、品格が備わっていると思われるか、また会いたいと感じてもらえるかが勝負である。これは日本にいても同じで、日本人としても国際人としても、本質的にはその人の人間性や引き出しの多さや魅力に行き着くのである。

今日は平日まったく空き時間がなかったので、2時間くらいテームズ川付近を散歩をしにいった。良く有るロンドンの気候で、終始曇り空だったがそれでも建築や教会、街の雰囲気はどれも美しい。むしろ快晴にならないでどんよりとした空の方が奥深い美しさは際立つような気がする。

やはり国土の特長や気候に則した建築物や道路が整備されるし、その街のデザインと相反しない人々のファッションが生まれるのであると感じる。その理由に、ロンドンの人々の服は極めて地味であり、黒人すら地味ファッションが多い。これはヨーロッパ全体に言えることなのだが、女性の化粧も薄い。

やはり数人に聞いてみると日本だと京都が好きだというのが最多だった。こちらでは建築の建て直しはほとんどないし、リノベーションばかりで、赤レンガの建造物が多いこと。まあ伝統に重きをおく都市同士、分かりますわなあ。

でも僕の仕事はイノベーションに関する仕事なので、この英国のスタンスというのは非常に勉強に成る。こちらで600億円の規模のファンドで、バイオ系の企業に投資しているファンドマネージャーに会ったのだが、アメリカのような瞬間風速的なフィナンシャルパフォーマンスを最大化する投資は出資者(LP)も投資家(GP)も好まないということであった。僕はこのギャンブルとしてではない、循環系としての非上場企業投資にすごく惹かれている。そうなのである。赤レンガを積むがごとく、こちらではスタートアップ企業をBricksと言ったりもする。新しく社会を担う存在として敬意を込めて呼ぶ。

「勝ち逃げる」「やり逃げて掃除は任せる」「売り逃げる」。そんなアメリカのような短期的な効率や爆発さを追求するような生態系がなぜ僕が好きになれないか、少しわかったような気がした。
外資系金融機関でトレーディングをやっていた兄貴ににキャバクラに連れて行ってもらった。付き合いで5回目くらいだ。兄貴は場慣れしすぎている。キャバクラの女の子にスマホで為替の短期トレーディングを15分くらいさせ、儲けが出たのでその分を財布から挙げていた。夏目漱石数人だったけども。

法令遵守をしているキャバクラとは、なんて盤石な商売なのだろうと思った。独身男性も既婚男性も、若くて何も知らない、おだての良いかわいい女の子と話したいニーズはあり、男の方が面白くなくてもかっこ良くなくてもダサくても、お金で解決できる市場こそがキャバクラの醍醐味なのである。

この市場が発達した背景には、男社会がある。男が外で働き、女が家事をするという家父長制が前提にある。今後、女性の社会進出が進み、子育ても仕事もシェアなんてことに近づくにつれて、キャバクラはどう進化すべきなのだろうか。

男が女化し男女になる。女が男化し女男にある。男と女の境界線を崩そうという動きが見られる。その手のオピニオンリーダーはほとんどが、女々しい女男か男勝りの男女である。

地位的(社会的な扱い)な平等はすべきであるのだが、それに伴った副作用として、男女の性的な差をもなくしてしまうと、人類のエネルギー自体が低下してしまうのではないか?という一抹の危惧を覚えた。滝は高さがあると大きなしぶきを上げるが、高さがないと水は濁らないがしぶきは少ない。このまま荒々しくギラついた大きいエネルギーから、洗練された落ち着いた小さなエネルギーへと移行してゆくのだろうか。

まあこんなことを考えてしまったのは、要するに、それだけキャバクラが意外に楽しかったということなのだ(笑)