1丁目住人のブログ -6ページ目

1丁目住人のブログ

一人一人が楽しく生きるためのブログ。

ここ3年くらいの最近の中で最も忙しい。。その原因の一つに僕の仕事の効率があるだろう。やはりベンチャー育ちの僕は、たまに仕事の進め方で通用しない時がある。世の中の真ん中で、様々な人と一緒に働くには、言語はもちろんのこと、素養としてあらゆる360度の物事に精通している必要があり、利害関係者の立場やバックグラウンドを理解するバランス感覚が求められる。
だが、これほどに僕のキャパを拡張してくれる仕事はないなと感じる。就業可能年齢の範囲の人たちで、コミュニケーションを取らないセクターやレイヤーの人たちがいないと言えるくらいであるし、要求されるレベルが背伸びしても足らないくらいなので、受験の時くらい毎日勉強をすることになる。

もちろんぶっ倒れたりしないようにサステイナブルな形態で、100%仕事に集中する時期というものを作っても良いのだろうと思っており、目安は35歳までくらいかなと思っている。

来週からイギリス出張で準備が大詰めであるのだが、明日は情報通信の試験である。さらに早朝は投資家向けのピッチを受けなくてはならず、日中はとある国際学会の準備と、お世話になっている人のパソコンの引越し作業がある。

日々こんな感じで、僕は30代の前半をそこそこ満足しながら生きている。

(今回は前置きが長い)
批判をするならば、本質的な批判をせねばならぬ。その人がなぜその主張をするかの背景を探り当てれば、その主張の深さを推し量ることができる。
但し、深さすなわち真理ではない。掘り下げることで本質に近づけるのであり、深いところまで到達しながら結論を誤ることもある。

一方で深くない主張は本質論的な議論の余地がないというだけで、いかなる主張であれ、それ自体間違った見解というものでもない。むしろ、同様の見解が増えることで、有機的に世論を作り、実体社会を動かし、本質を覆い被す、その流れを歴史は繰り返して来た。

本質に到達し、本物を心得る人は常に少人数である。がゆえに、有機的な世の中のうねりにかき消されやすい。このうねりを乗り切り、本物を提示する人間こそが偉人である。その人たちは時代を超越して名を残す人物もいれば、無名な者もいるはずで。

Facebookで流れてくるようなものは、このうねりに含まれる邪論がほとんどだけれども、一抹の煌びやかな本物も含まれている。良くも悪くもSNSが成し遂げたことは、この一連のプロセスをグローバルに大規模にし、圧倒的に加速したということだ。

これこそが、昨今のグローバル化した世の中でイノベーションとして持て囃されていることだとすれば、次の時代への寿命を自ら縮めていることになり、その結果がハッピーなのかどうかは、誰も分からないし、責任が取れないということだ。

とにかく、僕はイノベーションというものに深く関与する仕事をしているので、大袈裟ではなく、もっともっと時空を超えて、深く考えなくてはならない。イノベーションを闇雲に推進することは良いことなのか?全体の進路のコントロールが効かない人間社会の方向性としては及第点でありうるのか?

このイノベーション競争がもたらす未来はどうなるのか?「決まっている。人類を幸せにできると思うことから始めよう」・・・これは楽天的な起業家の言うことであり、僕は持っと台風の進路のように、全体感を予測したいのである。

サステイナブルなイノベーション、もしくは、ほどほどのイノベーション。そんなとこだろうか?

そもそも、このイノベーションという言葉も借り物であるので、定義もよくわからん。とにかく、借り物の言葉に訳も分からず群がって、盛り上がって、、、というのは僕の性分的ではできないことだ。でもそういう人たちしかいない業界だということが、非常に悩ましくもあり、同時に、世の中に対して、大いに問題定義と提案を指し示すことができる可能性の表裏でもあると思うのだ。

人を相手にせず天を相手にせよ。己を尽くし人をとがめず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。西郷隆盛

文芸的感性と科学的思考のバランス。これかもしれない必須条件は。無闇に広がった世界を整理する必要がある。
ファイナンスの勉強は2年前からやっているのだが、これだけだと金融機関にいるのだから、できて当たり前なので、IT関連の体系的な勉強を始めた。
もはや全てのビジネスにおいて、ITは重大なインフラとなっており、もの作りも医療なんかのセクターもそのビジネスモデルにおける重要度は益々高まると同時に、高度化も進んでいる。つまり疎ければビジネスチャンスを失い、キャッチアップも困難になるということ。シリコンバレーでは、プログラムの書けない経営者には投資しないというキャピタルも出現している。

とはいいつつも、僕も多少コードが書けて一般知識があるくらいなので、そんな高度な勉強はやっていないのだが、来年はアメリカの名門大学の情報関連のショートプログラムで参加しようと思っているので、それまでにずいぶんとレベルを上げておかないとついていけない。
僕は子供の頃は全くの理系なはずだったのだが、なぜか文系に流れてしまい、大学で法律の学科に進み失敗したなあと、そのときは後悔した。文系から理系へのコンバートは難しいということで、高校レベルの理系の基礎から学習していないのが、非常にもったいなかったと思っている。

そもそもこの文系/理系という括りは海外にはなく、この変な時代遅れの区分けが日本の国際競争力を落としているのてわはないか?と嘆かわしくなってきたが、後の祭りである。

今後数年がかりで取り組む勉強の予定を入れすぎてしまって、遊びざかりに、こんなんでいいのかなあとも思ったりもするが、人生80年現役計画からすれば、20代は100%経験投資(仕事も遊びも)、30代は学習投資80%(残りは流動)、40代は実践66.6%でやろうとしているので、それに従うとすれば違和感はないプランとなる。

一昨年会ったコロンビア大学の大学院で言語学を専攻しているアメリカ人の彼(28歳なのだがハゲてあるためスキンヘッドにしているナイスガイ)も、僕と似たようなプラン(ちなみに結婚は受け身)だったので、安心した。向上心の高い我が道を進もうとしている奴ら同士でつるんでいれば、心強いというものだ。ま、たまに普通のサラリーマン的な幸せが羨ましくも見えるのだが、それは発作的なものだということで、自分に言い聞かせている。