少年から大人へ
憎しみから愛へ


 「自分は誰からも必要とされてない人間だ」。初めてそう思ったのは中学2年生のときだった。14歳だった。

 足は遅いし球技は何をやってもヘタクソだし、運動はてんでダメ。友達を笑わせられる話一つできない。おまけにルックスも、クリクリでゴワゴワの髪の毛に牛乳瓶の底のような眼鏡という、今で言う“イケてない”の極致。ただ一つ、成績だけは飛び抜けて良かったのだが、14歳の社会のなかで“勉強ができる”ということは、妬みの対象にこそなれ、認められ、一目置かれることではなかった。だから「自分はこの世に必要ない存在だ」という結論は、僕にとって実にナチュラルな実感だった。そして僕は生まれて初めて「死んでもいいや」と考えたのだ。

 その年の冬、僕はギターを始めた。何がきっかけで始めたのか、よく覚えていない。しかしギターは、ギターだけは、他人から褒められ、認められるものだった。だから僕は必死に練習した。「ギターが上手ければ、僕は誰かに必要とされる」「ギターが弾ける僕は生きていてもいいんだ」。そう考えていたのだ。だが、翌年の春にギターがとてつもなく上手い転校生がやってきて、僕のアイデンティティは脆くも崩れ去ってしまった。

 『新世紀エヴァンゲリオン』は、誰かに必要とされ、愛されることを願う14歳の少年たちが、巨大ロボットに乗り込み「使徒」と呼ばれる謎の生物と戦うことで、自分の価値を探す物語だ。テレビ本放送時、僕は高校1年生。ストーリーのあちこちにばら撒かれたミステリアスな謎や、ディティールの細かいクールなメカ描写にも夢中になったが、それ以上に僕は物語の主人公たちに自分自身を投影した。特にエヴァに乗ることに意地とプライドの全てを賭けているアスカというキャラクターには、ギターに存在価値を預けていた自分と重なり、観ていて胸が苦しかった。『エヴァ』は紛れもなく“僕の物語”だった。

 本放送、そして当時の完結編にあたる映画『Air/まごころを、君に』からおよそ10年。エヴァンゲリオンが“ヱヴァンゲリヲン”と名を改めて再び制作されるという話を聞いたときには、「なぜ今更?」と思った。ブームを支えたかつての中高生たち(つまり僕たち)を当て込んだ、多分に商業的な匂いのする試みにしか見えなかった。何より、思春期が終わると同時にエヴァを“卒業”した身としては、徒に当時の記憶を掘り起こされたくはなかった。

 だがそれは杞憂に過ぎなかった。結論から言うと、素晴らしい。「素晴らしい」という言葉などでは足りないほど、本当に素晴らしい。かつて10年前の旧エヴァンゲリオンは、全てこの新ヱヴァンゲリヲンのためにあったのではないかと思った。新ヱヴァは単なるリメイクではない。2年前に『序』を観た段階で、すでにその思いは強くあったのだが、今回の『破』を観て、それは確信に変わった。

 では「単なるリメイク」と一体何が異なるのか。マリやヱヴァ6号機といった新たなキャラ、新たな設定の登場か。「人類補完計画」の全貌が今度こそ明らかにされるという期待か。はたまた、美しく生まれ変わった映像か。いや、そうではない。そんな些末なことはどうでもいいのだ。新ヱヴァが紡ごうとしているもの、それは旧エヴァの時には希薄だった“生への意志”である。

 例えばそれは、復元されたセカンドインパクト前の海の匂いを嗅いでシンジが言う「本当の海って生臭いんですね」という言葉に対し、加持が言う台詞。例えばそれは、「他人と話すのもそんなに悪くないって思った」というアスカの言葉に対し、ミサトが言う台詞。本編では実にサラッと挿入されるこれらの台詞には、かつてのエヴァにはなかった、世界を肯定しようとする前向きな思いが宿っている。

 旧エヴァが14歳の少年たちの視点に座し、他人の存在を、世界を受け入れようともがき苦しんだ結果、ヒリヒリとした痛みと絶望に満ち満ちていたのに対し、新ヱヴァには「確かに世界は汚濁と混沌だらけだけど、それでもきっとどこかに愛はあるよ。世界は生きるに値する場所だよ」という力強いメッセージがこめられている。まるで大人になった今の自分が、「死んでもいいや」とばかり考えていた、少年(チルドレン)だったかつての自分に向けて、救いの手を差し伸べているかのように、僕には思える。

 少年から大人へ。憎しみから愛へ。10年の重みがここにある。この変化は総監督庵野秀明の変化であり、そしてまた僕ら自身の変化でもある。楽観的になったわけではない。絶望を叫ぶよりも希望を語る方がはるかに痛みを伴うものだ。僕らはただ、10年間を経て、その痛みに耐えようとする覚悟が強くなっただけだ。しかし、だからこそ今、本気で誰かを愛し、他人を受け入れみんなで生きていくことの大切さを共有したいと願っている。

 『破』では、シンジはレイのために、レイはシンジのために、そしてアスカはシンジとレイのために行動する。彼らがはっきりと他人のために行動を起こすのは、旧エヴァでは見られなかったことだ。10年前も今も、3人は変わらずに14歳だ。だが、彼らは「変化」している。この変化はつまり、庵野秀明、そして僕らの10年を反映したものなのだ。

 僕は一昨日映画を観たのだが、まだ熱にうなされているような状態が続いている。ちょっとでも思い出せば涙が溢れてきてしまう。気持ちは醒めるどころか、ますます加速して渦を巻いている感じだ。実はあまりに興奮してしまい、昨日も劇団のメンバーと観に行ってしまった(ちなみに全員ともすでに2回目)。

 客層は、(時間帯によるのもあるが)やはり同世代の20~30代くらいが多いように見えた。おそらく全員が、10年前からのファンなのだろう。そしてみんなきっと、シンジやレイやアスカの成長を感じ、そしてその成長を感じ取れるようになった自分自身の変化をも感じ、あれから過ごしてきた時間について思いを馳せているんじゃないだろうか。

 『エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)』とは、僕らの世代にとっての貴重なアンセムだ。10代半ばに、そして20代の終わりに再びエヴァに出会えたことはなんと幸せなことだろう。

 テレビ本放送がスタートした1995年という20世紀末からこの21世紀初頭へ、10年間で現実はどんどん行き詰まりを見せている。しかし、だからこそエヴァのような作品との出会いを通じて、僕らはささやかな夢と小さな愛を育みたい。
最高の、そしておそらく最後の
「スーパースター」


 マイケル・ジャクソンが亡くなってしまった。本当にショックだ。今年から世界ツアーを始めるというアナウンスが本人から発せられたばかりだっただけに、余計に悲しい(最初のロンドン公演が急遽延期になるというお騒がせも相変わらずだった)。兄思いの妹ジャネットは今何を思っているのだろうと考えると胸が痛い。

 多分、僕が人生で最初に出会った洋楽アーティストは彼だ。多分と書いたのは、本当に幼い頃なので記憶が曖昧なのだ。小学校に上がったくらいだろうか、とにかくまだ10歳にもなってなかった頃のことだ。

 僕は<BAD>が好きだった。しかし歌詞の意味が理解できていたはずはない。「“BAD”ってナアニ?」と親に聞いていたくらいだ。じゃあ何が好きだったかと言えば、ダンスである。僕はレコードではなくPVが好きだった。廃ビルみたいな地下鉄の駅構内みたいな、とにかく薄汚れた場所でマイケルとダンサーたちが踊りまくるアレである。やたらと細かくて素早い動き、独創的な振付。とにかくあのダンスに夢中になった。僕にとってマイケルは聴くものではなく観るものだったのだ。

 なんだか僕が異様にマセていたように見えるが、現在20代後半から30代前半くらいの人にとっては決して珍しいことじゃないはずだ。当時の小学生は小学生なりに、マイケルに洗礼を受けたのである。

 YouTubeでPVを見て改めて思う。マイケルのダンスはやっぱりすげえ。何年か前に、あるセレモニーのステージでマイケルとN’SYNCが共演したのを観たことがあるけれど、当時ボーイズ・グループのなかでは飛び抜けてダンスが上手かったN‘SYNCも、マイケルの存在感には叶わなかった。

 彼のダンスは他人にはコピーできない。ただ、それは単純な肉体の修練度の差だけではないと思う。彼のダンスはいわゆる「ダンス」というよりも、ビートと肉体が密接に絡みついた、ある意味洗練されていない原初的な身体表現なのではないか。彼のダンスは彼の感性の塊であり、つまり他人の声や顔を真似ることができないのと同じレベルで、彼のダンスは彼以外には生み出せないのである。

 個人的な思い出をもう一つ。僕は小学2年生の時にアメリカに引っ越して、現地の学校に転入した。アメリカ社会というのは、とにかく自分から発言し、自分の意思を明確に相手に伝えることを要求される。小学生であってもそれは同じで、黙っていても近くの席同士でなんとなく友達になれる日本とはクラス事情が決定的に異なるのである。だから“shy”である人間はアメリカでは疎まれる。日本で「あいつはシャイだ」というと、ちょっとした愛嬌と親しみのこもった表現になるが、アメリカでは相手をバカにした表現なのだ。

 僕は明らかに“shy”な生徒だった。日本語でさえ上手く話すことが苦手なのに、言葉が通じない人間たちに囲まれればどうしたって“shy”になってしまう。英語が徐々に話せるようになるまで、僕は“shy”であることにじっと耐えなければならなかった。う~ん、よく登校拒否にならなかったものだ。

 で、ちょうどその頃のことなのだが、ある時テレビでマイケルのインタビューを観た。マイケルの喋っている姿を見たことがある人はわかると思うんだけど、彼はいつも恥ずかしそうにはにかみながら、ポツポツと小さな声で喋る。そんな彼に対し、インタビュアーが「君はshyだね」と言ったのである。それはバカにした言い方ではなく、とても好意的な一言だった。ステージ上の姿とのギャップに親しみを覚えたのかもしれない。

 ある人間が同性愛であることをカミングアウトして、それが他の同性愛者に勇気を与えるように、と言ったら大げさなのはわかっている。だが、僕はあのマイケル(とそのコメント)に、ちょっとだけ救われたような気持ちになったのだ。「そうか、マイケルもshyなのか。マイケル・ジャクソンがshyなら、僕もshyでいいんじゃないか」と。同じ「shy村」出身だと知って以来、僕はマイケルに対してなんとなく親近感を感じてきたのだった。

 最後に作品について。僕がマイケルの作品で好きなのは『オフ・ザ・ウォール』(‘79)からこの『BAD』(’87)までの3作だ。すなわちクインシー・ジョーンズが関わった作品である。マイケルとクインシーは二人三脚で、ポップなディスコチューンでありながらもブラックな棘をさりげなくちりばめた、素人にも玄人にも波及性のある楽曲を量産し、スーパースター「マイケル・ジャクソン」の黄金期を作り上げた。敢えて3作の特徴を分ければ『オフ・ザ・ウォール』はエネルギッシュ、『スリラー』はポップネス、そして『BAD』はワイルド、という感じだろうか。個人的な思い入れから今回は『BAD』を挙げているけれど、この3枚全てが必聴盤である。


<BAD>。今見ると細かく突っ込みたいところはあるけれど、このダンスのオリジナリティは不変

<SMOOTH CRIMINAL>。マイケルのダンスを味わいつくせるPV
アンチ・ヒーローの仮面をかぶった
真のヒーローの誕生


 2007年2月にNHKで放映され、国内外で高い評価を獲得したドラマ『ハゲタカ』。その続編にあたる劇場版が現在公開中である。

 ドラマ版も劇場版も本当に素晴らしい作品。役者、脚本、音楽、とにかく何もかも全てが良い。おすすめです。

 この作品、タイトルだけ見るとハードなアクションもののようにも思えるが、全く違う。タイトルの由来は、ちょっと前に流行った(?)「ハゲタカファンド」から来ている。

 業績が落ち込んだ企業に目をつけ、株式を大量に取得するなどの方法で経営権を奪取し事業を再興させ、企業価値が再び上がったタイミングを見計らって保有している株、あるいは企業そのものを売却し利益を得る、いわゆるバイアウト・ファンドのことだが、一部の企業経営者やマスコミには、彼らの行為がまるで相手の弱みにつけこんで食い物にしているように映ったことから、死肉をついばむハゲタカにイメージを重ね合わせ、誰からともなく「ハゲタカファンド」と呼ぶようになったのである。特にそのファンドが外資である場合、日本人の保守的性格を刺激し、ネガティブなイメージをさらに煽ることになった。

 物語の主人公は、投資ファンドのファンド・マネージャー、鷲津政彦。あらゆる手法と大胆不敵な行動力で次々と企業買収を成功させる彼を、人は「ハゲタカ」と呼んで畏れる。鷲津と買収を仕掛けられた企業側との攻防が物語の軸だ。

 劇中では“TOB”や“ホワイト・ナイト”といったM&Aにまつわる専門用語が頻繁に出てくる。企業名などは当然架空のものだが、明らかに「あの会社のことだな」とわかるような設定ばかり。非常にコンテンポラリーなテーマを持つ作品だ。

 だからと言って、決してお堅い作品という訳ではない。確かにニュースがわかる程度の知識を持っていなければ理解しにくい部分はある。だが『ハゲタカ』は紛れもなくエンターテイメントだ。なぜなら、この作品が描こうとしているのは経済でも金融でもなく、人間だからである。

 鷲津政彦はなぜ「ハゲタカ」になったのか。この作品は、なにより鷲津という一人の人間を掘り下げている。鷲津だけではない。とにかくキャラクター一人ひとりをとことん濃密に描いている。

 この深い人間描写を可能にしているものは、“お金”の存在だ。ただの紙切れが、なぜ時に人を不幸にし、時に人を殺してしまうのか。お金という何の情緒もないものを媒介にすることで、愛や友情を正面切って描いた作品よりもむしろ深く、人間の生の姿が見えてくる。そして同時に、「お金では決して買えないもの」がぼんやりと浮かび上がってくるのだ。社会性と人間性の両方を串刺しにするこの『ハゲタカ』は、骨太で繊細な、真のエンターテイメントである。

 鷲津は常に寡黙だ。そしてクールであり、感情を表に出すことがない。能面のままに何百億もの金を右へ左へと動かす彼の姿は、まさに「ハゲタカ」という呼び名そのものであり、金の亡者のように見える。だが本当は・・・なのである。全てがつながった瞬間に、このアンチ・ヒーローが、まったく新しいタイプのヒーローに見えてくる。
モンスター級超大型エンジンに
最初に火をつけた男


 3年前の夏のこと。僕はある映画を観に近所のシネマ・コンプレックスのレイト・ショーへ足を運んだ。その日はお盆の真っ只中で、深夜にもかかわらず館内はかなり混雑していた。だが、僕が観た映画だけは例外で、200人はゆうに入れる客席に観客は僕を含めて5,6人しかいなかった。

 タイトルは『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男(原題:STONED)』。ローリング・ストーンズのオリジナルメンバー、ブライアン・ジョーンズの生涯を描いた映画である。

 ストーンズ関連の映画というと、昨年末にマーティン・スコセッシが監督したドキュメンタリー・フィルム『Shine A Light』が公開されて話題になったが、それに比べるとこの『ブライアン・ジョーンズ~』はちっとも注目されずに、本当にひっそりと公開されていたような印象がある。

 確かに「ローリング・ストーンズ」と聞いてまずブライアン・ジョーンズの名前を挙げる人はほとんどいないだろう。だが、ストーンズの音楽を腰を据えて聴こうと思ったら、ブライアン・ジョーンズは絶対に外せない存在だ。最初期の60年代にストーンズのリーダーだったのはブライアン・ジョーンズであり、そもそもストーンズというバンド自体が、ブライアンがミック・ジャガーとキース・リチャーズに出会って結成されたのだ。

 ブライアンはスライド・ギターの名手で、ブルースハープもものすごく上手いし、他にも鍵盤だろうがサックスだろうがパーカッションだろうが、何でもかんでも演奏できてしまうという多才なミュージシャンだった。彼のクリエイティビティが初期のストーンズを牽引していたのである。

 だが音楽性の相違から次第にバンド内で孤立し、ドラッグに溺れ、やがてバンドを去ることになる。そして脱退直後、自宅のプールで謎の死を遂げてしまう。27歳という若さだった。

 今回紹介する『ENGLAND’S NEWEST HIT MAKERS』は、1964年にリリースされた、ローリング・ストーンズの記念すべきファースト・アルバム。正確に言えば、これは本国イギリス盤の1ヵ月後にリリースされた米国盤で(タイトルにわざわざ「ENGLAND’S」と入っているのはそのため)、オリジナルとは収録曲が1曲だけ異なる。

 当時のバンドのデビュー・アルバムというのは今とは事情が異なり、全曲オリジナルというケースは稀で、数曲のカヴァー曲を織り交ぜて制作されるのが通例だった。ビートルズでさえ、全曲オリジナルになるのは3枚目『A Hard Days Night』からである。当時のリスナーもレコード会社も、どこの誰だかわからない新人バンドのオリジナル曲より、一定の質を保証してくれるカヴァー曲を求めていたからなのかもしれない。

 もちろんストーンズも例外ではない。それどころか、このデビュー・アルバムは、全12曲中オリジナルはたった1曲だけ。ほとんどが黒人R&Bのカヴァーで占められている。

 ロック草創期のバンドたちは一様に黒人音楽に憧れて音楽を始めているが、ストーンズが他のバンドに比べて際立っているのは、R&Bを白人好みのポップ・ミュージックに消化せず、ブラックなグルーヴそのものをストイックなまでに再現しようとしていたところにある。そして、そんな初期ストーンズの精神をもっとも担っていたのがブライアン・ジョーンズだった。

 彼は本当にブルースが好きだったみたいで、白人に本場のブルースを知ってもらいたくてストーンズを結成したのだった。ストーンズの初期のアルバムを聴いていると、スライド・ギターを弾きまくりブルースハープを吹きまくりと、夢が叶った少年のように楽しそうに演奏している彼の姿が目に浮かぶ。

 だが、白人がいくら黒人音楽を追求し、精度の高い演奏をしても、所詮は「物真似」「コピー」のそしりを免れ得ない。ストーンズはキャリアを積んでいくなかで、黒人音楽を解体し、自分たちオリジナルのフォーマットへと再構築する必要があった。やがてミックとキースはオリジナル曲を量産し始め、次第にこの2人がバンドのイニシアチブを取り始める。反対にブライアンの存在感は徐々に薄まり、69年バンドを脱退。そして死を迎えるのである。

 実のところこのデビュー・アルバムは、「ストーンズの1枚目」という以外には語るべきところは少ない。カヴァー曲ばかりなのもあるが、全体に粗く、まとまりのようなものに欠けている。

 だがこのアルバムを聴くことで、彼らが、ビートルズのように才能だけで突っ走る天才集団ではなく、黒人音楽と格闘し試行錯誤を繰り返しながら自らの音楽的センスを磨いてきた、非常に泥臭い努力家たちであることがわかる。そのタフネスがあるからこそ半世紀(!)近くもの間現役を貫き通していられるのかもしれない。そして、この「ローリング・ストーンズ」という名の超大型エンジンを最初に設計し、火を点したのは、今は亡きブライアン・ジョーンズだったのである。


<NOT FADE AWAY>他2曲を演奏するローリング・ストーンズ。ブルースハープを演奏しているのがブライアン・ジョーンズ
バッグのなかには
いつも彼の小説があった


 僕は19歳のとき、大学1年生の夏に高校時代の仲間と劇団を旗揚げした。特に芝居に深い根拠があったわけではない。大学のどこにも居場所が見つけられなかったからだ。

 1年間の浪人生活を経て意気揚々と入学した大学に、僕はまったく馴染むことができなかった。同級生の交わす会話は、週末の飲み会とバイトの時給の話題しかなかった。教授は生徒が私語をしようが眠ろうがそんなことを気にも留めず、難解な話を独り言のようにボソボソと呟き、教室には空疎な時間だけが延々と流れていた。僕は大学というものに何一つ共通点を見出すことができなかった。その失望と不満とさみしさのはけ口を、僕は大学の外に求めたのである。

 劇団を旗揚げして2年目に、僕は初めて台本を書き、演出をすることになった。これについても、創作に対して特別情熱があったわけではない。今思えば、大学という本来いるべき場所からドロップアウトして、いわば緊急避難用のシェルターとして作った劇団を、オリジナルの作品を上演することで少しでも胸の張れる場所にできるようにしたかったのだと思う。「何もかも自分たちで作ってるんだ、すごいだろ」と、大学に対して見返してやりたかったのだ。そうすることで、「大学から逃げた」という罪悪感を消したかったのだ。

 オリジナル作品への挑戦はとても楽しいものだった。劇団のメンバー全員が「世界にたった一つしかないもの」を作ることにずっと興奮していた。だが、このことは同時に、僕と他のメンバーとの関係を大きく変えた。僕が台本を書き、演出を担当したことで、単なる友人同士として、いわば全員が横並びで始まった関係が、指示する人間と指示を受ける人間に分かれたのである。僕らは友人という関係から、「演出家」と「役者・スタッフ」という関係に変わった。

 最初からこの立場で劇団を始めていたら違っただろう。だがそのときの僕はこの関係の変化に戸惑った。多分他のメンバーも同じだったと思う。僕は次第に劇団の活動以外ではメンバーと会わなくなり、メンバーも僕を持て余すようになった。

 その頃、メンバーの多くが大学3、4年生になり、就職や進学で各自が徐々に劇団と距離を取り始めていた。でも、大学を捨ててきた僕に戻れる場所は残されていない。僕には劇団しかなかった。僕は誰からも認められる優れた芝居を書こうと焦っていた。しかし、そんなものは一向に書けなかった。大学で感じた孤独を埋めようと劇団を作ったのに、僕はさらに孤独になり、そして無力だった。

 ちょうどその頃、僕のバッグのなかにはいつも村上春樹の本が入っていた。

 彼の作品が気持ちを癒してくれたとか、何か爽快感を与えてくれたとか、そういうことじゃない。『1973年のピンボール』も『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も、ページをめくるたびに僕は痛みを感じた。彼の全ての作品に漂う、世界の輪郭がゆっくりと失われ、自分一人が暗闇に取り残されていくような不安と孤独。そのどれもが僕自身の不安と孤独だった。村上春樹の作品は僕にとって、いわば鏡だったのだ。僕は来る日も来る日も彼の作品ばかりを読み、そしてそこに映る自分の姿を確認しては、「まだ生きている」「まだ大丈夫だ」と、千切れてしまいそうな心をなんとかつなぎとめていた。

 そういう暗くて辛くて惨めな時間は、やがて年をとるとともに少しずつ薄まっていった。だがそれは、不安と孤独が消えていったわけではなく、ただそういう感情から目をそらし、やり過ごし、上手く付き合う方法を知っただけだ。

 現在の僕にとって村上春樹を読むことは、心の奥にしまってある不安や孤独を、封を開けて一つひとつ取り出してみる、棚卸しのような作業である。時にそれは痛みを伴い、気持ちを深い闇のなかへと沈ませる。だが、僕はこの作業を経ることで、自分自身を更新しなおしているのだと思う。好きだから、おもしろいから、ということではなく、僕にとって彼の作品は「読まなくてはならないもの」なのである。
大黒屋光太夫が辿った道を追跡する
『おろしや国酔夢譚』サブテキスト


 前回『おろしや国酔夢譚』のことを書いたのだけれど、そもそも大黒屋光太夫という人物に興味をもったきっかけは、以前紹介した椎名誠の『蚊學ノ書』だった。

 この本のなかに、シベリアの蚊の話が出てくる。シベリアは冬は一面雪と氷で閉ざされているが、夏になり氷が解けると想像を絶するほどの夥しい蚊が発生する。馬に乗ってタイガと呼ばれる針葉樹林帯を進んでいたら、時に馬も人も霞んで見えなくなるほどの蚊に襲われた、なんていう記述があった。

 実はこのとき、椎名はあるテレビ番組のレポーターとしてシベリアを旅していた。TBSが企画した『シベリア大紀行』というドキュメンタリーで、これは『おろしや国酔夢譚』に沿って、大黒屋光太夫が漂流した足跡を実際に追ってみる、という内容のものである。飛行機も列車も使わず、わざわざ馬に乗ってタイガに分け入ったのは、当時の移動手段を再現していたからである。

 『蚊學ノ書』を読み終えた後、僕は試しにYouTubeで調べてみた。そしたらなんとこの『シベリア大紀行』が丸々アップロードされていたのである。早速視聴したのだが、これは二部構成総尺4時間超という超大型番組で、全て観るのに2日を要した。

 番組は椎名誠がレポーターになり、アムチトカ島から始まって、カムチャッカ、オホーツク、と本当に一歩一歩光太夫たちが歩いた道と同じルートを辿るという、シンプル且つストレートなドキュメンタリーだった。

 北半球最極寒地域といわれる真冬のヤクーツクの映像は本当に圧巻で、マイナス50度とか60度とかの空気すら凍ってしまう世界と、そこで暮らしている人々や動物の姿というものには、今まで見たことがない類の粛然とした美しさを感じた。そして、車もエアコンもない200年前に、そのような厳しい世界を踏破した大黒屋光太夫という人物に、猛烈に興味を持ったのである。

 今回紹介する『シベリア追跡』は、椎名誠が番組の取材を通してつぶさに見てきたシベリアの大自然や大黒屋光太夫への思いなどを綴ったエッセイである。番組は『おろしや国酔夢譚』のいわばサブテキストとしての内容を持っているが、この『シベリア追跡』はさらにその番組のサブテキストといった感覚のものだ。つまりサブテキストのサブテキストである。

 番組『シベリア大紀行』はとても古い。放映は1985年である。つまり椎名たちが取材したのはロシアではなく旧ソ連の時代なのである。光太夫が訪れたペテルブルグも、「レニングラード」と紹介されているのだ。そのためこの番組は、光太夫の冒険の追跡行という以外に、かつての共産国の街や村や人々の様子を映した記録映像としても観ることができる。

 エッセイ『シベリア追跡』では、番組では放映されなかった旧ソ連独特の出来事、例えば恐ろしくサービスの悪いレストランのことや、取材時に必ず同行し「あれを撮ってはいけない」「ここから先は入ってはいけない」と何かと神経質なKGBのことなどが面白おかしく書かれている。

 今となってはどれもほのぼのと笑ってしまうようなエピソードだが、けれどたかだか20年前のことなんだよなあと思うと、旧ソ連の解体から近年の目覚しい経済的政治的発展に至るこの国のダイナミックな底力に唸ってしまう。

 実はこのときに椎名自身が撮った写真と短い文章をまとめた『零下59度の旅』という本がまた別に刊行されていて(つまりサブテキストのサブテキストのサブテキスト)、こちらはシベリアに暮らす人々の日常の風景だけを収めた、とても人情味溢れるフォトエッセイとなっている。椎名誠の旅行記はいつも、その土地に暮らす人々へのユーモア溢れる愛情に満ちていて、読むと自分もその人たちに会いたくなる。
今から200年前の江戸時代後期
シベリア大陸を横断した日本人がいた


 「おろしやこくすいむたん」と読む。発音するときには、「おろしやこく・すいむたん」と呼吸を分けて読むのが正しい。「おろしや国」とはつまりロシアのことである。

 この本の主人公は、江戸時代後期の船頭、大黒屋光太夫とその仲間たち。実在の人物である。1782年、彼らは船で江戸へ向かう途中に遭難し、そのまま流されてアリューシャン列島へと流れ着き、その後ロシアを延々と漂泊することになる。『おろしや国酔夢譚』は、そんな光太夫たちの数奇な運命と壮大な冒険を描いた物語だ。

 彼らがどういう運命を辿ったかを書いてみる。大黒屋光太夫以下17人の船乗りを乗せた海上輸送船、神昌丸が伊勢の白子(今の三重県)を出航したのが前述の通り1782年。だがほどなく嵐に見舞われ、舵を折られた神昌丸は漂流する。漂流生活は8ヶ月間。この間に水夫一人が死ぬ。

 8ヶ月後、潮に乗るままに船が辿り着いたのはアリューシャン列島に浮かぶアムチトカ島。光太夫たちは荒涼としたこの北の最果ての島で、なんと4年間も過ごす。この間、7人もの仲間が飢えと病で死ぬ。残された9人は、流木を材料になんと自分たちの手で船を作って島を脱出する。

 だがここからが長い。アムチトカを離れた彼らはカムチャッカ半島のニジネカムチャツクに上陸する。ここにはロシア政府の出先機関がある。日本の方角すら定かではない光太夫たちは、ロシア政府に日本送還用の船を出してもらえるよう、援助を求めるしかなかったのだ。

 だが、固陋な官僚組織に阻まれて彼らの願いは一向に聞き届けられない。このニジネカムチャツクで、さらに3人が死んでしまう。待っていても埒があかないと考えた光太夫一行は、より強い決定権を持つ政府高官に訴えるべく、ロシア内陸への旅を決意する。

 カムチャッカから海を渡りオホーツク、そしてヤクーツク、イルクーツクと、極寒のシベリア内陸部を彼らは進んだ。「極寒」と簡単に書いたが、冬の最低気温が零下70度なんていう、地球上でもっともすさまじい土地を、馬とそりで何ヶ月も旅するのである。文字通り死を覚悟した旅である。

 イルクーツクへ到着したものの、依然として事態が進展しない光太夫は、一縷の望みを賭けて、時の女帝エカチェリーナ2世に帰国の願いを直訴しようと、帝都ペテルブルグにまで足を延ばす。ペテルブルグはバルト海にほど近い、地図で言えばほぼヨーロッパといっていい西の果ての都だ。つまり光太夫は、馬とそりと徒歩だけでシベリア大陸を横断したことになる。
 

 その後光太夫がどうなったのかは、是非小説を読んで確かめてもらいたい。ただとにかく強調したいのは、これがファンタジーではなく事実であるということだ。

 彼が辿った道のりは4万キロ。およそ地球一周分である。だが距離というものは交通手段の速度と快適さによってその認識が変わるものだ。飛行機も列車もない200年前に身体一つでシベリアを横断したという事実は、到底現代のスケールで計ることはできない。さらにロシア語を難なく話せるまでに習得した知性、最高権力者との謁見にまで漕ぎつける胆力、そして何度も挫折しそうになりながらも希望を捨てなかった意志と勇気。光太夫の姿からは過酷な運命に負けない人間の力強さというものを、殴られたような衝撃でもって感じさせられる。

 この『おろしや国酔夢譚』は1992年に映画化されている。ちなみに上の画像はそのDVDの表紙。ストーリーは大幅に省略され、またキャラクターもデフォルメされているが、少しも面白さは損なわれていない。緒形拳演じる知的で清廉な大黒屋光太夫は、原作のイメージ以上である。
ピロウズ初のアコースティック・ライヴ
過去に埋もれていた楽曲が蘇る


 先週リリースされたピロウズのライヴDVD最新作。結成20周年のメモリアル企画「LATE BLOOMER SERIES」の第2弾。ちなみに第1弾が以前紹介した2枚組のライヴDVD『PIED PIPER GO TO YESTERDAY』である。来週6月3日は第3弾となるベスト盤がリリースとなる。

 今回収録されたのは、今年2月に恵比寿ガーデン・ホールで行われた、ピロウズ史上初となるアコースティック・ライヴである。

 エレキギターは当然のことながらアコースティックギターに持ち替えられ、ベースもアップライトベースを使用している。ボーカル山中さわおもギター真鍋吉明もイスに腰掛けながらの演奏。

 そしてまた、通常はオールスタンディングの客席も今回は全て指定席で、オーディエンスは座席に座り、歓声を上げることもなく、静かにライヴを見つめる。以前アラニス・モリセットで紹介したMTVのアンプラグド・ライヴと概要は同じだ。

 さらに、ステージにセットが組まれたのもおそらく初めて。「BLUE POPPIES」というライヴ・タイトルにならい、メンバーの周りにはたくさんの青い花、それからキャンドル照明が置かれていて、ライヴというよりも静かな会話劇でも上演しそうな雰囲気である。

 とにかく何から何まで初めてづくしのこのライヴだが、肝心の中身も非常に充実している。まず選曲がおもしろい。アコースティック仕様ということで、通常のライヴでは滅多に演奏しないような曲ばかりがセレクトされている。定番の曲はせいぜい<ONE LIFE>くらいで、あとはシングルB面の曲やアルバム収録曲、それもかなり昔のアルバムの曲が多い。要するに地味なのだ。やはりアコースティックにアレンジし直すことを前提とすると、定番曲とは少し性格の異なる楽曲を選ぶ必要があったのだろう。

 だが、なんというか現金なもので、このライヴを観ていると、「全部いい曲じゃないか!」と思うのである。アレンジがクール且つシックに削ぎ落とされたことで、メロディそのものの美しさであったり、これまで気付かなかった歌詞の響きであったり、そういった新たな発見に満ちている。「それがアコースティック・ライヴをやる意義だ」と言われればそれまでなのだが、だとしたら、これはまさにアコースティック・ライヴの成功例だと言えるだろう。

 ニルヴァーナ初心者にいきなり『MTVアンプラグド』DVDをすすめないように、これからピロウズを聴こうという人にすすめるには躊躇するが、ファンにとっては間違いなくマスト・アイテムである。


 最後に、本編の内容とは関係がないのだけど、とても衝撃を受けたことがある。このライヴではギター・ベース・ドラムの他に、ゲストを招いて「テルミン」という楽器が使われているのだが、この楽器、知ってますか?僕は初めて知りました。

 箱のような形をしていて、そこから2本の金属の棒のようなものが出ている。奏者はその後ろ(なのか前なのかよくわからないんだけど)に立って、両手を空中でユラユラと動かす。弦がそこにあるわけでもないし、鍵盤がついているわけでもない。なのに手を微妙に動かすと、何とも不思議な音色が鳴るのである。

 気になって調べてみた。簡単に説明すると、金属の棒はアンテナで、その周囲には弱い電磁場が発生している。そこに手を近づけたり遠ざけたりすると、電磁場が変化し、それが箱の中にある発振器に共振して、音が出るらしい。・・・やはり見てもらった方が早い。http://www.youtube.com/watch?v=XwqLyeq9OJI

 なんでも20世紀初めに物理学者が発明した楽器だそうで、身体の(主に手と指の)微妙な変化を反映させられることから、従来の「ドレミファソラシド」という西洋古典音階よりも細かい音階を奏でられる未来の楽器と言われているらしい。当然ながら習得するのはとても難しいらしいが、ちょっと弾いてみたい。


早くもYouTubeに1本アップされていた。曲は<プラスチックフラワー>。テルミンにも注目
今なおキラキラ輝き続ける
モータウンが生んだ「永遠の女の子」


 1960年代の米デトロイトを舞台に、女の子3人のボーカル・グループが、全米の大スターになるまでの栄光と挫折の物語を描いた映画『ドリームガールズ』。そのモデルになったのがこのシュープリームスだ。

 シュープリームスは50年代末に結成され、61年に当時まだ設立して間もなかったモータウン・レコードと契約しデビューする。モータウンというと、今ではジャンルやスタイルを表す言葉にまでなっているけれど、元々はレーベルの名前である。

 黒人アーティスト専門の老舗レーベル、モータウン。R&Bやソウル、ジャズなどの黒人音楽をベースとしながらも、耳に馴染みやすいメロディやコーラス、曲中での転調といったポップス王道の手法を加え、黒人リスナーだけでなく白人マーケットにも絶大な人気を誇った、60年代を代表する一大ブランドである。映画ではジェイミー・フォックスがオーナーを演じていた。

 初期モータウンの有名なアーティストには、例えば<My Girl>で有名なテンプテーションズ、それから<You Really Got A Hold On Me>のミラクルズ(僕はビートルズのカバーの方を先に知ったけど)なんかがいる。さらにマーヴィン・ゲイもいるし、スティーヴィー・ワンダーもいるし、70年代はジャクソン・ファイヴも所属していた。

 現在もモータウンはレーベルとして現役だが、何といっても黄金期は60年代。そしてその黄金期を支えたトップグループがシュープリームスである。

 グループの中心はダイアナ・ロス。最高にキュートな声と、背が小さくて、細くて、いつも笑顔(化粧は濃いけど)というビジュアルを持つ、「ザ・女の子!」なボーカリストである。

 おもしろいのは、少なくとも現代の感覚からすると、彼女には男性に媚びるようなアイドル的な性というものが感じられないところだ。「恋」「夢」「素敵な明日」といったものを一貫してテーマに据えたシュープリームスの歌は、あくまで女の子の等身大の声なのである。

 例えばビートルズが当時の男の子のありのままのファッションでもって「I wanna hold your hand!」とダイレクトな欲求を歌にして、それが同世代の心を掴んだように、シュープリームスというグループも、男性のフィクションを引き受けずに女の子の生の声として恋や夢の歌を歌ったからこそ、大きな支持を獲得したのではないだろうか。

 もちろんそういった一般アイドルとの差別化自体がモータウンの仕組んだ戦略であり、フィクションであると言われればそれまでだ。しかし、たとえビジネス的な作為によるものだったとしても、半世紀近く経った今もなおベスト盤が次々とリリースされ、幾多のカバーを生んでいるのは、やはり彼女たちの歌には「永遠の女の子」が封じ込められているからだろう。

 これは後世に生きる僕の勝手な物語であるが、60年代といえばまだアメリカ公民権運動がバリバリだった頃で、例えばキング牧師の「I have a dream」の演説はシュープリームスがデビューして2年後のことだし、公然と黒人差別が残っていた時代である。そういった社会のなかで、黒人で、しかも女性というシュープリームスが、誰にも媚びずにある種超然と「ザ・女の子」の姿勢を貫いていたのは、自分たちのバックグラウンドへのプライドと、社会への意思表示のようにも思えるのである。

 最後になってしまったが、今回紹介するのは、初の全米№1となった64年『Where Did Our Love Go?(愛はどこへいったの)』と、66年『I Hear A Symphony(一人ぼっちのシンフォニー)』の2枚のアルバムを1枚にまとめて収録した、オトクというか情緒も何もないというか、そういうアルバムである。

 2枚とも代表作なので絶対に損はしないと思うが、何せ彼女たちはヒット曲が多いので、例えば<You Keep Me Hanging On>や<Stop In The Name Of Love>はここには入っていない。そういえば<You Can’t Hurry Love>も漏れている。オフィシャル盤、海賊盤含め、シュープリームスほどベスト盤がリリースされているアーティストも珍しいので、ヒット曲だけをまとめて聴きたいという方はそちらがおすすめ。個人的には06年に発売された『アルティメット・コレクション』がいいと思う。


<Where Did Our Love Go?>。日本のキャバ嬢もまだまだ甘いな、と思うこの髪形

続いて<I Hear A Symphony>を歌うシュープリームス
「さよなら20世紀」と告げた
原点回帰ロックンロール


 現代の洋楽ロック・シーンにおいて、おそらく最重要バンドの一つに数えられるストロークス。この『IS THIS IT』は彼らのデビュー・アルバム。21世紀最初の年である2001年にリリースされ、まさにロックの“旧世紀”と“新世紀”の分水嶺となった象徴的な作品である。

 と言っても、彼らは別に新しいロックを発明したわけではない。むしろその逆で、楽器編成は2本のギターとベースとドラムだけ。その使われ方も実にシンプル且つオーソドックス。60年代のようなプリミティブなロックンロールの勢いとピュアネスがある。ストロークスは「王道」というイメージだ。ロックの初期衝動に忠実なサウンドが、前世紀の間に溜まった垢と虚飾を洗い流し、再びロックは裸一貫となって新世紀を歩み始めたのである。

 なんだか音楽ジャーナリズム的な物言いばかりでカユいのだけど、例えば80年代のビジュアル先行型のエンターテイメント的ロックが衰微し、それとは真逆の、暴力的で憂鬱な音が特徴のグランジが90年代初頭に台頭したように、ロックの流行り廃りは常に反動のようなもので起きる気がする。

 90年代は、ロックなのにラップを歌ってしまうミクスチャーをはじめ、斬新で奇抜な音楽的アイディアの百花繚乱的な10年間だったが、今振り返ればそれはグランジを最後にロックの手法というものが粗方出尽くしてしまった後に行われた、不毛な実験の繰り返しであったように見える。何より90年代はヒップホップやR&Bなどのブラック・ミュージックが、ロックに代わってポップ・カルチャーの主役であった。

 だからこそ、ストロークスの登場は必然だったのだ。痩せ衰えた土壌に種をまき続けるような不毛な作業に終止符を打ち、ロックが再びロックとしての存在感を取り戻すには、原点回帰しかなかったのである。

 だがそう考えると、もはや21世紀のロックには、前世紀に培われた手法の順列組み合わせしか期待できないのだろうか、とも思う。

 音楽的試行錯誤の果てにオーセンティックなストロークスが登場し、その後今日まで続くギター・ロックのムーヴメントを作ったように、2010年代になれば今度はテクノとロックの近未来的クロスオーヴァーが流行ったり、第2次パンクブームなんてのが来たりするのかもしれない。

 だがそれはロックがその歴史のなかですでに経験したことの繰り返しだ。その時その時で、常に時代とマッチした新しい表現を獲得し、同時に古くなったスタイルは脱ぎ捨てて、新陳代謝を繰り返しながらコンテンポラリーを保つことこそがロックがロックたる所以だ。21世紀にいつかロックが「クラシック音楽」と呼ばれる日が来るのかなと、なんとなく地味に心配になる。ま、そうなったとしても聴き続けるけど。


 ストロークスやホワイト・ストライプス、リバティーンズなどの登場で印象的且つとても嬉しかったのが、エレキ・ギターが再び「カッコイイ楽器」になったことである。

 僕が熱心にギターを練習していた高校生の頃(90年代後半)、MTVを見ているとどのビデオでもエレキ・ギターは音が異常にぶ厚く加工されていて、弦楽器というよりもシンセサイザーの一種のようであり、おまけにやたらととんがったフォルムをしていたり、ゴテゴテしたペイントが塗られていたりして、まるで趣味の悪い装飾品か何かに見えた。今思えばそれはごく一部のギタリストに過ぎなかったのだろうけど、当時の僕は次第にエレキ・ギターを練習するのが嫌になり、3年生の文化祭の時以外はずっとアコースティック・ギターを触っていた。

 だが、2000年代に入り、上に挙げたようなバンドたちが次々とエレキ・ギター本来の色気を取り戻したのである。彼らのギターの音はワイルドで無造作で、プレイ・スタイルもほとんど突っ立ったままなのだが、その姿がロックとしての説得力に溢れていたのである。


<THE MODERN AGE>

<LAST NITE>