見た目に惑わされると
損しちゃいます

 大阪出身の3ピースバンド、ザ50回転ズが今年の1月にリリースしたアルバム。この『50回転ズのビックリ!!』は、『50回転ズのギャー!!』、『50回転ズのビリビリ!!』に続く3枚目のアルバムで、現時点での彼らの最新作にあたる。

 アルバムタイトルの“濃さ”からもわかるように、ザ50回転ズはかなり強烈なキャラを持ったバンド。なんだか「イロモノ」「キワモノ」のように見えてしまうけど、どっこい彼らの鳴らすロックはものすごく骨太で痛快。かっこいい。

 メンバーは、徳島の酔いどれ「ダニー」(ギター)、出雲の妖怪「ドリー」(ベース)、浪速のドラ息子「ボギー」(ドラム)。・・・いやあ、ふざけてますね。ふざけてますがアルファベット横文字の芸名よりはるかに光るセンスを感じます。ボーカルは基本ダニーが担当するが、曲によってドリーもメインを張る。

 曲は典型的ガレージロックンロール。彼らの髪型の元ネタ、ラモーンズばりの時短ナンバーを、3コードでひたすらぶっ飛ばす。と思いきや、歌メロは昭和歌謡っぽかったりして、ダニーの拳を利かせた歌い方と相まって、その妙に演歌的なところがこのバンド独自の持ち味になっている。

 だが、どんな曲でも使用する楽器はギター1本にベースとドラムだけ。小細工なしの“裸一貫”型だ。それでいて音が薄っぺらくならず、むしろ圧倒的な音圧を感じさせるのは、彼らの演奏能力が非常に高いことを物語っている。切れのあるディストーション・ギターが連発する「いかにも」なリフには、彼らのロック・マニアぶりも伺える。

 聴けば聴くほど、ロックンロールの原初的な勢いみたいなものを感じさせる、非常に稀有なバンドである。そう、まさに「バンド」という感じ。3人の強烈なビジュアルも、いつの間にかカッコいいファッションのように思えてくる(こないか?)。

 それにしても、「いかにも大阪出身のバンドだなあ」と思う。ウルフルズ、ミドリ、そしてザ50回転ズ。彼らに共通するキャラの強烈さだとか、新しさだとか、イっちゃってる感じだとか、そういうのは良くも悪くも“常識的”な東京ではなかなか生まれないセンスだと思う。

 これは実は小劇場演劇にも当てはまることで、新しい芝居、強烈な芝居、というのは大体西からやってくる。たとえば劇団☆新感線とか惑星ピスタチオとか、最近だと劇団鹿殺しとか。好き嫌いは抜きにして、やっぱり大阪出身の劇団は何かしら強烈なオリジナリティーがある。俳優さんも関西出身の人の方がクセがあるように思う。

 アングラ的。サブカル的。大阪カルチャーには概して地下発生的なアヤシさがある。だがそれがアングラの陰気さやサブカル特有の狭量感につながらないところが大阪の面白いところだ。むしろどこか陽気でユーモラス。アヤシさと言っても、ガード下の飲み屋とか長屋だとか、そういう濃厚な生活の匂いを感じさせる、人情味のあるアヤシさなのである。そこが東京文化圏には希薄な大阪独自の“濃さ”であり、僕自身もひと頃大阪のそういうノリに憧れたことがあった。

 もちろん関東関西どっちが優れているかとかそういう問題ではないし、それを言い始めると、九州とか名古屋とか北海道とか、また違った個性を持つ文化圏についても考えなきゃいけなくなるのだが、とりあえず、日本という小さな国のなかに、音楽とか芝居とか、そういう肌で感じられるレベルで風土の違いがあるということは、単純に面白い。東京が全てのカルチャーの発信地のように言われるけれど、決してそんなことはないのである。
激しく燃えさかる炎が
静かな祈りに変わるとき


 彼の音楽を聴いたことがあるかどうかはともかく、ボブ・マーリーという名前を知らない人はいないと言っていいんじゃないだろうか。没後30年になろうという今もなお聴き継がれ、語り継がれるレジェンド・オブ・ロック。今更紹介することなど気が引けるほど、その名前はあまりに大きい。

 音楽史には彼の他にも、例えばジョン・レノンやジミ・ヘンドリックスといった、同様のスケールを持つ巨人たちが存在する。だが、ボブ・マーリーという名前の響きは特に異質であるように思う。彼の音楽には、他のレジェンドたちとは異なる“重さ”を僕は感じる。この重さを抜きに、ボブ・マーリーの音楽を聴くことはできない。

 僕が最初にボブ・マーリーを聴いたのは高校生の頃だった。「のんびりしてていいな」というのが最初の印象。初めて聴くレゲエのリズムはゆったりとしていて優しく、燦々と輝く南の太陽を想起させた。

 しかし、歌詞カードを読んだ僕は、その印象を真逆へと改めなければならなかった。貧困と飢餓、暴力と差別。そこには第三世界の壮絶な現実と権力に対する激しい怒りが綴られていたからだ。今まで読んだどの歌の歌詞よりも、切迫した生々しさがあった。フレーズの一つひとつに、血と涙が滲んでいるようだった。リズムと言葉にあまりにギャップがあるこの音楽をどう聴いてよいのかわからず、僕は混乱した。

 ボブ・マーリーの音楽は、戦いの音楽だ。戦いを鼓舞し、戦い疲れた者を癒す音楽だ。彼の音楽の持つ重さとは、今まさに戦いの渦中にいる当事者だけが持つ重さである。そこが、例えばジョン・レノンやボブ・ディランの歌詞とは根本的に異なるところだ。

 だから、彼の音楽に本当の意味でのリアリティを感じることができるかと聞かれれば、「否」と答えざるをえない。日本という安全地帯に生まれ育った僕は、ボブ・マーリーの気持ちに感情移入できるほどのバックグラウンドを持ち合わせてはいないのだ。

 それでも僕は彼の音楽に魅かれる。その重たさゆえに、なかなか片手間に聴くことを許してくれない音楽だけど、僕は彼の歌を聴き続けている。僕だけではなく、世界中の人が彼の音楽を聴いている。それはなぜなのだろう。

 1980年にリリースされた『UPRISING』は、ボブ・マーリーの遺作となったアルバムでもある。この翌年、彼は亡くなる。

 本作のレコーディング中からすでに体調が優れなかったらしい。死を前にした彼の心理を反映してか、このアルバムにおける怒りの表現は過去の作品とは微妙に異なる。『BURNIN’』(‘73)や『SURVIVAL』(’79)が激しく燃える赤い炎だとしたら、この『UPRISING』は静かに燃える青い炎。怒りと悲しみは、鋭く研がれた刃ではなく、祈りによって表現されている。それゆえ、このアルバムにおける彼の歌声はいつになく優しい。

 激しい怒りと嘆きの言葉が、なぜゆったりとしたレゲエのリズムで表現されるのか。それは彼の音楽が、戦いの音楽であると同時に、祈りの音楽でもあるからなのだと僕は思う。そして、彼の怒りが重いものであったのと同様に、その祈りもまた果てしなく重い。だが、怒りは共有できなくとも、祈りはすべての人の胸を打つことができる。なぜなら、祈りは人の持つ優しさによって支えられたものだからだ。

 このアルバムのラストを飾る<REDEMPTION SONG>で、ボブ・マーリーはこう歌う。「俺が今まで歌ってきたのは、すべて救いの歌なんだ。自由を求める俺たちの救いの歌なんだ」と。この“俺たち”のなかには、多分僕も含まれている。
「ホワイト・クリスマスを夢見てる
 昔この目で見たような」 ―“White Christmas”


 劇団の公演は毎年11~12月。公演が終わると、それを合図に僕はあることを始める。CD棚の隅からクリスマス・アルバムの束を取り出して、プレーヤーの側の“スタンバイ位置”へとその場所を移すことだ。

 <White Christmas>や<Winter Wonderland>、そういうクラシックなクリスマス・ソングが僕はどうしようもなく大好きで、本当は一年中聴いていたいくらいなのだが、それをやってしまってはクリスマス・ソングを愛する者としてはマナー違反だ。公演の終わりを“解禁日”として、僕は一年でこの季節にしか聴けない曲たちに、CDプレーヤーを占拠させるのである。

 毎年、最初に聴くアルバムをどれにするか迷うのだが、大体いつも選んでしまうのがこれ、日本人男性ジャズ・ボーカリスト、小林桂が2001年に発表したクリスマス・アルバム『wonderland』。

 クリスマス曲をジャズにアレンジしたアルバムはたくさんあるが、ジャズの味が濃厚すぎて、肝心の曲そのものは原形を留めないほどに崩されている、そんなのが大体のパターンである。アイディアとしては面白いと思うものの、所詮は長く聴くことのできない“一発屋”であり、クリスマス・ソングを愛するものとしてはいただけない。

 その点、この『wonderland』はアレンジが良い。ジャズの部分は風味を利かせる程度に抑えられて嫌味がなく、あくまで歌とメロディを聴かせようとしている。選曲もツボを得ていて、スタンダード・ナンバーを厳選しているだけでなく、ところどころの楽器ソロに<ジングル・ベル>や<I saw mommy kissing Santa Claus>のメロディーが隠してあったりして、なかなかニクイ。小林桂のスモーキーでハスキーな歌声も、イージー・リスニングと呼ぶのが躊躇われるような、ずっしりとした聴き応えがある。素朴で洗練されたクリスマス・アルバム『wonderland』、おすすめです。


 よく、「アメリカ人にとってのクリスマスは、日本人にとってのお正月のようなもの」と言うけれど、それは果たして正しい例えなのだろうか、と思う。もはや滅んでしまった羽子板凧揚げ。下品な番組ばかり放送するテレビ。バカの一つ覚えのように街中そこかしこから聞こえてくる、あの琴の音。ただの連休に成り下がった日本のお正月に比べて、アメリカのクリスマスはしっかりと生活文化に根付いている。

 そう言い切れてしまうのは、僕自身がアメリカのクリスマスを体験したことがあるからだ。お隣同士がまるで競い合うように飾り付ける家々の庭の電飾。クリスマスカードやツリーの飾り、ケーキやチキン、そういったグッズで溢れかえるお店。クリスマス時期のアメリカの街は、住人たちが力いっぱい楽しもうとする熱気に包まれていて、その光景は子供心ながらに感動的で、そういう文化があることに羨ましさを覚えた。

 特に僕の住んでいたボストンという都市は、アメリカのなかでも音楽の盛んな街で、教会の前の路上で歌う聖歌隊や街角で演奏する生バンドをよく目にした。商店が立ち並ぶ近所の目抜き通りは、イブの夜になると自動車が通行止めになり、そこに街中の人が集まってみんなで大騒ぎをした。僕も友達と一緒に、サンタクロースにもらったキャンディーを舐めながら、バンドの演奏を眺め、街の聖歌隊と一緒に歌を歌った。

 以上の話、「要はただの自慢話じゃねえか」と言われそうだが、確かに子供の頃にああいう得がたい体験をできたことは自慢なのかもしれない。「クリスマスにはクリスマス・ソングを」という直観。これはあのイブの夜の光景が消えない光景として焼き付けられ、帰国後も胸の奥で醸造されて出来上がったものなのだろう。その結果として、今こうして部屋で一人きりでクリスマス・アルバムを楽しんでいるという状況が、20代男子として果たして幸せかどうかは別として・・・。
「歌」の個性と「曲」の個性
一粒で二度美味しいロック・アルバム


 2007年リリースの、PUFFY10枚目のアルバム『honeycreeper』。

 収録された13曲は全て外部のミュージシャンによるもので、その面子を列挙すると、まずおなじみ奥田民生と井上陽水コンビ、前作アルバムから続投のブッチ・ウォーカー(アヴリル・ラヴィーンなどを手がけるプロデューサー)、スウェーデンのバンドThe Merrymakersのアンダース・ヘルグレンとデビッド・マイアー、そしてチバユウスケ、吉井和哉、真島昌利、山中さわお、さらにグループ魂の宮藤官九郎と富澤タク、最後にピエール瀧、となる。

 存在感を示すのはチバユウスケ、吉井和哉、真島昌利、山中さわおら国内のロック・ミュージシャンたち。彼らの曲が核となり、全体的にロック色が強いアルバムに仕上がっている(海外の3人についてはよく知らなかったのだが、やはり皆ロック畑出身のアーティストらしい)。

 それぞれ個性の強いソングライターばかりなので、クレジットを見なくても、誰がどの曲を書いたかすぐにわかる。本人が歌っているところを思わずイメージしてしまうし、当のPUFFYの2人も、「チバユウスケっぽい」「吉井和哉っぽい」「ヒロトっぽい」歌い方を意識しているようである。なので、PUFFYのアルバムでありながらも、各ソングライターの個性も同時に楽しめるという、「一粒で二度美味しい」的オトク感のある作品だ。

 同時に、それぞれ自分のバンドでは決してやらないようなタッチの曲を書いているのも聴きどころ。PUFFYというキャラクターに合わせたせいなのか、あるいは“自分”という縛りが取れたせいなのか、みんなキャラがいつもと違う。みんな敢えて“外そう”としている。チバユウスケや吉井和哉は普段「二枚目」なのに、このアルバムでは「三枚目」キャラだ。そういった珍しさの点でも、このアルバムは邦ロック・ファン向けの、しかもアクセント的なアイテムと言えそうだ。

 PUFFYはデビュー以来、楽曲を外部のミュージシャンの手に委ねてきた。初期の奥田民生は言うに及ばず、その時その時でさまざまなアーティストの個性に乗っかるのが、彼女たちの得意技である。

 だが、そのような“外注依存”でありながらも、PUFFYが一貫して「PUFFY」だったのは、何よりもまず彼女たちの個性が強かったからだ。初期の頃こそ2人のキャラクターに合わせた曲を歌っていたが、最近はそんなハンデも必要としなくなっている。結局、どんな曲が来ても、2人が歌えばPUFFYになってしまう。PUFFYという器がどこまでも頑丈でキャパが大きいからこそ、他のアーティストは安心してどんな水でも注げるのだ。曲の半分が“コント”という、グループ魂全員参加の異端曲<妖怪PUFFY>などは、そういった歌い手と作り手との良い関係性の賜物である。

 今年リリースされた現時点での最新作『Bring it!』では、斉藤和義や椎名林檎、細美武士らが楽曲提供をしていて、近年のPUFFYはロックへ傾倒しているようだ。最近はロック・フェスにも頻繁に出演しているみたいで、その独自のポジションにはますます磨きがかかっている。
ついに始まった大作ドラマ
“青春”日本の姿に涙する


 最初の制作発表から実に6年。待ちに待ったドラマ『坂の上の雲』の放映がついに始まった。

 「待った甲斐があった」とはまさにこのこと。僕はもうテレビの前でずっと泣きっぱなしです。素晴らしい。まだたった2回しか放送されていないが、断言してしまおう。これは本当に素晴らしいドラマである。

 何がそれほど素晴らしいのか。脚本も俳優の演技も非の打ちどころがないし、渡辺謙のナレーションも味がある。美術の凝り具合などは、はっきり言って大河ドラマよりも数段上である。細かく挙げよと言われればキリがない。だが、そのような細部の一つひとつが個別に優れているというよりも、全てが組み合わさりトータルとして、ボリュームもスケールも桁外れなあの原作の映像化を成し遂げた、この一点に尽きる。

 「司馬作品の映像化など過去にいくらでも例があるじゃないか」と言われそうだが、このドラマは過去の映像化作品とは根本的に違う。ディティールをとことん突き詰めるだけでは、はたまたストーリーを丹念に追うだけでは、司馬作品は「司馬作品」にはならない。なぜなら、そこに司馬遼太郎の息遣いというものがないからだ。彼の持つ独特のユーモアや、決して主人公に感情移入しすぎないクールなタッチ、それでいて深く漂う人間(日本人)への愛情。司馬作品を「司馬作品」たらしめているのは、ストーリーやテーマといった作品の外郭以外の部分にこそある。その本質部分を含めて映像化を“成し遂げた”作品を、僕はこのドラマ『坂の上の雲』の他に知らない。

 もちろん、「原作と映像は別物」という考え方はある。だが、こと『坂の上の雲』という作品に関しては、その考え方は通用しない。それはこの作品が、彼が遺した長篇小説のなかでもっとも現代に近い時代を描いているという点に関係がある。

 以前『翔ぶが如く』について書いた時にも触れたが、司馬遼太郎の創作の原点には、太平洋戦争という忌まわしい体験がある。信長、竜馬、土方歳三。彼が主人公たちを皆、合理的精神の持ち主として描いているのは、思想の暴走が招いた太平洋戦争に対する反省があるからだ。

 『坂の上の雲』の主人公である秋山兄弟は軍人だ。昭和の軍人のような「思想中毒」ではなく、合理的な思考を旨とする、理性的な技術屋としての軍人である。明治日本が欧米列強の脅威から身を守るためにやらなければならなかったのは、一にも二にも技術と知識の習得であり、とにかく日本人全体が猛烈な勢いで勉強した結果、大国ロシアに勝ち、世界の強国から“ナメられない”地位をどうにかこうにか手に入れるのである。だが、「大国ロシアに勝ってしまった」、このことが軍部の増長を生み、ひいては太平洋戦争まで続く、合理性を欠いた「思想中毒」の遠因ともなった。

 『坂の上の雲』が難しいのはそこである。物語のクライマックスは日露戦争の勝利だが、後の歴史を見ればわかるように、それは決して手放しで喜ぶべきものではない。司馬遼太郎は明治時代を日本の「青春」と喩えたが、日露戦争はその「青春」の到達点であると同時に、近代日本が道を違えた第一歩として、ある反省とともに見つめなければならないのである。そのバランス感覚を間違えれば、戦争を礼賛する作品になってしまう。この『坂の上の雲』は、司馬遼太郎の目を、その感覚を通じてこそ初めて感動が味わえる作品なのだ。

 先週の第2回までは、まだ物語は穏やか。秋山真之、秋山好古、正岡子規の3人が、近代国家としての胎動期を迎えた日本のなかで、自分の進むべき道を探している。いよいよ今週日曜の第3回から、物語は日清戦争に突入する。青春の日本が最初に迎える大きな試練だ。

 僕は日本の近現代史が嫌いだ。なぜなら侵略の歴史だからだ。古代、中世、近世とワクワクしながら日本史を追ったところで、結末部分で気持ちはひっくり返る。日本という国が嫌いになってしまう。

 だが、『坂の上の雲』という作品は、ほんの少しだけ、日本人であることを誇りに思わせてくれる。司馬遼太郎は「この作品の主人公は日本人全員というべきであり、3人の青年は当時の日本人の一典型にすぎない」と語っていたという。僕は、物語に登場する人間が皆一様に使命感と希望とプライドを持って生きている姿に、涙してしまうのである。
ただのリハーサルであっても
やはり彼は「大スター」だった


 公演が終わり、ようやく観ることができた『THIS IS IT』。公開最終日にギリギリ行くことができた。平日にもかかわらず、夕方以降の回は全て売り切れ。昼間の回の隅っこの席をなんとか手に入れることができたのだが、この回もほぼ満席。なんでも、日本における本作の興行収入はアメリカに次いで世界第2位なのだそうである。地球規模の大スターであるマイケルだが、とりわけ日本人は彼のことが大好きなのだ。

 映画館の客席はまさにそのことを証明していた。おばさんグループに若いカップル、小さい子連れの主婦(この子は<スリラー>の映像を見て大泣き)と、客層は文字通り老若男女。満席にもかかわらず上映前は奇妙に静かで、それが逆に観客のこの映画に対するモチベーションの高さ、マイケルに対する思い入れの深さを感じさせた。

 この『THIS IS IT』は、マイケルが生前取り組んでいた同名タイトルのコンサートのリハーサル映像を編集したもの。元々は公開する目的はなく、単なる記録用に回していたカメラの映像がその素材となった。内輪向けの映像だけに、作られていない等身大のマイケルを見ることができ、時折スタッフや出演者と交わす会話などには、これまでに感じたことのないような身近さを覚える。

 だが、映画の中心はあくまでマイケルのパフォーマンスだ。本番さながらにステージ上で歌って踊るマイケルの映像が、コンサートのセットリスト順に1曲ごとに編集され、本番で使用される予定だった特殊映像の断片なども挟みながら、僕ら観客は開催されるはずだった“幻のコンサート”を想像していく。この映画は、作業風景や舞台裏を見せるメイキング映像ではなく、ましてや思い出を振り返るような湿っぽい追悼映像集でもなく、堂々たる1本の“ライヴ・ムービー”なのである。

 それにしてもマイケルのコンサートってすごい。聴覚だけでなく、さまざまな特殊効果を用いて視覚に訴えかける演出や、「I Love You」「Heal The World」という強いメッセージ。そして何よりもあのダンス。1992年の「デンジャラス・ツアー」を収録したDVD『ライヴ・イン・ブカレスト』を観ていたら、ラストにはでっかい地球が舞台上に現れ、それをマイケルと世界中の民族衣装を着た子供たちがグルッと囲み、そしてラストにはマイケルがロケットを背負って空に飛んでいってしまった。まるで一人でディズニー・ランドをやっているかのような、ものすごいエンターテイメント性の高さである。

 そのようなハイテンションのステージを作るのは、やはり並大抵のことではない。『THIS IS IT』を観ていて興味深かったのは、自らが細かくスタッフに指示を与え、気に入るまで何度でもやり直すマイケルの姿である。この映画を観るまでは、マイケル自身があれほどまでに主体的にディレクションをしているとは思わなかった。TV画面では見ることのできない、ゴシップやスキャンダルとも切り離された、一人のアーティストとしてストイックに作品作りに臨むマイケル・ジャクソンの姿は新鮮だった。

 映画のハイライトは何といってもラスト手前の<ビリー・ジーン>。マイケルが一人、スポットライトを浴びながらあのダンスを踊る。リハなのでダンス自体はかなりラフなのだが、「貫禄」というか「オーラ」というか、言葉では説明できない、世界でただ一人彼しか持ち得ない圧倒的な空気があり、観客全員がゴクリと唾を飲み込んだように思えた。

 今月19(土)から再公開が始まる。もう一度観に行ってしまうかも・・・。


『THIS IS IT』予告編
ホラー小説よりも怖い!
史上最悪の獣害事件のドキュメント


 「くまあらし」と読む。羆嵐とは、ヒグマが狩猟されると突如として天候が荒れ嵐が吹くという、狩人たちに古くから伝わる言い伝えのこと。

 この本は大正4年(1915年)の12月に北海道天塩山麓の六線沢で起きた、日本史上最悪の獣害事件といわれるヒグマ被害を題材にしている。

 雪深い原生林に生息していた一頭のヒグマが、冬眠の時期を逸し、飢えを満たすために突如人家を襲い始める。体長2.7メートル、体重383キロ。灯りはおろか火さえも恐れない獰猛な巨大生物は、わずか2日の間に6人の人間を食い殺した。

 警察は住人と協力して200名に及ぶ捜索隊を組織するものの、被害のあまりのすさまじさに恐慌状態に陥り、ヒグマを追い詰めるどころか、現場から遺体を回収することすらままならない。やがてヒグマはさらなる餌(つまり人)を求めて山を下りようとする。万策尽きた住人たちは一縷の望みを胸に、一人の老練な猟師に助けを求める。

 この本はとにかく怖い!ホラー小説でも何でもないのに、ひたすら怖い。巻末の解説で、脚本家の倉本聡がこの本を読んだ直後に電気の通わない富良野の山小屋で一晩を過ごす羽目になり、その晩はあまりに怖くて一睡もできなかったと書いていたけれど、よくわかる。僕などは蛍光灯のつく自宅で読んでいても怖かったもの。読み終わった日の夜は、絶対にありえないのに、窓ガラスを割ってヒグマが入ってきたらどうしようなどと考えて身震いしてしまった。

 恐怖の源は、これが実際に起きた事件であるという事実だ。さらに、出来事一つひとつを淡々と語る吉村昭独特のドライな文体が逆に臨場感を煽る。怖さを狙っていないからこそ、余計に怖いのである。

 吉村昭の作品は徹底した取材を基に書かれたドキュメンタリーでありながらも、しっかりとエンターテイメントとして成立しているところがすごい。例えば本ブログで以前紹介したこともある『破獄』http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=49は、一人の無期刑囚の収監と脱獄の記録をひたすら時系列に沿って詳細に書き留めたものだ。そこには感情描写も作者の主観もストイックなまでに削ぎ落とされている。それなのにページをめくる手は止まらないし、フィクションよりもむしろ感情移入してしまう。

 この『羆嵐』にしてもそうだ。記録の積み重ねに過ぎないものが、なぜこうもおもしろいのだろう。この本には自然小説、冒険譚、サスペンス、そして人間ドラマ。あらゆるエンターテイメントの、しかも上質の部分がぎっしりと詰まっている。こんなに贅沢でいいのだろか、という感じ。

 この本映画化しないかなあ。大ヒットは難しいだろうけど、絶対面白いと思うんだけどなあ。
今ここにある「生」と
すぐ隣にある「死」と


 福岡出身のバンドPeople In The Boxが先月リリースしたばかりのミニアルバム。全7曲とボリュームは少ないが、この作品はとても聴き応えがある。

 バンドのメンバーは波多野裕文(ボーカル/ギター)、福井健太(ベース)、山口大吾(ドラム)の3人。編成はごくありふれた3ピースバンドだが、彼らの鳴らす音と世界観はかなり特徴的で、不意に耳にしてもすぐに「People In The Boxだ」とわかるのではないだろうか。

 まず、変拍子が異様に多い。リズムというものが一つどころに落ち着かず、3/4→4/4→5/4というように絶えず変化を求めて彷徨っている。コピーしようと思ったら、さぞかし煩瑣な譜面を相手にしなければならないだろう。リスナーはフラフラとおぼつかない足取りを強いられながら聴き進めていくわけだが、しかしそのような不安と緊張が、なぜか次第に心地よくなる。一見支離滅裂なリズム構成だが、その実聴く者の生理にピタリとハマるように計算されていて、病みつきになってしまうのだ。

 変拍子の多用はソングライター波多野の詞の世界を描くうえでも、必要不可欠なファクターである。彼の書く詞はバラバラのセンテンスをコラージュ的にくっつけた非常にイメージ主義的なもの。1曲のなかで物語が完結する類のものではなく、リスナーは言葉の断片を拾い集めながら、自身のイメージで隙間を埋めていかなくてはならない。僕はどことなく草野マサムネの詞に似ているように思った。もっとも、技法は似ていても世界観はまるで違う。

 波多野の詞を特徴づけるのは薄っすらと、しかし一貫して漂う「死」の匂いである。バラバラに継ぎ接ぎされた言葉の群れがある一定以上に拡散していかないのは、「死」というテーマが重心となっているからだ。

 彼の描く死は何かのメタファーというわけではなく、「死」そのもの。日常のなかにありふれた、すぐ隣に存在するものとして死を描いている。明日自分の身に死が訪れてても不思議はないし、一度死に捉まれば人間の命はあっけなく終わる。彼の描く死は実に淡白で軽い。

 そして、「死」をファインダーの中心に据えることで、今度は「生」が逆照射されてくる。ただし、「死」が軽いということは、背中合わせの「生」もまた軽く、おぼろげで儚いことを意味している。そのような根本的不安感漂う歌詞と、変則的なリズム構成との組み合わせは見事にマッチしていて、表現技法の選択として必然的である。膨張と収縮を繰り返すリズムは危うい緊張感を煽ると同時に、か弱い「生」の胎動にも感じられて、グッとくるのだ。

 本作に収録された7曲には、タイトルにそれぞれ曜日が冠されていて、1曲目から順番に月曜日、火曜日、となってラストが日曜日になる。7曲トータルで聴いて、初めてイメージが湧きあがるというコンセプチュアルなアルバムだ。ただし、曲がわかりやすくひとつづきになっているわけではない。波多野の詞同様に、曲と曲もまたコラージュのようにバラバラに配置され、その見えるか見えないかのつながりをリスナーが想像していかなくてはならない。「行間を読む」ならぬ「曲間を読む」とでも言うべきか、この『Ghost Apple』という作品の実体は言葉と言葉の間、曲と曲の間、至るところに設けられたスカスカの空間の中にこそあるのかもしれない。

 People In The Boxにとっては本作がメジャー・デビュー作品。にもかかわらず、こんなに挑戦的で好き勝手やっているようなアルバムを作ってしまう姿勢は素敵だ。
 

アルバム1曲目<月曜日/無菌室>。この曲だけは変拍子が出てこないので、本文で触れたニュアンスが伝わりづらいのですが、生憎この曲しかPVがありませんでした。それにしてもメジャー作品とは思えないダークな映像!
“RE-MASTER”ではなく
“RE-BIRTH”と呼ぶべき!


 更新ペースが滞りがちですが、ビートルズの話、まだまだ続いています。
 前回の記事の冒頭で、先月発売されたデジタル・リマスター盤が売れている、と書いたけれど、その後調べてみたら発売後わずか1週間で出荷枚数は計200万枚に達していたそうである。ちなみにこれは日本国内だけの話。
 CD不況といわれるなかで、しかも解散後40年経ったグループが、これほどの人気を集めているのは驚異的の一語に尽きる。発売後1ヶ月経った今、どこまで記録が伸びているのかはわからないが、今回のリマスター化が30代以下の若い世代、「ビートルズを聴いてみたかったけどきっかけがなかった」、そんな“潜在的リスナー”を掘り起こしているのは間違いないだろう。50代以上のビートルズ・リアルタイム世代だけではこれほど人気が広がらないはずだ。実際、僕の身の回りにも徐々にリマスター盤購入者が現れ始めた気がする。
 そんな嬉しい兆しを受けてこうしてビートルズの話を延々と続けているわけだが、実を言うと僕は今回のデジタル・リマスター化そのものに関しては消極的というか、関心が薄かった。「デジタル」「リマスター」、大仰な枕詞をつけたところで、それほど差はないだろうというのが本音だった。雑誌やネットではかなり前から熱のこもった報道がされていたけれど、僕にとってはビートルズ関連の一つのイベント、というくらいの認識でしかなかったのだ。
 「実際に聴いてみるまではわからない」。ちょっとした猜疑心を抱いたまま迎えた発売初日の9月9日。重い曇天の下、僕はレコードショップに足を運び、試聴コーナーのヘッドフォンを耳に当てた。
 「・・・・!!」
 絶句、である。僕が聴いたのは<I saw her standing there>、<HELP!>、そして<TAXMAN>の3曲。だがどれも僕の知っているビートルズではない。まるで別の曲だ。何だこの“近さ”は!目を閉じれば、手が届きそうなほどの近さで4人の姿が像を結ぶ。試聴コーナーの前で僕はただただ言葉を失って、固まってしまった。
 どこがどう違うのかと問われれば、音の分離がよくなった、低音部がよりクリアになった、そのような細部の違いを挙げるしかない。だがそのような物理的な変化をいくら指摘しても意味はない。トータルとして違うのだ。これはもう新しい曲、新しいビートルズだ。
 何を大袈裟なことを、と思われるかもしれない。だが機会があれば旧盤とリマスター盤を聴き比べてもらいたい。<HELP!>冒頭の3声コーラス部分「ヘォプ!」だけでも聴けば僕の言う意味がわかってもらえるはずだ。結局僕はその日、試しに店頭を覗いてみるだけのつもりだったのに、気付けば大枚をはたいてステレオボックスを購入してしまった。「それほど差はないだろう」などと嘯いていた気持ちはどこへやら、なのである。
 もっとも、いくら「違う!新しい!」と言ったところで、今回初めてビートルズを買う人にとってはどうでもいいことだろう。旧盤を聴き込んでいるかそうでないかによって、リマスター盤の持つ意味は変わってくるはずだ。
 今回のリマスターによって音質は格段に向上した。楽器の音一つひとつ、ボーカルの一声ひと声がよりクリアになった。特に初期4枚に関しては初めてステレオになったことで、空間の広がりと音の厚みはこれまでとは全く異なっている。
 しかし、繰り返しになるが、そういった細部の変化をもって「違う」と言っているわけではない。
 以前も書いたように、ビートルズの最大の魅力は一曲一曲に込められた音楽性の豊かさだ。もう少し平たく言えば、例えばコーラスの美しさであったり、ギター・ベース・ドラムに止まらない多彩な楽器の使用であったりといった、アバンギャルドな実験精神と絶妙なアレンジワークである。
 そういったビートルズの業と才能の数々が、リマスターされたことでこれまでよりもはっきりとわかるようになったのである。単なる音質の向上を超えていると書いたのはこの点だ。リンゴの愛嬌たっぷりの手クセ、ジョンの艶のある声とジョージのねっとりと絡みつくコーラス、ポールの異様にメロディアスなベース。一つひとつの音の輪郭が鮮やかに磨き抜かれた結果、4人が内包していた才能がいかに巨大であったかが、改めて眼前に提示されたのである。
 デジタル・リマスター盤の最大の目玉は、前述の初期4枚(『PLEASE PLEASE ME』~『BEATLES FOR SALE』)の初のステレオ化だろう。<IT WON’T BE LONG>、<PLEASE MR.POSTMAN>、<YOU CAN’T DO THAT>。挙げたらキリがないが、上下左右全方位から(本当は左右2箇所だけど)ジョン・ポール・ジョージの声が迫り来るような広がりと重さは、単にひと塊だった音が左右に振り分けられたという以上の充実感がある。
 そして、ステレオになったことで音の分離がシャープになり、その結果(信じられないことだが)今まで聴こえていなかった楽器の存在に気付くという、新たな発見もあった。
 例えば4枚目『BEATLES FOR SALE』の1曲目<No Reply>。1分3秒過ぎから始まるコーラス部分のバックに、リズムを刻むピアノの音が入っている。僕はステレオ版を聴くまでここにピアノが入っていることになど気が付かなかった。改めてモノラル版を聴いてみると確かにピアノの音は確認できるのだが、おそらくステレオ(リマスター)を聴かなければ気付かなかっただろう。
 強調したいのは、これは何も見つけようとして見つけたマニア的発見ではなく、ボーッと聴いていたら気付いたものだということだ。もっと細かいものまで含めればこのような新発見はいくらでもあるし、おそらくまだ気付いていないものもあるだろう。
 デジタル・リマスターという作業は音質の改良というレベルを超えて、ビートルズの音の世界に眠っていた新たな鉱脈を呼び起こしたようだ。僕らファンは聴くごとに何かしら新たな発見を見出すことができるし、そのたびに曲が隠し持っていた表情が開陳されるのである。旧盤とリマスター盤がトータルとして違うということが、なんとなく伝わるだろうか。だから僕は“RE-MASTER”ではなく、“RE-BIRTH”と呼ぶのが相応しいんじゃないかと思う。


聴き比べてみてください。コーラス部分のバックに入るピアノの音にも注目。
旧盤の<No Reply>

リマスターされた<No Reply>
ギャグ&ユーモアで
既成概念をすっとばす


 ウルフルズのアルバムというと、一般的には『バンザイ』が真っ先に挙がると思うのだが、僕はあえて『すっとばす』をセレクトしたい。これは1994年、ウルフルズがまだあまり売れていなかった頃にリリースした2枚目のアルバムで、そして僕が最初に買ったウルフルズの音源なのである。

 誰も見向きはしない、自分ひとりが大好きなバンドやマンガや作家。そういったものが何かの拍子でヒットして一般的に認知されるようになると、先に目をつけていた自分はまるで“先駆者”のように思えて、なんだか誇らしい気分になる。僕にとってウルフルズはまさにそれで、「おれ、みんなより前から、ウルフルズのこと知ってたぜ」というのは、彼らが売れ始めた当時、僕が周囲の友人に盛んに言っていた台詞である。

 出会いのきっかけはスペースシャワーTVという音楽専門チャンネルで、ここでウルフルズのPVやライヴ映像が盛んに流れていたのだ。とにかくインパクトが強烈だった。<ガッツだぜ!!>の“バカ殿”は有名だけど、それ以前の作品、例えば『すっとばす』のタイトル曲<すっとばす>や、<大阪ストラットPARTⅡ>、<SUN SUN SUN’95>のPVなんかは歌というよりもコメディであり、「アーティストをかっこよく(美しく)見せる」という従来のPVの概念には収まらない、まったく異質な存在感を放っていた。「なんかマトモじゃない!でもおもしろい!」というのが第一印象だったのである。

 書いていて思い出したのだけど、その頃同じくスペースシャワーTVで『夕陽のドラゴン』という音楽バラエティ番組があって、これのMCが当時まだ無名だったトータス松本とユースケ・サンタマリアだった。音楽専門チャンネルのくせにまともな音楽の話がほとんど話題に上らない、ケーブルテレビならではの徹頭徹尾悪ふざけな番組で、彼らはミュージシャンというよりもほとんど芸人のようだった(トータスは当時金髪で、それが余計に芸人的雰囲気を醸し出していた)。

 そう言えば、ウルフルズがブレイクしたのとちょうど同じ頃、ユースケが「今度ドラマに出るんだ。『踊る大捜査線』っていうの。ヘンなタイトルでしょ。いかりやさんとか出るよ。東大卒って役なんだけどさ、なんでオレなんだろう」って言ってたのを覚えてる。今思い返すとしみじみしてしまう。

 とにかく、PVは強烈だったし、『夕陽のドラゴン』で見るトータスのキャラクターも強烈だった。ただし、それは単に“他のバンドと異なる”という物珍しさではなく、“あ、こういうのもアリだな”という、ちょっと大げさに言えば新たな価値の発見のようなものだったと思う。

 音楽番組を見ていると、トークと音楽とがまったくキャラが異なるアーティストをよく見かけるが、その点トータスは喋っていようが歌っていようが「トータス松本」で、その素の感じ、自然な感じには他のバンドにはない“近さ”があった。「バンドは都会的でスタイリッシュなもの」「ミュージシャンはふざけたりしないもの」という固定観念にウルフルズは軽やかに風穴を開けたのである。彼らが一発屋で消えることなく、コミックバンドと揶揄されることもなく人気を呼び続けてきたのは、多分彼ら一連のギャグとユーモアに多くの人が珍しさ以上に安心感を抱いたからだと思う。

 ただ、バンドのキャラクターが広く認知されるようになると、今度は逆にそのキャラクターに縛られることになる。ファンは常に第2の<バンザイ>、第2の<ええねん>を待ち望んでしまうからだ。だから先週の活動休止のニュースを聞いたときには驚くよりも納得してしまった。おそらく4人は「ウルフルズ」というバンドに求められる期待を、これ以上引き受け続けることはできないと判断したのだろう。

 今後の各自のソロ活動では、ウルフルズとは異なるそれぞれのキャラクターが見えるはずだ。多分今度は、ファンが彼らに「ええねん」という番なのである。


<すっとばす>のPV。これは名作!