彼らが一番輝くのは
ライヴ・ステージの上


 約1年ぶりの登場、ザ・フーです。

 前回『マイ・ジェネレイション』と『セル・アウト』を紹介したときにも書いたけど、このフーというバンドのおもしろさは、レコーディングではスタジオに籠もりあらん限りの音楽的アイディアを実験するマッド・サイエンティストばりの“オタク”な面を見せ、片やライヴになると、聴覚が狂うほどの大爆音を放ち(かつてギネスに「もっとも大きな音を出すバンド」として認定されたこともある)、機材を片っ端から破壊してしまう超肉体系に打って変わるという、この極端な触れ幅にある。

 だがフー自身がどちらを本当の自分たちだと考えていたかというと、少なくとも70年代初頭まではライヴであった。キース・ムーン(ドラム)は「最高のレコードを作るのではなく、最高のライヴをやって、それをレコードに詰め込むんだ」と語っている。実際、ライヴから彼らは人気を広げていったのであり、あの圧倒的なパフォーマンスはフーというバンドのパブリック・イメージを作った。

 そのフーのすさまじいライヴを録音したのが、この『ライヴ・アット・リーズ』だ。彼らが残した唯一のライヴ盤というだけでなく、ロックのライヴ・アルバムの歴史のなかでもとりわけ評価の高い1枚である。

 収録日時は1970年2月14日。場所は英ウェスト・ヨークシャー州にあるリーズ大学。大学というアカデミックな場所で、フーという大物の、それもお世辞にも行儀が良いとはいえないバンドがライヴをしたなどとは妙なことに感じるが、欧米では珍しいことではないようだ(リーズ大学では翌71年にローリング・ストーンズもライヴを行っている)。写真を見るとかなり小規模な会場だったようで、その環境のせいか、録音状態が非常によく、40年前という遠さを感じさせない。

 選曲も非常に良い。発売当初の収録曲はわずか6曲のみだったのだが、95年にリリースされた「25周年エディション」では、新たに9曲が追加収録された。カバー曲が中心だったオリジナル版よりも、オリジナルのヒット曲が増えたことで、ベスト盤と呼んでもいいような内容になっている。合計時間も70分超という大ボリュームになった。

 あえて難を言えば、演奏のテンションが高すぎて、70分丸まる聴くと疲れる、ということだろうか。とにかく圧倒的な音の圧力である。これ本当に3人だけで演奏しているのか?と思う。ピート・タウンゼント(ギター)もジョン・エントウィッスル(ベース)も激しくエネルギッシュだし、キースにいたっては、スタジオ盤とは比べ物にならないほど荒れ狂っている。

 だが、それぞれがインプロを繰り広げているように見えて、その実一定の範囲を超えてバラけることがなく、むしろ全体的にタイトな印象を持つのが不思議。このしたたかさはいかにもフーらしい。バカはバカでも、ただのバカじゃないのである。セカンドに収録された、8分を超える大作<クイック・ワン>を、ステージ上で再現しているのもすごい。

 ライヴ・アルバムというのは、本来生で体感すべきものを半ば強引に音源化したもので、所詮は企画モノの一種であり、マニア向けのアイテムである。だがこのフーというバンドは、スタジオよりもステージの方が演奏がキレるという稀有なバンドだ。こと彼らに関しては、ライヴ盤であってもスタジオ盤と同等の、あるいはそれ以上の価値を持ってしまうのだ。

 フーはリーズ大学以外でも、モンタレー・ポップ・フェスティバルやウッドストック、ワイト島フェスティバルなど、あちこちで強烈なライヴを残している。特にワイト島フェスティバルでのライヴは映像化されており、現在僕がもっとも欲しいDVDの1枚である。
縦横無尽の文体で迫る
「謎の人物」の実像

 ずいぶん前に空海直筆の書、というものを見たことがある。確か、最澄への手紙をまとめた『風信帖』だった。空海といえば嵯峨天皇、橘逸勢と並んで三筆の一人に列せられているだけに、その筆跡を目の当たりにしたときは、「これが!」と興奮したのを覚えている。だが今振り返ってみれば、その興奮は結局「史上有名な人物の生きた痕跡を見た」という、単なる体験としてのショックでしかなく、あのとき僕のなかに空海に関する知識なり興味なりがあれば、もっと深く眺めることができただろうにと悔やまれる。

 空海。彼について知ることといえば、遣唐使で唐に渡ったこと、そこで密教を学んで日本に持ち帰り真言宗を開いたこと、高野山、東寺、『性霊集』・・・その程度だ。要は学校で習う、通り一遍の知識しかないわけである。

 彼はかなり多筆の人だったらしく、同時代の人物と比べると史料は残っている方なのだが、その大部分は仕事(仏教)に関するものであり、空海が人としてどういう風合いの人物だったのかを知るには限りがあるようだ。個人的な書簡などが多数書かれた形跡はあるが、書簡そのものは1千年の間に紛失したり、焼失したりしている。残した仕事量の大きさに対して、当人の人生について知るところがあまりに少ないという点では、空海ほど謎に満ちた人物はいないかもしれない。

 史料に限りがあるとすれば、あとは想像力で埋めるしかない。つまり小説の出番である。空海を描いた小説は決して多くはないのだが、あることはある。その筆頭に挙げられるのが、司馬遼太郎の『空海の風景』だ。

 もっとも、この本は一般的な意味での「小説」というカテゴリーには含まれない。なぜなら1本のストーリーとしては成立していないからだ。

 空海の人生には空白の期間が多い。どの史料からも彼の姿が忽然と消えてしまった時期というものが、あちこちに存在する。空海の人生をストーリーとして、伝記的に描くには自ずと空想に頼る部分が増えてしまうのだが、それでは空海の実像から離れた、ただの「フィクション」になってしまうと考えた司馬は、「半小説・半エッセイ」のようなハイブリッドな文体で空海を追うことにした。

 例えば文中、空海の台詞を「」で記す小説的部分もあれば、当時の国際情勢の解説や司馬自身の探訪記が続くこともある。「以下の部分は空想である」などと断ってから小説風に場面を描くことさえある。内容よりもまず、その開き直った文体が読んでいて面白い。

 以前、『翔ぶが如く』を紹介した際に、司馬作品は全て“紀行文”である、と書いたが、この『空海の風景』における縦横無尽の語り口は、その最たるものである。この本は空海を描いた小説というよりも、「空海」という名の長大な旅程を、時に地を歩き、時に空から見下ろすようにして描いた紀行文なのである。

 それにしても、「宗教」というのはよくわからない!

 「人間は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天上という六趣の世界を輪廻する」とか、「弥勒は釈迦の没後56億7,000万年後に地上に生まれ出る仏のことで、そのときに弥勒が救う人類の数は、第1回に96億人、第2回に94億人、第3回に92億人である」などと、お経にはこの世界のあらあしについて事細かに書かれているわけだけれど、それは信心の足りない僕などからすると、単なる一編の物語としか思えないのである。

 「弥勒」とか「菩薩」とか、「欲界」とか「兜率天」とか、そういうキーワードは知識としては理解できる。だが、それらが「ガンダム」とか「ヱヴァンゲリヲン」とか、「宇宙世紀」とか「第三新東京市」などという言葉とどう本質的に異なるかがわからない。つまり宗教というものに対して、「壮大なフィクションと、それを真実として信じる人たち」という以上の理解が、今のところ僕にはできないのである。

 だがもちろんのこと、それは僕の見方が浅いせいなのだろう。どの宗教にも長い歴史があるわけで、歴史があるということは何がしかのリアリティを人々に与えてきたわけで、決してバーチャルなものではないはずだ。『空海の風景』を読んで一番に思ったのは、自分の理解が追いつかないことへの苛立ちである。今年はちょっと腰を据えて、宗教について学んでみようかなと思った。
パッと見“地味”だけど
聴けばきっと好きになる


 メガ・セールスを記録したわけでもなく、見た目にインパクトがあるわけでもなく、マイナーというほどではないものの、なまじ知名度があるせいでかえって地味な印象を与えてしまうバンド。そんなファウンテインズ・オブ・ウェイン(以下FOW)が僕は大好きだ。

 FOWはアメリカの4人組ロックバンド。デビューは1996年だが、最初のヒット曲に恵まれたのは2003年で、ようやくというか今更というか、デビュー後7年も経ったこの年にグラミー賞の「最優秀新人賞」にノミネートされる(されてしまう)。こんなトホホなエピソードもあるが、本人たちはいたってマイペースに活動を続けており、今日に至るまで5枚のアルバムを発表している(内1枚はレア・トラック集)。バンド名をタイトルに冠したこのアルバムは、96年リリースの彼らのデビュー作である。

 評価は決して低くない作品なのだが、『オディレイ』(ベック)や『モーニング・グローリー』(オアシス)といった同時期の名盤と比べると、ほとんど忘れ去られているといっていい(先日ワゴンセールのなかに見つけて悲しくなってしまった)。もっとも、それも無理からぬ話で、確かに今聴き直してみても「地味だな~」と思う。

 ただし、もちろん「地味=質が低い」ということではない。むしろどの曲もデビュー作とは思えないくらいポップに洗練されている。メロディはバラエティに富んでいるし、アレンジだってすごく良い。ただ全体として「大人しい」だけなのだ。クラスに必ず一人はいる「見た目は地味なんだけど、話してみると面白い奴」みたいに、最初の印象に惑わされてしまっては、FOWというバンドを深く味わうことはできない。

 彼らの音楽は、ディストーション・ギターの歪んだ音色とシンプルな歌メロをかけ合わせた、オーソドックスなギター・ロック。パワー・ポップやグランジからの影響はうかがえるものの、アコースティック・ギターや鍵盤を効果的に取り入れていたり、コーラスを細かく使い分けていたりしていて、一通り聴くとむしろビートルズに近いような印象を受ける。

 このファーストは、実質的にはボーカルのクリスとベースのアダムだけでレコーディングされた(残りの2人はレコーディング後に加入)。たった2人という制作体制のせいか、複雑なことには手を出さず、ひたすらメロディとアレンジだけで勝負しているようなところがある。そのあたりが地味に思われてしまう所以なのだが、逆に僕はその手作り感と潔さを猛烈に支持したい。

 前回エルボーでも書いたが、音楽が音階の連続で表現されるものである以上、結局のところ聴く者の心を打つのは、何よりも美しいメロディなのだろう。ビートルズがなぜ時代を超えて聴き継がれているのかといえば、彼らが良いメロディを量産したという一語に尽きるのである。

 インパクトには欠けるし、目新しさもないし(むしろ歌詞なんかちょっと古臭い)、だけど彼らFOWを聴いていて「いいな」と感じるのは、きっとそういうことなのだ。
メロディーの美しさは
ベテランの意地とプライド


 エルボーという、ちょっと変わった名前のこのバンドは、1990年に英マンチェスターで結成された。キャリアは20年にも及ぶベテランだが、最初の10年間はなかなかメジャー・レーベルとの契約が決まらず、インディーで細々と活動していたそうで、かなりの苦労人ならぬ苦労バンドである。2001年にメジャーデビュー。08年リリースのこの『THE SELDOM SEEN KID』は彼らの4枚目のアルバムにあたる。

 以上のプロフィールは後から知ったことで、このアルバムに出会うまで、僕は彼らのことを知らなかった。先日立ち寄ったレコードショップで、有名音楽紙が選出した09年度のベストアルバムを、各雑誌のランキングごとに試聴できるコーナーが設けられていたのだが、そこで軒並み上位に食い込んでいたのがこの『THE SELDOM SEEN KID』だったのだ(リリースと選出の間になぜ1年のタイムラグがあるのかはよくわからない)。

 軽い気持ちで試聴したのだが、冒頭3曲を聴いただけで購入を即決した。こんな良いバンドを知らずにいた自分はなんてモグリなんだろうと思わず恥じ入ってしまったほどだ。とういわけで、これは本当に文句なしの名盤。おすすめです。

 エルボーは5人組のバンドで、楽器編成はボーカル・ギター・ベース・キーボード・ドラム、となる。だが各楽器が実にさまざまな音色を出すので、実際に聴こえる音はクレジットの表記以上に多彩な印象を受ける。さらには曲によってメンバー間で担当楽器を交換したり、ゲストミュージシャンを入れたりしていて、まずその音のぶ厚さ、交響楽のような壮大さに圧倒される。

 曲の構成も、ポップ・ミュージックというよりもクラシックに近いというか、瞬間的な快感ではなく、冒頭から結末へと至る展開の美しさに重きを置いていて、とてもダイナミックである。「聴かせる」というよりも、「物語る」というような作りだ。抒情詩のような歌詞と相まって、幻想的な音の世界を築いている。

 このようなダイナミズムに溢れた構成や、時にはフルオーケストラまで導入する貪欲な食欲が、プログレ的な大仰さや単なる安っぽさに陥ることなく、むしろ圧倒的な透明感へと収束していくのは、曲の背骨となるメロディーがひたすらシンプルで美しいからである。波間に漂う小船のごとく揺れては戻りを繰り返す<THE BONES OF YOU>や、ボーカルとストリングスとのかけ合いが祝祭のような盛り上がりを見せる<ONE DAY LIKE THIS>など、このバンドの生み出すメロディーには恍惚感すら覚える。

 ポスト・ロック的文法を用いながらも、エルボーの音楽が紛れもなくポピュラー・ミュージックであるという確信を抱かせるのは、このずば抜けた作曲センスによるものであり、それは、メロディーの弱さを実験的な音作りで応急処置をして済まそうとする多くのポスト・ロック勢に対する痛烈な返答でもある。ソフィスティケイトされながらもメロディー志向、すなわち「ポップ」であろうとする彼らの姿勢は、キャリア20年のベテランとしての頑固さのように見えて好感を抱く。

 それにしても、こういう予期せぬ出会いがあるから“試聴”というのはやめられません。
彼女の声が
僕を立ち止まらせた


 ウォン・カーウァイ監督の映画『マイ・ブルーベリー・ナイツ』を観たときに、ある挿入歌が気になった。その曲は予告編でも印象的に使われていて、僕はてっきり主演のノラ・ジョーンズの曲だとばかり思っていたのだが、調べてみたらキャット・パワーというアーティストの<THE GREATEST>という曲だった。

 女性シンガー・ソングライター、ショーン・マーシャルのソロ名義、それがキャット・パワー。米アトランタ生まれの人で、90年代初めからニューヨークで活動を始めた。デビューは1995年だから、すでに中堅どころのアーティストである。初期にはソニック・ユースのレーベルからアルバムを出すなど、オルタナ・ミュージック界では早々から知られた存在だったらしい。

 僕が気になった歌<THE GREATEST>をタイトルに冠したこのアルバムは、2006年リリースの、キャット・パワー通算7枚目のアルバムにあたる。「GREATEST」と付いているが、ベスト盤ではなくオリジナル・アルバムである。

 内容は、素朴なアコースティックテイストのもので、カントリーやフォーク、ソウルが混ざり合い、とても聴き心地が良い。なかでもソウルの比重が大きいところが特徴。どの曲も淡いセピア色をしていて、そのシュールなアーティストネームからすると、ちょっと意外な印象を受ける。

 一方、歌の中身はというと、セピア色どころか限りなく黒に近い灰色である。「私は空っぽの殻だけになってしまった」「あなたが恋しい」と、去っていった恋人への想いを切々と綴った挙句、「あなたなんか要らない」「もう欲しくない」と未練を怒りに変えて締めくくる<Empty Shell>や、「自分のことが大嫌い。もう死んでしまいたい」と、ミもフタもない<Hate>など、激情が出口を求めてのた打ち回っている。ラストに救いの予感が訪れる歌もあるが、基本的にはどの歌詞にも深い喪失感が漂っていて、サウンドのライトなノリとは似ても似つかない。このギャップもまた聴きどころといえるかもしれない。

 だが、キャット・パワーことショーン・マーシャルというアーティストの魅力を一言で語るなら、それは彼女の声ということになるだろう。『マイ・ブルーベリー・ナイツ』を観て気になったのも、その独特の声が耳に引っかかったからだ。

 喉の奥でくぐもったように彼女の歌声はひどくか細い。なのに聴く者の心を瞬時に貫く強さがある。彼女の歌を聴くのが仮に街の雑踏のなかだとしても、たちまち自分ひとりだけの世界が切り取られてしまうようだ。孤独の底にあるような歌詞も、彼女が歌えばそれは透明な祈りへと変わる。痛みのなかにも優しさがあり、孤独感のなかにも奇妙な安心感がある。

 歌詞や楽器の音色よりも雄弁に語り、なおかつ説得力を持つ声。それを単に「いい声」と表現してしまってはあまりに雑な気がするが、ここには、そんな名状しがたい天性の魅力的な声がある。
ギターが歌う
ボーカルよりも歌う


 長野で結成され、現在は名古屋を中心に活動中のオウガ・ユー・アスホールが2007年にリリースしたアルバム。前回紹介したヴァンパイア・ウィークエンドと同様に、このオウガも一聴してすぐにそれとわかる、相当にユニークな音を出すバンド。昨年、洋楽でもっともよく聴いたのがストロークスなら、邦楽はこのオウガ・ユー・アスホールだ。一度ハマると病み付きになるサウンドで、僕はめちゃくちゃ大好きです。

 メンバーは4人で、ボーカル/ギター、ギター、ベース、ドラムと、編成は極々普通のものながら、どの楽器も一般的なロックバンドとは1,2枚位相のずれた音を鳴らしている。

 まず2本のギターの絡み方が目を(耳を)引く。和音でリズムを刻むのではなく、ギター自体が独自の旋律を追いまくる。歌メロ以上にメロディアスなギターの音が2本合わさり、しかも時にはそれにベースも加わり、それが歌っている最中も鳴っていて、なんともいえない浮遊感を生み出している。

 そしてボーカル。出戸学の超ハイトーン・ヴォイスは、最初は素っ頓狂に聴こえ、でも次第に何ともいえない愛らしさを感じるようになる。壊れたおもちゃのようにピュアでさみしげな声は、このバンドのもっとも重要なキャラクターだ。

 全体的にスキマだらけのサウンドなのだが、そこにこちらの感情や想像力を喚起させる叙情性があり、一見スカスカなその表面をめくってみれば、そこには実にタフな素顔が隠れているのである。それにしても前回のヴァンパイア・ウィークエンドといい、ハイトーンなボーカルとヘロヘロなギターサウンドの組み合わせというのが僕は好きみたい。

 オウガ・ユー・アスホールは昨年からVAPレコードに移籍して、シングルとアルバムを1枚ずつ発表している。彼らの個性はいかにもインディーだなあと思っていたので、メジャーに移ったのは意外だった。

 だが、メジャー1枚目となったアルバム『フォグランプ』よりも、その前作にあたるこの『アルファベータvs.ラムダ』の方が完成度としては高いように思う。全8曲と、ミニアルバムと呼んだほうが良いようなボリュームだが、1曲目<コインランドリー>に始まり、うねるように登りつめる全体の構成と内容の濃さは聴き応え充分。このバンドを聴く最初の1枚を選ぶなら断然このアルバムがおすすめだ。

 余談ながら、僕はずっと彼らの曲を芝居のテーマ曲に使いたいなあと考えているんだけど、未だ実現できていない(実際には『フォグランプ』の1曲目<クラッカー>という曲を、前回公演でほんの少しだけ流しました)。この「フワフワ」「ヘロヘロ」サウンドを、いつか劇場の大出力スピーカーで聴いてみたいと思う。
ロックのくせに
かわいいヤツ

 いよいよ来週13(水)にヴァンパイア・ウィークエンドのセカンド・アルバムがリリースされる。今年1発目の期待作です。

 2006年にニューヨークの大学生4人で結成されたヴァンパイア・ウィークエンド。ニューヨーク・タイムズ紙がデビュー前から「今年もっとも印象的なデビュー」と評したり、あのデヴィッド・バーンが「初期のトーキング・ヘッズのようだ」とコメントしたりと、当初から話題沸騰の注目新人だった。実際、2008年にリリースされたこのセルフタイトルのデビュー作は、その年の新人バンドのなかでもっとも売れたアルバムになる。

 では彼らのサウンドが一体どんなものかというと、これが実にユニークでおもしろい!ギターはヘロヘロでボーカルはスカスカ。全体的にビート寄りなのは今時の感じだが、いわゆるダンスビートではなく、南米やアフリカあたりの土俗的なアフロビートを感じさせるところが大きな特徴。

 軽くて、陽気で、だけど歌詞にさりげなく毒を挟み込むようなウィットにも富んでいる。「ヴァンパイア」なんていう名前だから、僕はてっきりゴス系の暗いロックなんだと思っていたのだけど、聴いてみたら正反対だった。脱力した感じがなんだか小憎たらしくて、とってもキュート。ロックのくせに“可愛い”のだ。

 クラクソンズやカサビアン、以前紹介したティン・ティンズなど、2000年代後半のポップ・ミュージックを語るうえで、「踊れる」というのは大きなキーワードになっている。ヴァンパイア・ウィークエンドがそういうトレンドをどこまで意識しているのかはわからないけど、ただ「踊れる」バンドたちの多くがダンサブルなビートを自身の表現欲に衝動的に直結していたのに対し、彼らヴァンパイア・ウィークエンドはビートを1つの素材として客体化し、自覚的且つ理性的に扱っているのがわかる。彼らのサウンドが、メチャクチャなように見えてどこか柔らかな印象を与えるのは、精巧な計算によって全体のバランスが均されているからだ。相当クレバーなバンドなのである(ちなみにメンバーは全員コロンビア大学出身)。

 このようにサウンドのユニークさが目立つと、逆にどの曲を聴いても金太郎飴的な印象しか残らないケースも多いものだが、全13曲入り(1曲はボーナストラック)のこの『VAMPIRE WEEKEND』は、デビュー作にもかかわらず聴き応えがあり、飽きが来ない。曲自体が魅力的で多彩だからだ。これは名盤です。

 来週リリースのセカンド・アルバムのタイトルは『CONTRA(コントラ)』。いや~、楽しみ!
完璧すぎるこの男
内心ムカついたこと、ありませんか?

 年末の『坂の上の雲』が大々的なイベントだったせいで、こちらは少々日陰に追いやられた感があるが、何はともあれ今年の大河ドラマ『龍馬伝』がスタートした。「龍馬が福山雅治ってどうなの?」と不審の声はあちこちで聞こえるが、何はともあれ僕は1年間見守ろうと思う。なにせ龍馬なのだから。日本史上最大のスターのお話なのだから。

 坂本龍馬を嫌いな人っているんだろうか、と思う。そりゃ中にはいるんだろうけど、間違いなく圧倒的少数派だ。だってかっこいいもの。強くて、ユーモアがあって、自由闊達で、歴史の表舞台に風のように舞い降りたかと思ったら、去り際も鮮やか。おまけに名前まで洒落ている。そしてその「龍馬」という名を口にするだけで(あるいは文字に書いてみるだけで)、なんだか胸に青空が抜けるような、清々しい気分になる。そんなスターは日本史上、彼一人だけでしょう。

 龍馬に欠点を挙げるならただ一つ。あまりに完璧すぎることだ。そう、みんな実は内心龍馬に嫉妬したことが一度くらいはあるんじゃないか。僕は『竜馬がゆく』を初めて読んだとき、正直ちょっとムカついた。ああいうかっこいい奴は憧れる反面、他の男(つまり僕)にただ敗北感を与えてくるだけの存在でもあり、切ない。

 実は今回の『龍馬伝』、そういう嫉妬が最初の切り口になっている。そのネガティブな感情の主は岩崎弥太郎(香川照之)。ドラマ冒頭はいきなり、弥太郎の痛烈な龍馬評、「あんな腹の立つ男はいない!」という言葉で始まるのである。龍馬と弥太郎は同じ土佐に生まれ育ったいわば幼なじみ。だが弥太郎は、剣の腕が立つのに温和な平和主義で、おまけに女の子からもモテる龍馬にいつも嫉妬していた。今回のドラマは基本的にこの岩崎弥太郎の視点で進むことになる。

 これはとても興味深いアプローチの仕方で、つまり僕ら視聴者は、龍馬べったりではなく、距離をおいて客観的、批評的立場から坂本龍馬を眺めていくことになるのである。生まれながらにしてヒーローだったわけではなく、悩み傷つきながら一歩一歩僕らの知る「坂本龍馬」になっていくという、極めて“生身”な龍馬が描かれることになるだろう。それは、「自由で豪快で海を眺めて夢を語る」みたいな、現在流通しているステレオタイプの龍馬とはまったく異なる人物像になるはずだ。

 第1回を見た限りでは、“福山龍馬”は気の優しい文系青年、みたいな感じでかなり意外。だが、「まさかの福山雅治」というそもそものキャスティング含め、意外性が今回のドラマの重要な切り口となりそうなので、観るこちらとしても、まっさらな気持ちでいた方が楽しめそうだ。

 脚本は『HERO』や『容疑者Xの献身』http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=8の福田靖が、演出チーフは『ハゲタカ』http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=56の大友啓史が担当(音楽の佐藤直紀も『ハゲタカ』チーム)。ドリームチームのようなスタッフ布陣にも期待大。

 第1回再放送は土曜の13:05からです。


『龍馬伝』公式HP
http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/
2010年は待望の4枚目が
リリースされるそうです。

 今年もあとわずか・・・。

 2009年はなんといってもビートルズを聴きまくった1年だった。もともと普段から好んで聴いていたのに加えて、今年は芝居絡みで集中的に聴くようになり、さらに9月のリマスター盤が拍車をかけた。この3段責めで、今年の中盤から後半は聴く曲の7割がビートルズだった気がする。

 ではビートルズ以外で今年もっともよく聴いたアーティストというと、これはもう間違いなくストロークス。以前本ブログで紹介した彼らのデビュー盤『IS THIS IT』(01年)はもちろん、2枚目『ROOM ON FIRE』(03年)、3枚目『FIRST IMPRESSIONS ON EARTH』(06年)も聴いて聴いて聴きまくった。本来ならここで今年リリースの新譜を挙げると大晦日的には収まりがよいと思うんだけど、改めて振り返ってみると今年1年ガッツリ腹に溜まったのはストロークスのアルバム全3枚である。

 芝居の選曲を担当している関係で、1年を通して聴く音楽は、その年の作品に関連したアーティストやジャンルが多くなる。今年はいつにも増してロックに触れた1年だった。新譜や名盤を購入したり、元々手元にあったCDを聴き直す機会を意識的に増やしたことで、新たな発見や思わぬ再会があって、芝居きっかけとはいえ、今年の音楽生活は我ながらとても充実していたと思う。

 そのなかでもストロークスほどピタリとハマったバンドは他になかった。彼らのCDはずいぶん前に一度聴いたきり、しばらくCD棚に放置してあった。正直その時はあまりピンとこなかったのである。それを今年の春頃に久々に聴き直した。ちょうどその頃の僕は、ロックを聴きすぎた反動で軽い“ロック麻痺状態”にあったのだが、それを、かつては何とも感じなかったはずのストロークスが、鮮やかに吹っ飛ばしたのである。

 以前も書いたけど、彼らのロックには目新しい何かがあるわけではなく、むしろシンプルでオーソドックス。だがそのシンプルさにしびれる。ギター本来のかっこよさ、ロックンロール本来の熱さ。10代の頃、初めてロックを聴いた瞬間のような、一番素朴な憧れをこのバンドは体現してくれる。

 そういう点でストロークスは、ひとしきりロックという音楽を聴き終えた後に初めてグッとくるバンドなのかもしれない。僕個人のストロークスとの出会い方もそうだし、さらには90年代末というロックの倦怠期の後に彼らが登場したという歴史的な流れからも言えることである。

 いやあ、もうストロークス大好き。ジュリアンのしゃがれたボーカル、ツインギターの絶妙な絡み方、ベースの響き、ドラムの柔らかさ。何もかもがパーフェクト。本当にかっこいい。あれこれカタイことを書いたけど、結局彼らの魅力を語るのには「かっこいい」以外の言葉は不要である。耳が痺れ、体が疼き、脳の奥が捻られるようなかっこよさ。一度聴き始めると、いつまでも聴いていたくなってしまう。

 前述のように現在3枚のアルバムがリリースされているストロークスだが、どれも最高のアルバムなので、全てが必聴盤。1枚目の『IS THIS IT』は2000年代ベストアルバムトップ10にランクインするなど評価が高く、おそらくこのデビュー盤から入る人が多いと思うのだが(もちろんそれが聴き方として真っ当だが)、個人的には2枚目の『ROOM ON FIRE』がもっともポップに仕上がっていると思うので、このセカンドから入るのも一つの手。

 つい先日、ボーカルのジュリアン・カサブランカスがソロデビューアルバムをリリースしたので、早速試聴したのだけど、やっぱり僕は「ストロークス」というバンドが好きなんだなあと思った。他のメンバーのソロ活動も盛んで、現在バンドとしては実質解散状態なのかと思ったら、なんと2010年にはストロークス名義の4枚目がリリースされるという噂を耳にした。ということで、僕のipodは来年以降も引き続きストロークスをヘビロテしそうである。
懐かしい、そして新しい
「ガンダム、行きまーす!」

 2007年2月から今年の8月までガンダム専門誌『ガンダムエース』にて連載されていた小説『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』。『終戦のローレライ』や『亡国のイージス』で有名な福井晴敏が執筆を担当し、来年春にはアニメ化も決まるなど、このガンダムシリーズ最新作は話題に事欠かない。

 だが、なんといっても特筆すべきはその内容だ。物語の舞台は宇宙世紀0096。これは映画『逆襲のシャア』で描かれた第2次ネオ・ジオン抗争から、わずか3年後にあたる。これまで語られてこなかった時代だ。

 物語はミステリー仕立てで進行する。アナハイム・エレクトロニクスの実質的オーナーであり、地球圏の陰の支配者<ビスト財団>が長年秘匿し続けてきた「ラプラスの箱」。この謎に満ちたアイテムをめぐって、ネオ・ジオンの残党が出てくる。ロンド・ベルが出てくる。ブライトさんが登場する。カイやベルトーチカ、ハサン先生なんていうニクいゲストが登場する。それだけじゃない、なんとミネバ・ザビが登場する。

 このスケール感はどうだろう。かつて『ポケットの中の戦争』や『第08MS小隊』といった宇宙世紀シリーズの番外編が作られたことはあったが、この作品はそれらとは根本的に違う。『ガンダムUC』とは宇宙世紀本編の物語であり、それも、アムロとシャアの息遣いが色濃く残る「ガンダム第1サーガ」の正統なる続編なのだ。

 これは『スターウォーズ』で言うなら、エピソード7~9が映像化されるくらいにすごいことである。つまり、もはや作られることはないだろうと諦めていた物語の作品化が実現したのだ。

 しかも、ストーリーは最終的に宇宙世紀の始まりと地球連邦政府創設の秘密にまで迫っていくのである。鮮やかに塗り替えられる世界観。ガンダム第1サーガはこの『ガンダムUC』をもって完結すると言える。シリーズ最新作は、同時にシリーズ史上最大の問題作でもあったのだ。

 ニュータイプ論に真っ向から切り込んでいる点でも本作は続編と呼ぶに相応しい。主人公バナージ・リンクスは、宇宙世紀の時間軸的に言えばアムロ、カミーユ、ジュドーに続く第1世代直系のニュータイプ。バナージが「行きます!」といってカタパルトから飛び立つ場面などは、感慨深くて涙が出そうになる。

 思えば『機動武闘伝Gガンダム』以降、ガンダムシリーズの主流は宇宙世紀とは別種の世界観を設定した作品群に取って代わられた。ガンダムの名を冠するものの、宇宙世紀という世界観は継承せずに、1本1本が独立したパラレルワールドとして描かれてきたのである。だが、それら“分家”はことごとく、“本家”である宇宙世紀シリーズを超えることができなかった。

 例えば「戦争と人」、「人類の革新(成長)」というテーマ。これら“本家”ガンダムが取り組んできた命題は“分家”シリーズでも受け継がれた。受け継がざるをえなかった、といった方が正しいかもしれない。なぜならこれらのテーマこそがガンダムが「ガンダム」たる所以だったからだ。

 “分家”独自のものと言えば、たとえばガンダムWなどに見られる機体デザインの変化や、キャラクターデザインがより女性ファン層向けのものになったといった、マイナーチェンジでしかなかった。

 つまり“分家”は世界観は異なるのに、物語の骨格自体は常に“本家”をどう踏襲するか、あるいはどう壊すかの二択でしか作られてこなかったのである。皮肉なことに、原作者である富野由悠季自身が関わった『∀ガンダム』や『Zガンダム』のリメイクですら、2次的解釈を施した派生品にしかならなかった。

 90年代以降、ガンダムシリーズは明らかに長い停滞期にあった。もっともその責任は決して作り手側だけに問われるものではなく、我々ファンも負うべきものである。ファーストから『逆襲のシャア』までの第1サーガ以外に「ガンダム」のあり方はないとするファンの保守性が、作り手の足を引っ張ってきた部分は少なくないだろう。

 だが今回の『ガンダムUC』は、その行き詰まり感に風穴を開けることができるかもしれない。それは、原作者の富野以外に踏み込むことがタブー視されてきた宇宙世紀第1サーガに、初めて富野ではない人間が手を入れたからだ。

 福井晴敏の手によるガンダムは、僕としては充分に「ガンダム」として、それも“本家”の作品として受け入れられた。ランバ・ラルを髣髴とさせる叩き挙げの軍人ジンネマン。職務を全うすることに命を燃やす連邦の特殊部隊隊長ダグザ。参謀本部と乗組員の板ばさみに喘ぎながらも、次第に能力を開眼させる<ネェル・アーガマ>の艦長オットー。己の使命と信念に突き進む大人たちがかっこよく描かれる一方で、彼らもまた組織や国家というオールドタイプの概念に捉われているというジレンマの構造。そして、そんな大人たちを軽蔑する少年の目。ガンダムが描き続けてきた世界がまさにここにある。

 この作品が前例となり、今後富野以外の人間による宇宙世紀シリーズが制作される道が開けるはずだ(安彦良和の『GUNDAM THE ORIGIN』も一役買っているだろう)。これはシリーズ全体にとって極めて大きな意味を持つことではないだろうか。

 来年春より1話50分、全6巻のOVAという形でアニメ化が開始される。原作のボリュームは到底収まりきらないだろうから、かなり省略されることが予想される。なので、まずはこの小説から始めることがおすすめ。全10巻という量は長そうに見えて、一度ページを開いたらラストまで一気に読み通せるはず。