「チコの実」って
どんな味なんだろう


 先週の「金曜ロードショー」で『風の谷のナウシカ』を観ていたら、子供の頃に観た記憶が重なって、いろいろなことを思い出した。例えば王蟲の黄色い触手が子供の僕にはスパゲッティに見えて仕方なかったことや、腐海の深部に溜まった砂がコーンポタージュの素に似ているなと思ったこと。「“チコの実”って一体どんな味なんだろう」と興味津々だったこと、などなど。・・・こうやって書くと、食い意地が張ってる子供だったみたいでイヤだなあ。

 あとは、音楽がものすごく好きだった。もちろん今でもグッとくる。メインテーマを聴くだけで相変わらず胸が締め付けられるし、<メーヴェとコルベットの戦い>が流れると鳥肌が立つ。そういえば、<ナウシカ・レクイエム>を歌っていた久石譲の娘は、ついこないだ歌手デビューしましたね。もう30歳過ぎの立派な大人になっていました、当たり前だけど。

 とにかく、子供の頃から何十回と、それこそビデオテープが擦り切れるくらいに、台詞を全部覚えてしまうくらいに観た映画である。ワンシーン、ワンカットごとに思い入れが詰まっていて、久しぶりに観たらそれが一気に噴き出してきた。単なる懐かしさを超えた、胸の奥に炎が上がるような感覚だった。
 同時に、大人になった今の目で観ても優れた映画だと改めて実感した。腐海をはじめ作品の世界観は豊かだし、王蟲の造形や動きの表現などは未だに驚かされる。衣装やメカなど、小道具一つひとつに固有の文化・歴史が感じられるところも素晴らしいし、他のアニメにはない強烈なリアリティがある。

 だが、このように冷静に鑑賞して感動するよりも、「王蟲の手はスパゲッティだ」と思ってる方が、作品の感じ方としてはなんとなく正しいような気もする。宮崎作品の何が優れているかと言えば、テーマやドラマではなく、画面を通して伝わってくる肌感覚なんじゃないかと思う。たとえば、大ババ様の作る妙なスープには画面から匂いを嗅ぎ取れるし、バカガラスのコンテナに満ちた炎には熱さを感じられる。テトの頬ずりにはくすぐったさを感じる。自然との共生という、ある意味使い古されたテーマが観念的なものに陥らないのは、画面を通した五感への刺激、つまり肉体性がその裏にあるからなのではないか。久々に『ナウシカ』を観ながらそんなことをぼんやり考えていた。

 ところで、映画の『ナウシカ』は観てない人を探すのが難しいくらい一般的だが、原作はそれほど浸透していないように思う。全7巻の大作で、実は映画はこのうち2巻途中までの内容を、それも細部を変えてまとめたものなのである。つまり、5巻以上にわたって、映画の“続編”があるのだ。

 紹介したらキリがないが、とにかく映画が全てだと思っていた人はぶっ飛ぶくらいの衝撃を受けるはず。特に作品のなかで最重要テーマである腐海の設定が、映画版と原作版では180度真逆であるのが面白い。宮崎駿は本当はこう描きたかったのかという、彼の本音や悔しさみたいなものが感じ取れて、再度映画版を観るとまた違った見え方になる。

 そういえば僕の友人に「子供はジブリ作品で育てる」と宣言していた女の子がいる。彼女は数年前にママになったのだが、果たして実践しているのだろうか。
「真央ちゃん」は
浅田だけじゃない


 「歌が上手い人」というのは圧倒的に女の人に多いような気がする。吉田美和とか夏川りみとか、最近だと絢香とか、「上手い」と感じるのは大体女性の歌手だ。自分自身の体験を振り返ってみても、例えば学校の音楽の授業などで「コイツ歌うめーな」と感じるのはやっぱり女子に多かった気がする。どうでもいいけど、それが普段教室では地味な女の子だったりすると、そのギャップだけで僕はその子に恋しちゃったりした。

 とにかくまあ主観的であやふやな根拠なのだが、歌の上手さは男性よりも女性の方が勝っているように思うのである。例えば声帯の構造とかにでも男女差があるのだろうか。ちなみに僕が今言っている上手いとは、声量があって、ピッチが合っていて、ビブラートが程よく抜けていて・・・という、いわゆる「上手い」のことである。大人になった今の耳で聴くと、美空ひばりや女性演歌歌手の歌の上手さには改めて驚かされる。

 それに比べて男性歌手には、上手いというよりも「味がある」と表現した方が的確な人が多いように思う。忌野清志郎にしても甲本ヒロトにしても、彼らの魅力は正統的歌唱力では測れない。だから女性歌手はポップスに多く、男性歌手はロックに多いのかもしれない。

 一年ほど前、デビューしたばかりの阿部真央を見たときも、僕は彼女の圧倒的な歌の上手さにテレビの前でのけぞり返った記憶がある。当時19歳という若さも驚異的だった。そういえば、歌唱力の高さが年齢に比例しないのも女性の特徴かもしれない。

 阿部真央は1990年生まれの現在20歳。2008年から夏フェスなどを舞台に盛んなライヴ活動を始め、09年1月にファースト・アルバム『ふりぃ』をリリース。僕はこのアルバムのタイトル曲<ふりぃ>を最初に聴いたのだが、歌の上手さもさることながら、骨太でラウドなサウンドにも衝撃を受けた。10代女性アーティストで、しかもメジャーシーンのど真ん中でデビューしたにもかかわらず、トレンドに逆行するかのようなロックっぷりが小気味よかった。ロックファンとして是が非でも応援したい気持ちに駆られた。

 そして今年の1月、わずか1年のインターバルしか開けずに早くも2枚目のアルバム『ポっぷ』をリリースした。ボーカルのパワフルさにはさらに磨きがかかり、それが速射攻撃のように押し寄せる、貫禄のアルバムである。

 僕は彼女の作品を通して聴くのはこのアルバムが初めてだったので、まず彼女の持つ声音・声色の幅の広さに驚いた。単に音域が広いということではなく、曲のタイプに合わせて彼女は声そのものを使い分けているようである。<未だ><伝えたいこと>などで聴けるドスの利いた低音から、<モンロー><15の言葉>のような甘い高音まで、何も知らずに聴いたら同じ人だとは思えないようなキャラクターの多さだ。

 曲が他人の手によるものであれば、彼女のカメレオンぶりは曲によって引き出されたと解釈すべきだろう。だが彼女は自分で曲を書く。つまり彼女の変幻自在な声は誰かに意図的にプロデュースされたものではなく、それどころか「こういう声を出そう」などと歌っているわけでもなく、自作の曲に合わせてごく自然に歌ったら結果として色々なキャラクターが生まれてしまった、ということなのだろう。

 この『ポっぷ』はタイトルが示すように、明るくてソフトな仕上がりになっているが、随所で聴かれる巻き舌やかすれ声といった彼女のボーカルセンスには、やはりロック的なゾクゾク感がある。歌詞は「いかにも10代女子!」という感じで、もうすぐ30歳の男としては少々くすぐったいのだが、それは今後に期待だろう。バンクーバーの真央ちゃんも頑張って欲しいが、こっちの真央ちゃんにも頑張って欲しい。

 そういえば今思ったけど、ソロアーティストが多い、というのも女性の特徴かもしれない。男性は圧倒的にバンドマンが多い。一人で世に立てる女性と、仲間と群れてるのが楽しい男性という構図は、巷間言われるいわゆる「肉食系女子と草食系男子」のように見えなくもない、かもしれない。
日米間を漂流し続けた
一人の男の数奇な運命


 先週の土曜日、バンクーバー五輪の開会式を見た。夏季冬季の区別なく僕はオリンピックが好きなので、いつもわりと熱心にテレビを観る。スポーツが好きというよりも、あの巨大なイベント感に魅かれるのだと思う。だから開会式と閉会式は録画してでも欠かさずに観る。特に好きなのは各国選手の入場の場面で、髪の色も肌の色も違う人たちが続々と登場する様は、まるで世界そのものが一ヶ所にギュッと集まってきたように感じられて、否が応にも興奮する。

 それと同時に、世界には色んな国があるのだなあと改めて実感する。名前だけしか知らない国、名前も知らない国が出てくるたびに、地図帳を取り出して調べてみるのが楽しい。特に冬季の場合、それが砂漠の国だったり熱帯諸島の国だったりすると、選手がスタジアムを行進しているだけで強烈なドラマを感じる。

 だがその一方で、国名の書かれたプラカードを何枚も見ていると、国別というこの括り方には果たしてどれほどの意味があるのだろう、とも思う。トラックを行進しているのは選手という個人なわけで、国家が行進しているわけではない。フィギュアの川口悠子のように国籍を変えて出場している選手もたくさんいる。

 今回も北京大会に続いて韓国と北朝鮮の選手は別々に入場した。04年アテネ、06年ソルトレイクと、南北融和政策の進展にともなって両国の選手は合同行進で入場を果たしていたが、その後両国の関係は冷え込み、08年北京からは再び別々での入場に戻った。バンクーバーに出場する韓国、あるいは北朝鮮選手のなかには、当然ながら4年前に互いに手をつないで行進した経験を持つ人間もいるはずであり、それが外交問題がこじれたというだけで“他人”になるというのは、なんだか妙に白々しい。日本という海に隔てられた島国に住んでいるからそう感じるのだろうか。個人と国家との間にある結びつきに必然性というものがあるのだろうかと思う。

 かつて日本の幕末期に、横浜のアメリカ領事館に通訳として勤務していた「ジョセフ・ヒコ」という人物がいた。彼はアメリカに帰化した日本人だった。

 彼は播磨国(現在の兵庫県)に生まれた水夫で、名を彦蔵といった。13歳の時、乗り込んでいた船が大時化に遭い難破する。2ヶ月間太平洋を漂流した後、彼はアメリカの商船に救助され、サンフランシスコに行く。

 当時、鎖国下にあった日本では、一度でも外国に足を踏み入れた人間は、たとえ漂流民といえども重罪に処せられる恐れがあった。そのため彦蔵は引き続きアメリカに滞在し、本格的な英語の教育を受ける。そしてカトリックの洗礼を受けることにする。ジョセフ・ヒコ、というのはその際の洗礼名だ。

 やがて、日米修好通商条約が締結され日本は開国し、帰国の道が開ける。だが、彦蔵はカトリックの洗礼を受けてしまっているため、キリシタン禁制を布く日本にそのまま帰国することはできない。そこで彼はアメリカに帰化することを決める。法的にアメリカ人となれば、キリシタンの身であっても問題なく日本に上陸できるからだ。そうしてようやく彼は日本への帰国を果たす。実に9年ぶりの日本だった。

 だが、ここからが彼の苦難の始まりだった。当時の日本では攘夷思想の嵐が吹き荒れており、過激派によって外国人が殺傷される事件が相次いでいた。彦蔵も狙われる。日本人でありながら洋服を着て英語を話す彦蔵は、攘夷志士たちの目には売国奴としか映らなかったのである。身の危険を感じた彼は、やむなくアメリカに戻ることにする。

 しかし、彦蔵が日本に駐在している間にアメリカ本国では南北戦争が勃発し、世情は不安定であった。「やはり自分の故郷は日本しかない」と思いなおし、彼は再度日本に渡る。

 ・・・という、彦蔵の波乱づくめの生涯を描いた小説が『アメリカ彦蔵』である。実は物語はこの後もまだまだ続くのだが、とにかく日本とアメリカとの間を揺れ動く彦蔵の姿が哀れでならない。日本への帰国を断念してキリシタンとなり、しかし時勢の変化により運よく日本の土を踏めたものの、同じ日本人から命を狙われる憂き目に遭い、やむなくアメリカに戻ったものの南北戦争の影響で再び日本へ赴くことになる。漂流という数奇な運命を辿ってしまったがために、彼は故郷というものを失ってしまったのだ。日本人であり、アメリカ人であり、けれどどちらの国にも安住の地は得られない。まるで彦蔵の人生そのものが長大な漂流行のようである。

 この本を読んでいると、国家という存在の曖昧さと不可思議さについて考えざるをえない。物語のなかで印象的だったのは、彦蔵が出会うアメリカ人たちである。彼らは皆一様に情が深く、彦蔵に対して親身になり、援助を惜しまない。彦蔵自身も彼らと過ごす時間に心の平穏を見出す。そこには国家という枠はなく、あくまで信頼し合う個人と個人の交流があるだけだ。しかし、期せずして両国の言語と文化に習熟したという特異な立場が、否応なく彦蔵に日本、あるいはアメリカという国家を背負わせてしまう。

 彼は結局アメリカに戻ったのか、それとも日本に留まったのか、その後どういう人生を歩んだのかは、是非本を読み、自分の目で確かめていただきたい。
こぼれ落ちそうなくらい
気持ちがあふれてる


 映画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』、『少年メリケンサック』を観て以来、銀杏BOYZばかり聴いている。どちらの映画にも、銀杏BOYZのボーカル峯田和伸が出演していたからだ。俳優業でのインパクトが強い峯田だが、彼の本業はバンドマンである。

 峯田和伸は90年代後半からGOING STEADYというバンドで活動を始め、2003年に解散。その後GOING STEADYのメンバーを母体とした新たなバンド、銀杏BOYZを結成し、今に至る。だが、銀杏BOYZ名義で発表されている音源は多くはない。アルバムは、2005年にリリースされたこの『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』と、同時発売された『DOOR』の2枚だけだ。ここ数年はもっぱらシングルばかりリリースしている。

 彼らのライヴはめちゃくちゃ激しい。メンバーはいつも大暴れだし(それでも演奏が乱れないのがスゴイ)、とにかく叫びまくっている。一番激しいのはボーカルの峯田だ。彼はステージに立つ時は常に上半身が裸で、盛り上がってくると下も脱いでしまう。しょっちゅうスッポンポンになるので、これまで何度か公然猥褻で逮捕されている。

 そういう情報だけだと、彼はなにやらとんでもなく下品で常識のない人間のように思える。確かにライヴを見ると、ちょっと怖い。だが、彼の作る歌を、1度でもちゃんと聴けば、それが誤解だということがわかるはずだ。彼はものすごく素直で、ピュアなハートを持っている。彼のブログなんかを読んでいても「正直な人だなあ」と思う。こんなに正直だと、きっと生き辛いんじゃないかなあ、と思う。

 峯田の書く詞は、いつもなんだか苦しそうだ。実際、苦しそうに歌う。このアルバムのなかに『駆け抜けて性春』という歌がある。その詞のなかに
「あなたがこの世界に一緒に生きてくれるのなら
死んでもかまわない あなたのために」

という一節がある。苦しいほど好き、という気持ちが、こぼれ落ちそうなくらいに伝わってくる良い詞だなあと思う。「一緒に生きてくれるのなら」「死んでもかまわない」と、思い切り矛盾したことを言っているのだが、この矛盾しているところにこそ、ありのままの気持ちの表れを感じる。あきれるくらいにストレートな歌詞だ。やはり峯田は正直な人なのだと思う。言葉をごちゃごちゃ飾らない。マジメで、いつも本気な人なのだ。

 一時期「青春パンク」というジャンルが流行ったことがあった。でも僕にはどれもつまらなかった。歌詞もメロディーも全て予定調和の、ああいうゆとり教育的音楽などが「青春」であるはずがない。青春はもっと惨めで、自意識過剰で、切羽詰っている。青春というならば「あの娘に1ミリでもちょっかいだしたら殺す」と好きな女の子への気持ちを殺意で表現する銀杏BOYZの方が、ずっとずっと青春だ。青春という言葉を「性春」と表現する彼らの方が、ずっとずっと素敵だ。

 僕はパンクというものがずっと苦手だった。ピストルズもクラッシュも、ダムドもバズコックスも、いろいろ聴いてみたけれど、なかなか馴染めなかった。単純すぎるギターはダサく思えてたし、ジョニー・ロットンの声もジョー・ストラマーの声も、好みに合わなかった。

 だが、銀杏BOYZを聴いて、パンクの見方が少し変わった。というよりも、パンクというものを誤解していたことに気付いた。パンクとは、ただ単に正直なのだ。「全てのものに対してNO」という初期ロンドンパンクの精神は、その暴力性や衝撃度だけで語られるけれど、ピストルズもクラッシュもみんな、ただ感じていることをありのままにパフォーマンスしただけなのである。嘘臭いことを「嘘だ」と言い、好きじゃないことを「嫌いだ」というその精神こそがパンクなのである。なのに僕はずっと音楽としてパンクを聴いているだけで、一番大事なハートの部分に気付かずにいたのだ。

 利口になることを拒否し、上品に収まることを拒否し、適当な言葉でお茶を濁すことを拒否する。ただただ真っ正直なパンク。大人になればなるほど、パンクは心に沁みる音楽だ。パンクのない世の中はきっとつまらないんじゃないかなあと、銀杏BOYZを聴きながら考えている。
このバンド・・・
なんかヘン!!


 英リヴァプール出身の5人組、ズートンズ。とても個性的なバンドで僕は大好きなのだが、彼らの魅力を余すところなく言葉で説明するのはとても難しい(もっともそれはズートンズに限ったことではないけれど)。とりあえず、文末にリンクを貼った3曲のPVを観ていただきたい。

 この3曲に限らず、ズートンズのPVはどれもおもしろい。おもしろいというか、なんかヘン。すごくヘンなのではなく「なんかヘン」。突っ込みたいのに一体どこに突っ込めばよいのかわからず、振り上げた拳を引っ込めざるをえないような、妙にイライラする感じ。このフワフワとした「なんかヘン」なところがズートンズなのである。

 大体このバンドは5人の楽器構成からして一風変わっている。ボーカル、ギター、ベース、ドラム、とここまでは普通。ここでもう一人加えるとするならセカンド・ギターか鍵盤、というのがロックバンドのトラディショナルだが、彼らの場合はサックスとなる。ゲストという形でサックス奏者が加わることはよくあるが、オリジナルのメンバーとして、それもトロンボーンやトランペットと一緒にではなくサックス単体が在籍しているロックバンドはなかなかいないだろう。音楽的な面でも、最初に聴いてパッとわかるズートンズの特徴はサックスの音で、ギターのリフばりにドスを利かせた金管音が強いアクセントとなっている。

 ちなみに、サックスを担当しているのはアビィ・ハーディングというバンド唯一の女性メンバーなのだが、このアビィがモデルのような美女で、ヒゲ面のむさ苦しい男メンバーと一緒に彼女が並んでいるという画自体が、なんかヘン。

 さらにもう一つ、ズートンズは歌の内容もなんかヘン。というかこれに関しては「相当」ヘンで、「君を縛り付ける。僕の物にする。地下に閉じ込める。虫だらけの部屋でネズミの毛を食べさせる」とか「する、しない。やる、やらない。やると言っても、どうせやらない」とか、もう訳詞を読んでいるだけでもおもしろい。基本的にどの歌詞もシュールでダークでぶっ飛んでいるのだが、彼らの場合、それを大マジメに歌い上げるので、こちらとしてはどう反応すればよいのか毎回わからない。ただ、この行き場のない感じをズートンズは確信犯でやっているわけで、その感性の鋭さはすごいと思う。

 とにかく、このズートンズというバンドは「そのまま」が嫌いらしい。ヒネられていたり倒錯していたり、何かとひと手間加えたがる。変化球ばかり投げるのだ。だが、そのさじ加減は絶妙で、個性的な味付けをしつつもギリギリ下品にはなっていない。彼らは2004年にデビュー後、現在までに3枚のアルバムをリリースしているが、初期の頃より一貫してブラック・ミュージックへの傾倒を見せており、よくよく聴けば彼らの音楽的変遷は、ソウルやファンクのノリをいかに自分たちなりに解釈して取り込むかの試行錯誤であることがわかる。そういう意味では、むしろ古典的なロジックを持ったバンドなのだ。

 この『TIRED OF HANGING AROUND』は06年リリースの、彼らの2枚目のアルバム。エイミー・ワインハウスがカバーした<VALERIE>を含む、大量のヒット・シングルが収録され、デビュー作に比べよりポップなアルバムに仕上がっているので、最初にズートンズを聴くのにおすすめな1枚。だが、デビュー作はダーク、この2枚目はポップ、3枚目はゴージャスと、それぞれ異なる色合いを持っているので、彼らのことが気に入ったらぜひ3枚とも聴いて欲しい。現在ズートンズは新作のレコーディング中。今年あたり4枚目が聴けるかも。ストレートなギター・ロックばかり聴いていると、時折彼らの「なんかヘン」なロックが無性に恋しくなるのだ。
走れ!!
僕らのイケニエとして

 現在公開中の映画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を観に行った。同名コミックの映画化作品で、2006年に岸田國士戯曲賞を受賞したポツドールの三浦大輔が脚本・監督を手がけ、銀杏BOYZの峯田和伸が主人公の田西(たにし)を演じている。僕は物語が進むにつれ、その田西に感情移入すればするほど、切ない気持ちになって仕方なかった。

 あらすじは――不器用で口下手で、何かと空回りの多い29歳の営業マン田西は、同僚のちはる(黒川芽以)に思いを寄せている。ライバル会社の青山(松田龍平)の手を借りて、なんとかちはると親密になれた田西だったが、ある事件をきっかけにちはるに軽蔑されてしまうことに。その後、ちはるは青山と付き合い始めるが、妊娠させられた挙句捨てられてしまう。それを知った田西は、青山に決闘を申し込む。

 冴えない男が恋をきっかけに成長していく、というのは物語の定石の一つだが、この『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は、そういった一般的なビルドアップ・ロマンスとは異なっている。なぜなら、最後まで田西には救いというものが訪れないからだ。救いとは「この主人公は、明日からきっと(ほんの少しだとしても)幸せな人生を送るだろう」という予感のことである。それがこの映画にはない。田西はタイトルの表すとおり、ひたすらガムシャラに走りまくって、その過程でボロボロに傷つきまくるだけなのである。切ないのだ。

 田西というキャラクターには吸引力がある。きっと、観た人のほとんどが田西に自分を重ね合わせたはずだ。だがそれは、彼の不器用さやかっこ悪さがいじらしいからではない。彼のちはるを思う気持ちに魅かれるのだ。劇中、田西は言う。「おれ、本気になれるの、ちはるさんのことだけだった」と。この台詞がえらく心に沁みる。

 本気になるということは、持てるエネルギーの全てを注ぎ込める何かを持っているということだ。だが、その何かを見つけるのは、実際にはひどく難しい。いかに多くの人がエネルギーと余剰時間を持て余しているのかは、趣味的な資格試験の受験者の増加や、満員続出のカルチャー・スクールの習い事教室を見れば明らかだ。

 エネルギーのハケ口としてもっとも手っ取り早いのは恋愛だ。しかし、本気で人を好きになるのは、それはそれで難しい。大人になればなるほど、気持ちは自然とコントロールできてしまうし、傷つかないように演技をすることも上手くなる。田西ほど女性に対しておっかなびっくりな人間は現実には稀だが、それはこのキャラクターがリアルでないということではなく、単に現実の僕らが処世術に長けているにすぎない。だからこそ「本気」という言葉を口にできる田西に「ありたい自分」を見出すのである。

 しかし、田西は結局は報われない。たとえ本気になっても、良い結果が訪れるとは限らないとこの映画はいうのである。「ちょっとくらい田西に良い目を見させてやれよ」と思う。だがその一方で、もしこれが明快なハッピーエンドであったなら、果たして僕はこの映画に魅かれただろうか、とも思う。ちはると結ばれたり、青山をボコボコにしてやっつけるようなラストであれば、スカッとはするだろうが、リアルは感じない。そう簡単に報われたら、こちらとしてはたまったもんじゃない。簡単に報われないからこそ、大人は本気になりたくてもなれないのだ。

 田西は観客のリアルを一身に背負い、ある意味観客の人身御供として、本気で人を好きになり、本気で傷だらけになる。そして、何もかもが無惨な結果に終わりボロボロになった田西は、街の中を全力疾走する。涙を拭い払うためなのか単なるヤケクソなのか、田西が走りながら何を考えているのかはわからない。ただ、そんなボロボロになっても人は全力で走れるんだという、奇妙な感動がある。その田西の走る姿を映して、映画は終わる。

 田西を演じる峯田和伸の存在感は圧倒的。名演を通り越して“絶演”とも言うべき壮絶な芝居を見せており、「俳優峯田和伸」を観るためだけでも映画館に行く価値があると思う。
No Futureなおじさんたちが
No Futureなことをする


 宮藤官九郎脚本・監督、宮崎あおい主演の映画『少年メリケンサック』。昨年の公開時は観れなかったので、ようやくDVDを借りて観ました。めちゃくちゃおもしろかった!

 宮崎あおいが演じるのは、大手レコード会社の契約社員。ある日彼女は、ネットで無名のパンクバンドの衝撃的なライヴ映像を目にする。バンドの名は「少年メリケンサック」。スカウトをしにメンバーの元へ赴くが、現れたのはアルコール臭い中年親父(佐藤浩市)。実は映像は25年も前のもので、少年メリケンサックはすでに解散していたのである。だが、すでにライヴ映像はネット上で話題を呼んでしまい、レコード会社は全国ツアーを組んでしまった。宮崎あおいはやむなく、汚いおじさんに変わり果てたメンバーを連れてツアーに出る。・・・というのが大まかなストーリー。

 この、少年メリケンサックならぬ「中年メリケンサック」となってしまったおじさんメンバー4人(佐藤浩市・木村祐一・田口トモロヲ・三宅弘城)が、アホで汚くて面白い。他にも、田辺誠一演じる売れっ子アーティスト(黒人のガードマンが過剰なまでに取り巻いている)や、勝地涼演じるアマチュア・ミュージシャン(愚にもつかない歌を弾き語る)など、音楽好きの人には間違いなく“ツボ”な強烈キャラクターが続々登場する。こういう「いかにも」なキャラクターで笑いを取りにくるのは、ある意味音楽業界に対する宮藤官九郎なりの皮肉とも受け取れるが、僕などはその毒気がツボにハマってしまい、ほとんどずっと笑ってしまっていた。

 クドカンの笑いのセンスは非常に個性的なものと思われがちだが、実はとてもオーソドックスであると僕は思う。『少年メリケンサック』で例を挙げるなら、足腰がフラフラすぎてマイクスタンドにぶらさがるようにして歌う田口トモロヲや、緊張のあまり肩を叩かれただけでオナラが漏れてしまう三宅弘城などなど、クドカンの笑いはあくまでキャラクターの生理が生み出す滑稽さや可笑しさであり、「笑わせるための笑い」は実は一つもない。笑いは脚本の枠を逸脱することはなく、計算され、制御されているのだ。でなければ、彼は「脚本家」としてこれほど評価されていないはずである。

 だが、この映画に関しては、他のクドカン作品に比べて情緒的である印象を受けた。ギャグも台詞のノリも相変わらず冴え渡っている。なのに観終わった後に残るのは儚さ、なのである。

 酒浸りで、いい年して未だにエロ本読んだり喧嘩したり、少年メリケンサックのおじさんたちは正真正銘のダメ大人ばかり。身体もボロボロだから、もういつ死んでもおかしくない。三宅弘城の劇中の台詞を借りれば「本格的に“No Future”」なのである。そんなおじさんたちが、髪の毛を立てて汗だくになりながら「世界人類を撲殺せよ!」とか歌う姿は、悲壮感を通り越してバカバカしく、滑稽を通り越して儚く映る。No Futereな人たちがNo Futureなことをやっているのは、息が止まるくらいに美しい。

 以前クドカンがインタビューで「ありったけのロックへの思い入れを『少年メリケンサック』に注いだ」と語っていたのを目にしたことがある。グループ魂というバンドを実際に組んでいることでも明らかだが、それ以外でも、例えば刹那的で毒気のある笑いのセンスや情けない人間ほど愛しく書き込むキャラクター造形、そして「意味」や「解釈」を無効化するストーリーなど、宮藤官九郎という個性のなかには、たしかにロック的な匂いを嗅ぎ取ることができる。インタビューの言葉をそのまま受け取れば、『少年メリケンサック』は、クドカンにとってのいわば「私小説」ということになるかもしれない。この映画にどことなく感じる湿り気は、そういうことなのだろう。

 この映画を観た後、僕はセックス・ピストルズを何度もぶっ通しで聴いた。ジョニー・ロットンのがなる「No Future」は、いつにも増してキラキラしていた。
 今月読んだ本のなかから、特に印象的だった5冊を紹介します。

『夢枕獏の奇想家列伝』 夢枕獏 (文春新書)

 時代の流れや当時の常識に抗い、知的好奇心の赴くままに行動を起こした人を“奇想家”と呼ぶ――。歴史に名を残す7人の奇想家たちの人生を夢枕獏が紹介する本。玄奘三蔵、空海、安倍晴明、阿倍仲麻呂、カナン、河口慧海、平賀源内という、ちょっとアヤしさの漂う人ばかりをチョイスしたあたりが、なんとも夢枕獏らしい。文章はいたって平易なのでスラスラと読めてしまうが、一人ひとりに対して深く突っ込んだ考察と物語作家らしいユーモアのある洞察がなされていて読み応えはたっぷり。


『アポロ13号 奇跡の生還』 H・J・クーパー (新潮文庫)

 映画『アポロ13』では、事故発生から帰還への一連の経緯は、2時間の尺に収まるようサラッと描かれていたが、実際の現場では、当然のことながらクルーも管制官も忙殺されていた。前例のない予想外の事故だったため、準備されていた事故対応マニュアルは役に立たず、彼らは限られた時間と物資のなかから、地球へ帰還するためのアイディアをひねり出さなければならなかった。それも、絶対に間違えてはならないというプレッシャーのなかで、である。訳者の立花隆は、「アポロ11号を月に着陸させたことよりも、アポロ13号を無事に地球に帰したことの方が、真に偉大な功績である」と、この本の前書きで述べている。その現場で行われていた作業を事細かに記した、迫真のドキュメンタリー本。


『日露戦争 もうひとつの「物語」』 長山靖生 新潮新書(

 明治時代、日本社会に空前の出版ブームが起きる。近代化の波に乗り、新聞や雑誌が相次いで創刊されたのだ。そんななかで日露戦争は勃発する。新聞はこぞって最新の戦局を報道し、雑誌は戦争を題材にした小説を掲載した。そして、それを読んだ人々は、内地にいながらも戦争への参画意識を高めていった。日露戦争は、「情報」というものが世論形成や国家のイメージ戦略に大きく関わったという点で、極めて現代的な戦争だったのである。この本は、報道や出版、情報という切り口から日露戦争下の日本社会を見つめたユニークな論文。政治史や外交史、戦争記録では捉えることのできなかった、新たな近代日本像が浮かび上がってくる、知的興奮に満ちた本である。


『旧皇族が語る天皇の日本史』 竹田恒泰 (PHP新書)

 筆者は明治天皇の玄孫(孫の孫)にあたる旧皇族。タイトルはまるで暴露本のようだが、中身は日本史の全通史を、天皇と皇族に焦点を当てながら追うという、至って硬派なもの。天孫降臨から始まり、謎の多い古代の大和王権を経て、飛鳥から平安という天皇にとっていわば華やかな時代があり、武家政権が誕生すると一転天皇家は受難の時代に突入、そして明治維新で近代国家の統治者としての時代に入る。というように、改めて見ると天皇の歴史には実にいろいろなドラマがある。常に時代に翻弄され続けてきたわけだが、それが今日に至るまで絶えることなく血統が続いていることに感動を新たにする。「天皇は日本国の象徴」という憲法第一条の文句が、この本を読むと俄かに実感が湧いてくる。巻末に付録された、著者と寬仁(ともひと)親王との対談が本編以上に刺激的!


『空港にて』 村上龍 (文春文庫)

 村上龍が2003年に発表した短編集。コンビニや居酒屋、カラオケ、空港など、日本のどこにでもある場所を舞台に、人生に鈍い行き詰まりを感じている登場人物たちが、閉塞感を打破しようと新天地に向けて脱出する様を描いている。
 『希望の国のエクソダス』において、村上龍が登場人物の中学生の口を借りて語った「この国には何でもある。ただ、希望だけがない」という一節は、当時20歳前後だった僕にとって非常に衝撃的だった。60、70年代の日本は、今よりもはるかにモノも情報も乏しかったけれど、「将来はきっと今よりも良いものになる」という思いを皆が共有していた。だが、高度成長を遂げて暮らしが豊かになると、逆に希望が消え失せた。ヴィンテージ・ワインや高級家具、ブランド品で、人は自らの満足感を得るしか方法がなくなったのである。この国に欠如した希望というものを、現代日本文学は考え、提出していかなければならないと村上龍はいう。そしてその創作姿勢を具体的に作品化したのがこの『空港にて』である。非常にシンプルな素志をもった小説。村上龍を読むのはおそらく5,6年ぶりだったのだが、久々に読んだのがこの本でよかった。
もうひとりじゃない
君はそう歌った


このブログでたびたび紹介してきた邦ロックバンド、ピロウズ。『Please Mr. Lostman』でも書いたように、彼らは結成20周年の記念日である2009年9月16日に、初の日本武道館ワンマン・ライヴを行った。その模様を完全収録したのが、先週リリースされたこのライヴDVD『LOSTMAN GO TO BUDOKAN』である。

 あろうことか、僕はこの日のチケットを逃してしまったので(発売後10分で完売したらしい)、このDVDがリリースされると聞いたときは、嬉しいというよりもまずホッとしてしまった。というわけで、4ヶ月遅れとなってしまったが、なんとか僕も無事にピロウズの歴史的一夜を目撃できたのである。

 この日ピロウズが演奏したのは全部で28曲。人気の楽曲が目白押しなのはもちろんだが、<90’s MY LIFE>や<ぼくはかけら>といった昔の曲がチョイスされているのもアニバーサリー・ライヴならでは。アンコールはトリプルまでかかり、総収録時間は140分にまで及んでいる。04年にSHIBUYA-AXで行われた15周年ライヴも相当長かったが、今回はそれをさらに上回るボリュームだ。特別な節目に相応しい質と量を誇っている。

 だが、ライヴそのものはというと(もちろん画面を通しての印象だが)、なんだか静かな雰囲気に包まれていた。メンバーは淡々と演奏し、オーディエンスはそれをじっくり丹念に聴く、という具合で、会場全体の呼吸はいつものライヴよりもむしろ落ち着いているように見える。さぞかしお祭騒ぎ的ライヴだったのだろうと予想していた僕は拍子抜けしたのだが、やがてライヴが進むうちに、この一見クールな空気こそが、「ピロウズの20周年」なのだと思うようになった。

 昔も今も、ピロウズはいつも“勇気”を歌ってきた。だがその勇気とは、「いつも隣には僕がいるよ」というような明快な応援メッセージとしてではなく、ボーカル山中さわお個人の呟き、あるいは叫びとして表現されてきた。自分たちの音楽に対する絶対の自信と、望むような評価が得られないという現実。そのはざ間で山中は自分に言い聞かせるようにして決意を語ってきたのだった。それは、孤立することを恐れない勇気であり、周囲に馴染めない自分を恥じない勇気だった。

 ピロウズを聴くということはつまり、山中のパーソナリティーに触れるということなのである。それゆえ、聴く者を選んでしまう音楽でもある。曲が耳に引っ掛かるのを待つのではなく、リスナーの方から積極的に歩み寄らねば、ピロウズの音楽は耳を通り過ぎるだけで終わってしまう。だが、ひとたび彼のパーソナルを受け入れることができれば、そこで歌われている勇気は自分自身のものとして、深く深く心の奥に根付くのである。ピロウズのファンになるということは、彼らの歌が“自分の歌”になることなのだ。

 樹木が少しずつ年輪を重ね幹を太くするようにして、ゆっくりと理解者の輪を広げていく、それがピロウズの20年だった。武道館という場所は、その輪がこれまでになく大きく広がったことの、目に見える形での象徴だった。だが会場の奇妙な静けさは、単なる目標達成の感慨深さによるものではない。あの日、1万人のファンは、ピロウズの歌のなかに新しい、そしてこれまでよりもちょっとだけ前向きな勇気を見つけたのである。その感動が静けさを生んだのだ。武道館のステージでピロウズが歌ったのは、「僕はひとりじゃない」という勇気である。
蜜を吸い、冬を越し、子を残す
ただそれを繰り返すだけ


 「養蜂家」を題材にした小説など、この本以外に果たしてあるのだろうか。

 養蜂家、通称「蜂屋」はその名の通り、蜂を巣箱で飼育し、蜂たちが花から集めてくる蜜を売って暮らす職業のことだ。日本の蜂蜜の歴史は飛鳥時代にまでさかのぼるという。その上質な甘さと栄養価の高さから、古くから貴族などの間で親しまれてきた。だが、当時は天然の巣を見つけては叩き壊して蜜を得る以外に採取する方法はなく、能動的に蜂を飼育する養蜂という職業の出現は、江戸時代末期にまでくだる。

 養蜂家は旅の職業である。桜や梅などを見てもわかるように、花の開花期は南から北へと順にずれながらピークを迎える。そのため養蜂家は春から晩秋にかけて、九州の菜種、日本アルプスのツツジ、北海道のシナノキと、満開の花を追って蜂たちとともに旅をするのである。

 ただし、毎年同じ場所に花が咲くとは限らない。天候不良や害虫の発生などでつぼみをつけることなく枯れてしまうこともある。蜂蜜の採取量は花の開花量に左右されるため、養蜂家は旅をしながらその年ごとに花の咲く場所を探さなければならない。また、移動にも細心の注意を要する。蜂は特に熱に弱く、夏場の移動などは絶えず風を送り込んだり、定期的に水をかけたりしなければすぐに全滅してしまうのだ。

 蜂蜜を採って暮らすというと一見のどかな仕事のように思えるが、実際には1年の半分は旅の空の下で過ごさねばならない浮草稼業であり、自然を相手にしているという点では一種賭けに近い、理不尽で過酷な仕事である。だが裏を返せば、養蜂家は実に小説的なヒントに満ちた職業であるとも言える。吉村昭のセンスと着眼点はすごい。

 この『蜜蜂乱舞』を執筆する際に、吉村昭が取材した養蜂家の話というのが、沢木耕太郎のエッセイに出てくる。沢木耕太郎が仕事の取材で訪れた養蜂家が、たまたま吉村昭が訪ねた家と同じだったらしい。その養蜂家は「『蜜蜂乱舞』に出てくる記述は、本物の蜂屋が書いたとしか思えない」と感想を洩らしたという。吉村作品に共通する、綿密で繊細な取材がここでも発揮され、養蜂家というマイナーな仕事をつぶさに知ることのできる、一種のドキュメンタリーのような仕上がりになっている。

 だがこの本はあくまでも小説だ。ストーリーがある。主人公は、鹿児島県に住む50代のベテラン養蜂家。森林開発の影響などで全国的に花の量が減少し、養蜂が徐々に斜陽化するなかで細々と仕事を続けている。その彼の元へ、数年来音信普通だった息子が、嫁を連れて帰ってくる。憤りと喜びとが交錯するなかで、彼は妻と息子夫婦を連れ、蜂とともにまた今年も旅に出る。

 物語は実に静かに進む。途中、嫁の兄が刑務所に収監され、間もなく刑期を終了する身であることがわかる。その兄が後々一家の前に姿を現して騒動が起きるのかな、などと予想していたのだが・・・そんな展開はない。一家に同行する弟子や、旅先で出会う養蜂家を廃業した男など、いろいろな人物が登場するのだが・・・やっぱり何も起きない。

 物語の淡々とした足取りは終始変わることはなく、そのままラストを迎える。旅の暮らしは過酷だが、当人たちにとってはそれが当たり前の生活なのであり、人生なのだ。

 蜂たちは花を探して蜜を貯め、冬を越し、子を生み、死んでゆく。短い人生は決まりきった1つのパターンしかない。それを何世代にもわたって綿々と繰り返していくである。だが、その変わらない営みのなかにこそ、命の力強さがある。蜂という存在が、日常というものの重さと美しさを照らし出す。

 自然を題材にした小説は、吉村作品のなかでも重要な柱の一つだ。なかでも『海馬(とど)』や『鯨の絵巻』は短編集ながらも、『蜜蜂乱舞』に負けず劣らず非常におもしろい。『海馬』のなかには、以前紹介した『羆嵐』の続編ともいうべき物語が出てきます。