ロックマニアのおじさんと幼い声の女の子
愛嬌たっぷりの直球ギターポップ


 初めて聴いた時、「ギターポップ」という言葉のまさに典型のようなバンドだなと思った。好きなのか嫌いなのかよくわからない言い方だが、もちろんめちゃくちゃ好きってこと。比較的最近知ったバンドなのだが、「こういうのが聴きたかった!」と一目ぼれしてしまった。

 スコットランドのグラスゴー発のハッシーズ。この『ウィ・エクスペクテッド』は彼らが2005年から06年にかけてリリースした初期3枚のシングルを基に編集した8曲入りミニアルバム。1曲1曲の洗練具合もさることながら、楽曲のバリエーションの多さに驚かされる。パンクからレゲエ調、ボードヴィルまでと実に幅広い。

 メンバーは「この曲はスミスっぽいでしょ」「この曲はポリスにインスピレーションを受けて作った」などと、あっけらかんと楽曲のルーツを語っていて、ロックマニアが自分のレコードコレクションを披露するような、そういう趣味的なところが、なんというか心地いい。楽曲のバリエーションの幅広さは、マニア心が発揮された結果なのだろう。

 ハッシーズのメンバーは6人(その後入れ替わりがあり現在は5人体制)。中心はボーカルのフィリ・オルークと、ギターのジェームス・マッコール。ハッシーズはこの2人によって作られた。フィリは結成当時21歳で、本格的なバンドはハッシーズが初めてだったらしい。一方ジェームスはすでにスーパナチュラルズというバンド活動していた(このバンドも素敵!)歴としたプロのバンドマンで、他のメンバーも彼のツテで加入した熟練のミュージシャンばかりだった。まるで、ロックファンのおじさん達のところに女の子が一人迷い込んだよう。だが、おじさん達が作る60年代、70年代の匂い薫るレトロな曲を、女の子フィリが幼さの残る声で歌うという、この微妙に“合ってない”感じが、ハッシーズのおもしろさでなのである。

 ただし、冒頭述べた「ギターポップの典型」という形容は、このちぐはぐなキャラクターを指して言っているわけではない。ハッシーズの持つポップネス、それは彼らの曲が持つ「歌」としての存在感である。1度聴けばもう口ずさめてしまうような、いやもっと言ってしまえば初めて聴いてもその場でハミングできてしまうような気にさせる、非常にシンプル且つハッキリした歌メロ。そしてその強いメロディを乗っける、これまたシンプルなギターとベースとドラムと鍵盤。フィリの声とレトロなサウンドとのズレが生きるのも、メロディとアレンジ双方の輪郭がくっきりしているからだ。目新しさはどこにもないけれど、そのかわり全てのギターバンドのもっともプリミティブな姿がここにあるのだ。

 何を「ポップ」と感じるかは主観的なもので、定義づけたり意味を説明したりすることはできないのだけれども、僕個人はビートルズを父に、サイモン&ガーファンクルを母にして育った人間なので、メロディの立った、歌としての志向性のある楽曲にポップネスを感じるのである。

 ハッシーズは本作リリース後、08年にはファーストオリジナルアルバム『スーパー・プロ・プラス』をリリース。これもかなりおすすめです。


<ウィ・エクスペクテッド>

<タイガー>
ステレオは真横から音が来る
モノラルは正面から音が迫る


 今更!ようやく!ビートルズのモノラル・ボックスを聴きました!

 これは、昨年9月9日に発売されたステレオ・リマスター盤と同時リリースされたもので、『PLEASE PLEASE ME』から『THE BEATLES(ホワイト・アルバム)』までの10枚のオリジナルアルバムと『MONO MASTERS』(『PAST MASTERS』のモノラル版)、つまりビートルズの楽曲のうちモノラルミックスが施されている音源が全て収録されている(『LET IT BE』と『ABBEY ROAD』の2枚はステレオミックスしか存在しない)。もちろん、全てリマスターされている。

 ビートルズのメンバーはモノラルのミックス作業には立ち会ったが、ステレオのそれはほとんどプロデューサーのジョージ・マーティンに任せっきりだったことから、メンバーの意志が反映されている音、つまり“ビートルズ自身が思い描いていた音”はモノラル音源にこそあると言われており、昨年9月の発売当初からファンの間ではステレオ・ボックスよりもこのモノ・ボックスを買い求める向きが強かった。モノ・ボックスのみバラ売りなしの初回限定生産だったこともファンを煽った(結局その後別立てで精算された海外版モノ・ボックスの輸入盤というのが登場し、実質的には「初回限定」ではなくなったことでファンからはヒンシュクを買ったのだが)。

 僕はというと、初期4枚の初ステレオ化というトピックの方が断然気になっていて、また元々旧盤からステレオを主体に聴いていたこともあって、迷わずにステレオ・ボックスを購入した(ステレオ・ボックスに関しては昨年載せた『ANTHOLOGY 1』『MAGICAL MYSTERY TOUR』『BEATLES FOR SALE』をご覧ください)。単に音がキレイになったというよりも、「生まれ変わった」と呼ぶべきステレオ・リマスター盤に僕はひたすら感動していたのだが、その後ネットで飛び交うファンのレビューなどを見るにつれて、モノラル・リマスターも気になってはいたのである。

 で、実際に聴いてみた感想はというと・・・モノラルの方が良い(笑)。いやー、正直ステレオ主流のこの時代にモノラルなんて保守的な懐古趣味だと思っていたのだが、浅はかでした。

 まず、音のぶ厚さが全然違う。ステレオは音が真横からくる感じだが、モノラルは音が真正面からカタマリになって押し寄せてくる。また、楽器の音もモノラルの方がより質感がある。なめらかで柔らかで、ステレオのシャープな音と比べると温かな聴き心地だ。特にギターの音は圧倒的にモノラルの方が良い。

 このモノ・ボックスを聴いて、少なくとも「ステレオ=新しい」「モノラル=古い」という認識は改めなければいけないと思った。リマスターとはごく簡単に言って汚い音をキレイにする作業だが、「ステレオ旧盤→ステレオ・リマスター盤」・「モノラル旧盤→モノラル・リマスター盤」と、ステレオ音源とモノラル音源をそれぞれ旧盤とリマスター盤で聴き比べたときに、より落差がある(キレイになったと感じる)のはモノラルの方だった。

 ただ、「モノラルの方が良い」と感じるのは、おそらく「より生っぽい音で聴きたい」という僕のファン心理が多分に影響しているのだろう。厳密かつ冷静に聴き比べれば、ステレオがいいかモノラルがいいかは、曲によるんじゃないだろうか。たとえば『Sgt. Pepper~』と『ホワイト・アルバム』はモノラル映えする曲が多いし、反対に『HELP!』『RUBBER SOUL』にはステレオで聴いた方がいいと思った。また初期4枚は、やはり初のステレオ化というショックがあるので、ついついモノラルよりもステレオで聴きたくなる。コーラスワークなのかライヴ感なのか、その曲をどう聴きたいのかという各自が求める理想の音像(なんだかすごい話になってきた)によって、ステレオとモノラルどちらを選ぶかは異なるだろう。

 ステレオ・リマスター盤とモノラル・リマスター盤、両者の違いは自動車のオートマとマニュアルの違いに似ているように思う。一つひとつの音をわかりやすく区別し丁寧に配置したステレオ盤は、車で言うところのオートマ車である。手軽で実用的な反面、あっさりしていて時に物足りない。一方のモノラル盤はマニュアル車。ある程度の慣れが必要になるものの、両手両足をフルに使った運転には車を操ることの楽しさがある。だが、その楽しさもオートマを知っていればこそで、マニュアルしか知らなければただ煩雑に感じるだけだろう。モノラル盤の“味”も(少なくとも僕は)、ステレオ・リマスター盤を聴き込んでいたからこそ感じられたものなんだろうなあとは思うのである。

 つまりはステレオ・ボックスもモノラル・ボックスも両方持っているのが理想的なのであるという、う~んなんだかあまり面白くない結論になってしまった。しかしそもそもの、そして最大の問題は両ボックス合わせて70,000円というコストである。高い!


聴き比べてみてください。どちらが好きですか?(ヘッドホンやイヤホンで聴くと違いがよくわかります)

<ノルウェイの森>ステレオ・リマスター

<ノルウェイの森>モノラル・リマスター
『昭和歌謡大全集』 村上龍 (集英社文庫)

 先月読んだ『半島を出よ』の最重要人物の一人イシハラと、冒頭に登場するいわくありげなホームレス、ノブエ。この二人が元々は『昭和歌謡大全集』の登場人物たちであることを、僕は『半島を出よ』のあとがきを読むまで知らなかった。
 他人と関わりあうことを知らずに生きてきたイシハラやノブエら青年グループは、夜な夜なアパートに集まってカラオケ大会を開いていた。ある日、グループの一人スギオカが白昼の路上で中年女性をナイフで刺して殺してしまう。すると、その女性の仇を取るために、彼女の仲良し女性グループがスギオカを殺す。そこから始まる、殺しては殺し返すという両グループの復讐劇が本書のストーリー。
 復讐を重ねるごとに使用する武器や殺害方法がエスカレートしていくのがすさまじい。最初はナイフだったのが、トカレフ、ロケットランチャー、果ては燃料気化爆弾までが用いられる。
 不毛な復讐劇に生きがいを見出していく登場人物たちの姿は滑稽だが、しかし戦う相手も目指すべき目標もない、鈍く退屈したこの国の社会を顧みれば決して笑えない。読んでいると、なぜだか無性に腹が立ってきて仕方なくなる。でも、何に対して腹を立てているのか自分でもよくわからない。湿気った火薬に火を点けてしまうような、そんな小説。


『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』 椎名誠 (角川文庫)
 
 椎名誠の古くからの友人であり、彼が編集長を務めている『本の雑誌』の発行人、そしてかつて「本を読む時間がなくなるから」という理由だけで会社を辞めた経験を持つ正真正銘の活字中毒者、目黒考二。その目黒を味噌蔵に閉じ込めて強引に活字を読めなくしたらどうなるか、という残虐な設定で書かれたフィクション=ノンフィクションの小説がこの『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』である。これが椎名誠の処女小説らしい(とんでもない処女作だ)。
 本書には表題作とは別に、椎名誠が創刊間もない頃の『本の雑誌』紙上に執筆していたエッセイも掲載されている。内容は、世にある雑誌を片っ端からこきおろす、という過激なもの。今から30年も前のものなので、たとえば「文藝春秋が『Number』というスポーツ雑誌を作ったらしい」なんていう文章もあり(『Number』は現在すでに700号を超えている)、いまいちピンとこないものが多い。だが、まだ作家としてデビューする前の、今よりもさらに血の気の多かった椎名誠が垣間見れるという点で、ファンには必携本。僕はファンのくせに買ったまま本棚の奥に放置していたようです。


『脱サラ帰農者たち わが田園オデッセイ』 田澤拓也 (文春文庫)

 都会での生活を捨て、田舎に小さな農地を購入し“百姓”として暮らす中高年29人を追ったルポタージュ。定年後の第2の人生として、サラリーマン生活では味わえなかった“生きがい”を求めて、農業に身を投じた理由は人それぞれだが、共通しているのは「都会から離れたい」という意識である。読んでいると、日本の社会構造の一つの飽和点をまざまざと見たような気持ちになる。
 無論、29人全員が理想通りの悠々自適な暮らしを送れているわけではない。サラリーマン時代の年収と同等の収入を得ている人もいれば、一方で赤字続きで一家が離散してしまうという悲運を味わった人もいる。「いろんな人生があるのだなあ」と読み終えて静かに感動した。おそらく主には同じ熟年世代に向けて書かれた本なのだろうが、僕は30歳手前に本書に出会えてよかったと思った。
 

『三陸海岸大津波』 吉村昭 (文春文庫)

 青森・岩手・宮城にまたがる三陸海岸は、明治29年、昭和8年、昭和35年と三度大津波の被害を受けた。当時のデータや被災者の体験談などを吉村昭が取材し編集したドキュメンタリー本。津波から逃げる途中、ふと後ろを振り返ったら、2階建ての家屋の屋根の上にまで波が黒々とそそり立っており、その先端部は白い泡が歯列のように湧き立ち、まるで巨大な口が迫り来るようだった・・・なんていう生々しい証言の数々にひたすら恐怖する。
 子供の頃、海のすぐ近くに住んでいた僕は、リアルに津波が怖かった。「ああ、もし津波が来たら僕は死ぬんだ」と想像すると、海を眺めていても楽しいどころか無力感に襲われた。そのような体験からか、未だに映画の災害シーンなどは津波が一番怖い。
 度重なる被災体験から、三陸海岸に住む人々は長大な防波堤を建設し、綿密な避難訓練を繰り返し実施した。そのため、昭和43年の十勝沖地震による津波では死者を出さなかった。過酷な自然と寄り添いながら生きる人々の底力を知れる良本。


『プロ野球の一流たち』 二宮清純 (講談社現代新書)

 二宮清純の本は好きなのでわりとたくさん読んでいる。なかでも同じ講談社現代新書から出ている『スポーツ名勝負物語』と『スポーツを「視る」技術』はとてもおもしろかった。彼の文章はいつも理路整然としていて無駄がなく、それでいてスタジアムの熱気や選手の表情といった臨場感があるのだ。
 この『プロ野球の一流たち』はその名の通り、名選手・監督の技術や思考法を、本人や関係者へのインタビューを基に紹介したもの。例えば野村克也の「配球学」、東尾修による「松坂大輔論」、工藤公康による「バッテリー論」などなど。根性論や精神論などはもちろん誰も口にしない。新人選手でもわかる論理性と客観性を長い間の経験で磨き上げてきたからこその“一流”なのだろう。読んでいるとスポーツは科学なのだなあと唸る。
 本書は後半、日米野球の格差やプロ球団からアマ選手への利益供与(裏金)など、現在の野球界が抱える諸問題についても言及している。『プロ野球の一流たち』というタイトルではあるが、本書の読みどころはむしろこの後半部分なのではないか。さまざまな問題に対して著者が逐一提案するオリジナルのソリューションがおもしろい。ラストに収録された、日本にある2つの独立リーグ、四国・九州アイランドリーグと北信越BCリーグに関する話が感動的だった。
ドラえもんの映画は
子供だけのものじゃない


 今年で映画化30周年のドラえもん。東宝映画のシリーズものでは『ゴジラ』を抜いて最多作品記録を塗り替えたそうである。第1作『のび太の恐竜』の公開が1980年。ちょうど僕より1歳上、ということでこの公開年は忘れずに覚えている。ということはつまり、僕が生まれてからこのかた、世にドラえもん映画が作られなかった年は(ほぼ)なかったわけで、そう考えるとすごい。僕らtheatre project BRIDGEもたかだか結成10周年で浮かれている場合ではないのである。

 というわけで今回はドラえもんの映画について大真面目に語ろうと思う。

 一般的に言って、マンガやTVアニメの映画版というものは、あくまで通常フォーマットからの番外編、作品の質云々よりもファンを喜ばせるために作られる“おまけ”的存在である。事実、『クレヨンしんちゃん』や初期『ルパン三世』などのごく限られた例外を除いて、原作よりもインパクトを残した映画化作品はほぼ皆無といっていい。ドラえもんの映画版も、マンガの連載長期化とテレビアニメ化を受け、人気の高さを担保に制作された点においては、他のケースと違わない。

 だが、ドラえもんの映画はおもしろい。マンガやTVアニメの従属的な存在ではなく、それどころかむしろ映画が“主”といってもいいようなレベルの高さを誇っている。しかも安定して。ちなみに僕は通常のコミックス版は持っていないが、映画の原作コミックス「大長編ドラえもん」シリーズは持っているのだ。

 おもしろさの理由はおそらく、藤子・F・不二雄自身が映画の原作を執筆しているからだろう。宇宙や深海や恐竜時代といった壮大な舞台に、練られた謎解きや緊迫したサスペンス(ドラえもん映画は実はけっこう怖いのだ)。僕らは映画版に「TVアニメサイズでは見られなかったスケール感」をいくつも目撃するわけだが、それは「普段は描けないことを描ききってやろう」という藤子・F・不二雄自身の充実感とイコールなのだと思う。特に初期10作あたりは「あれもやりたい、これもやりたい」という初期衝動が感じられ、まるで水を得た魚のように、藤子が映画という広大なフィールドにペンを疾走させているのがわかる。

 原作者が主体的に関わっているかどうかがその映画化作品の成否を分けることは、例えば鳥山明抜きで制作された『ドラゴンボール』映画版、井上雄彦抜きで制作された『スラムダンク』映画版などの劣悪さを見れば明らかだ。残念なことにドラえもんにおいても藤子・F・不二雄の死後(『のび太の南海大冒険』以降)、映画版には妙な説教臭さや押しつけがましさが出てきてしまった。「とりあえず友情とか環境保護とかそういうテーマを入れときゃいいでしょ」みたいな、制作者の言い訳が聞こえてきそうな作品ばかりで、ひどく退屈でつまらない。原作を映画化するにあたってどんな内容のものが相応しいか、どこまでが“アリ”でどこまでが“ナシ”なのか、そのさじ加減はやはり原作者がもっともよく理解しているということだろう。

 ではドラえもん映画のなかでどれが一番おもしろいかということになると、これはもう悶絶級に難しい。『のび太の恐竜』は最高に泣けるし……『のび太の宇宙開拓史』はスケールの点では他の作品に劣るものの叙情性ではシリーズ一番だし……『のび太の海底鬼岩城』はめちゃくちゃ怖いし(鉄騎隊が怖すぎる)……『のび太の魔界大冒険』もめちゃくちゃ怖いし(宇宙に浮かぶデマオンの心臓が怖すぎる)……『のび太の宇宙小戦争』は「スモールライト」という仕掛けが素晴らしいし(主題歌<少年期>は名曲)……『のび太と鉄人兵団』はハードボイルドだし(リルルはシリーズ最高のゲストキャラ)……『のび太と竜の騎士』は舞台設定とラストのどんでん返しが秀逸だし……『のび太のパラレル西遊記』もこれまた怖いし(新聞越しにのび太パパの頭に角が見えるところが怖すぎる)……『のび太の日本誕生』はやっぱり怖いし(ツチダマが怖すぎる)……『のび太とアニマル惑星』はチッポとの別れに泣けるし(主題歌<天までとどけ>は名曲)……『のび太のドラビアンナイト』は四次元ポケットがなくなるという展開が斬新だし(主題歌<夢のゆくえ>は隠れた名曲)……『のび太と雲の王国』はドラえもんが壊れたり過去のキャラクターが再登場したりと総決算的物語だし(主題歌<雲がゆくのは>は隠れた名曲……『のび太とブリキの迷宮』はついにのび太がドラえもん抜きで冒険をするという点で画期的作品だし(ナポギストラーの声が森山周一郎というキャスティングが冴えている)……。

 だが僕はここで『のび太の大魔境』を一番に挙げたい。1982年公開のシリーズ3作目。そしてシリーズ中もっとも過小評価されている作品でもある。確かに、恐竜時代や宇宙や深海に比べると「アフリカ」という舞台設定は地味だ。確かに、魔族や地底人や鉄人兵団に比べると「犬」というゲストキャラは呑気すぎるかもしれない。

 しかしこの映画には、もっとも素朴な形の冒険と興奮が詰まっている。子供の頃、宇宙や海の底よりも、「アフリカ」という国の方が、はるかにミステリアスなものを感じなかったか。また、宇宙人や魔法の世界の住人ではなく、「犬」というどこにでもいる生き物だからこそ、「もし言葉を解し、自分たちだけの国を持っていたら」という想像が掻き立てられる。僕は初めて『のび太の大魔境』を見た子供の頃、道端で野良犬に出会っては「ひょっとしたら…」とじっと見つめたものである。

 この映画にあるのは“日常”の匂いなのだ。「アフリカ」「犬」「夏休みどこ行こう」といった子供時分のリアリティにおいても、普段のTVアニメ版と何ら変わらないテンションで物語が始まるという点においても、この映画の物語は日常と同一地平線上にある。そして、その“いつもと一緒”なところから、やがてはアフリカの奥にある謎の国にまで大冒険する、その物語の拡大という点で、まさに「映画化」の模範のような作品なのである。

 ドラえもんの映画はおもしろい。特に藤子・F・不二雄原作の作品は、大人になった今観ても充分おもしろい。今の子供たちが、藤子の手を離れた現在の映画版だけではなく、昔の、ちょっと怖かった頃のドラえもん映画にまで手を伸ばしてくれたらなあと思う。最新作『のび太の人魚大海戦』はただ今公開中。久々に観に行こうか、そして果たして一人で観に行くか(行けるのか)、う~ん、悩み中です。


『のび太の大魔境』は主題歌もとても良い
<だからみんなで>
はるか彼方の夜空で一人
輝き続ける星のように


 前作『NIGHT ON FOOL』からおよそ1年半ぶり、先月リリースされたバースデイの新作『STAR BLOWS』は彼らの通算4枚目のアルバムにあたる。

 相変わらずのかっこよさ。この高値安定感は職人のようである。そして、作品を追うごとにぜい肉が削ぎ落とされ、汗に濡れた筋肉だけが浮かび上がってくるようなピュアネス。バースデイは今もっとも信頼のおけるロックバンドだと僕は思う。なんだか自然と文章も短く言い切る感じになってくる。

 今回の『STAR BLOWS』は重い。まるで洋物タバコを吸ったときのような、濃厚で思い感触のアルバムである。1曲目<FREE STONE>は7分22秒、2曲目<風と麦とyeah!yeah!>が8分30秒と、冒頭いきなり7分超えの曲が連続する。このドロッとした幕開けからして、一瞬ひるむほどの重量感だ。

 中盤になると、この重さに熱が加わり始める。4曲目<BABY 507>や5曲目<GILDA>などは、腕ずくで引っ張られ、加速させられる感じだ。すると、序盤で抑圧されていた分、力が一気に解放されて、なんだか叫びだしたいような凶暴な気分になってくる。溢れ、ねじれ、突き上げられるこの恍惚とした暴力性は、まさしくロックそのものといった感じがする。

 しかしラストまでこのまま行くかというと、そうではない。終盤11曲目に配された<愛でぬりつぶせ>が、冬空に吐き出した呼気が一瞬で氷の粒に変わるように、それまでの重苦しさを透明な涙へと鮮やかに変える。前作『NIGHT ON FOOL』における<涙がこぼれそう>と同じように、この<愛でぬりつぶせ>という名曲はアルバムのスイッチポイントとして、作品全体を然るべきカタルシスへと導く役割を果たしている。そしてラスト12曲目、11分という大作<SUPER SUNSHINE>で本作『STAR BLOWS』は幕を下ろす。

 今回はえらく長尺の曲が多いなあと思って全体の収録時間を調べてみたら、なんと75分もあった。「重さ」はバースデイというバンドを語るうえで欠かせないキーワードではあるが、それにしても今作は質量ともに圧倒的に重い。その点では、聴くシチュエーションを選ぶアルバムではあるだろう。とてもじゃないけど僕には、出勤中や散歩中に聴ける自信はない。自分の部屋で一人きりで、あるいは喫茶店の隅の席でイヤホンをして、そのような状況でなければこのアルバムの持つ感情は抱えられないように思う。

 チバユウスケの歌には切迫感がある。だが、聴く者を孤独に追い込むような切迫感は、ミッシェル時代にはあまり見られなかったものだと思う。バースデイでのチバの歌を聴いていると、まるで無人の星で真空に身をさらしながらたった一人で立っているような感覚に陥る。凶暴な気分になりながらも、肌はやけに寒い。だけど、全身に熱いシャワーを浴びるようなミッシェルの曲よりも、今の僕はバースデイの寒々とした曲の方がしっくりくる。もっともっと、重いアルバムを作って欲しいと思う。
メンバー構成とかよく知らないけど
「好き」なんだからそれでいいや


 スウェーデン出身のバンド、ラスト・デイズ・オブ・エイプリル(LDOA)の2007年発表のアルバム。去年だったか一昨年だったか、本屋で洋楽雑誌のバックナンバーをパラパラめくっていたら偶然彼らのインタビューを目にして、そこで初めて知った。なんとなく僕の好みに合っていそうな匂いを感じ、あえて試聴も何もせずに買ってみたら見事にストライクゾーンど真ん中にハマった。以来、しょっちゅう聴いている。

 だが、このバンドのことはあまり詳しく知らない。持っているのはこの『マイト・アズ・ウェル・リヴ』1枚だけだし、おまけに輸入盤を買ったのでインナースリーヴに訳詞も解説も載ってはおらず、LDOAについての情報源は手元にないのである。ネットで調べてみても、どうやら公式サイトは日本には設けられていないようだ。おかげで、一体このアルバムが彼らの何枚目のアルバムかさえわからないという心もとない状態でこれを書いている。

 ただ、数少ないネットの情報でわかったのだが、まずこのバンドの中心人物はボーカル/ギターのカール・ラーソンという人らしい。写真を見るとまだ若そうだ(もっともそれは声で予想していたけど)。だが90年代後半にはすでにデビューしているので、相当若い頃、多分10代の頃からこのバンドで活動していたんじゃないだろうか。

 それからもうひとつ、バンドとはいうものの、現在LDOAのメンバーはカール1人しかいないらしい。ちょうどこのアルバムを制作する直前に、もう1人いたメンバーが抜けたそうだ。僕が読んだインタビュー記事の写真には確か2人写っていたので、あの片方の人が抜けてしまったということなのだろう。一人きりになっても解散せずにバンド名義で活動を続けているあたり、カールのLDOAに対する愛着や誇り、意地のようなものが感じられてかっこいいなあと思う。

 と、LDOAについて知っていることはこのくらいのものなのだが、しかしまあ本当は、周辺情報なんていくら知ってたって関係ないのである。切なく美しいメロディーはグッとくるし、カールのボーカルはすごくピュアな感じで優しいし、ギターの音も最高だ。メロディー、ボーカル、アレンジ(特にギター)の組み合わさり方とそのバランスが、「こういうのが聴きたかったんだよ!」という感じで僕にはものすごくフィットするのである。居心地の良さに満足して、理屈だとかなんだとかまで考えないのだ。

 曲が気に入れば、それを演奏している人たちの来歴や使っている楽器、プロデューサーは誰か、なんていう音楽以外の情報が自然と気になってくる。さらにはその前後の音源も聴いて「このアルバムはパワーポップからオルタナへのちょうど過渡期の作品なのだな」などと、より深く理解したくもなる。音楽以外の部分も含めたトータルなところから、そのバンドやアーティストの「物語」を想像するというのが、ロックならではの楽しみ方である。むしろ僕はこういう聴き方が断然多いので、1枚聴いただけで満足しているLDOAのようなケースはレアだ。

 だが、まあ常に自分のなかでの葛藤なんだけれども、そうやって周辺情報を仕入れながらコツコツ物語を紡いでいく聴き方より、「好きなんだからそれでいい」というLDOAへの接し方の方が、より“ロック”なんじゃないかなあとも思うのである。この『マイト・アズ・ウェル・リヴ』を聴きながら、ふとそんな、他人から見たらとことんどうでもいいような反省をしてしまった。
少女から母になっても
ずっと愛を歌う人


 良いアルバムというのは大体1曲目で決まる。「この先に一体どんな世界が広がっているのだろう」という予感と緊張感。見知らぬ土地に降り立ったときのような気持ちをいきなり1曲目で味わえれば、大体そのアルバムは名盤なのである。

 1曲目はダメだけどアルバム途中には佳曲良曲が揃っている、というケースもある。僕のCD棚にも「2曲目から再生するアルバム」、「8、9曲目だけをリピートするアルバム」なんていうのがたくさんある。だがアルバムというのはやはり最初から最後まで通して聴いてこそ感動が味わえるものであり、評価の基準もまずはそこにある。特定の曲だけ聴いてしまうのは、あくまでその「曲」が良いということであって、「アルバム」として良いわけではないのだ。だからこそアルバム1曲目には、独自の空気感を醸し、2曲目3曲目へと駆り立てる“風格”のようなものを期待したいのだ。

 というようなことを改めて実感したのが、先週リリースされたYUKIの4年ぶりのアルバム『うれしくって抱きあうよ』。このアルバムの1曲目<朝が来る>は、歯切れの良い印象的なストリングスとともに、YUKIが“私はこの広い世界を知らなすぎた”と歌い始める、予感と緊張感に満ちた、まさに幕開けに相応しい曲なのである。開始1分弱で「このアルバムは良い!」という確信を抱かせる。

 事実、全13曲どれもクオリティがちょっと尋常じゃないくらいに高い。全部シングルにしてもいいくらいにガツンとくる。いや「ガツン」という表現はYUKIには似合わないか。グッとくる。

 だが曲のクオリティが高いのは、これまでのYUKIの楽曲ですでにわかっていたことだ。何が素晴らしいかって、アルバム全編にわたって曲の持つ色合いや肌触り、温度感や見えてくる景色が統一されているところである。曲と曲が合わさって一編の物語になるようなつながり感と濃密感が味わえるときほど、アルバムを聴いていて「いいなあ」と思える瞬間はない。もちろんそんなものは、聴き手の思い込みなのかもしれない。だがそれがたとえ思い込みだとしても、思い込ませるだけの風格というものがこのアルバムにはある。素晴らしい!

 では、このアルバムが織り成す物語とは何なのか。1曲目は前述の通り<朝が来る>。そしてラスト13曲目は<夜が来る>。YUKIは朝から夜までの1日に「生きる」ということを重ね合わせている。人生は短く儚いし、思い通りにならないことも後悔することも山ほどあるけれど、人を愛することは素晴らしい、生きることは素晴らしい、そういう色んなものをひっくるめて全部肯定していこう!という意志を歌っている。文字に直すとどうも味気ないが、このアルバムを聴いているとそういう温かい気持ちが実際に胸に湧いてくるのが不思議。「うれしくって抱きあうよ」、ものすごくいいタイトルだと思う。

 YUKIはすごく「愛」という言葉が似合うシンガーだ。聴き手を照れ臭くさせることなく、また男女の区別なく、実に自然にふんわりと「愛」というイメージを届けてくれる。

 彼女はバンド時代からずっと愛を歌ってきた。だが愛の質はソロに入ってから明らかに変わった。かつては恋愛という枠に限定された愛であったのが、ソロに入り、家族も友人も見知らぬ人もひっくるめた広くて大きな愛というものを歌い始めたのである。JUDY AND MARYからYUKIという軌跡は、少女が大人になって母になるという、一人の女性が成長していく姿そのものである。
「バンドであること」を
考えさせられるバンド


 今年2月にリリースされた東京事変の新作『スポーツ』。前作『娯楽』も相当良かったが、今作はそれをさらに上回る、現時点での彼らの最高傑作になったと思う。

 『スポーツ』は東京事変にとって4枚目のアルバムだ。結果論ではあるが、東京事変のこれまでのキャリアは「椎名林檎+バックバンド」がいかにして「バンド“東京事変”」になるかのプロセスだったように思う。イメージ的な面でもサウンド的な面でも、初期の『教育』、『大人』という2枚のアルバムは椎名林檎のソロプロジェクトであった。彼女の個性をバンドというフォーマットに取り込むためには、相対的に椎名林檎のカラーを抑え、他のメンバーの存在感を打ち出さなければならない。そのために3枚目『娯楽』において取り入れられたのが、曲作りにおいて椎名林檎の役割を作詞のみに留め、作曲を他のメンバーに一任するという試みだった。

 そしてそれは成功した。椎名林檎の存在をキャラクターとしてではなく一個の歯車として、いわば“割り切って”機能させたことで、東京事変は5人のメンバーが均等かつ有機的につながった「バンド」に生まれ変わったのである。『娯楽』は椎名林檎のソロ時代からのファンには物足りなかったかもしれないが、僕などには彼女の色が薄まった分聴きやすかった。椎名林檎のボーカル力や個々のプレイヤーの個性など、点ではなく面で楽しめるアルバムだった。

 今作『スポーツ』においても、作詞・椎名林檎、作曲・他のメンバーという手法は引き継がれている。印象としては前作よりもバンド向きな、よりグルーヴ主体の曲が増えたように感じた。特に<生きる><電波通信><雨天決行>など、キーボードの伊澤一葉が手がけた曲のかっこよさが目立っている。そういえば前作でも彼は<キラーチューン>という、文字通りキラーチューンな曲を作っていた。

 同時に、今回は椎名林檎も再び作曲者に名を連ねている。単独作としては<能動的三分間><勝ち戦>がそれだ。2曲とも本アルバムのリード曲なので、事前にテレビやYouTubeで聴く機会があったのだが、その時は彼女の作曲だとは思わなかった。椎名林檎っぽくなかったのである。彼女が「東京事変」用のメロディメイクをするようになったのか、それとも5人のチームワークが彼女の個性をも「東京事変」に仕上げるほどに緊密なのか、それはわからないがいずれにせよ、すでに彼らには作曲者を選ばないレベルにまでバンドとしての力が満ち満ちているということなのだろう。

 ジャジーなのにパンク、ファンキーなのにフォーク、みたいな節操のないグチャグチャ感。なのにそれが下品にならず、洗練された都会的サウンドへと仕立ててしまうセンス。PVに見られるシュールな雰囲気などなど。『スポーツ』には「東京事変しかできない」、あるいは「東京事変しかやらない」と感じさせる、強いオリジナリティがある。一つのバンドが独自の、未踏の道へと分け入ったという点で、このアルバムは名盤の一つに数えられると僕は思う。

 それにしても、彼らのように自分たちが変化していく様を洗いざらい見せていくバンドと、それをドキュメンタリーを見るように、“目撃”といったニュアンスで追っていくリスナーという関係性は、常に「現在」が問われる音楽――ロックならではのものだ。結果としてサウンドやスタイルその他が変化するかどうかはさておき、現状に甘んじず絶えず高みを目指す姿勢を感じるからこそ、ロックには勇気をもらえるのである。
8年前、舞台を観て泣き
今また映画を観て泣く


 映画『今度は愛妻家』は、2002年秋に六本木の俳優座劇場で上演された同名の舞台が原作になっている。当時21歳だった僕はこの舞台を観に行って、そして泣きに泣いた。

 サードステージ(第三舞台が設立した演劇制作会社)がプロデュースした作品で、主人公の北見を池田成志が、妻のさくらを長野里美が演じていた。こんなにも泣けるのは登場人物の心の中にいくつもの感情が波のように湧き立ち、それがこっちにも伝わってくるからで、そんな感情の運動過多のような芝居を平然と毎日こなしているプロの役者というものに、改めて畏敬の念を抱いた。脚本・中谷まゆみ、演出・板垣恭一というペアは、サードステージの「showcaseシリーズ」というヒットシリーズを生み出しているゴールデンコンビで、『今度は愛妻家』もそのシリーズの一作。僕は他の作品にも何度か足を運んだが、『今度は愛妻家』は別格の面白さだった。セットも衣装も台詞も、今でも鮮明に思い出せる。そのくらいインパクトのある作品だった。

 そんな『今度は愛妻家』が、8年を経て映画化された。豊川悦司と薬師丸ひろ子というスターを迎え、メジャー配給の作品としてより多くの人の目に触れることに、同郷の友人が有名人になったような誇らしさを感じた。

 この作品は、ある夫婦の物語である。なにかとケンカの絶えない夫婦、北見(豊川)とさくら(薬師丸)。ケンカの原因を作るのはいつも北見だ。さくらが話しかけても邪険にしたり無視したり。おまけに重度の浮気グセ。北見は絵に描いたようなダメ亭主なのである。そんな北見にいい加減愛想の尽きたさくらは、ついに離婚を切り出す。・・・というのが序盤から中盤までのお話。この後物語は息を呑むような意外な展開を見せるのだが、それは是非実際に映画を観て確認していただきたい。

 映画版は、僕の記憶が間違っていなければ、台詞も演出も、主な舞台となる北見の家の造りも、舞台版をほぼ忠実になぞっていた。もちろん映画版だけのシーンもあるが、ストーリーは全て同じ。にもかかわらず、結局僕は映画でもウルウルしてしまった。オチも何も全て知っていたはずなのに。8年前と今とでは価値観も多少変わっているはずなのに。

 思うにこの作品は、夫婦というものをモチーフにしてはいるが、そこで描かれているのは「別れ」というとてもシンプルなものなのである。それも男女間の別れに絞ったものではなく、親子の別れもあれば、長年の夢を諦める、というような形の別れも含まれている。大事なものが手元から失われるときの辛さ、失って初めてその価値に気付いてしまう切なさ。そういう普遍的な感情に対して、堂々と真正面から描いているところにこの作品の持つ、舞台だろうが映画だろうが、8年前だろうが今だろうが、有無を言わさず感動させる力があるのである。

 それにしても、人と人とが一緒にいるというのはほとんど奇跡じゃないか、と思う。誰かと一緒にいることは、幸せを生む反面、所詮は他人なのだから、過ごす時間が長くなるにつれて、辛いことも増える。来月僕は3件もの結婚式に立て続けに出席するのだが、いろいろな不満やリスクを乗り越えて、他人と人生を共有しようと決意した僕の友人たちに、敬意と羨望を抱く。
 2月に読んだ本をいくつか紹介します。

『半島を出よ』 村上龍 (幻冬舎)

 ずいぶん前に買ったきり、膨大なボリュームに尻込みして本棚に放置していたのだが、先月『空港にて』を読んだのをきっかけに手に取った。
 北朝鮮の特殊部隊が福岡を制圧し、それを自衛隊も在日米軍でもなく、日本の社会からドロップアウトした元少年犯罪者たちが迎え撃つ、というストーリー。一見荒唐無稽だが、膨大な量の取材を糧に生み出された細部の設定や描写はとてもリアル。村上龍はこれまで日本の終末感について数多くの作品を通じて語ってきたが、今回はいつになくキナ臭い。「物語のラストが知りたい」という欲求よりも、「同じことが現実に起こりうるかも」という生々しい切迫感がページをめくらせる。結局読み終えるのに1週間もかからなかった。


『黒いスイス』 福原直樹 (新潮新書)
 
 雪を頂いたアルプスの山々に、透明な水を湛えた湖と森。永世中立を国是に定め、治安の良さは世界有数。「住んでみたい国」をアンケートに取れば常に上位。そんな誰もが一度は憧れる平和国家スイスの“裏の顔”を暴く、かなり衝撃的な内容の本。
 一時期スイスは、政府の援助のもとにロマ族(ジプシー)の子供を次々と誘拐していた。外国人がスイス国籍を取得する場合、住民投票にかけられる。スイスはかつて、広島型原爆の6倍の規模の核爆弾を作ることを計画し、アルプス山中深くに核実験施設を建設した。・・・これ全て事実なのだそうである。今まで思い描いていたスイスのイメージが音を立てて崩れていく。
 だが暴露することが目的の週刊誌的な本ではなく、あくまで正確な情報を伝えることで、読者のスイス認識の中立性を促そうという姿勢で書かれている。「他人のふり見て我がふり直せ」じゃないけど、日本にも同じような黒歴史があり、それを繰り返さないための自戒が本書の延長線上にはある。
 

『漂流』 吉村昭 (新潮文庫)

 ここ半年ほど吉村昭の小説ばかり読んでいる。多分2冊に1冊は彼の小説を読んでいる。
 吉村作品には歴史や戦争、自然(動物)など、いくつかのジャンルがあるが、そのうちの一つに漂流民を題材にした作品群がある。『大黒屋光太夫』や『破船』『アメリカ彦蔵』などがそれだが、その代表作が本書。その名もズバリの『漂流』である。
 内容も、タイトルを少しも裏切らない。主人公が無人島に流れ着きそこで生き抜くという、文字通りの漂流なのである。しかもこの無人島というのが、水も湧かない、木も生えていない火山島で、過酷極まりない。他の作品には、例えば大黒屋光太夫がロシアを旅したり、彦蔵がアメリカを旅したりするように、漂流といってもそこに冒険というニュアンスが含まれているが、この『漂流』にはそういうロマンは欠片もない。生か死か、ただそれだけの乾ききったハードな物語である。
 なお、他の吉村作品の例に漏れず、本書もほぼ事実を題材にしている。こんな人がいたのか、とただただ感動するばかり。


『お坊さんが困る仏教の話』 村井幸三 (新潮新書)

 「あの世はあるのか」「戒名は本当に必要なのか」などなど、生活者の視点から仏教にまつわるさまざまな質問・疑問について考察する本。宗派ごとの戒名のランク、値段の相場など、いわばお坊さんの「企業秘密」のような内容に触れていることからこのタイトルになったのだろう。ちなみに筆者は仏教関係者ではなく、ただ趣味で仏教を学んでいるという元テレビマン。
 お釈迦様が何をしたかに始まり、日本への仏教伝来から今日までの仏教史をわかりやすく噛み砕いて説明してくれるので、仏教入門書としては最適である。日本に伝わった仏教は歴史の中で徐々に土着の祖霊信仰と結びつき、葬式仏教へと発展した。日本社会で生き延びるために本来の仏教とは異なる概念を積極的にブレンドしていったのである。悪く言えばいい加減、良く言えば懐が深い。仏教の持つなんともいえないこの柔らかさ、おおらかさに僕は惹かれる。


『昆虫―驚異の微小脳』 水波誠 (中公新書)

 昆虫の脳みその大きさはわずか1立方ミリメートル。だがそのミクロな脳のなかに、人間に勝るとも劣らない優れた神経交感システムが構築されている。
 例えばミツバチ。形や色を認識できるであろうことはなんとなく予想できるが、よくよく実験をしてみると彼らの認識能力というのはもっと高度で、例えば対称・非対称の区別なんかは朝飯前らしい。また、単に形を覚えるだけではなく、「同じものを選ぶ」「違うものを選ぶ」といった形状の同一性や非同一性も理解できるんだそうである。
 文章自体は平易なのだがどうしても学術用語が多く、読むのはけっこう大変。だけどかなりの知的興奮が味わえる良書。昆虫に対する認識が改まります。