少年から大人へ
憎しみから愛へ


 「自分は誰からも必要とされてない人間だ」。初めてそう思ったのは中学2年生のときだった。14歳だった。

 足は遅いし球技は何をやってもヘタクソだし、運動はてんでダメ。友達を笑わせられる話一つできない。おまけにルックスも、クリクリでゴワゴワの髪の毛に牛乳瓶の底のような眼鏡という、今で言う“イケてない”の極致。ただ一つ、成績だけは飛び抜けて良かったのだが、14歳の社会のなかで“勉強ができる”ということは、妬みの対象にこそなれ、認められ、一目置かれることではなかった。だから「自分はこの世に必要ない存在だ」という結論は、僕にとって実にナチュラルな実感だった。そして僕は生まれて初めて「死んでもいいや」と考えたのだ。

 その年の冬、僕はギターを始めた。何がきっかけで始めたのか、よく覚えていない。しかしギターは、ギターだけは、他人から褒められ、認められるものだった。だから僕は必死に練習した。「ギターが上手ければ、僕は誰かに必要とされる」「ギターが弾ける僕は生きていてもいいんだ」。そう考えていたのだ。だが、翌年の春にギターがとてつもなく上手い転校生がやってきて、僕のアイデンティティは脆くも崩れ去ってしまった。

 『新世紀エヴァンゲリオン』は、誰かに必要とされ、愛されることを願う14歳の少年たちが、巨大ロボットに乗り込み「使徒」と呼ばれる謎の生物と戦うことで、自分の価値を探す物語だ。テレビ本放送時、僕は高校1年生。ストーリーのあちこちにばら撒かれたミステリアスな謎や、ディティールの細かいクールなメカ描写にも夢中になったが、それ以上に僕は物語の主人公たちに自分自身を投影した。特にエヴァに乗ることに意地とプライドの全てを賭けているアスカというキャラクターには、ギターに存在価値を預けていた自分と重なり、観ていて胸が苦しかった。『エヴァ』は紛れもなく“僕の物語”だった。

 本放送、そして当時の完結編にあたる映画『Air/まごころを、君に』からおよそ10年。エヴァンゲリオンが“ヱヴァンゲリヲン”と名を改めて再び制作されるという話を聞いたときには、「なぜ今更?」と思った。ブームを支えたかつての中高生たち(つまり僕たち)を当て込んだ、多分に商業的な匂いのする試みにしか見えなかった。何より、思春期が終わると同時にエヴァを“卒業”した身としては、徒に当時の記憶を掘り起こされたくはなかった。

 だがそれは杞憂に過ぎなかった。結論から言うと、素晴らしい。「素晴らしい」という言葉などでは足りないほど、本当に素晴らしい。かつて10年前の旧エヴァンゲリオンは、全てこの新ヱヴァンゲリヲンのためにあったのではないかと思った。新ヱヴァは単なるリメイクではない。2年前に『序』を観た段階で、すでにその思いは強くあったのだが、今回の『破』を観て、それは確信に変わった。

 では「単なるリメイク」と一体何が異なるのか。マリやヱヴァ6号機といった新たなキャラ、新たな設定の登場か。「人類補完計画」の全貌が今度こそ明らかにされるという期待か。はたまた、美しく生まれ変わった映像か。いや、そうではない。そんな些末なことはどうでもいいのだ。新ヱヴァが紡ごうとしているもの、それは旧エヴァの時には希薄だった“生への意志”である。

 例えばそれは、復元されたセカンドインパクト前の海の匂いを嗅いでシンジが言う「本当の海って生臭いんですね」という言葉に対し、加持が言う台詞。例えばそれは、「他人と話すのもそんなに悪くないって思った」というアスカの言葉に対し、ミサトが言う台詞。本編では実にサラッと挿入されるこれらの台詞には、かつてのエヴァにはなかった、世界を肯定しようとする前向きな思いが宿っている。

 旧エヴァが14歳の少年たちの視点に座し、他人の存在を、世界を受け入れようともがき苦しんだ結果、ヒリヒリとした痛みと絶望に満ち満ちていたのに対し、新ヱヴァには「確かに世界は汚濁と混沌だらけだけど、それでもきっとどこかに愛はあるよ。世界は生きるに値する場所だよ」という力強いメッセージがこめられている。まるで大人になった今の自分が、「死んでもいいや」とばかり考えていた、少年(チルドレン)だったかつての自分に向けて、救いの手を差し伸べているかのように、僕には思える。

 少年から大人へ。憎しみから愛へ。10年の重みがここにある。この変化は総監督庵野秀明の変化であり、そしてまた僕ら自身の変化でもある。楽観的になったわけではない。絶望を叫ぶよりも希望を語る方がはるかに痛みを伴うものだ。僕らはただ、10年間を経て、その痛みに耐えようとする覚悟が強くなっただけだ。しかし、だからこそ今、本気で誰かを愛し、他人を受け入れみんなで生きていくことの大切さを共有したいと願っている。

 『破』では、シンジはレイのために、レイはシンジのために、そしてアスカはシンジとレイのために行動する。彼らがはっきりと他人のために行動を起こすのは、旧エヴァでは見られなかったことだ。10年前も今も、3人は変わらずに14歳だ。だが、彼らは「変化」している。この変化はつまり、庵野秀明、そして僕らの10年を反映したものなのだ。

 僕は一昨日映画を観たのだが、まだ熱にうなされているような状態が続いている。ちょっとでも思い出せば涙が溢れてきてしまう。気持ちは醒めるどころか、ますます加速して渦を巻いている感じだ。実はあまりに興奮してしまい、昨日も劇団のメンバーと観に行ってしまった(ちなみに全員ともすでに2回目)。

 客層は、(時間帯によるのもあるが)やはり同世代の20~30代くらいが多いように見えた。おそらく全員が、10年前からのファンなのだろう。そしてみんなきっと、シンジやレイやアスカの成長を感じ、そしてその成長を感じ取れるようになった自分自身の変化をも感じ、あれから過ごしてきた時間について思いを馳せているんじゃないだろうか。

 『エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)』とは、僕らの世代にとっての貴重なアンセムだ。10代半ばに、そして20代の終わりに再びエヴァに出会えたことはなんと幸せなことだろう。

 テレビ本放送がスタートした1995年という20世紀末からこの21世紀初頭へ、10年間で現実はどんどん行き詰まりを見せている。しかし、だからこそエヴァのような作品との出会いを通じて、僕らはささやかな夢と小さな愛を育みたい。