芸能人を見かけることがあります。

コンサートやイベント等で至近距離で会うこともあります。

もちろんヒデキはコンサートに何度も行っているので、

生で見た芸能人ってことになります。

 

直接会った人というと、河合奈保子ちゃん、

松坂慶子さん、水谷豊さん、

変わったところではうつみみどりさん、

 

東京で暮らしていた頃は、街中で見かけたレベルだと結構います。

以前書いた石川秀美ちゃん等コンサートで生体験した歌手も多いです。

実は楽屋でヒデキに会ったこともありますが、それは置いといて…

 

私が初めて接した芸能人は、ヒデキではなく

山口百恵ちゃんでした。

 

デビューまもない頃、2曲目のシングル『青い果実』のキャンペーンで

私の地元のレコード店にやってきました。

1973年の9月ごろだったと思います。

よくもまぁ、こんな田舎にやってきたものだと、今も思います。

 

 

当時、事前情報はなく、関係者から話を聞いた父親が

「山口百恵って歌手が来るらしいんだけど、見に行くか?」

って言われて、まだそれほど人気が出ていたわけでもないけど、

アイドルが来るなら観たいとお願いした。

 

店頭でよくある風景、台に乗って歌ってくれた百恵ちゃん。

記憶は薄いけど100人ぐらいは集まっていたかもしれない。

わりと小柄な印象だったけど(当時14歳)、やっぱりとても可愛かった。

これが至近距離で見た初めての芸能人でした。

 

後々伝説の歌姫になろうとは、その時はさすがに思ってなかった。

あの時の光景は、50年以上経っても覚えています。

 

余談ですが、私の娘が初めて会った芸能人は

水谷豊さんでした。

アルバム発売のイベントでのサインカード配布会。

まだ1歳そこそこの娘を抱いて、カードをもらう僕。

長い順番待ちの後、目の前に立った豊さんは、

ニコッと笑って娘の胸を”トントン”とタッチしてくれた。

感激です。

 

写真・ビデオ撮影は禁止だったので、映像は残っていませんから、

娘は覚えていないといいます。1歳ですから当然ですね。

 

みなさんが初めて会った芸能人は誰ですか?

ぜひ教えてください。

近年、昭和歌謡が取り上げられる機会が増えましたが、

その中でも注目を集めて人気があるのが中森明菜さんのようです。

 

明菜さんの当時の人気は説明するまでもないかと思いますが、

彼女の一番の名誉はやっぱり女性初の2年連続レコード大賞受賞という経歴ですかね。

 

当時バイトしていた店の同僚が

「とっても可愛くてものすごく歌が上手い女の子がデビューした…

デビュー・キャンペーンに行かないか?」て誘われた。

それが明菜ちゃんだった。

 

 

そんな中森明菜さんがレコードデビューしたのは1982年。

この年は数多くの新人がデビューしていて、

それも"花の82年組"と言われるほどです。

 

私が記憶している女性アイドルだけでも、

中森明菜さん、小泉今日子さん、早見優さん、堀ちえみさん、石川秀美さん、

新井薫子さん、伊藤さやかさん、川田あつ子さん、北原佐和子さん、

坂上とし恵さん、スターボー、つちやかおりさん、真鍋ちえみさん、

原田知世さん、水野きみこさん、三田寛子さん、三井比佐子さん、渡辺めぐみさん、他

 

たくさんいましたね。可愛い子たちが…

 

そんな中、私が贔屓(ファンというほどではない)にしていたのが、

石川秀美さん

そりゃそうですよね、ヒデキの妹ですから。

 

秀美ちゃんは1981年に行なわれた第2回「ヒデキの妹・弟オーディション」に応募。

河合奈保子さんに決定した前回の倍の応募者となった55460名の中から選ばれて、

奈保子ちゃんに次ぐヒデキの二番目の妹として、

1982年4月21日『妖精時代』で華々しくレコードデビュー。

もちろん所属事務所は芸映プロ、レコード会社はヒデキと同じRVC契約となりました。


セカンドシングル『ゆれて湘南』以降、ヒット曲を連発し、

その年の新人賞も数多く受賞しています。

90年にシブがき隊の薬丸裕英さんと結婚、事実上の引退をしています。

12月13日に行なわれたオーディション決戦大会において、

一部ファンの中で、真しやかに囁かれた噂話として残っているのは、

オーディション最中のヒデキは退屈そうにえんぴつを転がして審査していたとww

しかし決定後のインタビューでは「僕がこの子がいい!って押したんですよ」

キッチリ発言しています。

鉛筆転がしの真偽のほどは定かではありませんが、

選考にあたった審査員が他の出場者を推す中、

ヒデキが秀美ちゃんを強く推したことは事実のようで、

それが決め手のひとつとなり、秀美ちゃんに決定したというのは知られた話です。

 

82年当時、新宿でバイトしていた私は、前述の同僚とは違うバイト仲間に誘われて、

秀美ちゃんの83年新春コンサートに行きました。日本青年館だったかな。

 

↑コンサートパンフ

NHKの音楽番組「カバーズ」観ました。

45分、ヒデキの話題と映像と曲で終始するという

ファンにはたまらない、嬉しい番組でした。

NHKはCM無いから民放での1時間番組ですね。

ホントにありがたい。

 

 

どうせ洋楽カバーに触れるなら、

もう少し掘り下げてくれてもよかったんですよスタッフさん。

 

私が気に入ったのはORIGINAL LOVE 田島貴男さんの『ギャランドゥ』

いいカバーになってました。

この曲はヒデキも様々なアレンジで歌っていたので、

田島さんのジャズアレンジでも、

ヒデキらしく歌ってくれただろうなと想像できます。

 

カバーって歌が上手い下手関係なく、

歌い手本人に合ったアレンジや演奏かって方がポイントだと私は思うんですけど、

ヒデキなんて、演奏はわりと忠実だけど

オリジナルよりかなり速いテンポで歌ってたり、

そもそもヒデキが自分の曲のように歌っているから、

オリジナルの方のファンは「?」って思ってるかもですね。

 

でもそれがカバー曲の良さだと思います。

オリジナル、カバー、どちらが良いかは、聴く側の好みでしかなく、

私はヒデキのカバーでも良し悪しはありますからね。

 

今回流れたヒデキの映像は…

まあ、よく観るやつでしたけど、

それでもこの時間に映してもらえて感謝です。

 

29日の“博士ちゃん”でもヒデキ流れるようですし、

ありがたや…

NHKの歌番組「うたコン」に高田みづえさんが出演。

ヒット曲『硝子坂』『私はピアノ』を披露、

50年近く経ってもあまり変わらず、いい歌唱でした。

 

デビュー曲『硝子坂』は木之内みどりさんのカバー…というか競作って感じですね。

作曲はヒデキとも親しい宇崎竜童さん、

宇崎さんとみづえちゃんのコンビはちょっと意外性のあるものでした。

私、この曲好きなんですよ、今でもよく聴きます。

 

みづえちゃんってカバー曲が多いです。

前出の『私はピアノ』、おなじサザンの『そんなヒロシに騙されて』や、

『真夜中のギター』『青春II』『愛の終わりに』『潮騒のメロディー』『秋冬』とか。

 

私が高田みづえさんの曲で一番好きなのは

『子守唄を聞かせて』

という1979年の10枚目のシングル。

こちらは谷山浩子さんの作品。

切ない曲なんでよ。

 

詞の内容が、売れないミュージシャンの彼が成功した後も

想いが残るって情景。

このシチュエーションは、風の『あの唄はもう唄わないのですか』に近い。

オフコースの『秋の気配』も、なんとなくそんなイメージがある。

 

このシングル、あまり知られてなくて、

実はカップリングだった『潮騒のメロディー』の方がヒットしてしまったから。

『潮騒のメロディー』はフランク・ミルズのインスト曲『愛のオルゴール』のカバーで、

人気作品だったからね。

 

ほんとに『子守唄を聞かせて』が好きだったので

収録アルバムまで買ってしまいました。

 

確かジャケット写真は篠山紀信さんじゃなかったかな。

 

 

作詞/さいとう大三、作編曲/馬飼野康二

 

1974年8月25日発売の第10弾シングル。

昭和歌謡史に残る名曲と言われ、また本人の代表曲として長く歌い続けられました。

 

ヒデキの代表曲となれば、世間的には『YOUNG MAN』でしょう。自身の最大のヒットでもありますし、数々の受賞と記録を作ってきていますから。しかしオリジナルではない。それを考えれば、本当の代表作は『傷だらけのローラ』の方ではないかと思います。

 

74年のヒデキブームを決定的にした曲ですが、チャートでは中村雅俊さんの『ふれあい』に完璧に阻止されての2位に。

前作の『激しい恋』より前に制作されていたものを、秋の勝負曲として温存したというエピソードを持ちます。

 

ディレクターのロビー和田さんは

「ローリング・ストーンズの『悲しみのアンジー』のような名前を使った曲をやりたいなと、アンジーのフォーマットだけを拝借して、叫ぶ時に”アー”で終わる名前を考えた」

と語っています。ヒデキは

「この曲は、もらった時にすんなり入ってきた」

「アクションは一の宮さんから、そろそろ自分で振り付けを考えてごらんと宿題を出された」らしい。

 

『傷だらけのローラ』のタイトルと歌詞にはモデルが存在したようです。リチャード・ダンブロジオという精神科医が書いた「ローラ、叫んでごらん」という本で、母親から虐待を受けてしゃべれなくなってしまったローラという少女に対する献身的な治療の記録という実話を基にしているとか。

 

衣装で印象的なものは、販促用のポスターで使われた黒のタートルネックに三重になった金のチェーンネックレス。この衣装の写真はカナダでのフランス語版ジャケットやベストアルバムのジャケットとしても使用されています。

 

この曲でNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、またこの年の活躍で第5回日本歌謡大賞で、ヒデキは念願の放送音楽賞を受賞。スタッフに担がれて喜びの熱唱をするヒデキ。

第1回横浜音楽祭賞、有線大賞大衆賞等々、様々な賞を受賞しました。

また第16回日本レコード大賞における歌唱賞を受賞しました。前年度の「ちぎれた愛」につづいて二年連続の受賞です。

 

さらにこの年のゴールデンアロー賞では、グラビアタレントが通例受賞するグラフ賞もその「被写体としての魅力」ということで受賞しました。

 

🔸この曲でNHK紅白歌合戦に初出場。

 

白組トップバッターの重責を担う。この当時、ヒデキ達スタッフが心に決めていたのは、「ファッションを追うのはやめよう、ファッションは我々が作るものだ」ということ。

 

その年大ヒットしたアラン・ドロンの映画「怪傑ゾロ」の衣裳で臨んだが、「初めての紅白でマスクをするとは何ごとか!!」と社長に叱られたようです。投げ捨てたマントを拾ってくれたのは三波春夫さんだったとか。

 

また74年の始めにラスベガスでアイク&ターナーのライブを見て、その迫力とステージ演出が印象的であり、それを自分もやってみたいと、炭酸ガスのスモークを初めて日本に持ち込み紅白歌合戦のステージで使用。

「誰もやっていないことをして楽しませたい、驚く顔を見たい」それが当時のヒデキ達の意気込みだった。

 

1998年のNHK紅白歌合戦では、トリビュートアルバムでの筋肉少女帯・橘高文彦のアレンジを秀樹本人が気に入り、LIFE WORKバージョンとの音源を組み合わせて使用。

 

🔸フランス語盤『LOLA』

 

ヒデキのフランス語版『LOLA』はカナダの少年歌手ルネ・シマールとの出会いから始まります。1974年第3回東京音楽祭のグランプリを受賞したルネは、8月22日から9月20日まで、大阪、東京でファースト・コンサートを行うため2回目の来日を果たし、その来日直後「ローラ」を歌う秀樹の熱唱に惚れ込んでヒデキにアプローチしてきました。

 

ルネの日本でのヒット曲「ミドリ色の屋根」は作詞・さいとう大三氏、編曲・馬飼野康二氏と「ローラ」を作ったコンビによるものです。その関係もあり、ルネの提案で、ルネのマネージャーであるギー・クルティエ氏がプロデュースして、仏語版の『Lola』がカナダで売り出されることとなりました。

翌年75年2月にフランス語盤としてカナダで発売され、チャートの2位という大ヒットを記録。

 

フランス語盤は海外からの逆輸入に対抗することと、ファンからの要望が多かったことから、日本では75年4月に4曲入り33回転盤17cmLPとして発売されました。世界発売はフランス、ベルギー、スイスの計画でした。

CDボックス「77の軌跡」で初CD化。

 

仏語第二弾として『ちぎれた愛』が計画されましたが、実現はされませんでした。

 

🔸『追憶の瞳~LOLA』

 

1986年に発表された『追憶の瞳~LOLA~』では12年の時を越えて「ローラ!!」と絶叫。12年後のストーリーを描いた作品になっています。ただし、原案では「ロザーナ」だったものをデビュー15周年を記念して途中からローラのイメージで変更したようです。近年は組曲として『傷だらけのローラ~追憶の瞳』が披露されることもあります。

 

🔸ライブのローラ

 

74年秋のリサイタル「西城秀樹リサイタル/新しい愛への出発」では40年のヒデキライブ史上、最も激しいローラが披露されています。5分20秒の熱唱は声を嗄らさんばかりの絶叫で「ローラ!!」の叫びは20回以上。演出も古代ギリシャの神殿を思わせる遺跡の舞台セットで、爆音と共に柱が崩れさり、遺跡に埋もれるヒデキ。

 

その後、仏語版で披露されることも多く、また78年のバレンタインコンサートでは服部克久氏のアレンジにより「未完成交響曲」第一楽章のイントロで新日本フィルをバックに熱唱。

 

88年には、ソウルオリンピックの前夜祭で「傷だらけのローラ」を熱唱。

「百恵ちゃんはテレビドラマの『赤い…』シリーズ、僕は映画の『愛と誠』がアジアでヒットしていたんですよ。『YOUNG MAN』を出したころ、香港で開かれたアジア音楽祭に行って、20分間のコーナーで歌わせてもらいました。そうしたら、テレビの視聴率は98%。知名度が上がりましたね。ソウルオリンピックの前夜祭は、向こうの人に『日本語で歌っちゃえよ』と言われて、始めはフランス語、それから日本語を入れました。韓国の公式の場で初めて日本語で歌ったということになりました」

 

中国でもローラが一番の人気だという。

「中国ではYOUNG MANよりもローラの人気がありますね。中国の旧正月には、日本の紅白のような白黒歌合戦という番組があるんですが、それにも2回出させてもらいした。

 

活動を積み重ねて、98年には外国人で初めて万里の長城でコンサートを開いたんです。観客は10万人ですよ。前の席は兵隊さんが並んでいて、立ってはいけないという形。

 

チャリティー活動をやるようになって、ジャッキー(チェン)や俳優のジョン・ローンも参加してくれました。ジャッキーはまだ売れていないころからの友達。チャリティーを向こうでやろうとすると、ジャッキーが声をかけてマスコミを集めてくれるんですよ。それで僕の活動が知られるようになりました」

 

「中国の副主席が『傷だらけのローラ』を好きになって、山本譲二くんが中国に行った際も『ローラ』歌ってくれって・・「何で俺がローラ歌わなきゃいけないんだ! だけど歌ったよ俺、最後には(笑)、知ってたから良かったけどね」って。だから「今度僕が行ったら『みちのくひとり旅』歌うからって(笑)」

 

🔸トリビュート『傷だらけのローラ』

 

1997年に作られたヒデキのトリビュートアルバムでは、筋肉少女帯の橘高文彦のアレンジとマリス・ミゼルのGACKTのボーカルでカバーされています。

 

そのアレンジを秀樹本人が気に入り1998年のNHK紅白歌合戦ではLIFE WORKバージョンとトリビュート・バージョンの音源を組み合わせて使用しています。

橘高文彦とマリス・ミゼルのGACKTとの共演も実現しています。

 

2024年にはB'zのギタリスト・松本孝弘さんが、新浜レオンさんをボーカルに迎えてカバー。

 

🔸アレンジ『傷だらけのローラ』

 

1996年のセルフカバーアルバム「LIFE WORK」では、アレンジを芳野藤丸氏が担当、ストリングスが入らないエレクトリックな音源ですが、19才の頃と同じようなチカラ強く熱唱するヒデキ。この後、歌番組やライブではこのアレンジで歌われることが多くなります

 

 

2000年の「bailamos2000」ではオリジナルの19才当時の声をサンプリングしてリミックス「傷だらけのローラ PANDART SASANOOOHA REMIX」も作られました。アレンジは新進気鋭の日本のダンスミュージックグループ・P&ART SASANOOOHA(パンダとササノハ・通称パンササ)による超ハイパーなローラで、原曲を留めていません。

 

 

2001年には30周年を記念してファン投票により作られたセルフカバーアルバム「PLANETS」で再び歌い直しています。アレンジ担当は明石昌夫氏。ストリングスを使わないのは「LIFE WORK」と同じですが、オリジナルに近いアレンジで作られています。

 

いつかに続く…

 

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