FRAPER~「RAP」という名のGIRLS PUNKバンド -5ページ目

ルージュ インタビュー

「BLANK AGE CLUB」より

1988年3月


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B:バンドを始めたきっかけから話してもらえますか?


R:中学の頃から色々バンドやっていたんだけど

 84年にNISHIKIとKAORIちゃんと、

 前のドラマーのMISAと「やりたいね」

 「じゃやろうか!」みたいに何も考えず始めちゃったの。


B:最初からオリジナル?


R:みんな好きなバンドが違うでしょ。

 だからMISAちゃんが「ピストルズのカバーやろう!」とか言うと

 私が「嫌だ!」とか反対しちゃって。

 カバーが全く出来なかったの。

 だから初めから全部作らないといけなかった・・・


B:団結し始めたのは何時ごろでしたか?


R:う~ん。音楽性を1つにする事は出来なかったの。

 例えば、私が作った曲でもギターは好きにしていいよって

 それぞれのパートで我を通せるようにして

 自然になった・・・団結というより我の通し方を覚えたみたい。


B:メンバーと合わなくなったりしませんか?


R:詩に関しては任せて貰っているの。

 ・・・歌うのは私だし。

 そうね、私にとったらRAPは家みたいなものなのね。

 取り合えず今は私とKAORIとで守っている感じ。

 新しく入った2人のメンバーは新しい住居人でね

 そこからお嫁に行ったり引越したりはあるだろうけど

 1つの家にいて、その中で、皆で1つのものを作っているの。

 だから詩や歌に関しては私の部屋で

 他の人はそこに入らないって雰囲気あるな。


B:近頃の予定は?


R:ライブを暫くやらないかも知れない。

 新曲を作らないとダメなのね。


B:という事はレコーディング?


R:夏にはしたいな。

 今回メンバー二人がレコーディング経験ないから

 慣れて欲しいのね


B:LPの予定は?


R:初めにシングル出して、それに続く感じでLPにしようと思ってるけど

 取り合えず6月まではライブを控えて曲を作ろうと思ってます。


B:衣装のイメージとか考えたりしますか?


R:こだわってることは、こだわっている。

 イメージとしてはね、ヴィスコンティの映画みたいなの着たいな。

(注:RAPの衣装は手作りなんだそうです)


B:最近考えている事ってありますか?


R:う~ん。そうした方がいいと思っている事なんだけど

 ゴミをね、”生ゴミ”と”ビン・カン”とか分けるって事・・・


B:ええ・・・(ちょっとびっくりしている)


R:あのね、去年の夏、リザードのジャケットを撮っている所を

 ビデオに収めてって言われて、

 カメラ持って夢の島に行ったの・・・・

 思ったよりキレイで花が沢山咲いててね・・・

 でも、ふと見ると土にビニールが沢山混じっているの!

 ショックだったな・・・

 それで、よく見たら周りの草ってみんな生命力の強い草でね。

 それが「キリン草」とか花粉症の原因だったりするわけ。

 それ見てて”自分の罪だな”って思った。


B:”死”について考えている事ありますか?


R:今度の曲で1曲、脳死の曲があるんだけど

 それは私の、おじいちゃんが脳死状態で死んだ人でね、

 私達のエゴでずーっと生かしてたんだけど・・・

 死んだ時の顔見たら”死”って怖いと思ったのね。


B:その曲について少し教えてください


R:はい。その曲っていうのは

 死んじゃった魂が、ベッドに横たわっている

 自分の身体に向かって話しかけているの。

 「なんでアナタはそこにいるの?私はココにいるのに」

 って。「私はアナタにサヨナラを言いに戻ってきたけど

 アナタはどうする?」って歌なの。


B:どういう状態の時こういう詩が浮かぶんですか?


R:おじいさんが亡くなったのは何年も前の事だけど

 そういう事を思い出したりとか・・・

 私、病院でアルバイトしてたのよね。

 そこで沢山人が死んだのよ・・・

 そういう時、やっぱり死ぬっていうのは

 TVみたいに簡単なものじゃないなぁって。


B:そうですよね。死なんて何時来るかわからない。

 毎日NEWSとか見ているとマヒしちゃうんですけど

 明日はわが身かも知れません。


R:でも一瞬で死ねる人って幸せだと思う。

 すごく苦しんで毎日点滴したり、

 床ずれっていって長い間寝ていると身体が腐ってくるの。

 そういう風になって死ぬのは苦しいよね。


B:私、死ぬのってあまり恐ろしいと思ってないんです。

 天国で、どうしても私にしか出来ない仕事があって

 呼ばれて行くって考えているんです。


R:私は死んだら何処にも行きたくないな。

 前「ラブソング」って曲を書いたの。

 その曲は、もし死んだら大気になってアナタを包んでいるって曲で

 ・・・それが夢なの


B:あ!それって島田雅彦の「未確認尾行物体」って本に

 出てくる考え方!


R:そうなんだー。

 でね、私が死んだらね、ほとんどのものは

 誰かにあげられるようになっているの。


B:えっ?所有物とか?


R:内臓


B:え~!?バンク?肉体に執着ないですか?


R:それはない。でも魂に対する執着はあるの。

 でもさ、肉体として誰かの内にいても

 魂ってなくなっちゃうんでしょ?

 それが悔しい!成仏したくない(笑)

 親とか友達の周りにいつもいたいな。


B:バンクってすぐ入れるんですか?


R:うん。アイバンクとかはね。

 私のおばあちゃんがアイバンクに入っててね。

 死んだらすぐ係の人が来て、

 目を取り出して義眼を入れたの。

 そしたら死んだ時のやつれた顔が、すごくキレイになって

 誇らしげに見えたの。

 それで母と私とでアイバンクに入ったんだけど・・・

 今の日本って死んだら焼いちゃうでしょ。

 どうせ焼くならあげた方がいいじゃない。

 腎臓とかは難しいかも知れないけど。


B:延命についてはどう思いますか?


R:そうね。脳死の場合は考える事がないから

 もうその人じゃないと思うの。

 それを生かすっていうのは・・・私だったら嫌だな。

 でも植物状態でも脳だけ生きている人っているでしょ?

 そういう人は夢とか見ているかも知れないし

 例え身体を機械にしても人間として思考するよね・・・


B:色々なことを考えているのですね


R:私、「世界中の事を全部、自分の事のように思っていたら

 疲れるからやめなよ」って友人に言われたの。

 でも、もし自分に起ったとしたら・・・を

 考えなきゃいけないと思ったの・・・

 ・・・それに対する対策とかも・・・

 身近なものとして考えてみた方がいいと思う・・・

 何に対してもね。


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このミニコミでは「RAPのルージュ」というより

一人の人間としてのルージュの魅力が溢れていました。

ゴミ問題、脳死、延命問題、臓器移植・・・

18年前からすでにルージュは心を痛め

その問題と向き合っていたのかと・・・

こういう人だからああいう詩が書けたのだと

今読み返して思います。






KEI加入~ニシキ脱退


ニシキがロンドン行きをメンバーに伝えてから

密かにオーディションは行われていたようでした。

選ばれたのはメンバー達より3つ年下のKEI


1988年1月発行のRAP通信VOL25によると


まずデモテープと書類審査をし、

気に入った人とスタジオセッションという形で

行われたオーディションで最終的に残ったのは2人。

メンバーは相当に迷ったそうです。

一人はRAPのコピーバンドをやっていただけあって

モロにニシキの音を出す人だったそうですが

2年後ニシキが戻った時の事を考え

(ツインギターを念頭において)

全く別のタイプのギタリストであるKEIに決めたそうです。

シークレットで行われたGIGでは、

GのパートをBでカオリが補ったり

アルガがコーラスをとったりと苦労したようでした。

(残念ながら私は見れませんでした)


そして・・・

事件は起きました。


1988年2月29日 渋谷LAMAMA

            対バン:エクセホモ


この日のライブは久しぶりに帰国したニシキとKEIとの

初のツインギターでのGIGという事で楽しみにしていました。

それが・・・

開演時間になってもニシキはステージには現れなかったのです。

会場では確かに姿を見かけたし

外から聞こえたリハーサルの音は確かにニシキのギターでした。

このことについて、メンバーから何も聞く事は出来ませんでしたから

あくまでも憶測でしか言えませんが

その時にLAMAMAにいた方から聞いた話では

ニシキとKEIが激しく口論をしていたそうで

結局、そのGIGを最後にニシキは正式に脱退する事になってしまいました。


RAPに、ニシキとKEIとの間に何があったのか

それは私達ファンには図り知る事は出来ませんでしたが

「絶対RAPに帰ってくる」と言っていたニシキが

また戻ってくる事を祈るだけでした。



「ララバイ」

ニシキがロンドンに旅立った後、

RAPはZOLGEのギタリスト、TAKIをゲストに迎え

ライブを行いました。


11月15日 名古屋 芸音 

        対バン:OXZ ガラス玉

12月6日  渋谷LAMAMA

        対バン:スピアメン


この頃、RAPのファンクラブ「RAPARMY」では

会長が代わりました。

新会長はBIWAさんという男性の方でした。


1987年10月発行のRAP通信では

新曲「ララバイ」について語られています。

18年経った今読み返してみると

この曲は当時の、ルージュの心の叫びだったんじゃないかと

そう思ってしまったりもします。


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新曲 「ララバイ」について


頭の中がワーっとなって何もかも放棄したくなる様な

衝動に駆られた事ってあります?

「私には荷重過ぎる」と

つい弱気になってしまいそうな事。

私は時々その為に眠れない夜を過ごすのですが

やっぱり捨ててしまう事なんて出来やしない。

なぜなら、それが私にとって本当に本当に

大切なものだという事を、よくわかりすぎているから・・・

「失うものなんて何もない」

なんて使い古された名セリフ。

けれど、やっぱり私には言えやしない。

守るべきものは多すぎて、それは私には重いけれど

それを守ろうって気持ちが私を支えているワケだし

それが私なのだから。

私にとって守るべきものとは大きく分けると2つあって

1つは私の愛すべき人々。

もう1つは私が私である為のもの(場?)

どちらも失くしたくないなんて我儘かも知れない。

けれど愛する人々は何にも代え難いものだし

それを大切だと思うのは自分の心なんです。

自分が自分でなくなってしまったら全てが終わり。

ただ生きているだけ。

私という肉体を借りた他の人間が

私の大切な人々を愛する事と同じ。

別にスターになりたいわけでも

金持ちになりたいわけでもないんです。

”私が私で有得る場所”を、いつでも

最高の状態にしておきたいと思うのは慢心なのでしょうか?

不器用な私は全てにバランスを取る事がままならず

当分、眠れない夜が続きそうです。

                    ROUGE


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ニシキロンドン留学

1987年9月発行のRAP通信Vol23が届いた時

思わず呆然としてしまいました。

Dsにアルガが決まりライブも好調、新曲も増え

「これからまた・・・」と思っていた矢先、突然

ニシキがロンドン留学の為RAPを2年間離れるというニュースを知りました。

私の行けなかった富士でのライブが最後のステージで

とてもショックを受けました。


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「さよなら、じゃなくて 行って来ます」


今までしてみた全ての事の中で一番の私の青春だったバンド。

悩み苦しみ、そして出した結果。

それは今やるべき事は何かというと渡英だった。

中学の頃から音楽もイギリスに行く事も憧れだった・・・

憧れを現実にする事もまた私の目標でもあった。

そして時が経ってRAPを結成・・・

素晴らしい仲間と好きな音楽・・・

音楽は一生続けて行こうと心に誓ったのも

RAPのお陰だと思う。

RAPは一生続けて行くと思う。

私が入っても誰が入ってもRAPを好きな人がRAPをやる事が

私にとってベストなRAPなのである・・・・

2年位、休止する事になるけれど

また帰ってきてRAPが出来れば私にとっては大変嬉しい事だ。

そして今ファンとして見てくれている人が

1人でも2人でも残っててくれれば本当に嬉しい事です・・・

年をとっても40になっても50になっても

RAPそのものが残っていてくれれば・・・・

50歳のある日にRAPのGIGがあったら

みんなも見に来て欲しい。

私達RAPはそれでもきっとやり続けて行くと思うから・・・

バンドをやる事はとても簡単だけど

名前を残すのは難しいよね・・・

でもRAPは残りたい。

これはファンの皆にもメンバーにも、そして私自身にも

しっかり心に焼き付けて欲しい・・・

離れて、その人の大切さがわかる時には

もう二度と会えない人、会わない人になる事が多いけれど

それは私にとって一番悲しい事。

大切にして欲しい。

人との交流、友人、そして自分自身の人生・・・

最後にKAORI、ROUGE、ARUGA、

そして私を支えてくれたM、D、K、

モモヨさん、相川さん、森脇さんetc


本当にありがとう!

ファンのみんなもありがとう!

さよならじゃなくて行って来ます。

また会えるその日まで SO LONG!

必ずRAPに戻ってくるからさっ!


                NISHIKI


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ニシキは今もロンドンで暮らしているそうです。

でも、私は今も、このニシキの言葉を信じて待っています。



ニシキ脱退直後のGIGは


9月25日 新宿ロフト

ゲスト ギタリストとして

関西のナーバススキャンダルのMANAMIがGを務めました。




Mis Vein


「HYSTERIA」の後、RAPは新曲を次々と生み出して行きました。

結果的には、そのレコーディング前にRAPは解散してしまったので

今はもうどうあがいても聴けない曲ばかりですが

そのコンセプトや出来は「HYSTERIA」を超えるものばかりでした。

一部「宝島」などのビデオには収録されているようですが

「フルアルバムを作る予定」とルージュが語っていたので

本当に作品として世に出なかった事が悲しく思えます。


1987年8月発行 RAP通信Vol22より


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「Mis Vein(虚無)にならない為に。by ルージュ」


整形外科というところは老人患者が多い。

ほとんど老人ホームのように待合室は老人でごったがえし

その上、彼らは一日中そこにたむろしている。

うつろな目をして誰彼構わず昔話を話し始める。

受け付けに座っていた私は

いつも彼らのいいカモであった。

「ねえ、あんた音楽やっているんだってねぇ・・・・

いいねぇ・・・若い人はね・・・

あたしはね、あたしの若い頃はね

そんな夢よりもまず生きていく事が先だったからね・・・

そりゃあね、あたしにだって夢はあったんだけど

そんなもの、とんでもなかったんだよ・・・・」

彼女達は毎日毎日、私を話し相手に

今の抜け殻のような自分の運命を悔やみ、そして呪う。


彼女達は自分の夢など持つ事が出来ない時代を生きてきた。

夢を諦めないと生きてゆけないものが多かった。

自分というものを全く捨てて あるいは

自分の人格さえも忘れ去って身を粉にして生きてきた。

そしてそれは、それなりに充実していた。


戦争を通り越して・・・

夫が死に、子供達はそれぞれの家庭を持ち・・・

時間と不自由しないだけのお金は残ったが、しかし・・・

彼女自身は何処にもいないのだと語る。

いつものように病院の待合室で昔話に埋もれて

日々が過ぎ死ぬのを待つのだと。

・・・・Mrs Vein達は語る・・・


RAPに新曲が2曲増えた。

その1曲は「Mis Vein」という。

Mrs Veinと話していてひらめいたコンセプトだった。


私達は、その気になれば夢を追う事が出来る。

夢を追いながら生きる事が出来る。

けれども自分の力を出してみる前に

諦めてはいないだろうか?

そしてそれよりも、自分の夢を掴もうというのに

自分では何もせずに他人の力に頼ってはいないだろうか?

「私がやらなうても誰かがきっとやっておいてくれるわ」と

他人任せで、そのくせ

上手く行かないと人のせいにしていないだろうか?

ふんぞり返って座っているだけで掴んだ夢なんて

空気の入った風船のようなもの。

1人きりになってみて初めて

空っぽの自分に気付くなんて、あまりに惨めだ。

MisVeinにならない為に、

自分の足はシッカリ地面に着けて

一歩一歩踏みしめるようにして生きて行こうよ!ねっ!

何度夢が壊れかけても。


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ニッキー&ウォリアーズとのツアー

当時RAPと親しかったバンドにニッキー&ウォリアーズがあります。

ニシキとニッキーが姉妹だそうで、

この夏、RAPはウォリアーズと一緒にツアーに出ました。

日程は

8月8日  前橋ガルシア

8月14日 静岡モッキンバード

8月15日 長野ブラックアイ

8月30日 富士ユニセックス

このうちウォリアーズと一緒だったのは静岡、長野のみ。

あとはRAP単独ツアーでしたが

静岡~長野の移動中、丁度諏訪の花火大会とぶつかり

長野へ到着したのはライブ時間を大幅に遅れた深夜。

それでもファンは待っていてくれたそうで

「感激した」と後にメンバーは語っていました。

(ファンも終電が無くなり帰れなくなったので

メンバーと一緒に宿泊したそうです。羨ましい。。。)


1987年7月発行 RAP通信Vol21より


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今までRAPのGIG活動は主に

東京~関西って感じが多かったのだけれど

この夏からもっと違う所に行く事にしたのは

1つはARUGAという新メンバーが入った事により

本当の意味でRAPも初心に帰ってみようと思った事。

もう1つはARUGAと出会ったのも不思議な縁だし

(なんせARUGAはRAPを全く知らなかったのだから)

そんな縁をもっともっと広げたい。

インディーズのレコードも買わない、

DOLLとかも読まない様な人達が気まぐれでライブハウスに行って

私たちと出会えるチャンスを作りたい!と思ったから。

出来るだけ行った事の無い所、ROCK人口の少ない所でも

やらせてもらえる場所さえあれば行きたいと思う。

ただし、今の段階だと交通の問題や経済的な問題で

どうしても近くに限られてしまっている。

(車の運転が出来るのがニシキ1人だし)

ツアールートもなく、どこにどんなライブハウスがあるのかもわからない。

地方の方、どうぞご連絡ください。

今後の活動の為に力を貸してください。

とりあえず群馬、静岡、長野に行きます。

近くの方、ぜひ来て下さいね!

                  ROUGE


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新メンバーでのライブ再開

ARUGAが加入し、メンバーが固まったRAPは精力的にライブ活動を行いました。


前回書いたアルガのデビューGIG

4月12日 名古屋ハックフィン(対バン:割礼 バンパイア)

を皮切りに

4月29日 下北沢屋根裏(対バン:ゴメス)

そして

6月23日 新宿ロフト(対バン:マネキンノイローゼ)

7月6日 京都ビッグバン(対バン:オフマスクOO、XOYO)

Ds不在で停滞していた本来の「ライブバンドとしてのRAP」が

完全復活して嬉しく思えました。


デビューGIGの模様をアルガ自身がRAP通信で語っています。



1987年6月発行 RAP通信VOL20より

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早いもので、このRAP通信を書くのも3度目となりました。

4月12日RAPのメンバーとして

初ライブを名古屋ハックフィンで行ったわけですが

キンチョーしました。

ほんとに情けない位のキンチョー。

会場自体は狭くて、いつも練習してるスタジオと同じ位なんだけど

やっぱり、こう、なんていうか

対バンの割礼、バンパイアの人達が

「TOKYOからやってきたバンドだぜ!」って具合に見ている

リハーサルの緊張ったらなかったなぁ。

でも本番ではリハーサルの時ほどの緊張感は

スタートと同時に遠のいていったのですが・・・

ハッキリ言ってこのライブ、

私のデビュー戦であったわけですが”凶”と出た!

But、これからのライブへの一歩としては貴重な体験でした。

ほんとに色々勉強になった。

ツアーの楽しさも味わえたしね。

でもさぁ、NISHIKIが作ってくれたオニギリを

ダイエー前の歩道で食べていたマヌケな私たちを目撃した

パンクのお兄様達は

ステージでは決して見られない、

もう一つのRAPを見れたワケで。

う~んスゴイナァ。

名古屋ツアーの思いを胸に次は4月29日屋根裏のライブへと

意識を高めるARUGAです。

では皆様、屋根裏で会いましょう。がんばるぞぉ!

                         ARUGA


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アルガ加入

オーディションで選ばれたのは

当時、長野在住のアルガでした。


アルガのデビューGIGは

4月12日 名古屋ハックフィン

      共演はカツレ

そして東京でもお披露目GIGが行われました。

4月29日 下北沢屋根裏

      共演はゴメス


RAP通信Vol 18、Vol 19より


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「新Ds ARUGAより」


初めまして。

ワタクシ新DSのARUGAです。

RAPファンの皆様にMISAさんやKINTAさんに負けない

大きな愛で見守って頂けるよう

RAPのメンバーとしてメチャクチャ暴れたいと思ってます。

どーぞヨロシク!

サテここで「何?私がRAPのDs募集に応募したか」です。

とってもハズカシイ事なんだけど

RAPの存在を知らなかったんです。

その昔は都内の某ライブハウスでバイトしていて

そっちの方は詳しいはずだったのに、2年位長野に山篭りしている間は

新しいバンドに疎くなってしまってたんですねぇ。

で、RAPを知らなかった私に以前一緒にバンドやっていたコが

「私の好きなバンドでRAPっていう女の子バンドがあるんだけど

Ds募集してるからやってみれば?」と言ってくれたのだ!

私はあまり物を深く考えない方だから次の日にはもう

郵便局へ足を運んでいたのでした。怖い話でしょ?

こんな軽い奴って思うわよね。

でもさぁ、RAPのテープが送られてきて聴いて思ったんだ。

”明るいPUNKROCK”

女の子なんだからって女を売り物にしてるのでもなくて

男に負けないゼって気張っているでもなく

素直な気持ちでスッと受け入れられた。ヨカッタ。

カッコイイBAND。

RAP通信に乗ってるメンバーもカッコイイ。

その中で出来るなら、やれるだけのことをしてみたい!

ってホント思っちゃった。

そしてラッキーにも、ここでRAPのDr”ARUGA”となるわけです。

ファンの皆様、ROUGE,NISHIKI、KAORIヨロシク!


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KINTA引退


1987年3月発行RAP通信Vol 18より。


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2月16日のレコード発売GIGを最後にKINTAが脱退する。

加入して半年、これを読む人の中で

KINTAがどんな人か知らない人も多いのではないか。

GIGも3回位しかやっていなかったし・・・

ただKINTAは私達にとって本当に大切な人だし

色々と学ぶ事が多かった。

決してMISAとARUGAの”つなぎ”ではなく

”RAPのドラマー”であったと思う。

そんなワケでKINTAに今の気持ちを語ってもらった。


K:KINTA

R:ROUGE


K:マネキン自体がさ、あまり派手な活動するバンドじゃなかったからさ

 RAPに入って、すごく楽しかったし、全然違う感じだから

 プレッシャーはあったけど入れ込めたね。

 すごく濃縮された時間だったと思う。

 レコードはさ、すごい緊張しちゃって、気持ちのゆとりが無かったのが

 残念だったけど、あれが私のタイコなんだろうね。

 RAPに入って最初で最後のレコードになっちゃうけど

 いい出来だったと思う。

 今度(2/16)のGIGは感傷的になっちゃうかも。

 この間、マネキンの最後だったんだけど

 LASTの曲はやっぱりね・・・・

 RAPのGIGでもう本当に最後だから・・・。

 ステージでたたくことないだろうし。

 なるべくリラックスしてたたきたいけど

 きっといつもより力入っちゃうと思う。

 色んな想いが1曲1曲に込められると思うからね・・・

 辞めてからも、やっぱり好きだから聴いたりGIG行ったりはするよ。

 私が抜けた後のRAPやマネキン見るのも楽しみだし。

 客観的に見れるしね。

 何か理想的なやめ方じゃないけど。

 昔はさ、結婚とかでバンド辞めるのってダサイと思ってたから。


R:でもKINTAの場合、誰かに言われて辞めるんでもないし・・・

 みんな、バンド続けるのはさ、

 それが自分らしいって思うからだと思うの。

 自分が自分でありたい、っていうか。

 少なくとも私はそうだし。

 KINTAはさ、お遊びでバンドやってたんじゃないし

 もうバンドやってる年じゃないって辞めるんでもない。

 バンドやっている以上に自分らしくあれるモノを見つけたワケだから。

 彼とバンドを計りにかけて選んだんじゃなくって

 自分の人生って事を考えて出した結論だから。


K:今度は、私はリスナーとして

 このシーンっていうか、そんなのを見守って行くと思う。


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そして・・・

キンタが加入した当初からの引退が決まっていたので

RAPはGIGやレコーディング活動の合間に

平行してドラマーのオーディションを進めていたようでした。

選ばれたのは長野に住むアルガでした。



「HYSTERIA」ライナーノートより

 

 それまで”女”だと言う事すら、

取り立てて気にも留めず、

生活し、歌い、BANDを続けていた。

私が自分自身を「子宮を持つもの」として意識し始めたのは

RAPを結成してから、すいぶん経った後だったように思う。

 永遠に変わらぬもの。

そしてその強さを発揮すべき”場所”とは?

 誰の心の中でも、毎日戦いは繰り返される。

群集心理にまどわされず、自分を見失わない戦い。

危険なものから愛するものを守るための戦い。

そんなものは武器を持って戦う戦いよりも

よほど苦難で身近なものだ。

そして”本当の強さ”を身に付けていなければ

いとも簡単に負けてしまう。

 自分の良心に正直に生きる事。

それはもう長いことの課題である。

 ある日、母親の古い日記を見つけた。

丁度私が生まれる頃のものだ。

その中には私の知っているはずの”江戸っ子気質”の

母とは別人のような、細やかでしなやかな文章で

胎児の私を愛しみ優しく語り掛けていた。

若すぎる妊娠。周囲の好奇の視線の中、

なぜあんなにも柔和でいられたのか?

あの時母が周囲の目に負けていたならば

私は堕胎されていただろう。

RAPの「DA・TA・I」という曲は

22年前に、もしかしたら堕胎されていたかも知れない

”私”の歌である。

 「産んでくれなんて言った覚えないわよ」

と、何度悪態をついた事だろう。

親の言う事のいちいちが気に障り、うとましく思った。

子供の頃の私にとってROCKは唯一呼息することの出来る空間であり、

両親は、その空間を閉ざす敵のように思われたのだ。

18のとき、家を出、自分だけの力で生活を始め

食費を稼ぐ事すら、どんなに大変かを知り

唯一の逃げ場であったはずのROCKの世界も、

自分が逃げていたつもりの現実となんら変わりのない事を知り・・・

うまい話につられ自分の良心さえ捨て去り流されていく友人達・・・

また自分も幾度となく流されそうになり

たまらない思いにかられた時、改めて自分の甘さを悟り

今まで、いかに両親の大きな愛に包まれ、

守られてきたのかを思い知らされた。

そして幼い日の記憶が、私の頭の中を

まるで夢のようにめぐる・・・・

 誰の親に限らず、親というものは、いつでも

子供の事を思い続け、

それが相手のいないキャッチボールの様に

決して受け止められなくとも変わらず休むことなく永遠に

その愛を投げ続ける・・・・

それは子を持つ者独特の”強さ”なのだろうか?

まだ子供を産んだ事の無い私には

母親の強さを完璧に身につけるのは、とても難しいが

何かを愛すれば愛するほど

(たとえそれが人に対してではなくとも)

そして、それによって傷付けば傷付くほど

今まで両親にしてきた仕打ちに胸が痛み

両親の愛を思い、それに少しでも近づきたいと思う。

 傷つけるため、破壊するためではない、”やさしき強さ”

ここに私達の「HYSTERIA」は完成した。

その世界は女性でなければ表現できないものと自負している。

 歌詞を書いている時の私は、

まるで母親の胎内を浮遊している気分だった。

曲が出来、レコーディングが終わり、ふと気が付くと

意識の中でそれぞれのHISTERIAに住んでいた私達だった。


                      1986 冬 ROUGE