久々にさきたま古墳群を訪れ
古墳群の地形が気になり忍城周辺を散策。
そして4月12日にもリニューアルした
さきたま史跡の博物館を見学する為
またまた古墳公園に出向きました。
行田市を訪れるのは今年三回目。
(よくやるわ)
丸墓山古墳の桜が最後の見頃です。🌸
上の画像は博物館に展示されていた
埼玉県西部の地形図です。
沖積平野の中央部に
さいたま市から大宮台地が広がります。
地図の薄緑の部分がそれで
さきたま古墳群は台地の北端になります。
ただ、‟台地”と言っても
注意しないと気が付かないレベルです。🤔
更に博物館で目が釘付けになったのがこれ。↑
江戸時代の忍城の周辺図。
薄青い線は河川を現わしておりまして
城を中心にして網の目のように
水路が張り巡らされています。
地図の両側の太い線は利根川と荒川で
崎玉古墳群は地図下側の台地になります。
さきたま古墳群周辺が
水運の拠点だった事は明らかですね。😲
公園内に旧遠藤家という
移築された古民家が展示されています。
内部に入って驚いた。😲
なんと!舟が天井に格納されている!
元は幸手に建てられた江戸時代の民家ですが
幸手も利根川と荒川に挟まれた沖積平野。
水運が発達していた証拠でしょうね。
博物館の次に訪れたのは
‟小崎の沼”の万葉碑。
埼玉の小崎の沼に 鴨ぞ羽きる
己が尾に 降り置ける霜を 掃ふとにあらし
忍藩主の阿部 正允(あべ まさちか)が
万葉歌人の高橋虫麻呂が詠んだ
‟小崎沼”の場所を1753年に特定した石碑です。
場所はさきたま古墳の2~3km程東側。
どう考えても古墳群の周辺は
沼だらけの湿地帯だったと思われます。🤔
湿地帯のイメージは良くないけれど
大昔は水上物流の拠点でもあるし
城の場合は信長の清州城のように
湿地は防御の役割も果たします。
つまり、さきたま古墳群は
水上物流の拠点を利用して
勢力を拡大した地元の豪族が
大和政権との関係を深めた痕跡だと思う。
それを物語るのが稲荷山古墳から出土した
金錯銘鉄剣というワケです。
いつもの独断と偏見ですけど・・・・・😁
次に訪れたのは利根川沿いの酒巻古墳群。
こちらはブラタモリでも採り上げられた
所謂‟埋没古墳群”です。
実は「関東平野造盆地運動」といいまして
関東平野の中心部(埼玉、群馬、茨城の県境あたり)は
ず~っと地盤沈下が続いているそうです。
以前訪れた群馬県太田市の塚回り古墳も
その影響で田圃の中に隠れてしまいました。
(リンクを貼っておきます)
酒巻古墳群から出土した埴輪の中で
上の画像の馬の埴輪がとてもリアル。
高さ約130cmですから
実際の当時の日本馬の等身大です。
酒巻古墳群やさきたま古墳群は
水運と馬がキーポイントになりそうだなぁ~
この平坦な畑の下に
23基に及ぶ古墳が埋もれているとは
なかなか想像できないでしょうね。😮
今回も奈良漬を購入しました。
ところで何故行田で奈良漬なのか?
お店の方に尋ねたところ
その昔行田には酒蔵が多く
白瓜の生産も盛んだったことから
生産業者が7社ほど存在したそうです。
更に行田が国内最大の足袋生産地だった頃
全国から集まった女工さん達が
お土産として郷土に持ち帰り
知名度が上がったそうです。
関東造盆地運動で湿地帯が広がり
水運の要衝になった事で忍藩という
譜代大名筆頭の藩が治める事になる。
稲作が難しい地形を工夫して
綿花栽培が盛んになり
綿を素材とした足袋が主要産業となりました。
足袋も奈良漬も‟地殻変動のたまもの”と言えそうですね。
やはり人は生かされているようです。🤔
最後に食事処のご紹介。
今回は二子山古墳脇の
一寸一さきたま店さんにお邪魔しました。
(画像奥のマウントは二子山古墳です)
営業開始時間直後に暖簾を潜りましたが
既に駐車場には5~6台のクルマが・・・・・
入店すると「ご予約されてますか?」と尋ねられ
オヤジとオバサンはかろうじて
カウンターに座る事が出来ました。
危なかったなぁ~😌
定番の海鮮丼(↑)を注文。
実は食事の前に注文した
ノンアルコールビールのグラスが
しっかりと冷えていたので
結構イケそうな気がしてました。
やぱり想像通り!😃
刺身は柔らかくご飯も美味しい。
感心したのはガリです。
角の取れたまろやかな味わいで
量も沢山ありました。
これで1,890円のお値段は安い!😍
更に、茶わん蒸しのお味にコクがあり
今まで頂いた数々の茶わん蒸しの中では
ベストと言っても良い程です。
まさか埼玉県最大規模の前方後円墳の脇で
これ程の海鮮料理が頂けるとは!
ごちそうさまでした。🙏
そして、ありがとうございました。
さきたま古墳の記事はこれにておしまい。