のぼうの城をリベンジしました(2):石田堤 | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

 

さきたま古墳群のエッセンスを求めて

久々に忍城を訪れ、「のぼうの城」を読み

そしてまた忍城周辺を歩いたオヤジ。

しかし、さきたま古墳群のエッセンスには

辿り着いていない・・・・・・・・😓

 

という訳で、今回は小説の題材になった

忍城の水攻めに関するネタです。 

 

 

まずは石田堤のお話から。

これ(↑)は行田市教育委員会発行のリーフ。

前回ご紹介した「忍城今昔図」といい

行田は自治体が観光誘致に熱心です。😲

 

 

1590年に丸墓山古墳に陣を構えた石田三成。

突貫工事で28㎞にも及ぶ堤防を作ります。

完成まで1週間足らずと伝わりますが

「ホンマかいな?」という印象です。😲

 

現在でも堤防の一部が残っており

史跡公園として整備されています。

上の画像は駐車場から

新幹線のガードに向かって撮りました。

北側に向いて撮影しており

本陣の丸墓山古墳は画像の奥になります。

 

 

堤防には登る事が出来ます。

忍城は画像の右側になりますが

建物が邪魔をして櫓は確認できません。

確かに忍城周辺の高台と言えば

丸墓山古墳の墳頂くらいでしょうね。🤔

 

 

堤防の断面図を観察する施設があります。

 

 

地図ではこんな(↑)感じ。

赤い線が堤防で、利根川と荒川の水を

堤防の内側に流し込んだ訳です。

 

飽くまでも独断と偏見ですが

秀吉軍の優れているところは

ロジスティック、つまり物流です。

信長の時代と比べて軍隊の動員力が

飛躍的に高まります。

秀吉の時代になると石田三成を筆頭にした

‟五奉行”が頭角を現してくる。

最前線で戦う兵と同じ位に

後方支援のスタッフが重視され

彼らの発言力が増してくる訳です。

 

家康みたいに最前線で命懸けで戦う武将は

あまり面白くないでしょうね。

豊臣政権崩壊のキッカケでもあると思う。😌

 

 

結果的に忍城は開城しますが

実は水攻めが原因では無く

小田原の北条氏が降参したのが理由です。

つまり、三成の水攻めは失敗でした。

それ程忍城の守りが強固だったのか?

 

ちなみに忍城の標高は約20m。

渋谷の忠犬ハチ公の標高が約15mですから

内陸部としてはかなり低い土地です。

「浮き城」(沼地に浮く城)と言われ

城を囲む湿地帯が防御に適していた訳だ。

 

ところで「のぼうの城」の中で

田圃で溺れる兵の事が書かれていました。

不思議だと思いますよね?🤔

実は・・・・・・・・

 

 

上の画像は新潟県の亀田地区の田圃の様子。

乾田化される前の古い写真です。

日本各地に水はけの悪い田圃が広がり

農作業は過酷を極めていたそうです。😲

 

ひょとして忍城周辺の田圃も

こんな感じだったのかもしれない。

(またこじ付けてしまった!?)🐮

 

湿地帯が多い日本列島。

確かに大変な部分もありますが

それなりの恩恵も受けています。

なんと!その一つが新幹線。

「湿地帯が多かったからこそ

世界有数の高速鉄道が完成した。」

新幹線の記事のリンクを貼っておきます。↓

 

 

上の画像はさきたま古墳群の東に聳える

「古代蓮の里」の展望タワーから

丸墓山古墳と忍城を望んだ図。

 

赤い線が大まかな石田堤の位置です。

堤の向こう側を水浸しにしようとした訳です。

確認してはいませんが

丸墓山古墳が属するさきたま古墳群は

忍城周辺では‟微高地”になるのでは?

画像手前の建物は浄水場の施設で

通常浄水場は地盤の良い高台に造ります。

 

石田堤もさきたま古墳群もそれなりに

場所を考えて作られたようです。

 

ではどうして古墳の無い地域に

巨大な古墳群が忽然と表れたのか・・・・🤔

 

オヤジの探求はまだまだ続きます。