先日訪れた東松山市の野本将軍塚古墳が
稲荷山古墳の故地との説を知って
久々にさきたま古墳群を訪れたくなりました。
上の画像は古墳群の見取図。
赤く囲んだ前方後円墳が稲荷山古墳です。
古墳の全体像はこんな(↑)感じ。
前方部は干拓工事の土取の為に
破壊されていましたが
例の‟鉄剣”が見つかった後に復元されました。
時代は5世紀後半だといいます。
この時期の前方後円墳の特徴は
前方部の段築最上部が跳ね上がっている事。
古墳も‟見た目”を気にし始めたようです。
更に興味深いのは
方形の周濠に囲まれている事です。
同古墳群の将軍山古墳や二子山古墳も然り。
墳丘は畿内の大王陵を縮小した形ですが
周濠でオリジナリティを出そうとしたのか?
ちなみに青い部分が復元された前方部。
‟The Zenpoukouenhun”といった感じの
とても端正なシルエット。😲
大型前方後円墳はこのアングルから
広角レンズで撮影した画像が好きです。
墳丘に登る事が出来ます。
東松山の野本将軍塚古墳と比較すると
前方部の段築の比率が大きく異なる。
関連記事のリンクを貼っておきます。
前方部から後円部を望んだ絵。↑
後円部はある意味、祭壇のようなもの。
このアングルは被葬者の
霊的カリスマ性の演出には最適だと思う。
墳丘の長さは120mで、埼玉県下2番目の規模。
今度は後円部から前方部を撮りました。
木に隠れていますが
古墳の主軸の南西方向に富士山が見えます。
さきたま古墳群の前方後円墳の
主軸を延長すると・・・・・・・・
こんな(↑)具合で
富士山を意識している可能性が高い。
埼玉には富士見と言う地名が散見される程
富士山のロケーションには恵まれています。
古墳時代から富士は‟不死”だったのか?
後円部噴頂の様子。↑
埋葬施設は礫廓(右)と粘土廓(左)が
「ハ」の字状の配置され
粘土廓は盗掘されていましたが
礫廓の方から鉄剣が発見されました。
でも、どう考えても追葬だと思われます。
礫廓の方には副葬品と遺体の配置を
現わした解説図が・・・・・・・
後円部にレーダー測量を実施したら
1.5~2m下に反応が認められたそうです。
県と学者は調査を申し出たそうですが
国の許可が下りないといいます。🤔
そりゃ、そうでしょうね!
下手な副雄品でも出てこようものなら
天皇制に支障をきたす可能性もある。
ましてや文字が出てきている訳ですから
なおさらだと思います。
鉄剣は「世紀の発見」と言われた
金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)。
表裏に象嵌で115文字を現わしています。
内容は乎獲居(ヲワケ)という被葬者が
7代の上祖(カミツオヤ:先祖の事)を遡り
自らの出自を刻んでいます。
意富比垝(オホヒコ)に始まり
↓
多加利足尼(タカリノスクネ)
↓
弖已加利獲居(テオカリワケ)
↓
多加披次獲居(タカハシワケ)
↓
多沙鬼獲居(タサキワケ)
↓
半弖比(ハテヒ)
↓
加差披余(カサハラ)
↓
乎獲居(ヲワケ)といった具合。
ひととおり先祖を記した後
「世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在
斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」
と記しています。
ザックリとした意味は
「代々ワカタケル大王に親衛隊長として仕え
補佐した事を鉄剣に刻んだ。」という意味でしょうか。🤔
通説ではワカタケル大王とは雄略天皇。
イメージ的には古墳時代の織田信長かな~?
ちなみにハテヒはお爺さんで
カサハラは父親ですが
古墳群の近くに笠原という地名があります。
更に3代目のテオカリワケの発音は
東国特有のものだという説もあります。😲
今回この銘文を書き写してみました。
(ヘタクソな字で恐縮です)😁
するとビックリ!、グッと心に刺さります!
なんだか急にオワケに近づいた気になり
どんなヤツだったのか気になり始めました。
墓碑をとおした死者との会話・・・・・・😱
他の副葬品で興味深いのが
画文帯環状乳神獣鏡です。
同じ鋳型で作られた鏡が全国に分布しており
南は九州から、近場では群馬県の古墳でも発見されています。
ちなみにその群馬県の古墳とは
過去に訪れた八幡観音塚古墳です。
それにしてもさきたま古墳群のような
大型前方後円墳が密集した古墳群がどうして
この地に造営されたのでしょうか?🤔
しかも古墳の痕跡が無かった地域に
いきなり稲荷山古墳が作られ
雪崩のように大型古墳が作られています。
摩訶不思議也。
古墳が広がる行田市が気になります。
乎獲居(ヲワケ)も気になる・・・・・🐮