野本将軍塚古墳:古墳時代前期手鏡型前方後円墳 | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

 

関東の主だった古墳は

それなりに見てきたオヤジ・・・・・

でも足元を見逃していたようです。

埼玉県の東松山に前方後円墳として

県内3番目の規模を誇る古墳がありました!

埼玉県民なのに完全にノーマーク!!

こりゃ~、行くしかないでしょう!😁

 

という訳で今回のお題は

東松山市の野本将軍塚古墳です。 

 

 

場所は都幾川を望む松山台地の先端部。

更に対岸の台地には反町遺跡という

古墳時代の集落跡が発見されています。🤔

東松山市はゴルフ場が多く

台地が占める比率が高いので

標高の高い場所から人が住み始めたらしい。

 

 

古墳はこんな(↑)感じです。 

 

 

古墳の説明版によりますと

後円部3段、前方部2段の形態で

このシルエットは一昨年訪れた

西都原古墳群にも似た古墳がありました。

いずれにせよ手鏡型の後円3段・前方2段は

古墳時代前期の可能性が高いと思う。

恐らく4世紀あたりじゃないのかなぁ?🤔

 

 

古墳を地上から眺めるとこんな(↑)感じ。

 

 

前方部に建てられた日露戦争の忠魂碑。

 

 

忠魂碑から後円部を望んだ図。↑

さすがに全長が100mを超えるとデカい!😲

墳丘は尾根を利用せず盛土なので

相当な動員力、つまり大きな権力が無いと

このサイズの古墳は作れない筈です。

果たして被葬者はジモティか?

それとも中央から派遣されたのか?🤔

 

 

前方部から後円部へ向かいます。

時代的にはさきたま古墳群より古いので

(さきたま古墳群は古墳時代中期)

将軍塚古墳の被葬者をさきたま古墳群の

‟故地”とする説もあるそうです。

 

 

反対に後円部から前方部を眺めた図。↑

後円部と前方部の標高差が結構あるので

やはり古墳時代前期の築造でしょうね。

間違いなさそう!??🤔

 

 

墳頂には神社が鎮座します。

発掘調査はされていませんが

地中レーダー探査で竪穴系の埋葬施設が

確認されているようです。😲

 

 

神社は平安時代の武将、藤原利仁を祀ります。

実は利仁の次男の叙用は斎宮頭に任命され

斎藤氏の祖となったそうです。

 

先日訪れた妻沼聖天山を整備した

斎藤実盛の祖先になる訳ですね。😲

世の中案外狭い。

 

 

古墳から都幾川の沖積地越しに

富士山が良く見えます。

 

大陸から馬が伝わるのは古墳時代中期以降。

前期の産業は稲作が中心なので

中期に比べると古墳の規模も小ぶりです。

馬の生産は多くの富を生む筈。

産地(特に群馬)に大型の前方後円墳が

集積するのも頷けるというもの。

やはり古墳も産業の影響を受けています。

でも、3世紀築造の奈良の箸墓古墳。

どうしてあんなにデカいのか??😲

 

1,600年前の東松山の世界には興味津々。

ちなみに反町遺跡では玉の工房跡等の

高度な技術の痕跡が認められるそうです。🤔

 

埼玉県がますます気になってきた!

 

野本将軍塚古墳に似ている

宮崎県の西都原古墳100号墳の

画像と説明版を掲載しておきます。↓

ご参考まで。