高崎市の観音塚考古資料館で予習した後
観音塚古墳に向かいました。
上の画像の右側が後円部で左が前方部。
墳丘の長さが105mを測る6世紀末の古墳で
群馬県で最後の前方後円墳と考えられているそうです。
墳丘に登り前方部から後円部を望んだ図。↑
この頃になると前方部がやたらと高くなる。
ちなみに前方部の高さは約14m。
葺石が斑に残ってました。😲
観音塚古墳は何と言っても石室です。
昭和20年の3月10日、防空壕を掘ってる最中に
巨大な石室が発見されたそうです。
ちょうどこの日は東京大空襲で
10万を超える人々が亡くなった日。
ちなみに戦前の観音塚古墳は
「碓氷郡八幡村第7号墳」と記されています。
それでは石室へ・・・・・・・・🏃
途轍もなく広い!!!
玄室の幅が最大で3.4mですから
ひょっとして今迄訪れた石室の中では
最大級の容積かもしれません。
とにかく石がデカいの、なんのって!😲
一番大きなもの(一番奥の天井石か?)は
55トンを超えるといいます。😍
「東国の石舞台」と呼ばれるのも頷けますね。
石室は3つの空間に分かれています。
オヤジが撮影している位置は玄室で
遺体が安置された場所です。
オバサンが立っている処は
前室という副葬品が発見された部分。
更にその先の開口部迄が羨道になります。
石材は溶結凝灰岩や安山岩。
実は鳥川上流に採石場があるというので
探してみましたが見つからなかった。
当然、石材は榛名山の噴火によるものです。
上の画像は8年前に奈良県明日香村の
石舞台古墳の石室で撮影しました。
本家本元の石舞台の石材は花崗岩です。
関西は花崗岩が広く分布しますが
関東は関東ローム層で覆われます。
「関西の地面は白く関東は黒い。」
と言われるのは
そのまま二つの地質の色の違いでもある。
地質が違えば当然、古墳の石材も異なります。
巨大石室の画像をもう一枚。↑
こちらは京都の蛇塚古墳の奥壁です。
オバサンの背丈の倍以上の高さがあり
幅も観音塚古墳に勝るとも劣りません。
この時は地質的な知識が殆ど無かったので
石材は憶えていませんが、
古墳の場所が太秦で、嵐山も近い事から
「ひょっとしてチャート?」って気もする。
ただ、石舞台と比較すると
石室の‟品格”ではやや劣る印象です。
でも、ムチャクチャ石はデカい。😍
観音塚古墳に話を戻しましょう・・・・・・
石室を出て古墳の前方部にやって来ました。
前方部の幅はなんと!105mに及び
墳丘の長さとほぼ同じです。
群馬の後期前方後円墳はこういう
‟ずんぐり形“が多いようです。
観音塚古墳は石室も凄いけれど
副葬品が、これまた素晴らしい!!
出土品は30種、300点を数えますから
資料館を作らなきゃ、とても収まりません。
上の画像の銅のお椀には感心しました。😍
これはレプリカでは無くて本物なんです。
1,400年前のものとは思えない状態。
これ程の金属加工技術は言うまでもなく
渡来人によるものでしょう。
これは(↑)馬具の一種だったかなぁ~??
本当に良く出来ています。
こちらは耳環(じかん)。
耳飾りですから被葬者は女性の可能性も?
画像の右二つは錆びているのに、左は光沢を放っています。
左側は鍍金ではなく金無垢なのかなぁ?🤔
大型前方後円墳でも金無垢の耳環の出土は
全国的には希少だといます。
相当な勢力を持った一族だったのでしょう。
やはり馬のビジネスは‟馬”だけに
‟ウマミ”があったのか?😁
(つまらないシャレです)
横穴式は追葬が容易ですから
被葬者は複数の可能性もありそうです。
人骨や歯も出土しています。↑
木片の出土は木棺の破片か?😲
実は観音塚古墳は数年前にも訪れています。
当時は石室の巨大さも分からなかったし
副葬品なんて見てもいない。😰
繰り返し訪れると様々な発見があるものです。
くどい様ですが
やはり「群馬は馬が群れる。」🐴
古墳時代に渡来人が倭国に求めたものは
馬と傭兵そして水銀だと思う。
そんな中、馬のサプライチェーンの代表格が群馬。
古代は馬で、近代はシルク・・・・・・・
内閣総理大臣を複数輩出するエリアは
それなりの痕跡があるものですね。
「まだまだ群馬から目が離せないなぁ」と
満開の桜の下でつぶやくオヤジでした。🤔