こんにちは。
明日はいよいよ月食ですね🌕
今週はハロウィン🎃で盛り上がりそうな予感です✨
わたしは古代史の経緯がどんどん明確にわかってきまして、裏では大変なことになっております。
日食にニギハヤヒを書いて良かったなあと感じております😭
さて、旧暦10月は出雲では神さまが集まると言われる神在月となります。(今年は11月25日です)
全国では神さまが出雲に行ってしまうので、神無月と呼ばれていますが、
諏訪大社のタケミナカタはこの会議には出ないと言われております😭
国譲りで追い込まれたタケミナカタは、「諏訪から出ないことを約束させられた」からなのですが、
そんな、タケミナカタの出雲を追われた逃走ルートがわかってきましたよ😅
なんとなんと、まさかの、まさかの、タケミナカタが出雲から逃走してたどり着いて住んでいたのが、ここです。
善光寺
なんです😅
善光寺には元々、「建御名方富命彦神分神社」(通称水内神社)がありました。
富命彦はタケミナカタの息子です。
明治初期に、別の場所に移転しておりますが、もともとはこの善光寺というのは、
タケミナカタが住んでいた城
に建てられているのです。
本当です😅
なんと、屋敷の一角に仏様を祀ったら、それがとても評判を呼んだので、そこを善光寺と呼んだのです。
なんと、神職さんも、同じ方だったそうですよ。
当時は神仏習合だったのです。
タケミナカタの空気感が残っているでしょうか😅?
ちょっと御柱ちっくな場所がありますよね💦
なお、タケミナカタは母親がかの翡翠の女神、ヌナガワヒメでございます。
父親は出雲大社のオオクニヌシ、
姉がミホススミ。
今の出雲の美保神社はもともとはこのミホススミが祀られていましたが、
タケミナカタも出雲出身であることがこのたびわかりました。
長野の諏訪の人は、
「この地域には神無月はない。タケミナカタは出雲には行かない」
と言っています。
しかし、本当はタケミナカタは出雲に帰りたかったのでは…
と思ったタケミナカタの子孫が、なんと1000年後の鎌倉時代にこの願いを叶えております😅
なんと、出雲にある須我神社がある須賀村が、諏訪村に名前を変更させられ、須我神社にタケミナカタが合祀されているのです。
村はふたたび、「おいおい」という感じで、また須賀村に戻ったのですが😅←そりゃそうだ
なので、タケミナカタはどうも、
須賀生まれ
なのかなあ?と思います😅
八雲山あたりは、小さいタケミナカタが走っていたのかもしれないですね✨
さて、タケミナカタを追ってやってくるのは、経津主(フツヌシ)と武甕槌(タケミカヅチ)軍勢ですね。
島根の宍道湖から、タケミナカタは東に向けて逃げます。
タケミナカタ、逃げろー殺されるぞー❗️
ということで、このときオオクニヌシもコトシロヌシも相次いで亡くなったため、出雲族も大移動を始めます。
これが有名な「国譲り」ですね。
って譲ってないですやん😅
さて、タケミナカタは信濃の諏訪まで逃げていくのですが、これはすべて水上ルートとなります。
まず辿り着いたのは能登半島。
その入り口である羽咋市の隣にある志雄町に辿り着きます。
ここから新潟市→信濃川→長岡市まで逃げます。
そして長野市城山町の善光寺まで辿り着くのです。
タケミナカタは地元の先住民に色々と教えたようで、こういった功徳が現在のタケミナカタの人気につながっているようですね✨✨
ここで、タケミナカタは軍勢を集めて、出雲奪還を図りますが、
ここが激戦区となったようで、「神分神社」という名称にあるように、妻の八坂刀売姫(ヤサカトメヒメ)と離れ離れになっております😭
タケミナカタは子供を連れて、さらに逃げます。
なお、ヤサカトメヒメは生きており、
長野市妻科というところに逃げて、ここで住んでおります。
ここには「夫無神社」が残されております😭
しかし、タケミナカタはまだまだ逃げます。
千曲川を上っていき、現在の上田市にある生島足島神社(旧国幣中社)に住んでおりました。
この時点で、なんと部下は数人のみ😭
タケミナカタ、生きて〜❗️
ということで、この上田市民がかくまいます。
ご飯を炊いて、タケミナカタに食べさせるという神事が今でも残されているのですが、
タケミナカタはなんと疲れ果てて、ひとり土間に座ったままお粥を食べていたようです😭
タケミナカタ、生きろ〜❗️
ということで、なんと今でも、本殿は床を張っていないそうですよ。
出雲から逃げてきたタケミナカタを温かく迎え入れたのは、長野の人たちなのです。
ここから、別所温泉→鹿教湯(かけゆ)温泉に逃げます。
武石峠→松本市
に今度は馬を使って陸路で逃げます。
「駒越」という地名は、タケミナカタが馬で超えたというところから名づけられておりますよ。
タケミナカタ、逃げてー❗️
そして、ついに諏訪湖で武甕槌(タケミカヅチ)に追い込まれます。
約束させられるのは、「もう諏訪から出ない」ことですね。
そして、タケミカヅチはタケミナカタを殺さなかったのです。
これが、今の諏訪大社の信仰の強さにつながります。
※逃げ上手の若君より
ジャンプ連載中の「逃げ上手の若君」でわかるように、諏訪大社の大祝(おおほうり)の影響力の強さは、
タケミナカタがその後に信濃の開拓に努めたこと、その息子たち13人が勢力を拡大して、朝廷が手出しできないくらいの国を作ったこと、でしょうか。
なお、諏訪大社が旧約聖書のような儀式があるのは、あれはタケミナカタではなく、その前のミジャクシ神のほうなのです。
よく、ムーでは「出雲はユダヤ人でイスラエルの失われし王族だ…」と言ってますが、
タケミナカタがその諏訪にやってきた、のですね😅
マヤやアステカにも同じ神事があるのですが、生贄を捧げる祭壇がある諏訪地方に、タケミナカタがやってきたので、神社の連続性が途絶えているのです。
御柱祭が残っているのですが、それだけ、フォッサ・マグナへの畏怖が生け贄の儀式として残っていたのかもしれないですね。
ということで、
逃げ上手の若君はタケミナカタだった❗️
でした。
長いブログを読んでくださって、ありがとうございます✨✨