「ない」から「ある」への転換 | 運の良い座敷童子的な生き方

運の良い座敷童子的な生き方

運の良い経理事務。 神話ファン。星読みをしています。

こんにちは。

もう11月かあ、と時の速さにびっくりしながら、今年の自分を振り返っておりました😅

逆行していた冥王星も順行して、来年の3月に水瓶座に入ります。(また山羊座に戻ってきます)

わたしは天秤座♎️なのですが、この長く苦しい凶角もようやく抜けるのかあ…と考え深げに感じておりました。

 

 

 

さて、わたしは打ちのめされた過去があります。

それはまだ20代後半、結婚して旦那の仕事の都合で、四国から広島に引っ越してきたことでした。




今から思えばそれは移住であり、もう二度と四国では住めなくなるという意味でもありました。

まさに、冥王星が山羊座に入っていくときで、運命の輪が回ったのかもしれません。


※出雲大社のお守り




打ちのめされる日々。

たくさんのものや人に囲まれていたわたしは、ないないずくしの日々が始まりました。




慣れない赤ん坊の世話と見知らぬ土地。

支配しようとしてくる人々。

20代の小娘には発言力もなく、価値観を覆せるほどの力もない。

味方もいない。説得力もない。自信もない。友人もいない。すべての能力が足りない。

 

 

 

たくさんの依存する人が現れて、ひたすら抗う日々。

四国ではなかった人間関係でした。

拒絶しても、また新しく顔を変えて出てくるので、これはさすがにおかしいぞ、と気が付きました。




 

 

今から思えば、わたしは太陽と冥王星のコンジャクションの生まれなので、一度死んで再生しなければいけなかったのですが、そんなこともつゆ知らず😅

そう言えば、厄年でもありました。





圧倒的な「ない」づくしで、自分の力量のなさに毎日うなだれ、悩むばかりの日々。

悪者を外に探そうと必死でしたが、理由はちゃんとあるはずなのに、何かが違う。

敵は外に…と思いたいのに、

 

 

 

ざわざわするのです。

 

 



「そうじゃない」

ともやもやとしたものが心の中に声が響きます。



 

そこで、自分と向き合ってみました。

自分が心地よくなれるものだけに集中しようと思ったのです。

それが、出雲大社でした。




なぜかというと、御朱印集めを始めた旦那が、毎週さまざまな神社に連れて行ってくれたのですが、圧倒的な迫力を感じたのが、出雲大社だったからです。



 

ちなみにわたしが紹介している神社はあらかじめ、主人が連れて行ってくれた場所です。

「ここ行きたい!」というと、「行ったじゃん」と、今でも言われます😅←記憶力よ

 

 

 

 

「ない」ものだけは山ほどあるわたしですが、「神社を訪れたときの心地よい心境」は「ある」ものでした。

その「ある」ものに興味を持ちました。




「ある」ものだけを漁っていこうと思い、古事記について勉強をしました。

すると、稲佐の浜に辿り着きました。

そこでの砂が「出雲屋敷」と呼ばれるお清めの砂と交換できることを知りました。

それを、家の四隅にまきました。

 

 

 

 

当時の宮島は半分以上が外国人でしたが、厳島神社のうらにある「大聖院」というお寺が大好きでした。

魂の故郷のような、どこか懐かしい空気がありました。

思えば、そこは弘法大師空海が開いたお寺でした。

そう言えば、わたしは空海さんの生まれ故郷から引っ越してきたのです。



こうやって少しずつ、出雲大社いがいにも「ある」ものが増えてきました。

 

 


 

わたしはけっこう軟弱な身体をしていて、外側の評価に自分をちかづけようとすると、あっというまに喘息発作を起こしてしまうという、分かりやすい体質でした😅




ですが、これが幸運の鍵でもありました。

ストレスを遠ざけようと、対策を始めたのです。

生活習慣を変えていくと、少しずつ防御が強くなっていきました。

 


 

 

子供が保育園に入ると、周囲にママ友さんが増えて、にぎやかになってきました。

働き始めると、会社の人がとても親切にしてくれました。

こうやって少しづつ「ない」ものが少なくなってきました。

それは、

 

 

 

 

「ある」ものにを向け始めたから、

 

 

 

 

かもしれません。

今もよくよく考えると、「ない」ものはないのですが笑

「ある」ものは確実に増えていったのです。





「置かれた場所で咲きなさい」





その言葉は、今でもズキンと響きます。



 

「ある」ものは自分の中に沈んでいる、「真実の声」と繋がっていることに気が付きました。

この、頭の奥に不意に落としてくる声は誰が発しているのだろう、と不思議でした。

これはなんなのだろう、とキャッチしたものを実行するようになりました。

 

 

 

そうして自分に意識を向けていくと、ゆっくりと自己の領域が広がり始めました。

意識は広がるのだと、知りました。

領域が広がり始めると、スペースが開きます。

そのスペースに、また新しいなにかが入ってくるのです。

 

 

 

それは、でした。

 

 

 

光を見つめると、それは小さなころの自分が夢中になっていたものにつながっていたり、誰かと重なっていたりしました。

その小さな光を集めると、徐々に大きくなっていくのです。

 

 

 

もしかすると、人生というのは、この光を大きくしていくこと、なのかもしれないですね😆

「ある」ことに意識を傾け、夢中でなにかを突き止めていくと、光を見出すことができるのかもしれません。

 

 

 

というわけで、時代の大転換、苦しいときなどは、ぜひなにか「ある」ものに夢中になってみてくださいね✨




好きを極めるのは大切なことだ、と思います。

すると、抑圧されていた「自分らしさ」が浮かび上がるかもしれません。





念への対策


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