運命を分けるサインとは? | 運の良い座敷童子的な生き方

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こんにちは。
今日は運命を分けるサインについて、お伝えしたいと思います。

運命とは、私たちが常に選択しています。



この世の、今私たちが視えているものは、私たちが選択した結果の現象に過ぎません。

さて、わたしは最近、黄泉津大神と称される伊邪那美命(イザナミ)を巡る旅をしました。

比婆山神社


これひとつ取っても、どこかで運命が分かれると、途中で断念せざるを得ない状況でした。



例えば、天候が雨だとか。

渋滞に巻き込まれたとか。

体調が思わしくないだとか。

道に迷ったとか。



わたしは長く巡礼をして、ひとつの真理に辿り着いています。



出会える神と、出会えない神がいる。



辿り着けないときは、それがひとつの答えなのです。

しかし、辿り着けるときは、偶然ではなく、必然です。

不可思議なパーツがはまり、そこに導かれるのです。



人間も同じで、があると、またどこかで必ず出会えるものなのです。

縁というのは、どこにでもたくさんあるわけでもないのです。



だから、本当は距離を伴う別離は悲しいことではなくて、新たな出会いが結ばれるチャンスでもあるのです。



さて、運命の分かれ目とは何でしょう。

それは、自分が決めるときに起こります。

何かをふと思い付いたとき。

例えば、鏡に映った風景が、何かの紋様に見えたとき。

空に浮かんだ雲が、龍に見えたとき。

湖の水面が、誰かの顔に見えたとき。



それと共に、閃いた映像が、実はサインなのです。



隣にいる人が、「あれはロールパンに見える」というのも、正解なのです。

お気に入りのパン屋が浮かんだら、出かけてみたらいいのです。



そうやって導かれた先に、何か新たな運命の輪が待ち受けていたりするのです。

行くか、行かないか。

やるか、やらないか。

諦めるのか、諦めないのか。



それを決断するのも、わたしたちの運命の分かれ道なのです。



諦めたはずなのに、何故かズルズルと引きずられて行くのも、また、運命なのです。



問題は、で考えるときなのです。

わたしも、たまにあります。

頭で考えたときは、無難に過ごせるかもしれませんが、心が置き去りなので、何も起きないのです。



そうやって頭が周囲の目線を気にする場合は、うまく映像が頭の中で視覚化されません。



鮮明に視覚化されたとき、ハッとチャンスが訪れるはずです。



ぜひ、その一期一会の出会いを、追い求めてくださいね😆


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