今日から2月
今日から2月。
1月は過ぎるのが早かった~… 「テレビ放送記念日」 1953(昭和28)年、NHK東京放送局が日本初のテレビの本放送を開始した。 1953(昭和28)年2月1日午後2時、東京・内幸町の東京放送会館から「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」の第一声が放送された。当時の受信契約数は866台、受信料は月200円だった。 その年の8月には日本テレビ、翌1954(昭和29)年3月にNHK大阪と名古屋、1960(昭和30)年4月にラジオ東京(現在の東京放送(TBS))でもテレビ放送が開始された。 「京都市電開業記念日」 1895(明治28)年、京都で日本初の路面電車が塩小路東洞院通~伏見町下油掛間6.4kmで営業を始めた。 初期の市電は運転手の側に「電車の先走り」という少年を配置し、停車の度に前後の安全を確認していた。 東京の市電は1903(明治36)年に営業開始された。 「ニオイの日」 P&G「ファブリーズ暮らし快適委員会」が2000(平成12)年に制定。 「に(2)お(0)い(1)」の語呂合せ。 「首都制定記念日 (マレーシア)」 「二月礼者」
正月に年始回りをできなかった人が、2月1日に回礼にまわる風習。 「重ね正月,一夜正月」 数え年では正月に年令が変わるが、この日は正月後最初の朔日であることから2度目の正月として、厄年の人に仮にひとつ歳をとらせ、早く厄年をやり過ごそうとする風習が広く行われていた。 …と、どれもからみにくいので、記念日じゃなくて今日の出来事。 「1976年 大和運輸(現在のヤマト運輸)が「宅急便」を始める」 今では郵便局のゆうパックと同じ位耳にする宅急便。 しかし、宅急便は実はヤマト運輸の登録商標。 他の運送会社から配達されて来る荷物は一般的に「宅配便」となる。 …と、なると、ふと気になるのが「魔女の宅急便」 キキはヤマト運輸じゃないのに、な~ぜ?! 実際、映画の公開前にこのタイトルは問題化したらしい。 しかし、どうしても「魔女の宅配便」ではなく「魔女の宅急便」にこだわった。そのためヤマト運輸に、映画の協賛をしてもらうことで解決したらしい。 ちなみに、キキのペット(?)がクロネコなのは、そのことには関係ないらしい。 結局、「魔女の宅急便」はテレビで放送した時に最後まで見てないから、ラストがどうなるのかわかってない。 最初の時は時間間違えて途中で切れてて、2回目もまた同じミス。 3回目は録画さえ忘れてた… ボケてるなぁ…( -_-) |
シェ~~ッ!
な~んか早かったなぁ…
「生命保険の日」
1881(明治14)年7月に日本初の生命保険会社が設立され、翌1882(明治15)年のこの日、受取人第一号が現れた。
この年の1月20日に心臓病で急死した警部長で、遺族に支払われた保険金は1000円、当人が払った保険料はわずか30円だった。
「晦日正月,晦日節」
正月最後の日。
この日に、松の内に年始回りをしなかった家を訪ねる地方もある。
今日はある人達の誕生日。
それは、鹿児島の山下さん家の五つ子ちゃん!
日本初の五つ子ちゃん達だ。
「五つ子ちゃん」なんていっても、彼らももう今年で30歳になるらしい。
鹿児島市立病院で誕生した彼らは990~1800グラムの未熟児だったが、同年五月に全員が無事退院。
名付け親はは京都・清水寺の故・大西良寛貫主。
しかし、日本にはかつて「六つ子ちゃん」がいた!
…といっても漫画の話で、「週刊少年サンデー」に1962年から1967年まで連載されていた「おそ松くん」だ。
おそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松の六つ子。
人気のあった漫画のようだけど、まさか将来、本当に五つ子や六つ子が誕生するなんて当時の人は考えてなかったんじゃなかろうか?
そして、逆に今の日本がこんなに少子化になるなんてことも、予想してなかったかもしれないね。
のびすぎたのはおいしくない!
洗濯出来ないのがちょっと残念…
…っていうか、やっぱり雨降りはなんだか気分がぱっとしないよね…
「3分間電話の日」
1970(昭和45)年、電話の通話料金が3分で10円になった。
「孝明天皇祭」
1874(明治7)年から1912(明治45)年まで実施。
1866(慶應2)年12月25日(新暦1867年1月30日)、孝明天皇が崩御した。
…ってことは、昭和45年以前は長電話しても一律だったということか…?
今や、電話は一家に一台ではなく、一人に一台の時代となった。
だから、特に誰に気兼ねすることもないのだけど、先日、●ぐれ刑事の再放送を見ていたら、●浦さんの長女が長電話をしていて、次女が「お姉ちゃん、早く替わってよ!私も電話しなきゃならない所があるんだから~!」と、姉妹喧嘩をしていた。
喧嘩っていうか、姉はまったく無視してしゃべり続けていた。
確かにこういう時代があった。
そして、学生時代はよほど暇だったのか、とにかく長電話ばかりしていた。
特に深刻な話があったわけではなく、やっぱりそれはただの暇つぶし。
暇つぶしにお金がかかる上、さらにうるさいくて、誰かが急用で電話をしたとしても繋がらないんだもんね。
親が怒るのは無理もないことだ。
今ならそう思える。
それどころか電話自体が嫌いになった。
嫌いになったというよりは、つぶさないといけない「暇」がなくなったせいかもしれない。
くだらない話をする時間が惜しい。
だから、電話は用件のみ!
用件のない電話はほとんどしない。
メールはその時にすぐ手を空けなくてもすむからまだ良いのだけど、電話はこっちの事情に構わずかかってくるから嫌い。
ところで、3分間というとインスタントラーメンもほぼ3分、うどんは5分と書かれてるけど、いつもそれが待てない。
こういう時の3分間って、やたらと長く感じられる。
何かに没頭してる時の3分間とただ待つだけの3分間は同じ3分なのに、全然長さが違う気がする。
我が家のにゃんは不細工…
…けど、一向に用事は減らない…
いや、減ってはいるんだけどまだまだあるんよね…
「世界救らいの日」
癩とは、ハンセン病の旧称で、らい菌の感染によって起こる慢性の感染症である。
感染・発症すると、神経が侵され、皮膚症状が現れたり、病状が進むと身体に変形が生じてしまうこともある。癩菌の感染力は極めて弱く、感染しても発病するのは稀で、体力や抵抗力が非常に弱くなっている時に発病する。また、以前は不治の病とされていたが、現在は薬によって完治できる病気になっている。
その外見上の特徴や、遺伝病だと思われていたこと等により、患者に対する偏見は強く、「らい予防法」によって療養所に強制的に隔離されていた。この法律は1996(平成8)年にようやく廃止されたが、いまなお誤解や偏見が残っている。
「人口調査記念日」
1872(明治5)年、日本初の全国戸籍調査が行われた。
当時の人口は男1679万6158人、女1631万4667人で合計3311万825人だった。
「南極の日,昭和基地開設記念日」
1957(昭和32)年、日本の南極観測隊が南極・オングル島への上陸に成功し、昭和基地を開設した。
この年から翌年にかけては「国際地球観測年」で、南極大陸には日本を始め12か国による観測網が敷かれた。
「タウン情報の日」
タウン情報全国ネットワークが制定。
1973(昭和48)年、日本初の地域情報誌『ながの情報』が発行された。
タウン情報誌はもちろん私の住む地域にもある。
有料のものや無料のもの。
範囲の広い地域やごくごく限られた地域のもの等さまざまだ。
私は今住んでる市で産まれたわけではなく、ずーっと住んでるわけでもなく、ものすごく愛しているわけでもないけど、地元ネタがたまに情報誌に載ったりテレビで流れたりすると、ついついスクラップしたり、録画したりしてしまう。
そして、そんなつまらないビデオを友達に送ったことさえある。
相手にとってはいい迷惑だ…(;^_^A
ちなみに、今までで一番嬉しかった(?)のは、親戚の家の隣家の猫が、ペット紹介(?)みたいなコーナーに載っていたこと。
その猫は本当に男前で、私は親戚の家に行く度、その猫がいないかとあたりを見回してしまうのだった。
情報誌に載った時も確かご近所の人の推薦だったのだけど、やっぱり近所でもあの子は人気者なんだなと思うと、妙に嬉しかった…
冬は手が冷たい…
やっぱり今日も寒い…
久しぶりに外に出ると、なおさらそう思う…
早く春にならないかなぁ…
「コピーライターの日」
1956(昭和31)年、「万国著作権条約」が公布された。
この条約で、著作物にCopyright(著作権)の頭文字Cを丸で囲んだ記号を附記することが定められたことから、「コピーライト」を「コピーライター」にひっかけて。
「万国著作権条約」は日本ではこの年の4月28日に発効した。
「宇宙からの警告の日」
1986(昭和61)年、アメリカのスペースシャトル・チャレンジャーが打ち上げられ、発射74秒後に爆発し、乗組員7人全員が死亡した。
作家・大江健三郎は『治療塔』の中でこの事故を「宇宙意志からの警告」と表現した。
「衣類乾燥機の日」
日本電機工業会が制定。
いまだ我が家には衣類乾燥機がない。
っていうか、今、どのくらいの割合の家庭に衣類乾燥機があるんだろう?
お天気の悪い日が続いたりすると、あったら便利だろうなぁとは思うけど、関西だと冬でも干してたものが凍るほどのことにはならないから、なくてもさほど困らない。
花粉症でもないから、結局はそんなに必要性を感じていない。
そんなわけで、今のところ、衣類乾燥機を買う予定もない。
夏は暑いけど、その分、洗濯物があっという間に乾いてくれるのは気持ちが良い。
太陽はそんなに好きではないけど、乾いた洗濯物についた太陽の暖かさはそんなに悪いもんじゃない…
カ~メ~ハ~メ~波~~!
国旗協会が制定。
1870(明治3)年、太政官布告第57号の「商船規則」で、国旗のデザインや規格が定められた。
それまでは、船によってまちまちのデザインの旗を使っていた。
当時の規格は、縦横の比率は7:10で、日の丸が旗の中心から旗ざお側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていたが、現在は、1999年8月13日に公布・施行された「国旗国歌法」により、縦横の比率は2:3、日の丸の直径は縦の長さの5分の3、日の丸は旗の中心の位置となっている。
「求婚の日」
1883(明治16)年、新聞に初めて求婚広告が掲載された。
「ハワイ移民出発の日」
1885(明治18)年、移民条約によるハワイへの移民第一号の船が横浜港を出航した。
「ナチス犠牲者記念日 (ドイツ)」
1996(平成8)年から実施。
1945(昭和20)年、ソ連軍によってアウシュビッツ強制収容所が解放された。
ナチスが行った数百万人の大虐殺や拷問・処刑による犠牲をいつまでも忘れてはならないとして、ドイツ国内のユダヤ人団体の働きかけによって制定された。
この日の前後には、全国のギムナジウム(日本の中学・高校に相当する公立学校)でナチスによるユダヤ人抑圧の歴史を教える。
カメハメハ1世(Kamehameha I, 1758年? - 1819年)はハワイ諸島を初めて統一して1810年にハワイ王国を建国、初代国王となった人物。
「カ・メハメハ」は、現地の言葉で「孤独な人」「静かな人」の意。 ハワイ島北端にあるモオキニ・ヘイアウをしばらく進んだ所にカメハメハ大王生誕の地と言われる場所がある。
そこは石垣で囲まれ、たくさんの石の中に「カメハメハ・アカヒ・アイナ・ハナウ」という名前のカメハメハが産み落とされたといわれる石があるそうだ。
カメハメハは、ハワイ島の酋長アラパイヌイの姪、王族の娘「ケクイアポイワ」が産んだとされている。
その時、空には雷鳴が轟き、「ココイキ」と呼ばれるハレー彗星が輝いていたとか…
それは後にカメハメハがこの地の強力な覇者となる事の予兆だったといわれている。
彼が生まれる何年も前から祈祷師達によって「1人の偉大なる勇士が全ての島々を征服し統治するであろう」 と予言されており、そのため、これを不吉な兆しとみたアラパ
イヌイは、生まれたばかりのカメハメハを殺害しようとしたが、生後間もないカメハメハは、ケクイアポイワの信頼する勇士「ナエオレ」にかくまわれ、ワイピオ渓谷でナエオレの子供達とともに、密かに育てられた。
なお、カメハメハの出生について、正確な記録というものは一切残っておらず、後世になって創作された部分も多いようだ。
カメハメハは1819年5月8日、ハワイ島カイルアで83才の生涯を閉じた。
彼の遺骨は近親者の手によりコハラ・コーストのどこかに、ひっそりと葬られたと言われている。
なぜなら、偉大な王の骨には、強力で特別な「マナ」が宿っているとされているためだ。
現在でも、カメハメハの埋葬場所は「星のみぞ知る」と言い伝えられていて、明らかにはされていない。
マナとは、「神が持っている力」ということで、強いマナというのはわかりやすくいえば、超能力のようなもののことらしい。
ヒイアカ神話で、ヒイアカが数々の障害を乗り越えて旅を続けることができたのも、ペレから伝えられた強力なマナが宿っていたからだとされている。
人間界でも、酋長の地位を持つ者は神々の直系であることから、偉大なマナを持っているとされ、マナを持たない平民がうかつに高貴な人々に近づくのは危険な行為であるとされていた。
強靭な肉体を持ち、リーダーシップを発揮し、戦闘やスポーツでは負け知らず、といったようなことは全ては強いマナを持っているためなのだ。
マナは取り扱いを誤ると、消えてしまうと言われている。
そのため、マナを守るための厳格なルールがカプ(タブー)として定められた。
マナには強さだけではなく種類のようなものもあり、そのため、自分の持つマナと異なる職業に従事してしまった場合などは、マナは神のもとに戻っていったといわれている。
マナはまた、親から子へ受け継がれるものだとされている。
しかし親と対等以上のマナを受け継ぐには、配偶者もまた、強いマナを持っている必要があった。
つまり、マナを持たない平民と結婚してできた子供は、マナの力が弱まってしまうということ。
その他に、マナは習得したり、他人からもらったり他人に与えたりということもあり、これはカフナ(隠された聖なる智恵の伝承者という意味)の技術によって行われたという。
ハワイもけっこう伝説や神話が多い国だったりする。
あんなに明るく開放的な雰囲気の国なのに、ちょっと意外だ。
300年近くもたっているのに、いまだに王の墓の場所さえ明らかにされていないというのは、やはりいまだにこの伝説をしっかりと信じている証拠だろう。
万一、発見してしまった人は、カメハメハ大王のマナによってどういう運命をたどることになるのだろう?
発見すること自体が運命なのかもしれないね…
聞こえたまんま…
冬はもうずーーーっと家の中にいたい気分。
…私は熊か…?!
「文化財防火デー」
1949(昭和24)年、日本最古の壁画が描かれた奈良の法隆寺金堂が火災により焼損した。
これをきっかけに、文化財を火災や震災から守るとともに、文化財愛護思想の普及高揚を図る目的で、1955(昭和30)年に文化庁と消防庁が制定した。
各地で文化財の防火訓練が行われる。
「有料駐車場の日,パーキングメーターの日」
1959(昭和34)年、東京都が日比谷と丸の内に日本の公共駐車場初のパーキングメーターを設置した。
料金は15分単位で10円だった。
「帝銀事件の日」
1948(昭和23)年、東京・豊島の帝国銀行椎名町支店で帝銀事件が起こった。
東京都の衛生課員と名乗る男が、「近くで赤痢が発生したので予防薬を飲んでもらう」と偽り行員16人に青酸化合物を飲ませて殺害し、現金16万円と小切手を奪って逃走した。
当初は青酸化合物の扱いに熟知した旧陸軍細菌部隊関係者を中心に捜査されていたが、その年の8月に画家・平沢貞通を北海道小樽で逮捕、1955(昭和30)年8月に死刑が確定した。しかし、審理に不審な点が多く、冤罪であるとしてその後何度も再審請求が出された。平沢貞通は刑を執行されないまま1987(昭和62)年に獄中で病死したが、現在でも支援者が名誉回復の為の再審請求を続けている。
この事件にもとに、横溝正史の『悪魔が来たりて笛を吹く』等多くの推理小説が書かれた。
「共和国記念日 (インド)」
1946(昭和21)年にイギリスから独立し、1950(昭和25)年に憲法が施行されたことを記念した日。
「建国記念日 (オーストラリア)」
1788年、オーストラリアに最初の移民団が上陸した。
植民地を開く為に送られたイギリスのアーサー・フィリップ海軍大佐と1030人の流刑囚たちで、当初はポタニー湾へしようとしたが、原住民が攻撃する等条件が悪かったため、ポートジャクソン湾(現在のシドニー)に上陸した。
オーストラリアといえば、先住民族は「アボリジニ」
アボリジニの祖先は、まだニューギニアとオーストラリア大陸が地続きだった5~6万年前に東南アジアから渡来下といわれている。
その後海面の上昇によりニューギニアとオーストラリア大陸が分離し、そのため外界との交流のない孤立した状況下になり、狩猟・採取生活を続けてきた。
ヨーロッパ人達の侵攻により、アボリジニは一時期絶滅の危機に陥ったが、減少した人口も徐々に増えてゆき、今では約30万人(純血はその半数以下の10~15万人)になった。その数は、オーストラリア全人口の約2%にも満たないらしい。
「アボリジニ」という呼び名は、『オーストラリアにもとから住んでいたものたち』と言う意味の言葉が由来となっている。
ラテン語の『アブ』と『オリジン』と言う「最初から」の意味を持つ言葉が結びついて出来た言葉だといわれている。
アボリジニには独特の習慣や文化があるが、中でも「ディジュリドゥ」という楽器が有名らしい。
ディジュリドゥはアボリジニが約1000年以上前から(一説には2~3万年前という説も…)使用していた楽器で、世界最古の管楽器と言われている。
この楽器は人の手だけで作られるのではない。
シロアリが中心部を食い尽くして空洞になったユーカリの木の筒から作られる。
600種類ほどあるユーカリの木の中でもディジュリドゥに使用されるのはわずか10種類ほどなのだとか。
そういうユーカリの木をみつけたら、根元を少し残して木を斬る。
そうすることによって、そのユーカリの木はまた再生するからだ。
切り倒したユーカリをトントンと地面に打ち付けると、シロアリや排泄物等がごそっと出てきて、もうその時点でディジュリドゥの音が鳴るそうだ。
まさに自然の音だ。
その後外皮を剥ぎ、様々な微調整をし、色を塗り完成に至る。
ディジュリドゥの長さは1~1.5mが標準だが、それぞれが長さも太さが違うので音も一様ではない。
ディジュリドゥの音にはヒ-リング効果もあると言われ、祭りや儀式の他、病気の治療に使われることもあるらしい。
伝統的に、ディジュリドゥは男性の楽器とされ、ほとんどの部族では女性がこの楽器を吹くことは禁止されている。
アボリジニは男女の役割がとてもはっきりとわかれている。
女性が演奏すると妊娠してしまうとか、妊婦が吹くと流産してしまうとか部族によって、そういう言い伝えもあるのだそうだ。
ちなみに、「ディジュリドゥ」という呼び方はHerbert Basedowという人物によって1926年に付けられた呼び方だそうで、その楽器の音色が「ディジュリドゥ~、ディジュリドゥ~」と聞こえたことから名付けられた一般的な名称。
北東アーネムランドでは「YIDAKI(イダキ)」西アーネムランド近郊では「Bamboo(バンブー)」クィーンズランド州北部では「Yigi Yigi(イギイギ)」東キンバリー地方では「Marluk(マールク)」等、アボリジニの言葉では地域によって様々な呼び方がある。
日本と海外ではどうぶつの鳴き声もかなり違って表現される。
だから、「ディジュリドゥ」の音色も最初に聴いたのが日本人だったら、今頃は違う名前だったかもしれないよね…
濡れたふきんでそっと冷ます♪
わざわざ書くまでもなくそんなことはわかっているのだけど、でもやっぱり寒くて起きたとたんに頭がずつー…
あぁ、今日もブルー…
「日本最低気温の日」
1902(明治35)年、北海道旭川市で、日本の最低気温の公式記録・-41.0℃を記録した。
1978(昭和53)年2月17日に幌加内町母子里の北大演習林でこれより0.2℃低い-41.2℃を記録したが、気象庁の公式記録の対象から外れていたため、旭川の記録が公式の日本最低気温となっている。
「中華まんの日」
日本最低気温の日に因み、寒い日には中華まんを食べて暖まってもらおうと制定。
「ホットケーキの日」
日本最低気温の日に因み、寒い日にはホットケーキを食べて暖まってもらおうと制定。
「左遷の日」
901(延喜元)年、右大臣・菅原道真が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷された。
彼の才能を妬む左大臣・藤原時平は、道真を罪に陥れてやろうと策略し「道真は国家の政治を私物化している」と醍醐天皇に何度も讒言した。これにより、天皇も道真のことを逆臣と思いこむようになり、901年1月20日に菅原道真を太宰権帥に左遷、筑紫国に流罪とすることとした。
長年住み慣れた自宅の庭に植えられていた梅が咲いているのを見て東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春な忘れそと詠み、この日、都を旅立った。その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行ってそこに根づいたという「太宰府の飛梅」の伝説がある。
菅原道真は無念の思いを抱きながら、2年後の903(延喜3)年2月25日に亡くなった。
「お詫びの日」
1077年、神聖ローマ皇帝がローマ教皇に「お詫び」をした。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はイタリアの支配を目指し、ミラノ大司教等を次々と任命した。教皇グレゴリウス7世がこれらの教皇を無視した皇帝の行為を激しく非難したのに対しハイリンヒは激怒し、直ちに諸侯を集めて教皇の廃位を決定した。これに対して教皇も、1076年2月に皇帝の廃位と破門を宣言した。
破門の知らせを受けた諸侯たちは、次々とハイリンヒに叛旗を翻した。そこでハイリンヒは、教皇から破門を解いてもらう為に、グレゴリウス7世が滞在している北イタリア・カノッサ城を訪れた。しかし、グレゴリウスはなかなか会おうとせず、カノッサ城外で悔恨の心を示すことを要求した。ハイリンヒは1月25日から3日間、雪の中、裸足に粗末な修道衣だけの姿で城の前に立ち続け、ようやく教皇の赦免を受けることができた。これを「カノッサの屈辱」と言う。
しかし、赦免を受けた皇帝は巻き返しを謀り、教皇との対立は再び激化して行った。この争いは以降約半世紀も続いた。
ホットケーキの原型と思われるのは、古代エジプト人が、小麦粉などをこねて作った生地をうすくのばし、熱した台の上で焼いていたものではないかと言われている。
その後の話になると、西暦1000年頃、宗教的なことから肉、魚や乳製品を食べない期間があり、その間に腐る心配もあるので在庫を減らすために卵、牛乳を使用してバターで焼いたのがホットケーキの始まりなのだとか。
当時は砂糖やシナモン、アルコール等をかけて食べていたらしい。
最近では、蜂蜜かメープルシロップが主流だと思うけど、メープルシロップはアメリカの先住民族が発見したと言われている。
ある時、酋長が斧をメープルの木に刺して休んだ。
翌朝、酋長は斧を木から取って狩りに出かけたが、斧が刺してあった木の傷跡から樹液が木の根元に置いてあった器に貯まった。
酋長の妻が、夕食を作る時にそれを水と間違えて使ったのが始まり…という伝説がある。
メープルシロップは、3月下旬から4月下旬にかけて、シュガーメープルの木から採取された樹液を煮詰めて作られる。
樹齢40年以上、または、直径25センチ以上の木しか樹液を採取することは許されておらず、1本の木に穴を開けることが出来るのは3ヶ所までと決められている。
一本の木から採取出来るのは約35~50リットルの樹液で、採取したての樹液はほぼ透明。
煮詰めることにより、水分のほとんど(約66%)が蒸発し、独特の風味や色合いをもつ濃縮されたメープルシロップが出来上がる。
メープルシロップはミネラル成分が豊富で、さらに他の甘味料に比べて低カロリー。
メープルシロップの果糖は吸収が大変ゆるやかなため、インシュリンの放出を抑えられるので糖尿病の予防効果があるともいわれている。
他に、メープルシロップに含まれるカルシウムは、交感神経と副交感神経のバランスをとり、精神を安定させる要素がある。
また、独特の香り成分が脳に働いて、ストレスを解消する効果もある。
話は戻り、ホットケーキが日本で初めて登場したのは1923年(大正12年)のこと。
関東大震災後、東京のデパートの食堂に「ハットケーキ」という名でメニューに登場したのが最初と言われている。
1931年に無糖のホットケーキの素が発売されたが、あまり売れ行きは良くなく、1950年頃には、加糖のホットケーキの素が発売され、その頃からやっと一般に浸透し始め、子供の喜ぶおやつとなってきたのは1960年代あたりかららしい。
アメリカでは19世紀の終わり頃に、アント・ジェマイマ[Aunt Jemima]というメーカーのホットケーキの素が売られるようになり、これがきっかけでホットケーキの人気が高くなったそうだ。
そういえば、1969年に「ママレンジ」というおもちゃが発売され、このおもちゃはその名の通り、おもちゃでありながらホットケーキが焼けるもので、高価ながら大ヒット商品となったらしい。
私もホットケーキはけっこう好きなんだけど、自分で焼くのが面倒で家ではまず食べない。
やっぱり焼いてもらった方が良いんだけど、たまに蜂蜜が付いて出てくるお店があり、そういう時はかなりガックリだ。
私はホットケーキは絶対メープル派!
そうでなければ、バターかなぁ…
っていいながらホイップクリームとかチョコでも嫌いじゃないし、アイスクリーム付きだと嬉しいし…要するに蜂蜜だけがいやなのかもしれないなぁ…
手旗も振るぞ!
今日は昨日以上に寒いみたいだ。
明日の朝は氷点下になるとか言ってる…
考えただけで、気が重い~…
「法律扶助の日」
法律扶助制度を行っている法律扶助協会が1993(平成5)年に制定。
1952(昭和27)年、日本弁護士連合会が法律扶助協会が設立した。
法律扶助とは、資力がない為に、法律による保護を受けられない人に対する社会的扶助のことである。
この日を中心に、全国の指定された弁護士事務所で無料法律相談が実施される。
「郵便制度施行記念日」
1871(明治4)年、東京・京都・大阪間で郵便業務が開始された。
それまでは飛脚便に頼っていたが、前島密の建議により郵便制度が定められ、まず東京・京都・大阪間で営業が開始された。
「金の日,ゴールドラッシュデー」
1848年、アメリカ・カリフォルニアの製材所で働くジェームズ・マーシャルが、川底に金の粒を発見した。
この噂は全米に広まり、多数のアメリカ人がカリフォルニアに押し掛ける「ゴールドラッシュ」となった。一獲千金を求めて集まった人達は「フォーティーナイナーズ」('49ers)と呼ばれた。
「ボーイスカウト創立記念日」
1908(明治41)年、イキリスでボーイスカウトが結成された。
大昔、近所にボーイスカウトに入ってる子が1人だけいた。
制服が珍しかったので、覚えているのだけど、何をするものなのかはまるでわかっていなかった…
かの昔、南アフリカのマフェキングの司令官をしていたイギリスの軍人、ベーデン・パウエルという人物がいた。
このパウエルは1899年~1900年にかけて圧倒的な数の敵に包囲されながらもその町を守り通した功績により、国民の英雄となった。
彼がかつて軍人のために書いた「斥候術の手引(Aids to Scouting)」は、学校の教科書にまで使われるようになっていた。
それなら少年のために書いた本は、より大きな効果をあげるに違いないと思い、彼は慎重にスカウティングの構想を立て、1907年夏、20人の少年を集めて無人島へ実験キャンプを行った。
この実験キャンプは成功をおさめ、翌年、彼は訓練の手引き「スカウティング・フォア・ボーイズ」を刊行。
発売されると、スカウトの班が各地に続々と出来始め、こうしてボーイスカウト運動は始まったということだ。
具体的になにをする…というよりは、自然活動などを通して、心身ともに健全な人格形成を目指す…というようなものだと思うのだけど、ボーイスカウトに入ってた近所の子はちょっと屈折した子だったけど…
もしかしたら、それで親が心配して入れたのかなぁ??
まぁ、私のようなタイプの人間にはとても苦手そうな活動だ。
この年齢だからいまさら入れるわけもないので、心配することもないけど…
だいたい、制服がある所はなんでも苦手だったりするんよね…
でも、小さい頃はスカーフだけはなんとなくかっこいいように見えたけど…
ありか゛とう
とはいっても、関東程の雪はふらなかったけど…
「電子メールの日」
電子メッセージング協議会(現在のEジャパン協議会)が1994(平成6)年に制定。
「1(いい)23(ふみ)」(いい文・E文)の語呂合せ。
「八甲田山の日」
1902(明治35)年、八甲田山へ雪中行軍に出かけた兵士210名が遭難した。
冬の八甲田山は本来は冬の重装備が必要だったが、指導部の無謀さから兵士は軽装のまま行軍を開始したため、猛吹雪の中で道を失い寒さと飢えと疲労の為に遭難して行った。25日になって199名の死亡が確認された。
「真白き富士の嶺の日」
1910(明治43)年、神奈川県の逗子開成中学の生徒12人が学校のボートで乗り出し、七里ヶ浜で遭難して全員が死亡した。
この遭難は社会的事件として新聞で大々的に扱われた。この悲報に接した鎌倉女学校の教諭・三角錫子が「七里ヶ浜の哀歌」を作詞し、この歌は全国で愛唱された。
「ワンツースリーの日」
「123」で「ワンツースリー」とよむ語呂合せ。
人生に対してジャンプする気持ちを持とうという日。
「いいふみ」がもはや、手紙ではなくメールを指すというのが時代だなぁ…と思う。
ある調査によると、1日当たりのメール受発信数は、年齢が低いほど多く、性別では男性より女性の方が多いという結果が出たらしい。
確かに、年令が高くなればなるほど、メールを打つのが遅かったり、わずらわしいと感じる人がいたり、携帯やパソコンそのものを持ってない人の比率が上がるから、メールの受発信数が少ないというのもうなづける。
女性の方がメールをたくさん打つというのは、男性よりも自由な時間が多いからかもしれない。
特に30代あたりになると、自分の携帯を使いこなせない人が増えてくる。
特に、濁点、半濁点、「、」や「。」、改行の仕方がわからないという人が多い。
返信はできるけど、新規メールの作成ができないという人もいる。
もちろん、コピーやペースト等はできない。
メアドの登録が出来ない等、いろんなことが出来ない人が非常に多い。
「空メ」がわからない人もいた。
結局、あんまりメールをしないからいろんなことを覚える必要もなく、必要がないからわからないのかもしれない。
メールに限らず、なんでもそうだけど、最初はどうもややこしいように思えることも、しばらく続けていると造作ないことになってくる。
だけど、まわりが似たような人ばかりだったら、やっぱりあんまりメールはしないだろうから、そうするとやっぱり覚えられないということになるのかもしれないな。
…っていうか、必要がなければ覚える必要もないってことか?!
でも、いかにも打ち慣れてない人からのメールをもらうと、受け取った方はなんともいえはい切ない気分になるよね…