ちょっとだけ今日は何の日 -23ページ目

猫にゃんにゃんにゃん

実は、ものすごく溜めブログになっていたりする今日この頃…

本当の日時に追いつくことは出来るのか…?!


「世界友情の日,国際友愛の日」
ボーイスカウト・ガールスカウトの創始者パウエル卿夫妻の誕生日に因んで、1963(昭和38)年のボーイスカウト世界会議で制定し、1965(昭和40)年から実施。

「猫の日」
英文学者の柳瀬尚紀さんらによる「猫の日制定委員会」が1987(昭和62)年に制定。ペットフード工業会が主催。
「ニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)」の語呂合せ。全国の愛猫家からの公募でこの日に決まった。

「食器洗い乾燥機の日」
日本電機工業会が制定。
食器洗い乾燥機によって食後のゆとりができ、夫婦だんらんの時間ができるということから、「ふう(2)ふ(2)にっ(2)こり」の語呂合せ。

猫好きな私としてはやはり今日は「猫の日」を避けては通れない。
猫は好きな人が多い反面、嫌いだという人も多い。
つまりは、アクの強い生き物だってことかな?
昨年(?)ははっちゃんという人気者にゃんこが登場した。
とはいっても、別にテレビのCMに出てたりするわけではないから、チワワのクーちゃんみたいに全国的な人気者ではないかもしれないけど、写真集も出て、写真集の発表会に生はっちゃんが登場すると、カメラをかまえた女性達に囲まれる。
普通、女性の歓声やフラッシュにおびえそうなものだけど、はっちゃんは平気。
さすがは人気者だ。
このはっちゃん、もともとは野良猫だったらしいが、カメラマン・ハニーさんの目に留まりモデルを務めるうちにハニーさん家の飼い猫となった。
確かに、美しい!
猫を飼ったことがない人にはもしかしたらわからないかもしれないけど、猫にもべっぴんさんとぶーさいくさんがいる。
はっちゃんは一目で目をひくほどの男前だ。
人間と同じで、やっぱり「普通」ランクの猫が多く、「美形」にはいるのは意外と少ない。
ちなみにうちのはぶーさいくさん。
猫はさわり心地も良いし、見てるだけでも本当に飽きない。
特に子供の頃の可愛さは他の動物よりも群を抜いていると思う。
でも、あんまり好かれないのは猫の習性のせいなのかなぁ?
確かに猫被害はいろいろあるんだけど、だってそういう生き物なんだもん…!

…こんな風に考えられるのはきっと私が猫好きだからなんだろうなぁ…

グハハハハハ…我輩は…

「国際母語の日(International Mother Language Day)」
国際教育科学文化機関(ユネスコ)が1999年11月17日に制定。国際デーの一つ。
1952年、当時はパキスタンの一部だったバングラデシュで、ベンガル語を公用語として認めるように求めるデモ隊に警官隊が発砲し、4人の死者が出た。バングラデシュでは、独立運動の中の重要な事件の一つとしてこの日を「言語運動記念日」としていた。

「日刊新聞創刊の日」
1872(明治5)年、日本初の日刊新聞『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)が創刊した。

「食糧管理法公布記念日」
1942(昭和17)年、「食糧管理法」(食管法)が公布された。

「漱石の日」
1911(明治44)年、文部省が作家・夏目漱石に文学博士の称号を贈ると伝えたのに対し、漱石は「自分には肩書きは必要ない」として辞退した。


夏目漱石の小説はそんなにしっかりと読んだ記憶がない。
10代の頃、とにかく手当たり次第に有名な小説は読んだけど、当時の私にとってはあまり面白くなかったのかもしれない。
20代になってからはSFばーっかり読んでたし、時間が出来たら、もう一度世界や日本の名作を読んでみたいと思いながら、時間がなくてなかなか読めない…


夏目漱石は慶応3年(1867年)1月5日、5男3女の末子として、江戸牛込馬場下横町(現在、新宿区喜久井町1番地)生まれる。

本名は「金之助」。

筆名の漱石は頑固者という意味の故事「漱石枕流」から来ている。

「漱石枕流」「そうせきちんりゅう」と読み、屁理屈を並べ負け惜しみの強いことのたとえ。

晋(しん) の孫楚(そんそ) が、「石に枕し流れに漱ぐ」と言うべきところを誤って「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまい、そのことをとがめられると、石に漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕するのは耳を洗うためだ、と言ってごまかしたということから。


大正5年(1916年) 12月、「明暗」執筆中に胃潰瘍のため他界する。享年49歳。


49歳か~…その時代にしては、それほど短命でもないのかな?

49年っていったらそんなに短いこともないよね…

そういえば、全然関係ないんだけど、10代の頃の私が大好きだった小説は、実はフランス文学だったんですね~…

おとなになってから知ったんだけど…

当時は全然意識してなかったんだけど、やっぱりその頃から(もしくはそれ以前から?)フランスにひかれてたんだなぁ、きっと。

で、いつも思うんだけど、執筆途中で作者が亡くなった場合ってどうなるんだろう?

先日、山村美沙物語をテレビで見ていたら、西村京太郎さんと山村さんは、どちらかが執筆途中で亡くなった場合、生き残った方が書き上げようねと約束をしており、山村さんの遺作は西村さんが書き上げたとかいう話になっていた。

でも、そういったことはまれなことだから、普通はどうなるんだろう…?!

一途…

「旅券の日」
外務省が1998(平成10)年に制定。
1878(明治11)年、「海外旅券規則」が外務省布達第1号として制定され、「旅券」という用語が日本の法令上初めて使用された。
それまでは、「御印章」「海外行免状」と呼んでいた。

「歌舞伎の日」
1607(慶長12)年、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露した。

「普通選挙の日」
1928(昭和3)年、日本で初めて普通選挙が実施された。
納税額に関係なく、すべての男性に選挙権が与えられた。女性も参加した完全な普通選挙が実施されるようになったのは1946(昭和21)年4月10日の総選挙からである。

「アレルギーの日」
日本アレルギー協会(日ア協)が1995(平成7)年に制定。
1966(昭和41)年、免疫学者の石松公成・照子夫妻が、ブタクサによる花粉症の研究からアレルギーを起こす原因となる免疫グロブリンE抗体(lgE抗体)を発見したことを発表した。

「愛媛県政発足記念日」
1873(明治6)年、石鉄県と神山県が合併して愛媛県が誕生した。
1973(昭和48)年に最初の記念行事が行われ、「愛媛県章」「愛媛の歌」が制定された。
今日もまたどうも書きにくい記念日ばっかりだったので、今日の出来事を探してみたりする。
で、ちょっと気になったのが「1974年 ルバング島で小野田元日本軍少尉を発見 」ってもの。
昨年末だったか、テレビでやってた「小野田寛郎物語」
ビデオが途中までで切れてて、最後まで見れなかったのがとても悔しい。
興味深い人物なのにぃ~…!

小野田さんは1922年和歌山県海南市に生まれ。
中学卒業後貿易会社に就職し中国に渡る。
上海の商事会社で働いていた頃現地召集を受けて、1942年、現役兵として陸軍歩兵第61連隊に入隊。
その後、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、陸軍中野学校二俣分校へ入校し、情報将校として育成され卒業する。
中国語や英語が堪能だった事から、1944年12月、「残置諜者」及び「遊撃指揮」の任を与えられフィリピンのルバング島に着任。
部下と共にゲリラ戦を展開した。

しかし、主戦を迎えても現地に任務解除の命令が届かなかった為、部下と共に戦闘を継続。
ルパング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為にジャングルにひそみ、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。
一方、日本では1945年9月に戦死公報を出されていた。
地元警察との戦闘で二人の部下を失い、最後の数年は一人で密林の中に暮らしていた。
手に入れたラジオや捜索隊が残した日本の新聞や雑誌等から、日本の情勢を知った。
しかし、小野田少尉はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えた。
戦後、小野田少尉が知りえた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかった為に、小野田少尉は30年近くも降伏をせず戦い続ける結果となった。
1974年3月9日、上司である谷口義美元少佐から任務解除命令が下り、やっと小野田少尉にとっての戦争は終わった…
戦争を知らない世代の私にとっては、軍人というものはここまで真面目に任務を遂行されるものなのだろうか?と驚く。
多分、小野田さんももっと階級の低い人だったらここまで時間はかからなかったのかもしれないけど…
戦死したと思われた時から30年も過酷なジャングル生活を送られてきたんだから、本当に大変なことだったと思う。
ちょっと前に、テレビで小野田さんを見たのだけど、80代とは思えないほど矍鑠とされていた。
「小野田自然塾」とかいうものを主催し、キャンプや講演を行っていらっしゃるらしい。
たいしたもんだなぁ…
いろいろと問題発言もあったらしいけど、やっぱり尊敬に値する人だと感じた。
私みたいなひ弱な人間とは比べ物にならない程の精神力がある。
やっぱり、昔の人っていろんな面で今の時代の人とは違うよね。
たくましい…
そんな中でも、小野田さんはとりまく環境からさらにたくましくなったんだろうな。
機会があれば、講演も聴いてみたいと思う。

うらやまち…

「万国郵便連合加盟記念」
1877(明治10)年、日本が、郵便の国際機関・万国郵便連合(UPU)に加盟した。
万国郵便連合ができたのは1874(明治7)年で、日本は独立国としては世界で23番目、アジアでは最初に加盟した。
戦前に一度脱退し、1948(昭和23)年6月1日に再加盟した。

「プロレスの日」
1955(昭和30)年、日本初のプロレスの本格的な国際試合、力道山・木村組対シャープ兄弟の試合が開催された。

「強制収容を忘れない日」
1942(昭和17)年、ルーズベルト大統領の命令により、アメリカ在住の日系人11万2千人が強制収容所へ転住させられた。

う~ん、今日もなんだか書きにくい記念日ばっかりだなぁ…と、悩みながら今日の出来事を見てみると…
「1983年  将棋の女流名人戦で、15歳の林葉直子が蛸島彰子女流名人を破る」っていうのがあった。
将棋はルールも知らないし、ほとんどやったこともないし興味もないけど、林葉直子っていう人物はけっこうお騒がせな人だから、興味がないこともない。
最初は、多分すごい少女だってことで出てきたんだと思うけど、何年かして名前が知れて来た頃(?)泥沼の不倫騒ぎで一気にイメージが悪くなって…
それから、確かかなり過激なヘアヌード写真集も出したよね?
その時だったのかなぁ?
豊胸手術でAカップからFカップにしたのは。
とかく変な面、悪い面ばっかりテレビでは報じられるけど、12歳でプロ棋士になったというからやっぱりすごい!
しかも、14歳で「女流王将」・「女流名人」を獲得。
その後10年連続で「女流王将」を保持。
通算18タイトル獲得「クィーン王将」の称号を得る。
平成7年、プロ棋士引退。
…という経歴の持ち主
…といっても、実は格付けがよくわからないので、どのくらいすごいか実はよくはわからないのだけど、とりあえずはプロの中でもすごいんじゃないのかなぁ…
さらに、この方、ティーンズ向けの小説も長らく書かれているそうで、その上最近ではタロット占いの占い師としても活躍中なんだって。
多才な人なんだねぇ~…
で、林葉直子のタロットブログ があったので見てみた。
タロットのお悩み相談をやってるブログなんだけど、う~ん、この答えはどうじゃろか…
あまりに簡単すぎる気がしたなぁ…(^^;
もうちょっと答え方も親身になった方が良いかも…

意外に人間臭かったり…

「嫌煙運動の日」
1978(昭和53)年、東京・四谷で「嫌煙権確立をめざす人々の会」が設立された。
既に札幌市に「非喫煙者を守る会」があったが、「日照権」をヒントにして作られた「嫌煙権」という新語のアピールによって嫌煙運動が全国に広まった。

「エアメールの日」
1911(明治44)年、飛行機によって初めて郵便物が運ばれた。
インドのアラハバードで開かれていた博覧会会場から、8km離れたナイニジャンクション駅まで、6000通の手紙が飛行機で運ばれた。博覧会のアトラクションとして行われたもので、ナイニジャンクション駅からは普通に列車で運ばれた。

「冥王星の日」
1930(昭和5)年、アメリカ・ローウェル天文台のクライド・トンボーが、1月23日と1月29日に撮影した写真との比較研究から、太陽系第9惑星・冥王星を発見した。
内側の天王星の運行の乱れからもう1つの惑星、即ち太陽系の一番外側の惑星の存在は予言されていたが、予想を遥かに下回る15等星という暗さのため、発見が遅くなった。
その暗さから、ギリシア神話の冥府の神に因みplutoと名附けられた。

「プルート」(Pluto)は、ローマ神話の冥界を司る神。
ギリシャ神話の「ハデス」がローマ神話に取り入れられたもの。
この名はギリシャ語のプルートーン (『富める者』)がなまったたもので、ハデスの呼称の一つだった。
現代西洋占星術では冥王星の守護神とされる。
ちなみに、核兵器や原子力発電所で利用されているプルトニウム(Plutonium)の語源もこのプルート(Pluto)である。
この「プルート」の名づけ親は実際には、当時11歳だったイギリスの少女だという説もある。
日本で、プルートを「冥王星」と命名することを提案したのは、天文 に関する著作を多数残す英米文学家の野尻抱影氏。
プルートはクロノスとレアの子で、ゼウスとは兄弟にあたる。
ゼウスは天空と山頂を支配し、ポセイドンは海を支配し、そしてハデス(プルート)は地下にある死者の国、冥界(タルタロス)を支配します。
冥界の入り口には大きなステュクス河が流れ、何人たりとも生きてこの河を渡ることは許されておらず、さらにこの河を渡る時には銀貨を要求していた。
支払いに応じられない死者の魂は百年の時をさ迷うこととなると信じられていたために、古代ギリシアでは、死者の口の中に銀貨をおさめて埋葬したという。
ハデスは地下の豊富な金銀財宝をほしいままにすると共に、強引に美しい妻を手にいれた。
収穫の女神デメテル(ローマ神話のケレス)の娘ペルセポネ(ローマ神話のプロセルピナ)を見初めたハデスは、ゼウスと共謀し彼女を地下の国に誘拐したのだ。
それを嘆いたデメテルはほら穴に閉じこもり、地上のすべての作物が芽吹かないようにしてしまった。
このままでは人々は餓死してしまうだろうし、もちろん神々へ供物もできなくなってしまう…
困り果てたゼウスは、使者ヘルメスを呼ぶと、デメテルにペルセポネを引きあわすように命じました。
そうはいってもそのまま帰してしまうのでは、ハデスの気がおさまるはずがない。
ヘルメスはペルセポネに地上に出してあげようと誘い、さりげなくざくろの実を食べるようすすめた。
1度冥土の食べ物を口にしたものは、2度と地上へは戻れないという掟があったからだ。
再会したデメテルとペルセポネの喜びも束の間、デメテルはペルセポネが冥界の食べ物を口にしたことを知り悲しみにくれる。
デメテルはそのことをゼウスに訴えかけ、やがてゼウスは、1年のうちの4か月は娘が冥界で暮らすように命じた。
ペルセポネが地下にいる間、デメテルはほら穴に閉じこもり地上は冬となり、ペルセポネが帰ってくると植物や作物の芽吹く春が訪れるようになった。
という、地上に四季の区別ができた始まりの神話。
…神話って、神様の話なのにけっこう人間臭いっていうのか、えーーーっ!?神様がそんなことする~?!的な話がけっこう多いよね。
まぁ、そこが面白い所でもあるんだけど…

カケラでも良いからほしい!

「天使のささやきの日,天使の囁き記念日」
北海道幌加内町の「天使の囁きを聴く会」が1994(平成6)年に制定。天使の囁きとは、空気中の水蒸気が凍ってできるダイヤモンドダストのことである。
1978(昭和53)年、幌加内町母子里の北大演習林で氷点下41.2℃という最低気温が記録された。
しかし、気象庁の公式記録の対象から外れていたため、1902(明治35)年1月25日に旭川市で記録された氷点下41.0℃が公式の日本最低気温となっている。
これをプラスイメージに変えようと、町内の若者グループが中心となり、この日ダイヤモンドダストの観察等厳冬の一夜を体験する「天使の囁きを聴く集い」を1987(昭和62)年から開催している。

なかなかロマンティックなイベントですね。
今年は1月の27~28日に開催されたらしく、料金は1泊3食付きで5000円とのこと。
けっこうリーズナブルです。

天使の囁きといえば、現代までに天使の声を聞いたとされる人は何人もいる。
中でも一番有名なのは、ジャンヌ・ダルクだろう。
天使の声に耳を傾けてしまったために、大変な生涯を送ってしまった。
…っていうか、やっぱり選ばれし者だったのだろうけど、そんな大きな宿命を背負って生まれた人は大変だな…

天使の歌声というと、たいていはボーイソプラノやオペラの歌い手さんのことを指す場合が多いけど、ジャンヌに語られた声は低く荘厳な声みたいに言われている。
私のイメージでも、やっぱりそんな感じじゃないかなと思う。
まぁ、私は一生天使の声を聞くことはないと思うけど…

いまもやってる…はず

「天気図記念日」
1883(明治16)年、ドイツ人気象学者エリヴィン・クニッピングの指導のもと、7色刷りの日本初の天気図が作成された。
天気図は1日1回発行されることになり、8月23日からは新橋と横浜の停車場に掲示された。

「全国狩猟禁止」
11月15日の解禁日まで北海道以外の全国で狩猟禁止。
北海道は2月1日~9月30日。

お天気といって思い出すのは、最近では石原良純、関西では亡くなられた福井敏夫さん、そして有名なのはやっぱり、♪ボクの名前はヤン坊、ボクの名前はマー坊、2人あわせてヤンマーだ、気味とボクとでヤンマーだ~♪のヤン坊、マー坊。
昔からいることは知ってたけど、なんともう40年以上も前からいるらしい。
ちなみに、ヤン坊とマー坊の見分け方はTシャツを着てる場合は「Y」のTシャツを着ているのがヤン坊、「M」のTシャツを着ているのがマー坊だとすぐにわかるのだけぢ、着てない場合は、モミアゲの部分がまっすぐなのがマー坊で、2つに分かれて一部が顔の方にはねてるのがヤン坊なんだって。
歴史が長いわりには、●月●日生まれ、趣味●●的なプロフィールは公開されてないらしい。
けっこう謎なキャラクターだったんですねぇ…

加●大が何人分?

「春一番名附けの日」
春一番とは、春本番に先だって数日間にわたって吹く南からの強い風のことである。
気象庁では「立春から春分までの間で、日本海で低気圧が発達し、初めて南よりの強風が吹き、気温が上昇する現象」と定義している。
元々は壱岐や瀬戸内海の漁民の間で使われていた言葉だったが、気象用語になってから一般的になった。

「コマーシャルフォトの日」

…ってことで、どっちもなんだかなぁ…なので、今日の出来事を調べてみた。
そしたら、
「1946年
世界初の電子計算機とされるENIACがアメリカ・ペンシルバニア大学で完成。重さ30トン」
っていうのがあった。
電子計算機って聞くと「電卓」をイメージする。
つまりは、電子卓上計算機なわけだけど、当時は計算するのに卓上で…なんて無理なことだったわけですな?!
なんせ30トンだから、相当でかいに違いない。
数十年でこんなにコンパクトになったっていうのはたいしたことだなぁ…
電卓は今では卓上どころかカードタイプがほとんどで、100均でも売ってるもんね。
しかも、だいたいはソーラーじゃない?
便利になったよねぇ…
我が家にも使わない電卓がいくつかある。
たいていはもらいもの。
そんな難しい計算をする機会っていうのもないし、必要な時は携帯の電卓機能で計算するからいらないのよねぇ…
でも、昔は暗算でやってたこともついつい電卓まかせにしてしまうあたり…
頭が弱ったなぁ…と痛感。
まだ今でも30トンの計算機しかなかったら、人間はもっと暗算能力が高かったと思うんだけど…

生チョコはうまい!

「聖バレンタインデー」
西暦269年、兵士の自由結婚禁止政策に反対したバレンタイン司教が、時のローマ皇帝の迫害により処刑された。それから、この日がバレンタイン司教の記念日としてキリスト教の行事に加えられ、恋人たちの愛の誓いの日になった。
ヨーロッパでは、この日を「愛の日」として花やケーキ、カード等を贈る風習がある。
女性が男性にチョコレートを贈る習慣は日本独自のもので、1958(昭和33)年にメリーチョコレートカムパニーが行った新宿・伊勢丹でのチョコレートセールが始りである。1年目は3日間で3枚、170円しか売れなかったが、現在ではチョコレートの年間消費量の4分の1がこの日に消費されると言われるほどの国民的行事となった。
一箇月後の「ホワイトデー」に返礼のプレゼントをする。

「チョコレートの日」
日本チョコレート・ココア協会が、バレンタインデーのギフトアイテムとして使われるチョコレートをさらにPRする為に制定。

「ネクタイの日」
バレンタインデーの相乗り。

「煮干の日」
全国煮干協会が制定。
「に(2)ぼし(14)」の語呂合せ。

1958年っていったら、チョコレートもまだあんまりメジャーじゃなかったんだろうか?
まさか、そんな時代でもないと思うんだけど、3日でたったの3枚しか売れなかったのは、「女性の方から告白するなんてはしたない!」ってことだったのかな?
チョコレートというと、大昔、駄菓子屋で食べた安物のチョコレートの味が時々懐かしくなる。
どんな味だったかというと、説明するのは難しいんだけどとにかく普通のチョコとは違った味だった。
他には親戚のおじさんがいつもくれたハーシーのキスチョコが好きだったなぁ…
最近では、おなかがすいたら●●●●♪のヌガー入りでナッツのついたチョコが不意に食べたくなったものの、名前が2日程思い出せなかった…
スニッカーズだったんやね~…
あれも、時折食べたくなる味。

最近はチョコレートパックなんてものもあるけど、カカオにはけっこう美容に良い成分が入ってるらしい。
ところで、チョコレートというものには基準があるらしく、成分により、純チョコレート→チョコレート→準チョコレートと別れている。
アイスクリーム、アイスミルク、ラクトアイスみたいなもんかな?
値段も違うから、本命さんには純チョコレート、義理には準チョコレートになるのかな?

裏切り者

明日はバレンタインデー。
当然、今年も誰にもあげる予定なし…
何年か続くと、あんまり悲しくなくなってきた。

「苗字制定記念日」
1875(明治8)年、明治政府が「平民苗字必称義務令」という太政官布告を出し、すべての国民に姓を名乗ることを義務附けた。
江戸時代、苗字を使っていたのは貴族と武士だけだったが、1870(明治3)年9月19日に出された「平民苗字許可令」により、平民も苗字を持つことが許された。しかし、当時国民は明治新政府を信用しておらず、苗字を附けたらそれだけ税金を課せられるのではないかと警戒し、なかなか苗字を名乗ろうとしなかった。そこで明治政府は、1974(明治7)年の佐賀の乱を力で鎮圧するなど強権政府であることを誇示した上で、この年苗字の義務化を断行した。

「銀行強盗の日」
1866年、アメリカでジェシー・ジェイムズが世界初の銀行強盗に成功した。

「地方公務員法施行記念日」
1951(昭和26)年、「地方公務員法」が施行された。

1866年といえば、今から140年前…
その時に銀行強盗が成功したのが初めてっていうのは早いんだか、早くないんだか…(桂小枝風…)
白昼、「ミズーリ州クレイ郡貯蓄銀行」が襲撃される。
犯人は約10人、被害額は、約60万~70万ドル。
銀行員は殺されなかったが、銀行の前を通りかかった若者がとばっちりで殺された。
この銀行強盗は実は彼ら自身の「抵抗の証」であったからだという。
当時彼らが襲った場所のほとんどが「北部派」の施設であり、
変化を求められ圧政を強いられていた「南部派」の唯一の刺激となっていた。
しかし時代が変化に対応するに連れ、社会も変わり組織の結束も弱まり一味も解散となる。
1881年9月のシカゴの2度目のオルトン鉄道襲撃が彼の最後の列車強盗となった。
1882年4月3日、追跡され、隠れていたミズーリ州セント・ジョセフの自宅で若い仲間のロバート・フォードによって背後から撃たれ射殺された。
1万ドルの懸賞金が目的だった。享年35歳。