全て終わって
山の奥地、本当に秘境のような場所にあるお寺でご焼香をあげ
ようやく祖父の事は終わった
戻ってきて明日で一週間、あっという間だったと思う
山中の小学校、こう全校生徒で5人だそうだ
和尚様が言うには他の場所からこの土地に定着する人は皆無だという
皆山を降り、サラリーマンなどで生活しているらしい
「愛媛のみかん」は大きいネームバリューだが
実際の所、生産量は和歌山に抜かれてしまっているし
父は農家を続けるようだが農家だけでどれだけ生活ができるかはわからない
今日から晴れて自由の身だが
まだ東京に戻るのはもう少ししてからになりそうだ
ちょうど今正午前、午後からは姉と両親の還暦の祝いを買いに出る
インターネットカフェにも行きたい所だが
すごい事に
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途中で外出していたら結局ネカフェからの更新になってしまった
ついさっきまで両親と姉、義兄と甥3人、合計8人で食事に行っていた
両親の還暦の祝いをお昼の間に姉と買いに行き、それから戻ってすぐ食事だったのだ
何か…落ち込むとこうなってしまうのだがこの口調で書くのも悲しい事
以外は性にあわないのでこの文章をもってこの口調は終わりという事で…
2月7日
あっという間にお通夜、葬儀、そして火葬し骨を拾う事も終わった
実際にこれがあるから私は今まで実家に戻りたくなかったのだが
集まった身内はやはり私の近況を根掘り葉掘り聞いてきた
皆私の人生に口だしするような事は言わなかったのだが…
何を言われたかは大体お察しの通りとだけ
年寄りというかなんと言うか…物を捨てられない祖父の家は
それはそれは狭い家になっていた。
実際に私にはそれが必要か不必要かを知る術はないにしても
餅つきのできる土間や全て6畳の部屋、2本の廊下などを考えると
都会では考えられない広い家なのだが実際には物が多すぎて私が座る場所すらない状態だった
少し片付けてテーブルをお骨と遺影を起き
明日のお寺参りを残すだけとなった
お葬式の間に49日までの卒塔婆のお経を頂いていたようなので
初七日まで私がいる必要はないらしい
正直な話いまはもう疲れてあまり考えられない状態なので
ここ数日の事はこれでまとめてしまおうと思う
決定的瞬間
事が起こったのは夕方だった
結局自宅で眠れないまま時間ばかりが過ぎ食事も喉を通らず
テレビもつまらない民放しかなく外に出る事もできなかった
父親からの電話で病院に戻ると容態は特に変わったわけでもなく
ただ一度痙攣を起こしただけという
脳梗塞を患うと喉の開閉する場所が空きっぱなしになるので
そこから肺炎も併発しているという。熱は41度
痰がからんだ呼吸は苦しそうだが姉が言うには意識がないので
皆が見ている程は本人は苦しくないのだという
祖母が祖父に話しかけると反応するように大きい息をする
意味がわかっているかどうかは別の話として
もしかしたら耳は聞こえているのかもしれない
何かの記事で人は死ぬまで耳は聞こえていると書いてあった
私も話かけようかとも思ったが逝こうとしているのを呼び止めるようで
なかなか言葉が出てこなかった
ただ一言だけ
「山は大丈夫やけん、昨日もデコポンとっとるけん」
とだけ振り絞って話した
入院してまだ意識があった当時看病していた従兄弟の話だと
祖父はみかんを取る時に腕時計をしており
腕を上げた時にずれた腕時計を腕を振って直すという癖をずっとしていたという
もちろんその時その腕には腕時計ではなく点滴があったのだが
脳の血栓の為に認知症も併発していた祖父は
ずっと肥料を混ぜる仕草をしたり腕を振ったりしていたのだという
それから2時間もたたない内にその時は訪れた
まず最初に血中酸素が感知できなくなった
それから呼吸数が一桁になり、そして0になった
血圧が上が60、下が30になりそれもどんどん落ちていった
血圧が不定期になると共に脈がでたらめな数字になり0になった
祖父は亡くなった
集まれる人間はすべて集まったと思う。子や孫総勢20人以上、
病室に入りきらない身内を代表して長男である父がベッドに脇にいた
脈が0になってからの小さい鼻をすする数はずっと減らなかった
私は「今学ばなければ」とずっと涙をこらえ組んだ右腕で左腕を抓(つね)り続け
ドクターの「ご臨終です」という言葉を聞いて皆が退室し始めてから
祖父の傍に立った
もう必要ない管は全て取られた後の祖父の顔は
どうともとなれない無表情だったと思う
ただ一言だけ「おつかれさま」と言ったその言葉はもはや声にはならず
下を向いた時に瞼に支えきれなくなった涙が数滴こぼれた
時間が時間だったのでお通夜は翌日という事でお通夜の場所まで祖父を運ぶという
その間私は姉夫婦、姉の子供3人と食事をし、それから姉の新居で話をした
これからの私の事や山の事、そして財産がどうとか身内の事
それから父達の待つお通夜が行われる会場を訪れ、祖父に水をあげた
ずっと笑っていた祖父しか印象がなかったので
素の顔の眉毛がこんな角度だったかと少し変な感じがした
少し父達と話しをした。喪服も必要なのでその段取りも
長時間の緊張で疲弊しきっていたので少しずつ睡魔が襲ってきた
両親はその場所にずっといなくてはならないようなので私が実家に戻る事になった
自宅にもどって1時間もしない内に風呂にも入らないまま眠ってしまっていた
2月5日
先日早く眠ってしまったので中途半端な時間に起床
ウトウトしながら時間が過ぎるのを待つと一通の電話
祖父の容態が急変したらしい。
昨日深夜ずっと付き添っていた従兄弟からで父親が向かう事になる
父親が病院についてからしばらくしてだと思うが自宅に電話、すぐに来いという内容
そのまま父は親戚に招集をかけたのであろう身内が全員集まり始める
4男2女の夫婦にその子供たち、私にとっては従兄弟にあたる人々
更には祖父の兄弟であったり近縁の人達
そして祖母
一時は20人近くになり病室に入りきらないので待合室に
昨日30あった呼吸集が15になり、時々一桁になり0になる
血中酸素のラインは一直線になっていた
姉の話だとどうやら感知できない程らしい
今学ぶべき事を…人の死に立ち会う機会などそうそうない
そう思い取り乱す事を必死で耐える
男は待合室に女は病室で
やはりこういう場合女性が落ち着いていると思った
かくいう私はというとこれが1時間もすれば落ち着きを取り戻していた
途中で薬剤を点滴する事で現状維持に変わった
順番に祖父を見、最後は祖父の家で育った双子の従兄弟がベッドの横へ
祖母が祖父の腕や足を摩(さす)る
現状維持のまま5時間が過ぎ、緊張に皆疲れてそれぞれが休む事になった
私の番で自宅にもどってこのブログを記入。
次に記入できるのはいつだろうか…
事が起こったらブログの記入どこではないと思う
人生
驚くほど空いた何も無い時間
驚くほど静かな町
今思うとなるほど、この町では何かを思い立ちはしないと思う
何も考えず、身の回りにある物で満足し生きていける
決まった流れに乗りさえすればそのまま「前に習え」で生きていける町
私は上京した事を後悔している部分もあればよかったと思う部分もある
何事も経験というのは昔お世話になった某ショットバーのマスターの話
そして今の現状を考えて
「何も考えなければこの町を出るべきではなかった」とも思う
驚く程のんびりした人達に囲まれて生きていくこの町は永住するには悪くない
でも表現する楽しさを知ってしまった私
18で都会の便利さを知ってしまった私
昔お世話になった人達はみなそれぞれ自分のお店を持って生活している
私の人生は私の物、それは誰にも決める事はできない
そしてその私が今こんな宙ぶらりんでいいのかとも思う反面
今までやってきたことが悪いとも思えない
このファイルは書きかけのまま終わろうと思う
祖父がもう長くはない、死は誰にでも平等に訪れる
早いか遅いかの違いだけ
これからの私はこれからの私がその場その場で決めていくだろう
山
祖父の容態が安定したというので今日は収穫の手伝いで山へ
夕方の6時だというのにあくびしながらのブログ記入
何が驚いたといえば昔歩いた道が今歩くとこんなに狭いのかと驚いた
軽トラック一台がようやく通れるぐらいの道を走っていく先には
昔手伝いで訪れた段々畑が今も変わらずあった
確かに「広規格道路」と呼ばれる道路を建設中で新しくはなっているが
山から見る故郷は笑える程変わっていなかった
保育所であったり小学校、中学校の頃に見た山は
みかんの木が生え並び段々畑の1段を降りるのを苦労し
その先にあるシュロの木はさながら密林の奥のような場所だった
父親の代になってかどうかわらないがその密林は新しい若木になり
高さも低くなり、(もちろん私の身長も高くなったのだろうが)
ほんの数十メートル先にあるシュロの木が同じ木だとは考えられなかった
鳥に食われるとこうなるらしい。鳥ながら綺麗に食べる物だと少し感心
もともと山に登ったら何も無いとわかっていたので財布を置いて出たが
タバコが残り2本で全部吸ってしまい
食事が終わって吸いたくなるのを紛らわせるために余計に働いた
10時から5時まで働いて戻ってきて一服
同じタバコなのになんだか美味しくない…空気がいいせいかも
吸って歩くとクラクラした
今日はこれから少し飲みに出ようかと思う
正直これほど何もない町だと若い人達は飲む以外楽しみはないと思う
といってもその前に病院に行き
お世話になった前のバンドのメンバーに挨拶に行きで終わり
2月3日
起きたのは6時前、外は暗く、相変わらず静かな中
午後か午前かの区別もつかず居間でタバコを一本
病院に行く前に起こしてくれと母に言ったものの
今までが夜の生活だったので気を使ったのだろうか
しばらくして従兄弟が来たので聞くと夕方の6時らしい
従兄弟と話をしていると病院から母が帰宅、すぐに食事
節分だというので豆も食べていると姉から電話
姉夫婦が病院にいくらしいので私も行く準備
このブログをUPするのがいつになるかはわからないが
自宅の父親のPCでMP3を充電しながら待つと到着の電話
自宅から歩いて病院までは5分もかからない
先日と何も変わらない祖父、
長女が生まれた年に帰省したっきり戻っていないので次男は私を見るのは初めて
さすがに3人も子供がいるとうるさいので自宅に戻って自室に退散
土曜日なので夜の街に出ようかと少し考えたものの
現状を考えるととても酒など飲む気にならなかったのでヤメ
明日はポンカンの収穫があるので手伝ってくれという母に快諾し
暖房を消し、タバコの煙が逃げるよう換気扇を回しブログを記入
昔自分が使っていた机の上には父が読んだのであろう本が数冊
「気くばりのすすめ」「話し上手になる本」「変革時代の物の見方・考え方」
父は勤勉なのだと思う
今の社会について父親と話をしたのが先日だが
やっぱり本質を捉えた物の見方をする人だとつくづく思った
もともと父が使っている部屋なので父の物ばかりのこの部屋
棚に飾っているいくつものロレックスを見ると今どんな生活なのか予測がつく
昨日の話だと父親は体が大丈夫ならあと10年は農業をやるつもりらしい
私に無理強いをする気はなく10年して父親が引退したら後は好きにしていいらしい
土地を引き継ぎ違う事業をやろうとしても段々畑を平らにする事自体が大変で
ほかの使い道なんて魚の魚の養殖ぐらいしか思いつかない
就寝
帰省
朝仕事が終わって自宅に戻りすぐに風呂に入り準備
外出用の服を着込んでそのまま電車に乗りこんだ
今日戻る事は誰も知らないままの出発
十時過ぎに出発し新幹線に飛び乗って乗り続けること4時間
東京は未だ初雪すらないというのに途中で雪景色と遭遇
新幹線のアナウンスだと雪で減速する為岡山へは15分程度遅れて到着の事
よくよく考えれば何の土産も買わず飛び出てしまったけど
実際そんな事を言っている場合ではないのでと自分を納得させて岡山で下車
所が岡山から松山までの汽車に乗り換えるのに結局30分以上待ち
空き時間でいまさらながらお土産を物色
といっても岡山土産というと団子ぐらいしか…
両親ももう年で糖尿病の事を考えると甘い物もダメかと思いつつ…
それ+当地の漬物とかだと塩分の取りすぎも体にはよくない
結果きな粉団子を買い、姉の家は子供が3人もいるので桃のケーキを
時間に余裕があったにもかかわらず電車の乗る場所を間違いギリギリで松山行きに乗車
瀬戸大橋を渡り一路松山へ
途中で聞いた車内放送
「この電車の乗降口にはセンサーがついていませんので
閉まるドアに接触しましてもそのまま閉まります」
なんつー放送だ…
松山のホームは同じホームの岡山側に岡山行き電車が止まり
宇和島方面には宇和島方面の電車が止まる方式
宇和島方面への電車までまた30分程の空き時間
暖かいコーヒーを飲みながら待つこと30分
来ない…
ここでもまた遅延、ヤキモキしながら10分程度待ち宇和島行きの電車に乗車
もしこのブログをJRの人が見るなら声を大にして言いたい
遅れたことを詫びるより遅れないようにするのが
あんたらの仕事だろうが
遅れたからってそのままずらして運行するなんて
誰でもできるんだよこのバカ
途中の山中で「公衆電話」からの着信、すぐに電波が切れてしまう
一番嫌な事が頭によぎる…間に合わなかったのか…と…
しばらくして電波が入るとやはり病院からの電話
「もういつ何が起こってもおかしくない」そういう母の声は少し諦めも入っていたように感じた
明日戻れの言葉には「今もう汽車で30分あれば着くから」と答えた
少しずつ遅くなっていく到着時間、
結局八幡浜についた時には予定時刻を30分以上遅れての到着だった
握りつぶしたチケットをJRの駅員に放り渡しタクシーでそのまま病院へ
運転手に運賃を聞いて小銭はいいからと先にお釣りを受け取り到着とともに走って病室へ
間に合った
ただそこにいたのは私が知っている祖父ではなかった
体中に付けられた管と虚ろな目、すでに意識はなく気道を確保する為に首を上げ
覗き込まないと正面から顔を見ることすらできなかった
そこには私の母と叔母、そして従兄弟である叔母の娘と3人がいた
3人ともこの現状に慣れてしまっているようだった
もう一週間近くこの状態らしい
人の死はいつくるかわからない
手を握り話しかける私の手、少し手を握り返された気がした
わかっているのかどうかもわからないまま握る私
1時間ぐらい今の状況を聞いてひとまず実家に帰る事になった
自宅に戻る坂道、右を見ると今まであった住宅と私が育った保育園はなくなっていた
戻っていない何年かの年月、この町も変わってしまっていた
まだ今日は大丈夫だと言われ、事が起こってからではもう手遅れだとも思い
昔お世話になった人達の所に挨拶に向かう
夜、お酒を扱うお店を何軒か。一人は驚いたような顔で、一人はいつもと変わらず迎えてくれた
いつ携帯電話が鳴ってもいいように携帯を目の前にお酒は一滴も飲まず話をした
今までの事、前にいた人の事…
気づけば夜中の3時、歩き自宅に戻りながらヘッドフォンをはずすと
驚くほど静かな風の音以外聞こえない故郷があった
八幡浜も雪景色だった
コメレス
先日の記事に対してコメントありがとうございました。まだ正直に言えば夢であって欲しいと思いますが現実そうなんだから仕方ないという「納得しなくてはならない部分」も少しわかった気がします。それでもやっぱり抵抗はぬぐいきれませんが… 脳梗塞は直りません。それでも進行が止まり、意識が戻り、話できなくても私の話を聞いて理解し、私の事を見てくれる日がくると淡い期待をしています。 考えてみると私は祖父に対していい記憶しかないから余計悲しいのかもしれません。 もう関東に出てきて何年も実家の様子を見ていない状態だったので倒れる前にどのような状態であったかを知る術は私にはもはやありませんが話を聞く限りでは私の知っている祖父だったようです。 私の父親が長男である事や実家が隣であった事もあり幼い頃の記憶しか残っていないのが現状ですが…結婚した姉の家にはPCがあるようなのでそこからもしかしたらUPできるかもしれません。携帯からUPできるのが一番いいとは思いつつキーボードの方が遥かに考えを文字にしやすいので…
最悪の事も考え暫く実家に戻ろうと思います。
ひろたさん、nanatinmanさんへ
私のMAX体重は3桁でようやくダイエットに成功した所ですから…(;-ω-)
背油トンコツラーメンとアイスクリームは厳禁です…もうね…階段辛かったんですから(;-ω-)






