第20回文化庁メディア芸術祭感想④ ― 芸術を希求する。芸術に希求する。 | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

第20回文化庁メディア芸術祭感想④ ― 芸術を希求する。芸術に希求する。

どうも遊木です。

もう12月ですね。恐ろしいですね……。

 

ようやっとメディア芸術祭のアート部門と全体のまとめです。長かった…今年は会場に二回行ってしまったがためにいつもより記事の量が多いですが、私が書いている記事ですので中身の重量感はそんなにない筈です。

アート部門は個別でコメントしているものと、まとめてコメントしているものがごちゃまぜです。偉そうなことを書いてても所詮素人のぼやきなので引き続きスナック菓子感覚でお楽しみください。

それではどうぞ。

 

Part1.はじめに、エンターテインメント部門感想

Part2.アニメーション部門感想

Part3.マンガ部門感想

Part4.アート部門感想、おわりに(←今ココ!)

 

 

 

○アート部門

大賞;Interface Ⅰ

 

 

写真だけでは伝わりにくいのでざっくり説明すると、赤いのはゴムです。このゴムは、ガイガー=ミュラー計数管(放射線量計測器)が環境放射線を感知すると駆動するモーターにつながっており、ゴムの伸縮性を活かすようなランダムな「引っ張り合い」の動きをすることで全体の形がどんどん変わっていくインスタレーション作品です。

例によってキャプションを読まないとなかなか理解できない類の作品ですが(むしろ読んでも理解できるか微妙ですが)、個人的には好印象の作品です。

この作品は展示場に入ると、まず↑写真と同じ角度で鑑賞するように設置されています。この作品を鑑賞した多くの方はまず「折れ線グラフだ!」と感じたのではないでしょうか。私も一瞬二次元的グラフがあるのかと思いました。しかし不思議なことに、違う角度から鑑賞するとこのランダムに動き回るゴムの群れが、一匹の赤い龍に見えてきます。機械的な秩序だった美しさを感じる一方、生物が持つ独特の不安定さも感じ取ることが出来る面白い作品です。

 

 

そして私が一番のポイントだと感じるのは、環境放射線によってモーターの動きが決定されるシステムです。このシステムを作品の中心に据えて鑑賞すると、極端に放射線が強い場所に設置したときはどのような動きになるのか、龍に見える赤いゴムはどのような形を生み出すのか、という疑問が浮かぶ人も多いのではないでしょうか。

例えば、福島第一原発にこの作品を設置したとき、赤い龍はどのような動きをするのか。おそらくこのモーターは放射線量が多いほど動きが大きくなるのだと思いますが、そうすると、原発事故が起き今なお生身で近寄ることが出来ないあの場所では、何かに荒ぶるような龍の姿を私たちは目撃することになるのかもしれません。

この作品は本来、何気ない道端、公園、学校、そういった場所に設置し、一方原発事故のような傷跡が残る場所にも設置する。双方の結果を比べ、そこから何かしらのメッセージを読み取るためのものなのかもしれないと思いました。

放射線量を可視化しているに過ぎない筈の装置(デジタルありきに見えてとてもアナログ的な構造もひとつのポイントだと思います)が、鑑賞者の人間性にも刺激を与える。私達と“見えない何か”との繋がりを作ろうとする。まさに「インターフェイス」です。

個人的に昨今のアート部門の中でも上位に食い込む作品でした。コンセプト、解釈の幅、ビジュアル、どれを取っても完成度の高い作品だと思います。

 

 

優秀賞;培養都市 COLONY

 

 

この作品は、東京都心から柏崎刈刃原子力発電所までの「高電圧送電ケーブルのある風景」を撮影し、投映する映像インスタレーションです。個人的にこの作品は、鑑賞後の感覚がやや不完全燃焼でした。

まず、この作品の主体はなんでしょう。私は、東京でも新潟でも原発でも送電ケーブルでもなく、そして地方と都市の関係性というコンセプトの部分でもなく、作者自身であると思っています。所謂、作者が自身のルーツをもとに制作し、それを根幹に置いているタイプの作品です。作者の主観に依存している作品と言いますか。

先に断っておきますが、私は作者の主観性が全面に出ている作品が嫌いなわけではありません。作者個人に依存しない客観性の高い作品の方が受け入れられやすいとは思いますが、作者の存在がひしひしと伝わってくる作品にはそれ独自の面白さがあると思っています。しかし、後者の方が作品の完成度を高めるのが難しい印象です。

というのも、これ系の作品は、そもそも作者自身のことを知らないとコンセプトが非常に掴み辛いというか、腑に落ちにくいと感じるからです。乱暴な言い方をするなら、「あなたのことをまったく知らない」というスタンスの鑑賞者にとって、作者が何を好きで何を嫌いかなんて、正直そこまで興味はない。鑑賞者が求めているのは、作者が好き嫌いの末に生み出した作品がいかに自分にとって刺激になるか、それに尽きると思います。

例えば、自分の家族や友人、尊敬している人など、何かしらの繋がりがある人にとってはまた話が変わってくるでしょう。しかし鑑賞者の多くは自分のことを知らない人がほとんどなわけです。それでも作品を楽しんで貰うためには、制作者のこれまでの人生、価値観を理解する段階が必要であり、それ自体も作品に組み込まないと成立しない気がします。そして、それはキャプションに年表を載せれば解決する部類の話ではない。

作者の主観に依存した創作は、その情報に埋没しない、明確な輪郭を持った作品への昇華が求められるのではないでしょうか。個人的にこの昇華が上手くいった作品は、客観的コンセプトを重視した作品より人の記憶に残るイメージです。(2014年のトリエンナーレに展示されていた映像作品などは特に感じましたね)その点、「培養都市」はあと一歩昇華が足りなかった、不完全だと感じた、というのが私の感想です。

しかし、自分と向き合い、自分のルーツを辿って作品に起こす、というのは一度しっかりやってみたいジャンルではあります。作者が新潟に拘っているように、自分がどこに立ち、どう生きてきたのか、足元を見直すことで見えてくる新しい表現の在り方もあるのかもしれません。

 

 

優秀賞;Alter

 

 

この作品は、思わずじっと見つめてしまう圧倒的吸引力があります。

「生命らしい」というアプローチを、見た目ではなく“動き”に落とし込んだ作品です。外見はむしろ中身がむき出しでとても機械的なのですが、細かく動き回る手と、ぶつぶつと何かを呟く口が、このロボットには魂が宿っているのではないかと錯覚させます。

個人的に一番のポイントは「目線」だと思いました。このロボットは動き回る自分の手をしっかり目線で追っていくんですよね。その様子は、興味のあるものをその正体がわからないなりにじっくり観察する赤ん坊のようでもあります。そして赤ん坊という印象から連動して、このまま時間が経てばいずれこのロボットは人になるのではないか?自分に話しかけてくるようになるのではないか?という、人型ロボット定番の恐怖も感じさせます。もしこの作品に「鑑賞者と目を合わせる」という機能があれば、より強い生命性を感じたことでしょう。しかし、実際に会場でこの作品に目を合わせられたら悲鳴を上げる……ひぇ。

 

 

見た目にせよ中身にせよ、人間はずっと昔から自分達に近いものを創り出そうとしてきました。その行いは土偶を作っていた時代から変わりません。しかし、では何故私たちの中には所謂「不気味の谷」と呼ばれる感性が存在するのでしょうか。そして、不気味と思いながらもそれを熱心に観察し、その中に“美”の存在を発見するのでしょうか。

人間は、恐ろしいもの、挙動不審なもの、不可思議なものに目を奪われる習性があります。それは、目を背けたときに見舞われる未知への恐怖故か、あるいは、“死”が持つ魔性的な魅力と似たものを感じるためか。

この作品は「生命らしさとは何か」という問いかけだけではなく、「恐怖とは何か」「美とは何か」という多角的な問題定義を鑑賞者に投げかけるとともに、我々が普段意識していない「人間らしい振る舞い」がいかに不明瞭であり、同時に、不明瞭で説明できないものだからこそ至高であると、そのことを再認識させるような存在感のあるものだと感じました。

 

 

優秀賞;Jller

 

 

優秀賞;The Living Language Project

 

 

次は二作品まとめての感想です。何故この二作をまとめたかというと、鑑賞後、どちらにもかなり似た感想を持ったからです。

簡単に作品説明しますと、『Jller』は、河川の小石を地質年代で分類できる装置で、イラー川の底にある石(主にアルプス山脈での侵食から生じたものと、氷河で粉砕されて生じたものに分けられる)を分類し並べていくインスタレーション作品です。

 

 

『The Living Language Project』は生物学を用いた作品で、2000年前に滅んだとされる古ヘブライ文字と現代ヘブライ文字を細菌を使って接続し、ありえたかもしれない文字の進化を提案したハイブリッドアート、インスタレーション作品です。

 

 

どちらもコンセプトが興味深く、ビジュアルも面白かったのですが、鑑賞後になんとも言えない違和感が残りました。自分なりに考えた結果、現代アートの世界では良く耳にする「これはアートなのか?」という疑問に行き着いたわけですが、今回のその疑問は過去に感じてきたものとはタイプが違うように思えます。

この二作からは、「作品っぽさ」を感じないんですよね。面白さ、完成度などは抜きにして、そもそも芸術作品と感じない。科学を科学のまま持って来て、取ってつけたようにキャプションで「アートっぽさ」を演出しているに過ぎない、そんな印象を持ってしまいます。例えばキャプションを取り払って、大学の構内にでも設置したとして、これらの作品にアート性は残るのでしょうか?

科学は日々進歩しています。そして昨今では芸術作品にもその技術が多く用いられています。特にメディア芸術祭に出展されるものはその傾向が強いと感じますが、まぁ「メディア芸術」と銘打っている以上、その偏りは当然の結果と言えるでしょう。私はその上でひとつ考えなくてはならないのが、作品制作における科学技術との付き合い方だと思っています。

私は芸術にとっての科学の存在は、制作者の表現を助ける手段のひとつだと考えます。作者の求める表現のために科学という力を借りている、絵具と同じ表現のための道具、そんなイメージです。しかし、ここ数年は「科学の力を借りている作品」ではなく「科学技術に依存している作品」が増えてきている印象です。「科学が進歩して○○が出来るようになった。じゃあこの技術を活かせる△△的なコンセプトの作品をつくろう」みたいな感じ。作品制作において一番尊重されるべき作者のコンセプトや意図を二の次に、科学技術ありきの作品が多い、そんなイメージです。

これらの傾向が事実なのかと聞かれると、調査などはまったくしていないのでわかりませんが、少なくとも私はそのような感想を持ちました。「科学依存は間違いなのか」と問われるとそうではないと思いますが「どうなんだろうなぁ~」とは考えてしまいます。

作者のコンセプトのみが作品を作品たらしめるもの、この考えは一理あると思います。そして、そう捉えるのならば今回の二作も十分優れた芸術作品と言えるのでしょう。

アートをアートたらしめるものは一体何なのか、この命題を浮き彫りにした作品だと感じました。

 

 

新人賞;あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。

 

 

この作品は、鏡、スクリーン(リアルタイム&過去の映像が流れる)、空枠が天井から吊るされ、その空間を鑑賞者が彷徨う体験型インスタレーションです。

直感的に鑑賞方法、作品の裏に潜んでいるコンセプトを含めた“見方”がわかるこの作品は、正直エンターテインメント部門でも通用すると感じました。良く考えたら展示場所もエンターテインメント部門の隣だったので、もしかしたらアート部門との接着剤としての役割もあったのかもしれません。

「枠」というものは不思議ですよね。枠に閉じ込めれば、普段は何も感じない多くのものが急に特別に見えてきます。もしかしたら絵画や写真、映像などは、フレームに閉じ込められているからこそ輝いて見えるのかもしれない。

この作品を鑑賞すると不思議な感覚を体験できます。横を向けばフレームの中に向こう側の景色が見える。反対を向けば見知らぬ人たちの姿が見える。振り向くとそこには自分の後ろ姿が見える。この中を歩き回ると、徐々に自分が何処にいるのか、何が過去で、何が現在なのか、どこか曖昧になっていくような気がします。それは水の中にゆっくり沈んでいくような、不思議な心地よさと僅かな不安、自分以外の全てがどこか遠くに感じられる、そんな感覚と似ているかもしれません。

私たちは当然未来を知ることは出来ないし、過去の経験も情報として脳に残るだけです。例えるなら“沢山の今”を繋げて生きているようなもの。しかしこの作品は見える筈のない、自分がいない次元の世界を覗いているような、そんなメタ的な感覚を味わうことが出来ます。鑑賞者は時間と空間と自分、それらが何によって接続しているのかを考えずにはいられない。作品内の仕掛けが、とてもわかりやすい形で問題提起へと繋がっています。

このようなわかりやすい自己言及的な作品は、アート初心者にとって大切な存在です。この作品と同じ様なバランス力を持った作品が今後も出てくると良いと思いました。

 

 

新人賞;SYPHONING. The 1000000th interval.

 

 

この作品はなんというか、作者の発想力がすごいです。

画像圧縮アルゴリズムを物語として組み立てた映像インスタレーションなのですが、この時点で「???」という感じになりませんか。私は会場でキャプションを読んで「???」となりました。

もう少し噛み砕いて言うと、例えばJPEGの画像を別形式に変換したりしますよね。その変換の過程を物語と位置付けているわけです。この映像はDCT(離散コサイン変換)の擬人化キャラ・ジュニアが、初めて画像変換の実践に挑む物語で、ジュニアにはシニアというDCTが付き添います。このジュニアとシニアは映像では無機質な立方体として表現されていますが、何故か彼らからは不思議なユーモアさを感じる。

映像のテイストはもちろん、分かりやすいナレーションや親しみやすいビジュアルのキャラが出てくるわけではないのに、確かに“物語性”を感じる作品です。

この作品を鑑賞して、私は自分の頭の固さを思い知りました。物語は世界のどこにだって生じるし、森羅万象何にだってキャラとして魂を吹き込んでも良いんだ!……ただ、どうあっても私には画像変換に物語を発見するような感性はないんだろうなとは思います。だから単純に、その発想力がただただすごい。

これは、感性の力押しが上手く行った代表的な作品と言っても良いかも知れません。

 

 

新人賞;The Wall

 

 

この作品は、ベルリンで現代美術を扱う施設の「白い壁」を約300ヶ所撮影し、プリントアウトしたものです。

大学時代に習っていたゼミの先生が、昔こう言ったことを覚えています。「なぜ美術大学の校舎の壁が、こんなにも綺麗なままなんだ、おかしい」と。この作品と直接関係のある内容ではないのですが、不思議とその言葉を思い出しました。

子供の頃、家の壁や襖にらくがきをして怒られたことがある人はそれなりにいるのではないでしょうか。かく言う私もそのうちの一人です。私たちは小さい頃、世界の全てがキャンバスに見えていました。それはつまり、世界の至る所に創出の可能性が散らばっていたとも言えます。それが、年齢を重ねるごとに少しずつ視野を狭め、固定観念に縛られ、いつしか世界に散らばっていた筈のキャンバスはお金で買うべきスケッチブックになる。社会で上手に生きていくための価値観は、その裏で無垢な感性を縛りつけている。この作品からは、そう言った訴えを感じました。

また、撮影の場所をベルリンにしているのも大きなポイントだと思います。おそらくベルリンの壁は世界一有名な“壁”でしょうし。

作者が表現しているこの「ベルリンの白い壁」を、私は“可能性の欠片”だと感じました。それは人が誰でも持っていた筈の創作に対する可能性であり、かつて“壁”に可能性をかけた人々の想いでもあり、そして鑑賞者のあらゆる想像を受け止める未来の可能性でもある。

一見シンプルなようで、とても奥深い作品です。

 

 

 

以上、アート部門感想でした。

 

かなり時間がかかりましたが、今回は今までで一番丁寧に作品を鑑賞し、また数ヶ月にわたって分析が出来たので、かなり自分の中の知識として定着したと思います。

私が書いた感想を読むとわかると思いますが、やっぱり芸術には理解できないもの、肌に合わないものが一定数あります。しかし、「分からない」「理解できない」は悪ではない。また、「分からないから鑑賞する価値がない」も間違っていると思います。

個人的には「価値観を広げられれば良し」、これに尽きるかなぁと。また、自分の理解が及ばないものが、別の所では大いに評価されている現実を知ることにも大きな意味があると思います。

芸術と言うものはその時代時代の混沌や秩序に翻弄された人たちが、無自覚に価値を見出しているもの、もしくは無自覚に見ないふりをしている大切なものを、具体的に見せつけるためのものなのかもしれません。故に、そういうものが楽しいだけ、美しいだけのものであるはずがない。しかし、アーティストが悩み、苦しみ、そして楽しみながら生み出したものは、四方八方が暗闇に感じられる現代の、不可視の圧迫に差し込む道しるべとなりえるものであることは間違いないと感じました。

 

しかし、なんだかんだ言ってメディア芸術祭に出展されている作品はどれも親切ですよね。この後すぐにトリエンナーレにも行ったので余計そう感じましたよ……はははは。

 

ここまで長々お付き合いいただきありがとうございます。

実はまだトリエンナーレ、黄金町バザール、BankARTの感想が残っているんですけどね……年が変わっちゃうよ。

 

ではでは。

 

 

aki