選択を求められる「メディア芸術」 ~第19回文化庁メディア芸術祭受賞作品展雑感~(前)
須々木です。
第19回文化庁メディア芸術祭受賞作品展に関する雑感です。
今年でたぶん6回連続だと思いますが、行ってきました。
ここ数回は、このブログでもかなりガッツリと書いているので、今回もいろいろ書き留めていこうと思います。
例によって、素人による個人的見解なので悪しからず。
※今回は、「文化庁メディア芸術祭」とはなんぞや?は割愛。過去記事か公式を見てください。
今回の内容も、過去の記事とリンクしたところが多いので、先に軽く目を通してもらえると幸いです(記事の中でも適宜リンクを飛ばしますが)。
▽第15回の雑感 → メディア芸術祭に行って思ったことなど
▽第16回の雑感 → とりあえず忘れないうちに走り書き~第16回文化庁メディア芸術祭
▽第17回の雑感 → 偏在する相転移 ~第17回文化庁メディア芸術祭受賞作品展雑感~
▽第18回の雑感 → 迷走なのか、迷走の忠実な反射なのか ~第18回文化庁メディア芸術祭受賞作品展雑感~
◆会場にて思ったこと◆
昨年とほとんど同じですが、やはり以前より面白くない印象を受けました(面白くないわけではない)。
この点については、昨年書いたブログ記事と完全にかぶりそうなので、その部分の説明は割愛したいと思います。
安定してきたな。
これが率直な印象で、故に、刺激が少ないな、となります。
しかも、以前は、部門によってはそうでもなかったのが、今年は全体に緩やかに広がってきているようにも思えました。
昨年も触れた「アップデート」が適切で、綺麗に模範的に枠に収まってしまっている印象のものが大半でした。
もちろん、ひとつひとつ見て行く中で、個々の作品から様々なタイプの刺激をもらい、それはそれで楽しめるものですが、その刺激自体に既視感を覚えるような感じでした。
他に、会場で感じたこととしては、これまた昨年のブログ記事でも触れましたが「カテゴライズの問題」です。
例えば、メディア芸術祭4部門のうちの3つ「アート部門」「エンターテインメント部門」「アニメーション部門」に「映像作品」と呼べるものが並んでいましたが、「これはアート部門に並んでいた方がしっくりくるんだけど・・・」というやつが、他部門にいることが、今回はかなりありました。
そもそも定義の曖昧な各部門ですが、それでも以前は、なんとなく「エンターテインメント部門」はエンターテインメントで、より感覚的な娯楽性が程度の差はあれ存在していましたが、今回は、どう考えても「娯楽性」とかけ離れたものも「エンターテインメント部門」にありました。
「アート部門」は前からかなりカオスでしたが、そのカオスっぷりが「エンターテインメント部門」「アニメーション部門」まで広がって来たような印象です。
メディア芸術祭における「アート部門」は、個人的には以前も触れたとおり、
・「積極的アート部門作品」 (純粋にアートによっている作品。難解ではあるが、メディア芸術祭の現在地を示し、核とも言える)
・「消極的アート部門作品」 (消去法的にアート部門にたどりついた作品。他部門が許容できない。メディア芸術祭の多様性を象徴する)
・・・というふうに捉えていましたが、これは、他の3部門の枠組みが比較的分かりやすかったので、もっとも曖昧に感じられた「アート部門」が最後の砦として“はじき出された作品”を許容していたように思えたことによります。
しかし今回、「エンターテインメント部門」「アニメーション部門」の枠組みにも綻びが目立ち始め、「アート部門」の消去法的な定義づけが成立しなくなってきてしまいました。
ただ単に僕が個人的にそう捉えていただけなので、だからどうというわけでもないのですが、ここらへんに引っ掛かりを感じたのは事実です。
これらの思考は、前回までの芸術祭からの継続性という意味でも、個人的に意味のあるものだったので、個々の作品を楽しみながらも、常に念頭において会場を回っていました。
◆個別の作品について◆
いくつかピックアップして触れていこうと思います。
展覧会に行っていない人は、公式サイトに作品情報が掲載されているので、そちらにも目を通してもらえると良いと思います。
※作品情報のリンクは、毎年同じURLが使い回しされているようなので、やがてリンクが切れると思われます。
「50 . Shades of Grey」 (アート部門/大賞)
何と言っても、昨年、はじめて「大賞なし」となった「アート部門」。
その大賞とはいったいどんなものかと期待と不安が半々で会場に行ったわけですが・・・
会場に入っていきなり、ただの紙ですよ。
半角英数の文字列。
プログラミングのコードが整然と、しかし分量はそれほどでもないやつが、余白をかなり大きく取ってプリントアウトされ、額縁に収められて並べられているわけです。
すぐに、このまま眺めてもどうしようもないと思いキャプションを見るわけですが、残念ながら、会場でその価値を捉えることは厳しい気がしたので、帰宅後の自分に託すことにしました。
なお、作品としては、あの額縁のみで、裏にあったモニター画面は作品には含まないようです。
※「受賞作品集」には、「素材:紙にレーザープリント」としか書いていない。モニターの設置は、来訪者のレベルを考えた最大限のサービスだったのだろう。
そして、帰宅後に講評含め、諸々の情報をインプットすると「ああなるほど。これは確かに、メディア芸術祭のアート部門大賞だ」となったわけですが。
個人的な見解ですが、これをもっと分かりやすく来訪者に寄り添うようなものにすると、17回のエンターテインメント部門大賞作品「Sound of Honda / Ayrton Senna 1989」に近くなっていくのかなと(この作品は、僕が見た中でも印象的だったものの一つです)。
ただ、そういう素振りをまったく見せないところが、やはりアート部門なんでしょう。
本来は非常に個人的な作品のはずなのに、同時にメディアアートそのものに対して自己言及的であり、強烈な普遍性を持っている点は素晴らしく、一分の隙も無駄もない研ぎ澄まされた刃物のような感じです(会場でそれを感じることは、多くの人にとって困難と思われるが)。
メディア芸術祭のトップに掲げるに相応しいと、あとから思えました。
そんなわけで、会場ではあまりポジティブな印象を受けませんでしたが、時間がたつにつれ、物凄くしっくりくる不思議な作品でした。
「(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合」 (アート部門/優秀賞)
先に公式サイトで作品概要を確認してもらいたいのですが、これは会場でちょっと違和感をもった作品の一つでした。
凄く小奇麗で分かりやすい、というか、分かりやす過ぎる作品で、過去のメディア芸術祭の「アート部門」の感じとはずいぶん違うな、と思いました。
どちらかと言うと「エンターテインメント部門」に近いというか。
そんなことを思っていましたが、帰ってから「贈賞理由」を読んで、モヤモヤしていたところがすっかり解消されました。
なかなか凄いので、引用させていただきます(一部抜粋だと正確に伝わりにくいと思われるので、丸ごと引用させていただきました。公式サイトでも見れます)。
※改行、フォント変更はこちらでいれました。
審査会で議論になった作品である。
ヒト遺伝子操作の是非と、愛と、アートの役割という題材の強さ並びに現実との接続や論文参照の努力は、いかにも優等生的で、ポリティカル・コレクトネス(社会正義)的な手法をとった芸術の一例だ。
家族写真としてのセンスは最大公約数的で、同性婚問題としてはここのみが解決点ではないだろう。
本作を取り上げたテレビ番組には多大な訴求力があり、出演タレント自身も含めSNSで多くの人々が感涙した事実が確認できるが、構図としては、ゴーストライター騒動で話題になった人物が、嘘をつきながらも人々に感銘を与えたことと似る。
つまり本作では、遺伝情報の解釈は作者の言うとおり占い程度、すなわちフィクションだが、SFを美術に仕立て問題提起を装いつつ、虚実ないまぜに人々を感動させるプロジェクトだとすれば、美術としては嫌悪感を抱かれかねない前述の指摘はすべて、むしろ称揚されるべき諸点へと反転する。
この構造を評価した。
(中ザワ ヒデキ)
表面的には、誰がどう見ても「セクシャル・マイノリティー」という現代社会のホットなテーマに対する問題提起が込められた作品です。
ただ、その“誰がどう見ても”というところに個人的に違和感を覚えていましたが、やはり裏があったようです。
贈賞理由を読む限り、この作品に対する優秀賞という評価は、「優れた問題提起」ではなく、「優れた問題提起を装って、虚実を曖昧にしたまま人を感動させるという構造」に与えられたということっぽいのですが、確かにその点を考えると、2015年の一つの側面を見事に抽出していると言えそうです。
会場でも、その極端な分かりやすさから異彩を放っていましたが、贈賞理由を読むことでさらにもう一回考えさせられたので、一粒で二度おいしい状態です。
メディア芸術祭の神髄を見せられたような心地です。
ただ、一方で、この贈賞理由に対し、制作者がどのような感想を持たれるのかは興味深いところです。
「Gill & Gill」 (アート部門/新人賞)
個人的な趣味の問題ではありますが、こういう小気味良い短編の映像作品は好みです。
2014年の横浜トリエンナーレの新港ピアにあったような感じのやつとか、もっと見せて欲しいと思います。
さて、書かれているとおり、映像作品の応募はかなり多かったそうですが(681点)、そこから激戦を勝ち抜いた本作は、やはり「メディア」に対して自己言及的な点が興味深かったです。
「石」という非常に強固なメディアを、非常に優れたセンスで調理した作品だと思いました。
劇的ではないけれど、心地よい、そんな作品です。
なお、今回のアート部門では、同じく新人賞に「Communication with the Future – The Petroglyphomat」という「石」を扱った作品がありました。
デジタルなメディアが大勢を占める現代において、その輪郭を見せるための対立項として「石」が再発見されたような印象でした。
エンターテインメント部門については、正直なところ、あまりピックアップして書き連ねるようなものが見当たらなかったので、割愛します。
敢えてトピックとして挙げるなら、「ゲーム」はそれなりに印象的でした。
特に「Dark Echo」は少し癖になりそうでした。
やはりシンプルに人間の本能を刺激するようなものがありますが、その割合は、例年より極端に減ったように思えます。
例年だと、この「エンターテインメント部門」の直感的な面白さが、メディア芸術祭そのものの敷居を低くする事に大きく貢献していたように思えるので、この傾向が続くようだと少し心配です。
「Rhizome」 (アニメーション部門/大賞)
実は、今回一番予想外の光景を見せつけられたのが「アニメーション部門」でした。
その筆頭が、この大賞作品です。
フランスからやってきた短編アニメーションですが、なんというか、実にフランス的で哲学的な作品です。
先に、過去の大賞作品(10回以降)を並べてみたいと思うのですが・・・
18回 (2014年) The Wound (短編アニメーション/ロシア)
17回 (2013年) はちみつ色のユン (長編アニメーション/ベルギー・フランス)
16回 (2012年) 火要鎮 (短編アニメーション/日本)
15回 (2011年) 魔法少女まどか☆マギカ (テレビアニメーション/日本)
14回 (2010年) 四畳半神話大系 (テレビアニメーション/日本)
13回 (2009年) サマーウォーズ (劇場アニメーション/日本)
12回 (2008年) つみきのいえ (短編アニメーション/日本)
11回 (2007年) 河童のクゥと夏休み (劇場アニメーション/日本)
10回 (2006年) 時をかける少女 (劇場アニメーション/日本)
メディア芸術祭への海外作品の応募数増加の影響か、近年海外勢が強くなってきた印象は確かにありますが、その中でも今年の大賞受賞作は、特殊な気がしました。
かなり激しい振れ幅はありつつも、今までは「アニメーション」という根幹のところに異論を挟む気は微塵も起きませんでした。
それが、今回は、会場でじっくり見ながら考え込んでしまいました。
「これはアニメーションなのか?」と。
確かに、アニメーションの定義に立ち返れば、作品の形態として間違いなくアニメーション(しかも、より原義に近い)となりますが、受ける印象はまったくアニメーションではありませんでした。
むしろ、「なぜアニメーションでこんなにアニメーションじゃない感じのものをつくれるのか?」と思ったくらいです。
ストーリーもキャラクターも色彩も排除し、有機物だか無機物だかも分からず、身体の中でうごめく細胞なのか宇宙に散りばめられた生命体なのかも分からない、そんな異様な光景が、デジタルかつアナログ、秩序と無秩序を同時に描き出す不気味さ。
正直なところ「これはアート部門では?」と思いましたが、その点については、受賞作品集の講評、鼎談などにも触れられていました。
※なお、メディア芸術祭は、各部門ごとに選考が完全に分離しており、途中段階での相互干渉は不可能となっている。審査委員は、その部門に投じられた作品を吟味する以外に手を打てない。
作品そのもののインパクトもさることながら、「メディア芸術祭におけるカテゴリー問題」を念頭に会場に足を踏み入れた僕としては、ある種の確信を与えてくれる象徴的な作品に思えました。
アニメーション部門については、大賞がすべてのインパクトを持っていってしまったので、他は割愛しますが、全体としては、とにかくフランス勢が強かったです。
相対的に、日本勢は不作でした。
個人的には、海外勢の完成度の高い作品と、日本勢の完成度は劣るがセンスの光る作品のコントラストが好きだったので、この点は残念でした。
振り返ると、17回のいずれも新人賞「ようこそぼくです選」、「Airy Me」のインパクトが大きかったのですが、このときが特殊だったのかもしれません。
・・・と思っていたら、鼎談でもそういうことが書かれていました。
なお、「Airy Me」の久野 遥子は、今回、日本の作品で唯一優秀賞に入った「花とアリス殺人事件」にロトスコープ・アニメーション・ディレクターとして参加しているそうです。
また、テレビアニメーション(およびその劇場版)も不作でした。
今年は、大賞、優秀賞、新人賞までに0作品で、唯一、審査委員会推薦作品に「SHIROBAKO」が入っていたのみ。
前回18回は、優秀賞に「映画クレヨンしんちゃん「ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」」、新人賞に「たまこラブストーリー」、審査委員会推薦作品に「キルラキル」、「残響のテロル」、「ピンポン」、「蟲師 続章」という感じでしたが、毎年それなりの数が並んでいました。
それが今年は寂しい限り。
ただ、確かにこれは昨今の日本アニメの質的な問題を、本当によく反映しているような気もします。
量産アニメを否定する気はありませんが、量産アニメだけにはならないで欲しいと切に願います。
大量生産大量消費の波に飲まれないだけの強度を持つ作品を是非。
マンガ部門については個々に触れませんが、大賞の「かくかくしかじか」は、最近の同部門の文脈からすると、これ以上にないほど完璧な作品だと思いました。
最近の大賞は、単にマンガ作品としてのクオリティーだけでなく、そこからはみ出すような意義を見出されたものに与えられていたような印象を受けます。
その意味で、「かくかくしかじか」は、現実の人間(創作を志す読者)に極めてシンプルに直接的に影響を与える力を持っている点において、群を抜いていたように思えます。
そして、「描け」という言葉が本当に力強い。
一方で、最近徐々に見え始めていた「マンガ部門」における「メディアの意識」が、今回すっかりなくなっていたのが興味深かったです。
後述しますが、応募数で前回18回に激増した「デジタルマンガ」が、今回再びそれ以前の水準まで落ち込んだことは、一つの現象として注目に値すると感じました。
前回の時点では、今後、デジタルマンガが盛り上がっていくにあたって、そのスタートを見る感覚でしたが、今年の感じだと「あれはなんだったのだろうか?」というくらい盛り下がりました。
もちろん、制作過程においてツールとしてのデジタルは存在感を増していますが、発表媒体としてのデジタルは今一つ。
マンガは、他の作品形態と比較すると、メディアという観点から考えて極めて揺らぎの少ない点が際立っているように感じました。
これは、メディア芸術祭というゴチャマゼな会場だからこそ体感できるもので、マンガというジャンルそのものを相対的に見させてくれる貴重な機会であることも再確認させてくれます。
同時に、マンガという作品形態の特異性を表しているのかという気もしてきますが、これは次回以降注視したいところです。
◆ここまでのところで総括すると◆
過去のメディア芸術祭では、あまり思ったことがなかったのですが、今回は、4部門全体を通して共通した印象を受ける部分がありました。
それは、「作品の発想が世界ではなく自分、より内向きに感じられる」というものです。
今までは、メディアによって世界(視野、可能性)が広がっていく様を表現しているものが多かった気がしますが、翻って今回は、広がった宇宙の中で迷子になる自分を探しに行くような印象を与えるものが多かったです。
作品として具体的にいくつかありますが、やはり象徴的なのは、アート部門大賞の「50 . Shades of Grey」とマンガ部門大賞の「かくかくしかじか」です。
この2作品は、どちらも自伝であると言えます。
当然、受賞している作品が並んでいるので、会場にあるものはそれぞれに何かしら普遍的な価値を見出されているはずですが、その中に、「個人」の色が強く感じられるものが多かった気がします。
エンターテインメント部門大賞の「正しい数の数え方」についても、技術革新によりメディアの新たな可能性を切り拓くというよりは、制作者自身のライフワーク、アイデンティティーに寄りそう趣が強く感じられます。
アニメーション部門大賞の「Rhizome」においては、迷子そのものを見せられている気すらしてきます。
数回前のメディア芸術祭が、積極的に“最先端”を取り込む勢いを持っていたのと比べると、ベクトルの差がとても大きく感じられます。
これは、17回のブログで触れた揺り戻し現象(このときは「アナログへの回帰」として)と似た種類のように思えます。
よって、やはりどこかで混ざり合い平衡状態に達するのだと思われます。
※つづく。
sho
第19回文化庁メディア芸術祭受賞作品展に関する雑感です。
今年でたぶん6回連続だと思いますが、行ってきました。
ここ数回は、このブログでもかなりガッツリと書いているので、今回もいろいろ書き留めていこうと思います。
例によって、素人による個人的見解なので悪しからず。
※今回は、「文化庁メディア芸術祭」とはなんぞや?は割愛。過去記事か公式を見てください。
今回の内容も、過去の記事とリンクしたところが多いので、先に軽く目を通してもらえると幸いです(記事の中でも適宜リンクを飛ばしますが)。
▽第15回の雑感 → メディア芸術祭に行って思ったことなど
▽第16回の雑感 → とりあえず忘れないうちに走り書き~第16回文化庁メディア芸術祭
▽第17回の雑感 → 偏在する相転移 ~第17回文化庁メディア芸術祭受賞作品展雑感~
▽第18回の雑感 → 迷走なのか、迷走の忠実な反射なのか ~第18回文化庁メディア芸術祭受賞作品展雑感~
◆会場にて思ったこと◆
昨年とほとんど同じですが、やはり以前より面白くない印象を受けました(面白くないわけではない)。
この点については、昨年書いたブログ記事と完全にかぶりそうなので、その部分の説明は割愛したいと思います。
安定してきたな。
これが率直な印象で、故に、刺激が少ないな、となります。
しかも、以前は、部門によってはそうでもなかったのが、今年は全体に緩やかに広がってきているようにも思えました。
昨年も触れた「アップデート」が適切で、綺麗に模範的に枠に収まってしまっている印象のものが大半でした。
もちろん、ひとつひとつ見て行く中で、個々の作品から様々なタイプの刺激をもらい、それはそれで楽しめるものですが、その刺激自体に既視感を覚えるような感じでした。
他に、会場で感じたこととしては、これまた昨年のブログ記事でも触れましたが「カテゴライズの問題」です。
例えば、メディア芸術祭4部門のうちの3つ「アート部門」「エンターテインメント部門」「アニメーション部門」に「映像作品」と呼べるものが並んでいましたが、「これはアート部門に並んでいた方がしっくりくるんだけど・・・」というやつが、他部門にいることが、今回はかなりありました。
そもそも定義の曖昧な各部門ですが、それでも以前は、なんとなく「エンターテインメント部門」はエンターテインメントで、より感覚的な娯楽性が程度の差はあれ存在していましたが、今回は、どう考えても「娯楽性」とかけ離れたものも「エンターテインメント部門」にありました。
「アート部門」は前からかなりカオスでしたが、そのカオスっぷりが「エンターテインメント部門」「アニメーション部門」まで広がって来たような印象です。
メディア芸術祭における「アート部門」は、個人的には以前も触れたとおり、
・「積極的アート部門作品」 (純粋にアートによっている作品。難解ではあるが、メディア芸術祭の現在地を示し、核とも言える)
・「消極的アート部門作品」 (消去法的にアート部門にたどりついた作品。他部門が許容できない。メディア芸術祭の多様性を象徴する)
・・・というふうに捉えていましたが、これは、他の3部門の枠組みが比較的分かりやすかったので、もっとも曖昧に感じられた「アート部門」が最後の砦として“はじき出された作品”を許容していたように思えたことによります。
しかし今回、「エンターテインメント部門」「アニメーション部門」の枠組みにも綻びが目立ち始め、「アート部門」の消去法的な定義づけが成立しなくなってきてしまいました。
ただ単に僕が個人的にそう捉えていただけなので、だからどうというわけでもないのですが、ここらへんに引っ掛かりを感じたのは事実です。
これらの思考は、前回までの芸術祭からの継続性という意味でも、個人的に意味のあるものだったので、個々の作品を楽しみながらも、常に念頭において会場を回っていました。
◆個別の作品について◆
いくつかピックアップして触れていこうと思います。
展覧会に行っていない人は、公式サイトに作品情報が掲載されているので、そちらにも目を通してもらえると良いと思います。
※作品情報のリンクは、毎年同じURLが使い回しされているようなので、やがてリンクが切れると思われます。
「50 . Shades of Grey」 (アート部門/大賞)
何と言っても、昨年、はじめて「大賞なし」となった「アート部門」。
その大賞とはいったいどんなものかと期待と不安が半々で会場に行ったわけですが・・・
会場に入っていきなり、ただの紙ですよ。
半角英数の文字列。
プログラミングのコードが整然と、しかし分量はそれほどでもないやつが、余白をかなり大きく取ってプリントアウトされ、額縁に収められて並べられているわけです。
すぐに、このまま眺めてもどうしようもないと思いキャプションを見るわけですが、残念ながら、会場でその価値を捉えることは厳しい気がしたので、帰宅後の自分に託すことにしました。
なお、作品としては、あの額縁のみで、裏にあったモニター画面は作品には含まないようです。
※「受賞作品集」には、「素材:紙にレーザープリント」としか書いていない。モニターの設置は、来訪者のレベルを考えた最大限のサービスだったのだろう。
そして、帰宅後に講評含め、諸々の情報をインプットすると「ああなるほど。これは確かに、メディア芸術祭のアート部門大賞だ」となったわけですが。
個人的な見解ですが、これをもっと分かりやすく来訪者に寄り添うようなものにすると、17回のエンターテインメント部門大賞作品「Sound of Honda / Ayrton Senna 1989」に近くなっていくのかなと(この作品は、僕が見た中でも印象的だったものの一つです)。
ただ、そういう素振りをまったく見せないところが、やはりアート部門なんでしょう。
本来は非常に個人的な作品のはずなのに、同時にメディアアートそのものに対して自己言及的であり、強烈な普遍性を持っている点は素晴らしく、一分の隙も無駄もない研ぎ澄まされた刃物のような感じです(会場でそれを感じることは、多くの人にとって困難と思われるが)。
メディア芸術祭のトップに掲げるに相応しいと、あとから思えました。
そんなわけで、会場ではあまりポジティブな印象を受けませんでしたが、時間がたつにつれ、物凄くしっくりくる不思議な作品でした。
「(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合」 (アート部門/優秀賞)
先に公式サイトで作品概要を確認してもらいたいのですが、これは会場でちょっと違和感をもった作品の一つでした。
凄く小奇麗で分かりやすい、というか、分かりやす過ぎる作品で、過去のメディア芸術祭の「アート部門」の感じとはずいぶん違うな、と思いました。
どちらかと言うと「エンターテインメント部門」に近いというか。
そんなことを思っていましたが、帰ってから「贈賞理由」を読んで、モヤモヤしていたところがすっかり解消されました。
なかなか凄いので、引用させていただきます(一部抜粋だと正確に伝わりにくいと思われるので、丸ごと引用させていただきました。公式サイトでも見れます)。
※改行、フォント変更はこちらでいれました。
審査会で議論になった作品である。
ヒト遺伝子操作の是非と、愛と、アートの役割という題材の強さ並びに現実との接続や論文参照の努力は、いかにも優等生的で、ポリティカル・コレクトネス(社会正義)的な手法をとった芸術の一例だ。
家族写真としてのセンスは最大公約数的で、同性婚問題としてはここのみが解決点ではないだろう。
本作を取り上げたテレビ番組には多大な訴求力があり、出演タレント自身も含めSNSで多くの人々が感涙した事実が確認できるが、構図としては、ゴーストライター騒動で話題になった人物が、嘘をつきながらも人々に感銘を与えたことと似る。
つまり本作では、遺伝情報の解釈は作者の言うとおり占い程度、すなわちフィクションだが、SFを美術に仕立て問題提起を装いつつ、虚実ないまぜに人々を感動させるプロジェクトだとすれば、美術としては嫌悪感を抱かれかねない前述の指摘はすべて、むしろ称揚されるべき諸点へと反転する。
この構造を評価した。
(中ザワ ヒデキ)
表面的には、誰がどう見ても「セクシャル・マイノリティー」という現代社会のホットなテーマに対する問題提起が込められた作品です。
ただ、その“誰がどう見ても”というところに個人的に違和感を覚えていましたが、やはり裏があったようです。
贈賞理由を読む限り、この作品に対する優秀賞という評価は、「優れた問題提起」ではなく、「優れた問題提起を装って、虚実を曖昧にしたまま人を感動させるという構造」に与えられたということっぽいのですが、確かにその点を考えると、2015年の一つの側面を見事に抽出していると言えそうです。
会場でも、その極端な分かりやすさから異彩を放っていましたが、贈賞理由を読むことでさらにもう一回考えさせられたので、一粒で二度おいしい状態です。
メディア芸術祭の神髄を見せられたような心地です。
ただ、一方で、この贈賞理由に対し、制作者がどのような感想を持たれるのかは興味深いところです。
「Gill & Gill」 (アート部門/新人賞)
個人的な趣味の問題ではありますが、こういう小気味良い短編の映像作品は好みです。
2014年の横浜トリエンナーレの新港ピアにあったような感じのやつとか、もっと見せて欲しいと思います。
さて、書かれているとおり、映像作品の応募はかなり多かったそうですが(681点)、そこから激戦を勝ち抜いた本作は、やはり「メディア」に対して自己言及的な点が興味深かったです。
「石」という非常に強固なメディアを、非常に優れたセンスで調理した作品だと思いました。
劇的ではないけれど、心地よい、そんな作品です。
なお、今回のアート部門では、同じく新人賞に「Communication with the Future – The Petroglyphomat」という「石」を扱った作品がありました。
デジタルなメディアが大勢を占める現代において、その輪郭を見せるための対立項として「石」が再発見されたような印象でした。
エンターテインメント部門については、正直なところ、あまりピックアップして書き連ねるようなものが見当たらなかったので、割愛します。
敢えてトピックとして挙げるなら、「ゲーム」はそれなりに印象的でした。
特に「Dark Echo」は少し癖になりそうでした。
やはりシンプルに人間の本能を刺激するようなものがありますが、その割合は、例年より極端に減ったように思えます。
例年だと、この「エンターテインメント部門」の直感的な面白さが、メディア芸術祭そのものの敷居を低くする事に大きく貢献していたように思えるので、この傾向が続くようだと少し心配です。
「Rhizome」 (アニメーション部門/大賞)
実は、今回一番予想外の光景を見せつけられたのが「アニメーション部門」でした。
その筆頭が、この大賞作品です。
フランスからやってきた短編アニメーションですが、なんというか、実にフランス的で哲学的な作品です。
先に、過去の大賞作品(10回以降)を並べてみたいと思うのですが・・・
18回 (2014年) The Wound (短編アニメーション/ロシア)
17回 (2013年) はちみつ色のユン (長編アニメーション/ベルギー・フランス)
16回 (2012年) 火要鎮 (短編アニメーション/日本)
15回 (2011年) 魔法少女まどか☆マギカ (テレビアニメーション/日本)
14回 (2010年) 四畳半神話大系 (テレビアニメーション/日本)
13回 (2009年) サマーウォーズ (劇場アニメーション/日本)
12回 (2008年) つみきのいえ (短編アニメーション/日本)
11回 (2007年) 河童のクゥと夏休み (劇場アニメーション/日本)
10回 (2006年) 時をかける少女 (劇場アニメーション/日本)
メディア芸術祭への海外作品の応募数増加の影響か、近年海外勢が強くなってきた印象は確かにありますが、その中でも今年の大賞受賞作は、特殊な気がしました。
かなり激しい振れ幅はありつつも、今までは「アニメーション」という根幹のところに異論を挟む気は微塵も起きませんでした。
それが、今回は、会場でじっくり見ながら考え込んでしまいました。
「これはアニメーションなのか?」と。
確かに、アニメーションの定義に立ち返れば、作品の形態として間違いなくアニメーション(しかも、より原義に近い)となりますが、受ける印象はまったくアニメーションではありませんでした。
むしろ、「なぜアニメーションでこんなにアニメーションじゃない感じのものをつくれるのか?」と思ったくらいです。
ストーリーもキャラクターも色彩も排除し、有機物だか無機物だかも分からず、身体の中でうごめく細胞なのか宇宙に散りばめられた生命体なのかも分からない、そんな異様な光景が、デジタルかつアナログ、秩序と無秩序を同時に描き出す不気味さ。
正直なところ「これはアート部門では?」と思いましたが、その点については、受賞作品集の講評、鼎談などにも触れられていました。
※なお、メディア芸術祭は、各部門ごとに選考が完全に分離しており、途中段階での相互干渉は不可能となっている。審査委員は、その部門に投じられた作品を吟味する以外に手を打てない。
作品そのもののインパクトもさることながら、「メディア芸術祭におけるカテゴリー問題」を念頭に会場に足を踏み入れた僕としては、ある種の確信を与えてくれる象徴的な作品に思えました。
アニメーション部門については、大賞がすべてのインパクトを持っていってしまったので、他は割愛しますが、全体としては、とにかくフランス勢が強かったです。
相対的に、日本勢は不作でした。
個人的には、海外勢の完成度の高い作品と、日本勢の完成度は劣るがセンスの光る作品のコントラストが好きだったので、この点は残念でした。
振り返ると、17回のいずれも新人賞「ようこそぼくです選」、「Airy Me」のインパクトが大きかったのですが、このときが特殊だったのかもしれません。
・・・と思っていたら、鼎談でもそういうことが書かれていました。
なお、「Airy Me」の久野 遥子は、今回、日本の作品で唯一優秀賞に入った「花とアリス殺人事件」にロトスコープ・アニメーション・ディレクターとして参加しているそうです。
また、テレビアニメーション(およびその劇場版)も不作でした。
今年は、大賞、優秀賞、新人賞までに0作品で、唯一、審査委員会推薦作品に「SHIROBAKO」が入っていたのみ。
前回18回は、優秀賞に「映画クレヨンしんちゃん「ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」」、新人賞に「たまこラブストーリー」、審査委員会推薦作品に「キルラキル」、「残響のテロル」、「ピンポン」、「蟲師 続章」という感じでしたが、毎年それなりの数が並んでいました。
それが今年は寂しい限り。
ただ、確かにこれは昨今の日本アニメの質的な問題を、本当によく反映しているような気もします。
量産アニメを否定する気はありませんが、量産アニメだけにはならないで欲しいと切に願います。
大量生産大量消費の波に飲まれないだけの強度を持つ作品を是非。
マンガ部門については個々に触れませんが、大賞の「かくかくしかじか」は、最近の同部門の文脈からすると、これ以上にないほど完璧な作品だと思いました。
最近の大賞は、単にマンガ作品としてのクオリティーだけでなく、そこからはみ出すような意義を見出されたものに与えられていたような印象を受けます。
その意味で、「かくかくしかじか」は、現実の人間(創作を志す読者)に極めてシンプルに直接的に影響を与える力を持っている点において、群を抜いていたように思えます。
そして、「描け」という言葉が本当に力強い。
一方で、最近徐々に見え始めていた「マンガ部門」における「メディアの意識」が、今回すっかりなくなっていたのが興味深かったです。
後述しますが、応募数で前回18回に激増した「デジタルマンガ」が、今回再びそれ以前の水準まで落ち込んだことは、一つの現象として注目に値すると感じました。
前回の時点では、今後、デジタルマンガが盛り上がっていくにあたって、そのスタートを見る感覚でしたが、今年の感じだと「あれはなんだったのだろうか?」というくらい盛り下がりました。
もちろん、制作過程においてツールとしてのデジタルは存在感を増していますが、発表媒体としてのデジタルは今一つ。
マンガは、他の作品形態と比較すると、メディアという観点から考えて極めて揺らぎの少ない点が際立っているように感じました。
これは、メディア芸術祭というゴチャマゼな会場だからこそ体感できるもので、マンガというジャンルそのものを相対的に見させてくれる貴重な機会であることも再確認させてくれます。
同時に、マンガという作品形態の特異性を表しているのかという気もしてきますが、これは次回以降注視したいところです。
◆ここまでのところで総括すると◆
過去のメディア芸術祭では、あまり思ったことがなかったのですが、今回は、4部門全体を通して共通した印象を受ける部分がありました。
それは、「作品の発想が世界ではなく自分、より内向きに感じられる」というものです。
今までは、メディアによって世界(視野、可能性)が広がっていく様を表現しているものが多かった気がしますが、翻って今回は、広がった宇宙の中で迷子になる自分を探しに行くような印象を与えるものが多かったです。
作品として具体的にいくつかありますが、やはり象徴的なのは、アート部門大賞の「50 . Shades of Grey」とマンガ部門大賞の「かくかくしかじか」です。
この2作品は、どちらも自伝であると言えます。
当然、受賞している作品が並んでいるので、会場にあるものはそれぞれに何かしら普遍的な価値を見出されているはずですが、その中に、「個人」の色が強く感じられるものが多かった気がします。
エンターテインメント部門大賞の「正しい数の数え方」についても、技術革新によりメディアの新たな可能性を切り拓くというよりは、制作者自身のライフワーク、アイデンティティーに寄りそう趣が強く感じられます。
アニメーション部門大賞の「Rhizome」においては、迷子そのものを見せられている気すらしてきます。
数回前のメディア芸術祭が、積極的に“最先端”を取り込む勢いを持っていたのと比べると、ベクトルの差がとても大きく感じられます。
これは、17回のブログで触れた揺り戻し現象(このときは「アナログへの回帰」として)と似た種類のように思えます。
よって、やはりどこかで混ざり合い平衡状態に達するのだと思われます。
※つづく。
sho