偏在する相転移 ~第17回文化庁メディア芸術祭受賞作品展雑感~ | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

偏在する相転移 ~第17回文化庁メディア芸術祭受賞作品展雑感~

須々木です。

サークル内では、一番何をやっているのかわからん感じですが、敢えて言うなら、モノを考えるのが趣味なのかもしれません。
ちなみに、「考える」であって「悩む」ではありません。
1年365日のうち、何かに悩んでいる時間はせいぜい1時間くらいです。

ということで、今回のブログは、そんな思考をまとめた、長くてわりと固めなお話です。

お暇なときにでもどーぞ。




   *   *   *




さて、先日、第17回文化庁メディア芸術祭の受賞作品展(国立新美術館)に行ってきました。

何気に4年連続で言ってきたので、毎年恒例という感じになってきました。

なお、第15回と第16回についての所感もブログに書いてあるので、興味があればご参照ください。


 ▽第16回の雑感 → とりあえず忘れないうちに走り書き~第16回文化庁メディア芸術祭
 ▽第15回の雑感 → メディア芸術祭に行って思ったことなど




さて、今年で17回を数える「文化庁メディア芸術祭」ですが、応募数もかなり増え(昨年3503作品→今年4347作品)、海外83の国と地域から出品があったとのことで、ますます勢いづいているようです。

「アート部門」「エンターテインメント部門」「アニメーション部門」「マンガ部門」の4つのカテゴリーはありますが、その基準はかなり曖昧(素人から見ると)で、特に「アート部門」と「エンターテインメント部門」はどちらでも良さそうなものが多くある感じです。

また、プロ、アマ、国籍、商業、同人、作品の長短、発表媒体等一切問わず、その上、中立性の比較的高い文化庁主催のコンペティションということで、毎年独特の趣があります。

そもそも、「メディアアート」というもの自体、輪郭の曖昧なジャンルであり、カオスっぷりに拍車をかけています。

ただ、この混沌とした感じは、まさしく「Festival」であり、この空気は僕の好むところだったりします。




そんなわけで、今年も気の向くままに書きなぐっていくこととします。




◆微妙な第一印象とその理由◆

まず、国立新美術館の展覧会会場で抱いた第一印象について。

正直に言えば、「例年と比較して、全体的に面白みに欠ける」という印象を抱きました。

「エンターテインメント部門」、「アニメーション部門」については面白かったのですが、とりあえず「アート部門」が微妙でした。

それでとりあえず、なぜ自分がこういう印象を抱いたのか、ありうる原因を考えたわけですが・・・



1.展示作品のレベルとしては例年通りだが、そろそろ刺激に慣れてしまった(目が肥えたと言うべきか、感受性が鈍ったと言うべきか)

2.応募作品のクオリティーの低下。作品数は増加の一途をたどっているので、もしこれが該当するのなら、社会的要因が考えられる(しかも、わりと世界規模で)

3.審査のクオリティーの低下。大量の作品の中から良作が拾われにくい状況になってしまった。

4.展示のクオリティーの低下。つまり、展示品のチョイスや展示方法の問題。



1.については、確かに慣れてきてしまった可能性は大いにあるものの、相手は、時代の変化の影響をもろに受ける「メディアアート」。
これだけ毎年劇的に変化している現代の“映し鏡”である以上、「メディアアート」も変化しないわけがない。
よって、毎日こういうことばかり考えているわけでもない僕が簡単に慣れ切ってしまうことはないはず。
主たる原因とはなりえないでしょう。

2.は、特に「アート部門」について感じる所があります。
見ていても、「去年のあの作品と同じ感じだな」というのが複数ありましたし、さらには、「去年と同じ感じだけど、去年のやつの方が良かった」というのもありました。

3.については、2.と同様のことが言えますが、応募作品の全貌を知ることができない以上、判断材料はありません。
保留です。

4.については、一番大きいと思います。
正直、展示スペースはかなり微妙でした。
昨年までのように、部門ごと(場合により作品ごと)に壁を設けて区切っていた方法から一転、今年は、空間を区切らず広く一つの空間として使っていました。
「それぞれの部門には本質的に境界がない。よって、部門ごとに区切るのはナンセンスである。さらには、全体を俯瞰してこそのメディア芸術祭であり、部分にとらわれすぎないで欲しい」みたいな趣旨なのかはわかりませんが、理屈を抜きに、ネガティブな印象を受けました。
最大の問題点は、フェスティバルの本質でもある「昂揚感」であったり、「新鮮な驚き」が確実に削がれてしまったことにあります。
去年までのように、「あの壁の向こう、次の空間にはどんなワクワクが待っているのか・・・」といった感覚は、今回ほぼ感じられませんでした。
一歩入った時点から、すべて見渡せてしまっているので、ただ広いだけ。
準備期間がなくて、レイアウトの工夫ができずに順番に並べただけに見えてしまいます。
率直に言って、残念でした。
もしかすると予算とかの都合かもしれませんが、クールジャパンを連呼している以上、まずこのあたりに予算を回すべきだと思いますし、無理なら有料にしても良いのではないかと思います(そのくらいの価値はある)。



一方で、この賞にふさわしい作品が、国立新美術館の閉鎖空間の中に収まりきらない状況になりつつあるというのは、一つの事実であるようにも感じます。
ただ、それを承知の上で、それでもなお、来訪者の目線で考えた展示を期待したいというのは、ある種の我がままでもあります。

見る人にも、理解しようとする努力は必要だし、最低限の知識と思考力が求められることは当然。
しかし、だからと言って、その敷居が高すぎてもいけない。
これはあくまでフェスティバルであり、人々が共に高揚する場です。
そして、これは何より、メディア芸術の祭典です。

“メディア”芸術祭が、そもそも見る人との間の接続を見失ってしまっては、存在意義自体が揺らいでしまう。

高尚で難解なものを排除し、単純に一般大衆に迎合することはあってはいけないと思いますが、同時に、あざとく迎合する(よく言えば、「伝えることについて、より真摯になる」)こともまたメディアの宿命なのではないでしょうか。

出品数もその国の多さもはっきりと増加していき、国際的な存在感は確実に増してきています。

ただ、「知名度は低くても刺激的な作品」が、一般の認知度が上がるにつれてつまらなくなるという「良くない現象」が、メディア芸術祭についても起きてしまわないことを願います。




・・・などと、身の程わきまえずに好き放題書いちゃいましたが、あくまで一人の観覧者の感想です。

運営に携わる人たちには、まず大きな感謝の気持ちをもっています。

その上での率直な感想です。






【アート部門】

ここからは、各部門の作品を見ながら。


まず、「アート部門」についてですが、先に述べたとおり、新鮮味に欠けるという印象を持ちました。

例年より、知的な刺激が乏しい(もしくは、刺激の種類が変わった)と感じました。

それで、会場で見ているときには、「なんとなく微妙だったな・・・」だけだったのですが、あとから受賞作品集を読みつつあれこれ考えていて、自分としてはそこそこ整理できたので、書いておきます。




◆もう一つの既視感◆


まず、「新鮮味に欠ける」ということについて。

これは「去年のあの作品と同じ感じだな」的な既視感・・・だと僕は思ったのですが、よくよく考えてみると、もう少しだけ複雑な気がしてきました。


事実、展示作品のいくつかは、「なんとなく見たことがある雰囲気」ではなく、「昨年の○○と似ている」と言えるくらい、似たところを感じました。

※実際には、「昨年」だけじゃないので、「近年」と書いた方が良いかもしれませんが・・・

「〈昨年の作品〉と〈今年の作品〉が似ていると感じる」という既視感です。

※これ自体、昨年にはあまり思わなかったことなので、今回新たに得た刺激とも言えますが。

ただ、それだけではどうにも釈然としないところがありました。



結論から言うと、「もう一つ別の種類の既視感を覚えていた」ということみたいです。

その既視感とは、「〈「昨年の作品」と「今年の作品」の関係性〉と〈「オリジナル作品」と「二次創作作品」の関係性〉が似ていると感じる」というものです。


「昨年の作品」と「今年の作品」は確かに似ていると感じましたが、その「似ている」という感覚が、「オリジナル作品」と「二次創作作品」が似ているという感覚にとても近い事に気がついたわけです。

東浩紀的な言い方をするならば、「オリジナル作品」の背後に存在する「データベース」(オリジナルを構成する各要素がバラバラに収まっている情報の倉庫みたいなイメージ)から、「要素」をピックアップして各自勝手に組み上げた「二次創作作品」の趣を感じたということです。

「昨年の作品」(と言いつつ、「近年」の作品全般を含めて)を、いったん「要素」に還元して、改めて組み上げてつくられたのが「今年の作品」。

メディアアートの「データベース」なるものが、いつの間にか作品群の背後に出現していて、そこを参照してつくられたのが「今年の作品」。

※「参照」が自覚的意識的かどうかはあまり重要ではない。自覚的意識的であろうとなかろうと、半ば強制的に「参照」することとなる。

「今年の作品」を眺めながら、僕はそんなふうに感じていたようです。

受賞作品をつくるような方々と特に関わりがないので、あくまで想像ではありますが、「アート」に関わっている人は、「二次創作」がはびこる俗っぽい意味での「サブカルチャー」とは距離をとりたがる印象があります。

「メディアアート」が、強大な「データベース」を参照し無尽蔵に錬成される現在の「サブカルチャー」の流れに巻き込まれず、少し高い次元から高みの見物をしていたかったのだとすれば、これはかなり皮肉なことです。

「メディアアート」が眺めていたご立派な物見やぐら(彼らは、そこが対象から安全な距離を確保した場所であると思っていた)は、すでに対象の一つであるはずの「データベース」の中だったのかもしれません。

巻き込まれてしまえば、あとは際限のない再生産の循環。

「刺激」のための「刺激」、「斬新さ」のための「斬新さ」、「メディアアート」のための「メディアアート」を、生み出し続けることになってしまいます。

そしてこれらは、「メディアアート」が本当に炙り出したいものではないような気がしなくもありません。

炙り出したかった対象にいつの間にか巻き込まれる様は、そのまんま「ミイラとりがミイラになる」という感じです

僕の個人的な見解ですが、今回の「アート部門」には、「ミイラになってしまった作品」がありました。




◆「無目的性」◆


ここまでの話と同列というよりは、前の話の補足に近いお話ですが、今年の「アート部門」を見ながらふと思ったのが、「無目的性」というキーワードです。

ここで言う「無目的性」とは、すごくざっくり言えば、「だからどうした?」というやつです。

作品を見て、考えて、さらに説明も読んだり、専門家の解釈も聴いたりして、それなりに理解した気になって、それでもなお「だからどうした?」と言いたくなってしまうやつです。



「エンターテインメント部門」であれば、その名の通り「楽しませてやろう」という目的を感じるのですが、そもそも「アート部門」にはそういう基軸がありません。

「制作の意図」の自由度はより高く、というよりは、そこを考えること自体に大きなウェイトがあるのだと思うのですが、比較的分かりやすいものであれば、「社会的なメッセージ」(格差批判、戦争批判、貧困撲滅etc)などが挙げられます。

「貧困を撲滅したい」→「貧困の存在に気付いてもらう必要がある」→「そのための作品をつくろう」・・・みたいな流れの、最初の部分です。



今回の「アート部門」作品を見ていて感じたのが、この「目的」「制作の意図」の希薄化です。

制作のスタートとして当然あるべきもの、というふうに素人が思ってしまう「制作の意図」という部分が、以前と比較して希薄になってきているように感じました。


やってることも、やりたいこともわかる。
でも、なぜやっているのかわからない。
どんな意味があるのか分からない。


今回の「アート部門」にこんな感覚を持ったわけですが、これまたなんだか過去に覚えのある種類の感覚です。

それは、2010年代にその勢力を急拡大したサブカルのトレンド「日常系」と同じ空気感です。

ドラマ性を可能な限りそぎ落としていくことで成立している「日常系」は、そのまんま「無目的性」の一つの側面を投影していると言えます。


誰かを倒したいわけでも、何かを目指したいわけでもない。
だから、あんまりドラマチックな展開は起こり得ない。
基本的には、「ただあるがまま」を。


こんな「日常系」の空気感と、「アート部門」に漂っていた空気感は、どこか似ているように感じました。

見る者に前のめりで迫ってくるのではなく、一歩引いているような感じのせいでしょうか。

「これを見てどう感じるかは、見る人に委ねられる」という、やや投げやりな感じは、根っこの部分でかなり似ていると思いました。


そういう意味で、「センセーショナル」とは違う方向の面白さ、興味深さを感じました。

「日常系」と「アート部門」に類似性が見出せるのなら、もしかするとこんなことも言えるかもしれません(やや話を飛躍させていますが)。



この類似性は、しばしば目にする、「日本のオタク文化は、より大きな意味での社会思想の一歩先(未来)を提示している」という言説の、傍証の一つとなり得るのかもしれない。

なぜなら、メディアアート(特に、「アート部門」)とは現在の「社会思想」と深く結びついたものであり、そこに今回「日常系」と同じ空気が感じられるようになってきたというのは、すなわち「社会思想」がそのように変化してきたことに他ならないからだ。

その意味で、〈日本のオタク文化〉の産物である「日常系」が持っていた空気感は、「社会思想」の潮流を先取りしていたと言えるわけだから、先の言説を補強することとなる。



閑話休題。


僕は、今回の「アート部門」に「無目的性」というのを感じたわけですが、同時に、より表面的な部分についても思うところがありました。

それは、『作品が、その輪郭を曖昧とし「物体」としての性質を喪失しつつある』というものです。

ちなみに、〈「物体」としての性質〉というのは、伝統的なアートの根拠となる「匠のなせるワザ」みたいなニュアンスを込めています。

現代アートの文脈からして当たり前なのかもしれませんが、この性質の喪失は、今回の「アート部門」でも顕著でした。

別の言い方をすれば、「再現不可能性」ではなく、「再現可能であること」にどんどん寄っている。

長年の鍛錬と膨大な知識が生み出すユニークな作品をもって「すばらしい」と評価する時代は、だんだん過去のものとなりつつある印象です。

「優れた製品」ではなく、「大量の優れた製品を生み出すことで社会に影響力を行使し得る鋳型」を評価する時代となってきている。

「ハンバーガー」を評価するのではなく、「ハンバーガーを世に広く行き渡らせるための手法」が評価される。

※ここで言う「製品」とは、「思想」とほぼ同義です。


奇しくも、「目的」を意味する英語「object」は、同時に「物体」を意味します。

そして、現実の現象として「目的」を喪失しつつある作品が、その輪郭を曖昧とし「物体」としての性質を喪失しつつあるのは興味深いと思いました。





【エンターテインメント部門】


「エンターテインメント部門」は、作品によっては「アート部門」に近いもの、「アニメーション部門」に近いものなど、多種多様ですが、全体として見た目的にもとっつきやすいものが多くありました。

はじめての来訪者も比較的楽しみやすいと思われるものが多いので、メディア芸術祭が新たな人を引き入れるという点で、かなり貢献しているように感じます。

それでいて、考えれば考えるだけ奥が深いと思わせるものも多く、充実していました。

「エンターテインメント部門」については、具体的な作品名も挙げているので、公式サイトの作品紹介のページなどもあわせてご覧になると良いと思います。



◆「アナログ/デジタル」の現在地◆


今回の「エンターテインメント部門」の受賞作品を見ていて考えさせられたのは、「アナログ/デジタル」の関係についてです。

具体的に見ていきましょう。



大賞作品は、「Sound of Honda / Ayrton Senna 1989」( http://www.honda.co.jp/internavi-dots/dots-lab/senna1989/ )というもので、1989年にF1でアイルトン・セナが樹立した世界最速ラップの走行データが、作品のおおもとになっています。

この走行データは、本田技研のカーナビゲーションシステム「テレメトリーシステム」により収集されたものですが、このシステムはセナの記録樹立に大きな貢献をしたと言われています。

まさに、「Honda」の技術力の結晶と言えるものですが、今回のプロジェクトは、そのシステムにより収集された「走行データ」を用いて、現実に鈴鹿サーキットに当時の様子を再現するというものです。

とはいえ、実際にレーシングカーを走らせるわけではありません。

というより、何も走りません。

走りを再現する役割を担うのは、コース上に設置された無数のLEDとスピーカーです。

LEDは24年前のセナの車体の位置を示す光を、スピーカーは走行データから忠実に再現された音を放ち、間接的に当時の情景を想起させる試みです。

他にも、ウェブ上やアプリなどを活用して展開された一連のプロジェクト全体をもって、今回の大賞作品となっています。











会場では、照明を落とした専用ブースで迫力のある映像が流されていましたが、個人的に一番印象的だったのは、壁に展示されていた一枚の紙っぺらです。

これこそが、24年前の“1分38秒041”なのですが、本当にただの紙です。


データを収集するのは、当然「デジタル」の領域です。

電気信号を介した数値の蓄積です。

しかし、出力してしまえばそれは「アナログ」の色味が非常に濃くなる。

そして、24年の歳月を経て、最新の「デジタル」がそこから当時を再現しようとするが、それはコンピューター上での3DCGによる再現ではない。

その方がもしかするとリアルなものを伝えられるのかもしれない。

ただ、今回は、サーキットが舞台。

24年前には想像すらできなかったような技術革新を経た「デジタル」は、最終的には裏方に徹し、敢えて「アナログ」な光景が愚直なまでに追求される。



敢えて、「アナログ」「デジタル」という言葉を多用してみましたが、作品全体を眺めれば、「ちょっと違うのでは」と思うかもしれません。

なぜなら、この作品において、「アナログ」「デジタル」は不可分なものとなっているのです。

ここからここまでがアナログ、ここからここまでがデジタルといった線引きは、ほとんど意味を為さなくなってきています。



「デジタル」というものが世に生き渡り、浸透して生活の一部となってから、一定の時間が経過しました。

そして今、「アナログ/デジタル」の関係はここまで到達した。

そんな「現在地」を、あまりにも無駄なく、それでいてスタイリッシュに浮かび上がらせたのが、今回の大賞作品であったように感じました。

そして、まさにこれこそが「メディア芸術祭」と思わせる作品でした。

「アナログ」と「デジタル」の混ざり合った世界を生きる僕達が、この作品と出逢うことの意義はとても大きいでしょう。





◆強化される双方向性◆

「エンターテインメント部門」では、他の作品でも「アナログ/デジタル」を意識させられるものが多数ありました。

特に顕著だったのは、「アナログ」への回帰です。


「デジタル」=「新しい時代を感じさせるもの」という世代の次の、「デジタル」=「はじめから当然のようにあるもの」という世代、すなわち「デジタルネイティブ」が増えていく中、「アナログ/デジタル」の現場にも目に見える変化が起こっているようです。

新しいものへの憧れを推進力とした「アナログ→デジタル」の流れに対し、ここにきて存在感を増してきたのが「デジタル→アナログ」の流れです。

「デジタルネイティブ」にとって、「デジタル」は当たり前のもの。

目指したいもの、憧れの対象にはなり得ません。

そこで、一種の揺り戻し現象として、「デジタル→アナログ」が強くなってきたように思います。

そもそも「アナログ/デジタル」は、本質的に不可分なので、力関係を考えれば、どこかに釣り合う点が存在するはずです。

生態系における食物連鎖のバランスのように、「アナログ/デジタル」のバランスをとるべく働く、「神の見えざる手」のような力が顕在化したのが、「デジタル→アナログ」の流れだと思います。



優秀賞作品「トラヴィス「ムーヴィング」」は、イギリスのバンド「トラヴィス」のミュージックビデオですが、これもそういった流れを非常に分かりやすく読み取ることができると思います。

本来なら、CGによって処理するような映像を、敢えて極限までアナログな手法で再現する。

コンピューターが切り拓いた「ヴィジュアル・エフェクト」の領域に、「アナログ」が果敢に挑んでいく様は、非常に象徴的です。



優秀作品「プラモデルによる空想具現化」も同じ文脈から読み解くことができます。

「デジタル」の象徴とも言えるパソコンのパーツを素材とし、「アナログ」なジオラマ作品に仕上げています。

ただ、本作品が興味深いのは、単なるリサイクルではなく、マザーボードを始め、素材となっているパソコンの素材、電気回路がそのまんま生きていて活用されている点にあります。

「デジタル」は「デジタル」のまま、それでいて「アナログ」と化しています。

そして無視できないのは、そもそもこのジオラマ自体、極めてセンスに溢れるものだということです。



優秀作品「スポーツタイムマシン」も、わかりやすさとテーマ性の両方をもちつつ、メディアアートという言葉がしっくりくる作品でした。

「デジタル」なデータとして蓄積された「走り」が、後に現実の人間が走るという行為(まさしく「アナログ」)を誘発する関係。

「アナログ」な走りを、いかに「デジタル」なデータとして蓄積するかということに主眼を置かれていたのが、ようやく、そのさらに先の段階に到達してきたという感じでした。




他の展示作品も印象的だったので、もっと触れたい気もしますが、キリがないのでこのくらいにします。

ここで一つ注釈を加えておきたいのですが、いずれも「アナログ」が勝っているわけではなく、本来そうであるべき均衡状態に近づいたという印象です。

ただ、過去との比較で考えれば、「アナログ」に寄って来た感じがするということです。

それほどまでに、近年において「デジタル」は前景化していたのでしょう。




さて、「デジタルネイティブ」という言葉が示す通り、現代人にとって、「デジタル」はむしろ身近な世界です。

かつては、「デジタル」がもつ異物感をかきけすことに多くの労力を割き、「アナログ→デジタル」の実現に奔走してきたわけですが、その異物感は確実に消えつつある。

そこにようやく、「デジタル→アナログ」という流れが生まれ、自由に行き来する回路が形成されてきました。

これは、「デジタル」に翻弄されてきた時代から、「デジタル」を乗りこなす時代へとかわる橋頭堡のように思えます。

同時に、「アナログ/デジタル」の今後の展開についての示唆も与えています。

それは、「アナログ/デジタル」境界のさらなる希薄化です。

「アナログ/デジタル」間で双方向の回路ができ始めた状況で、今後はさらなる混濁が進むと思われます。

「アナログ/デジタル」は、水面に垂らした絵具のようなマーブル模様を描き、互いに牽制しあいながらもやがて平衡状態に達する。

今回の「エンターテインメント部門」で見せられたのは、混ざり合って色の境界が分からなくなる直前の、最後のマーブル模様であるように感じました。





また、小難しい話を抜きにしても、「エンターテインメント部門」の受賞作品は、出逢ったときから楽しめて、それでいて深く考えても楽しめる点が特徴的でした。

その絶妙なバランスを実現している所は大きな魅力であり、個人的にも良い指針を得た印象です。





【アニメーション部門】


「アニメーション部門」では、毎年短編に心惹かれるのですが、今年はその中でも豊作だった印象です。

この部門では、確かな技術と安定感を見せつける外国勢と、荒削りだけど個性が光る日本勢の対比が今年もはっきり見て取れました。

個人的には、後者の方が好みなのですが、メディア芸術祭ではかなりの色物も受賞しているので、毎年ワクワクさせられます。

世の中にこれだけアニメや動画が出回っているので、そろそろネタが切れてくるのではないかと思っていましたが、全然そんなことはなく、むしろ今後に向けての底知れぬ可能性を感じました。

特に、今年の新人賞には、かなり鮮烈な作品もありました。



特に記憶に残るのが、「ようこそぼくです選」「Airy Me」です。

まずは見ないと始まらないのですが、どちらも一度見たら忘れないという点では、ほとんど異論がないと思います。

視覚的にも聴覚的にも揺さぶられ、独特の世界に引き込まれていきます。


「ようこそぼくです選」は、「この作者は大丈夫か?」と心配したくなる類の作品です。

完全にカオスで不条理、シュールでユーモラスでナンセンスで気色悪い。

理屈も何もあったものではないし、画面もわけがわからない。

でも、なぜか癖になるし、妙に可笑しい。

※制作者のサイトはこちら



「Airy Me」も、これはまた違った意味で「この作者は大丈夫か?」と言いたくなるような作品です。

でも、僕はこういうのはとても好きです。

見ていると何かを掴めそうなのに、安定しないカメラワークに酔わされ、結局曖昧にされてしまう。

こちらの記事に動画あり



長編作品については、会場では断片的にしか見られないので、その範囲での感想ですが、大賞作品「はちみつ色のユン」は、現代のアニメーションがとりうる技法を凝縮している点で、興味をひかれました。

日本以外で主流となりつつ3DCGアニメーションは、日本でいまだ主流であり続けるセルライクなアニメーション(セルアニメ的演出をデジタルで再現する方式)と対局をなします。

しかし、本作は、その両方の要素をあわせもっています。

より手描きに近い質感の3DCGアニメーション(3Dを敢えて2D的に見せる)を採用していますが、このやり方は、以前から個人的に興味を持っていました。

というのも、この手法は、今後、少なくとも日本のサブカルのシーンでそれなりの存在感をもつような気がするからです。

家庭用パソコンのスペック向上、高速インターネット回線、サーバーの大容量化は、同人イラスト、同人音楽、同人動画の活性化を促してきたわけですが、この流れは、次に同人アニメに向かうような気がしています。

この流れは、「個人の創作意欲」と、「労力・費用」のバランスがカギとなります。

よって、技術的なハードルが下がり、個人でも手を出せるようになると、そのジャンルに火がつきます。

そして、個人で制作された作品が発表される場がネットとリアルに乱立し、加速度的に発展していきます。

まさにボカロなどが典型的だと思いますが、これと同じことは今後、アニメでもあると思います。

アニメは、当然のことながら、イラスト、音楽などと比べてハードルが高くなります。

特にネックとなるのが、マンパワー。

多くの人間と多くの時間を要する手描き方式のアニメ制作は、低予算の同人活動ではありえない話です。

しかし、この制作過程を3DCGにより再現することが現実的に可能となれば、ハードルははるかに低いものとなります。

日本人好みのセル画の質感を3DCGから生成する技術は、近年急激に進歩してきています。

あとは、家庭用パソコンのスペックの問題ですが、これもそれほど時間はかからないだろうと思います。

ゆえに、同人アニメが勢いづくのも時間の問題だと思うわけです。

※Random Walkとして、今年挑戦してみたい分野の一つだったり。


これらを含め、話題に事欠かない「広い意味でのアニメーション」について、今後の動向にも注目していきたいです。




【マンガ部門】

前回、初の海外作品の大賞ということで注目を集めた「マンガ部門」ですが、今年は「ジョジョリオン -ジョジョの奇妙な冒険Part8-」です。

なかなか自由な感じのメディア芸術祭ですが、「マンガ部門」も例にもれず。

ただ、それでも異論はでないであろう見事なチョイス、さすがです。

商業誌も、同人誌も、ウェブ漫画も、スマホ向け漫画も、すべて同じ土俵で評価される稀有な賞なので、見たことも聞いたこともないような作品もたくさんありますが、それらの作品については、なかなか読む機会を持てないのが難しいところです。







◆改めて、全体について◆


ここで、改めてメディア芸術祭全体を、自分なりにまとめてみたいと思います。

全体を貫くものはなんだろうと考えたとき、「相転移」という言葉がしっくりきました。


例えば、「アナログ/デジタル」ということでも結構触れましたが、従来だと、二つの違う状態があるとき、そこを行き来する手段は、単純に両者をつなげるという意味での「接続」、もしくは、丸ごと置き換えるという意味での「変換」が主流だったように感じます。

しかし、その感覚は今回はかなり少なくなってきて、それよりは、「こういう条件下では○○だけど、こういう条件下では○○になる」という「相転移」のイメージに近くなってきました。


物理学の世界では、「光は粒なのか波なのか?」という話題で長年盛り上がっていましたが、その答えは最終的に「光は粒であり、かつ波である。ただし、粒の性質に注目すると波の性質はとらえられず、波の性質に注目すると粒の性質をとらえることはできない」というものです。

※この事実については、物理用語としての「相転移」とは関係ありません。


個人的には、今回のメディア芸術祭の作品に対する印象も同様のものでした。

「デジタル的側面に注目すれば、たちまちアナログな感覚は消えてしまう。でも、同じことがまったく逆の場合にも言える」という感じです。

「アナログ/デジタル」に限った事ではありませんが、以前のようなカテゴリーの境界は、どんなに目を凝らしても分からないくらい複雑に混ざり合っていて、時々その残滓は認められるものの、それすら長くは続かないだろうと感じます。

「アナログ/デジタル」「アニメ/アート」「3DCGアニメ/セルアニメ」「商業/同人」など、今回の会場にあった作品にかろうじて面影の残る境界面は、数回先のメディア芸術祭ではなくなってしまっているかもしれません。

無機質な「デジタルデータ」と、ある意味で究極的にアナログな概念である「感動」ですら、その境は分かりにくくなっています。


今まで、「メディアアート」について「何かと何かを結びつけるのだろう」というくらいにしか思っていなかったのですが、今回のメディア芸術祭を経て、もう少し具体的なイメージを持てたような気がします。

ただ、それにもかかわらず、以前よりも言葉で説明できなくなってしまいました。

具体的にイメージできるようになってきた感覚があるのに、曖昧になっていくという不思議。





ずいぶん長々と書いてしまいましたが、「微妙だな」と書き出したにもかかわらず、その中身を考えていったら、結局は「面白い」に達してしまった感じです。

だからと言って、最初に抱いた「微妙」という感想は特に否定できるような気もせず、結局は、「微妙/面白い」な感じです。

これ自体も、一種の「相転移」であり、メディア芸術祭が癖になる一因なのかもしれません。






sho