とりあえず忘れないうちに走り書き~第16回文化庁メディア芸術祭
須々木です。
国立新東京美術館で開催中の第16回文化庁メディア芸術祭に行ってきました。
何気に3年連続なので、メディアアートの断面が連なって、なんとなく流れが見えてきたような感じがします。
というわけで、その感想をメモ書きみたいな気分でつらつら記していきたいと思います。
あんまりうまく言えていない部分が多くあると思いますが、そのあたりはうまく行間を読むか、気になるなら質問してください~。
文化庁メディア芸術祭とはなんぞや?という人は、公式サイトの説明を先に読むことをお勧めします。
作品についても、作品概要や講評がしっかり掲載されているので、公式サイトを見ることをお勧めします。
メディア芸術祭は、「アート」「エンターテインメント」「アニメーション」「マンガ」の4部門の作品群がありますが、とりあえず順番に。
【アート部門】
会場に入って一番最初がアート部門です。
どれもわりとじっくり見て回りましたが、その上での第一印象。
それは「不気味」がやや強い、というものです。
やはりモダンアート的な流れなので、「異様」というのはもちろん毎年ありますが、今年はそれよりも「不気味」という印象を受けました。
例年の「異様」という感覚から少し怖い感じに近づいていったというニュアンスの「不気味」です。
その原因は何かと言うと、例年と比べて「生」「生き物」「生きている」を直接感じさせる作品が多かったせいなのかと思います。
今までも、特にアート部門は、動的なもの、絶えず変化しているものの方が多数派で、逆に静止かつ無音のものなどほとんどなかったので、ある意味では以前から「生きている」ことを感じさせようという方向性はあったような気がしますが、それにも関わらず「不気味さ」を感じたのは今回が初です。
その理由の一つは、今回の作品たちが、過去と比べると本当に「生きている」に近づいてきたせいだと思います。
さすがに「生き物」としての複雑な機構をそのまんま表現することはできませんが、それでもあるひとつの側面をより高いクオリティーで抽出することに成功していた印象を受けます。
その中でも、大賞作品である「Pendulum Choir」(ミュージックパフォーマンス)は、9人の声楽家を“パーツ”として取り込んだ大きな楽器のようであり、そして何より、生き物っぽさがないのが「不気味」でした。
正真正銘、人間を構成要素としているにもかかわらず、全体としても部分としてもその質感はなぜか無生物に思えてしまう不思議さがありました。
サイバーパンクにありそうな人間と機械との接続(「マトリックス」的なアレ)、電子制御された動きに従う身体。
人間が機械を使っているなどと考える余地はまったくなく、あらゆる意味で機械の部品としての人間がそこにはいて、にもかかわらず彼らは歌を歌うという異様さ、不気味さ。
人間という“パーツ”を使いながら、そこにはもはや人間的な要素を感じることができない。
じゃあ結局、僕達は人間のどんなところを見て“人間っぽい”と感じていたのか?
そういう深い問いかけを投げかけてくる作品だったように思えました。
優秀賞の一つ「欲望のコード」(インタラクティブアート)も非常に興味深かったです。
インスタレーションなので、その場で体験しないと何ともイメージしづらいとは思いますが、なかなか大がかりな作品です(作品概要は公式サイト参照)。
「見ている」と「見られている」感覚が混在し、さらに壁面の映像は「この場所」と「世界各地の公共空間」を映し出し、「現在(リアルタイム)」と「過去(構築されたデータベースより参照される)」を映し出す。
見ているはずの観客は、その場で作品の構成要素として見るべき対象の作品の一部になってしまう。
あらゆる境界が曖昧になり、相対化されていくポストモダン的な現代の流れに、ある意味ではきわめて忠実な作品という印象を受けました。
ただ、あまりに忠実すぎるが故に、つくりものではなく、圧倒的リアリティーをもって迫ってくるものがありました。
というわけでこれもまた「不気味」でしたが、よくよく考えてみると、「マイノリティー・リポート」を見たときの感覚に似ているような。
ただ、今回は実際に体感しているので、その重みは全く違いますが。
他の作品についてもいろいろ思う所はありますが、順番に書いていると長くなるので、カットして・・・
取り上げた2作品含め、受賞作品はいずれも複数の切り口を持っているので、実際には見る人によって着眼点は全然違ったものになると思います。
逆に、切り口が一つの作品は、このメディア芸術祭では存在しえないような気がします。
そもそもメディアというものは、「つなぐもの」であり、完全な意味での独立はありえないので、異なる何かを結びつけるためにも原理的に複数の切り口を持たざるを得ないのかなと。
一方で、究極的にシンプルな切り口で表現することができるとしたら、いったいどんな作品になるんだろうというのは、一つ気になる所であったりもします。
あらゆるものが入り乱れ、共有されない価値観がそこかしこで散らばりぶつかりあっている歴史文脈の中、どうしても複雑化する一方に見えてしまう現代を端的に表現する方法があるのかというのは、興味深いテーマです。
とりあえず僕が見た過去3回の芸術祭は、現代の世界が持つ複雑性を、別のものにトレースする(つまり複雑性は複雑性として可能な限り保持しようという意思が働いている)タイプの作品が圧倒的多数でした。
逆方向に攻める作品を今後見ることができたら面白いです。
【エンターテインメント部門】
はっきり言うと、「方向性は去年と変わらず、全体的に完成度アップ」という印象でした。
前回の時点ですでに存在感のあったSNSと関連した「つなげる型」の作品は今回も存在感がありました。
ただ、エンターテインメント部門は、新技術によっていた傾向が、少し原点に立ち返ったのかな?というのは感じました(革新的な新技術が台頭しなかったせいとも言えそうですが)。
つまり、エンターテインメントの名の通り、シンプルに理屈抜きに楽しむことを求め、楽しませるところを評価しているようでした。
その点で、この部門はどれもワクワクさせてくれるものでした。
個人的には、思わず考えずにはいられない「アート部門」も、余計なことは考えずにただ感じるままに楽しむ「エンターテインメント部門」も好きです。
この絶妙なバランスが、メディア芸術祭を見た後の高い満足感に繋がっているような気がします。
ちなみに、この部門の大賞は、「Perfume “Global Site Project”」です。
Perfumeの世界デビューを記念したプロジェクトで、視覚的にも聴覚的にも刺激的(楽曲は中田ヤスタカ)ですが、一番はコンセプトでしょう。
二次創作を喚起し、取り込んで雪だるま式に大きなムーブメントを起こすという戦略を、ここまで意図的に利用し成功したことは、古いしがらみが幅を利かせる日本の音楽業界において特筆に値する出来事だと思いました。
リアルの空間を共有していないにもかかわらず、世界規模で昂揚感を共有させるという発想。
そこに連鎖的に発生するライブ感こそが、今後の音楽業界(場合によりもっと拡張した業界)の未来を考えるときのキーワードなのではないかと思いました。
【アニメーション部門】
これはその場で全部を流しているわけではないのでざっくりと。
大賞は、過去2回連続でテレビアニメーション(第14回大賞「四畳半神話大系」、第15回「魔法少女まどか☆マギカ」)でしたが、今回は大友克洋の短編アニメーション「火要鎮」でした。
今回は優秀賞もテレビアニメーションはなくて、やはり前回のまどマギの存在感を改めて思い知りました。
なお、ノイタミナはなんやかんやで審査委員会推薦作品に「坂道のアポロン」と「つり球」が入っていました。
そして、安定の細田守「おおかみこどもの雪と雨」が優秀賞でした。
細田守は、第10回で「時をかける少女」、第13回で「サマーウォーズ」が大賞を受賞しているので、もしかしたらメディア芸術祭で一番受賞しているのかも。
個人的には、優秀賞の「アシュラ」が気になりました。
あと、審査講評で押井守が昨今の「日常系」のアニメを一刀両断しているのが面白い。
「物語の喪失」として嘆いているけれど、このあたりは、どう思っているのか個人的にいろんな人に聞いてみたいテーマの一つだったりします。
個人的にもいろいろ思う所はありますが、これも書き始めるとキリがないので割愛。
【マンガ部門】
マンガ部門最大のトピックは、なんと言っても「はじめて大賞が海外作品」でしょう。
フランス・ベルギーのコミックが大賞に輝きました。
すでに世界的に名の知れた作品とのことですが、それが日本で大賞をとったという意味はかなり大きいのではないかと思います。
ただ、一つだけ言っておきたいのは、日本の漫画とは完全に別なのではないかということ。
大賞作品の他にも海外作品はありましたが、どちらも漫画というよりは、額縁にはめこまれた絵画のような感じでした。
緻密に書き込まれたコマは、互いに完全に独立し、正直どう流れているのか。
日本的漫画において、コマはコマとつながって意味をなすものだと思いますが、海外作品においてこの意識はかなり希薄に思えます。
実際に原稿を前にしても、完全に西洋絵画の流れの傍系に見えました。
日本のアニメーションと海外のアニメーションの違いと同じで、まったく別物と思った方が良いような気がします(当然互いに刺激し合うのは良いことだと思いますが)。
優秀賞は、「岳」「ましろのおと」「GUNSLINGER GIRL」など。
「岳」はいつの間にか終わっていたようだ。。
・・・とりあえず走り書きはこんな感じで。。
sho
国立新東京美術館で開催中の第16回文化庁メディア芸術祭に行ってきました。
何気に3年連続なので、メディアアートの断面が連なって、なんとなく流れが見えてきたような感じがします。
というわけで、その感想をメモ書きみたいな気分でつらつら記していきたいと思います。
あんまりうまく言えていない部分が多くあると思いますが、そのあたりはうまく行間を読むか、気になるなら質問してください~。
文化庁メディア芸術祭とはなんぞや?という人は、公式サイトの説明を先に読むことをお勧めします。
作品についても、作品概要や講評がしっかり掲載されているので、公式サイトを見ることをお勧めします。
メディア芸術祭は、「アート」「エンターテインメント」「アニメーション」「マンガ」の4部門の作品群がありますが、とりあえず順番に。
【アート部門】
会場に入って一番最初がアート部門です。
どれもわりとじっくり見て回りましたが、その上での第一印象。
それは「不気味」がやや強い、というものです。
やはりモダンアート的な流れなので、「異様」というのはもちろん毎年ありますが、今年はそれよりも「不気味」という印象を受けました。
例年の「異様」という感覚から少し怖い感じに近づいていったというニュアンスの「不気味」です。
その原因は何かと言うと、例年と比べて「生」「生き物」「生きている」を直接感じさせる作品が多かったせいなのかと思います。
今までも、特にアート部門は、動的なもの、絶えず変化しているものの方が多数派で、逆に静止かつ無音のものなどほとんどなかったので、ある意味では以前から「生きている」ことを感じさせようという方向性はあったような気がしますが、それにも関わらず「不気味さ」を感じたのは今回が初です。
その理由の一つは、今回の作品たちが、過去と比べると本当に「生きている」に近づいてきたせいだと思います。
さすがに「生き物」としての複雑な機構をそのまんま表現することはできませんが、それでもあるひとつの側面をより高いクオリティーで抽出することに成功していた印象を受けます。
その中でも、大賞作品である「Pendulum Choir」(ミュージックパフォーマンス)は、9人の声楽家を“パーツ”として取り込んだ大きな楽器のようであり、そして何より、生き物っぽさがないのが「不気味」でした。
正真正銘、人間を構成要素としているにもかかわらず、全体としても部分としてもその質感はなぜか無生物に思えてしまう不思議さがありました。
サイバーパンクにありそうな人間と機械との接続(「マトリックス」的なアレ)、電子制御された動きに従う身体。
人間が機械を使っているなどと考える余地はまったくなく、あらゆる意味で機械の部品としての人間がそこにはいて、にもかかわらず彼らは歌を歌うという異様さ、不気味さ。
人間という“パーツ”を使いながら、そこにはもはや人間的な要素を感じることができない。
じゃあ結局、僕達は人間のどんなところを見て“人間っぽい”と感じていたのか?
そういう深い問いかけを投げかけてくる作品だったように思えました。
優秀賞の一つ「欲望のコード」(インタラクティブアート)も非常に興味深かったです。
インスタレーションなので、その場で体験しないと何ともイメージしづらいとは思いますが、なかなか大がかりな作品です(作品概要は公式サイト参照)。
「見ている」と「見られている」感覚が混在し、さらに壁面の映像は「この場所」と「世界各地の公共空間」を映し出し、「現在(リアルタイム)」と「過去(構築されたデータベースより参照される)」を映し出す。
見ているはずの観客は、その場で作品の構成要素として見るべき対象の作品の一部になってしまう。
あらゆる境界が曖昧になり、相対化されていくポストモダン的な現代の流れに、ある意味ではきわめて忠実な作品という印象を受けました。
ただ、あまりに忠実すぎるが故に、つくりものではなく、圧倒的リアリティーをもって迫ってくるものがありました。
というわけでこれもまた「不気味」でしたが、よくよく考えてみると、「マイノリティー・リポート」を見たときの感覚に似ているような。
ただ、今回は実際に体感しているので、その重みは全く違いますが。
他の作品についてもいろいろ思う所はありますが、順番に書いていると長くなるので、カットして・・・
取り上げた2作品含め、受賞作品はいずれも複数の切り口を持っているので、実際には見る人によって着眼点は全然違ったものになると思います。
逆に、切り口が一つの作品は、このメディア芸術祭では存在しえないような気がします。
そもそもメディアというものは、「つなぐもの」であり、完全な意味での独立はありえないので、異なる何かを結びつけるためにも原理的に複数の切り口を持たざるを得ないのかなと。
一方で、究極的にシンプルな切り口で表現することができるとしたら、いったいどんな作品になるんだろうというのは、一つ気になる所であったりもします。
あらゆるものが入り乱れ、共有されない価値観がそこかしこで散らばりぶつかりあっている歴史文脈の中、どうしても複雑化する一方に見えてしまう現代を端的に表現する方法があるのかというのは、興味深いテーマです。
とりあえず僕が見た過去3回の芸術祭は、現代の世界が持つ複雑性を、別のものにトレースする(つまり複雑性は複雑性として可能な限り保持しようという意思が働いている)タイプの作品が圧倒的多数でした。
逆方向に攻める作品を今後見ることができたら面白いです。
【エンターテインメント部門】
はっきり言うと、「方向性は去年と変わらず、全体的に完成度アップ」という印象でした。
前回の時点ですでに存在感のあったSNSと関連した「つなげる型」の作品は今回も存在感がありました。
ただ、エンターテインメント部門は、新技術によっていた傾向が、少し原点に立ち返ったのかな?というのは感じました(革新的な新技術が台頭しなかったせいとも言えそうですが)。
つまり、エンターテインメントの名の通り、シンプルに理屈抜きに楽しむことを求め、楽しませるところを評価しているようでした。
その点で、この部門はどれもワクワクさせてくれるものでした。
個人的には、思わず考えずにはいられない「アート部門」も、余計なことは考えずにただ感じるままに楽しむ「エンターテインメント部門」も好きです。
この絶妙なバランスが、メディア芸術祭を見た後の高い満足感に繋がっているような気がします。
ちなみに、この部門の大賞は、「Perfume “Global Site Project”」です。
Perfumeの世界デビューを記念したプロジェクトで、視覚的にも聴覚的にも刺激的(楽曲は中田ヤスタカ)ですが、一番はコンセプトでしょう。
二次創作を喚起し、取り込んで雪だるま式に大きなムーブメントを起こすという戦略を、ここまで意図的に利用し成功したことは、古いしがらみが幅を利かせる日本の音楽業界において特筆に値する出来事だと思いました。
リアルの空間を共有していないにもかかわらず、世界規模で昂揚感を共有させるという発想。
そこに連鎖的に発生するライブ感こそが、今後の音楽業界(場合によりもっと拡張した業界)の未来を考えるときのキーワードなのではないかと思いました。
【アニメーション部門】
これはその場で全部を流しているわけではないのでざっくりと。
大賞は、過去2回連続でテレビアニメーション(第14回大賞「四畳半神話大系」、第15回「魔法少女まどか☆マギカ」)でしたが、今回は大友克洋の短編アニメーション「火要鎮」でした。
今回は優秀賞もテレビアニメーションはなくて、やはり前回のまどマギの存在感を改めて思い知りました。
なお、ノイタミナはなんやかんやで審査委員会推薦作品に「坂道のアポロン」と「つり球」が入っていました。
そして、安定の細田守「おおかみこどもの雪と雨」が優秀賞でした。
細田守は、第10回で「時をかける少女」、第13回で「サマーウォーズ」が大賞を受賞しているので、もしかしたらメディア芸術祭で一番受賞しているのかも。
個人的には、優秀賞の「アシュラ」が気になりました。
あと、審査講評で押井守が昨今の「日常系」のアニメを一刀両断しているのが面白い。
「物語の喪失」として嘆いているけれど、このあたりは、どう思っているのか個人的にいろんな人に聞いてみたいテーマの一つだったりします。
個人的にもいろいろ思う所はありますが、これも書き始めるとキリがないので割愛。
【マンガ部門】
マンガ部門最大のトピックは、なんと言っても「はじめて大賞が海外作品」でしょう。
フランス・ベルギーのコミックが大賞に輝きました。
すでに世界的に名の知れた作品とのことですが、それが日本で大賞をとったという意味はかなり大きいのではないかと思います。
ただ、一つだけ言っておきたいのは、日本の漫画とは完全に別なのではないかということ。
大賞作品の他にも海外作品はありましたが、どちらも漫画というよりは、額縁にはめこまれた絵画のような感じでした。
緻密に書き込まれたコマは、互いに完全に独立し、正直どう流れているのか。
日本的漫画において、コマはコマとつながって意味をなすものだと思いますが、海外作品においてこの意識はかなり希薄に思えます。
実際に原稿を前にしても、完全に西洋絵画の流れの傍系に見えました。
日本のアニメーションと海外のアニメーションの違いと同じで、まったく別物と思った方が良いような気がします(当然互いに刺激し合うのは良いことだと思いますが)。
優秀賞は、「岳」「ましろのおと」「GUNSLINGER GIRL」など。
「岳」はいつの間にか終わっていたようだ。。
・・・とりあえず走り書きはこんな感じで。。
sho