迷走なのか、迷走の忠実な反射なのか ~第18回文化庁メディア芸術祭受賞作品展雑感~ | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

迷走なのか、迷走の忠実な反射なのか ~第18回文化庁メディア芸術祭受賞作品展雑感~

須々木です。

第18回文化庁メディア芸術祭受賞作品展に関する雑感です。

ちょっと日が経ってしまいましたが、毎年それなりに書いているので、今年もつらつらとまとめておきたいと思います。


今回の内容は、去年の記事とリンクしたところも多いので、先に去年のブログの記事に目を通してもらえるとわかりやすいと思います。


 ▽第15回の雑感 → メディア芸術祭に行って思ったことなど
 ▽第16回の雑感 → とりあえず忘れないうちに走り書き~第16回文化庁メディア芸術祭
 ▽第17回の雑感 → 偏在する相転移 ~第17回文化庁メディア芸術祭受賞作品展雑感~





◆個別の作品について◆


さて、まずは、今回並んでいた作品の中で、それなりに気になったものに触れていこうと思います。

展覧会に行っていない人は、公式サイトの受賞作品情報に目を通してから読んだ方が良いと思います(ここでは作品そのものの説明はほとんどしていません)



「これは映画ではないらしい」 (アート部門/優秀賞)

「動画は静止画の連続である」という常識を否定してみせたインパクトがとにかく大きい作品でした。
「○○とは、××である」と言われ刷り込まれた事柄(定義ではないのに、定義のように振る舞う命題)に、本当は他の解がありうるということは、頭では理解しているつもりでも、それを現実に目の当たりにる機会、実感する機会というのはそんなに多くありません。
その点で、非常に貴重な体験を提供してくるすぐれた作品だと思いました。


「Drone Survival Guide」 (アート部門/優秀賞)

「ドローン」(無人航空機)という言葉を聞く機会は、ここ一年くらいで急激に増えてきたように思います。
当然のことながら、最先端のテクノロジーの結晶であり、その有用性は考えれば考えるほど膨らんでいきます。
一方で、これまた当然のように、その潜在的な危険性についても、いくらでも挙げることができます。
しかし、そんな急激な広がりと一般人の認識には、しばしば時間的なギャップが発生し、誰もがドローンの普及した社会の具体的なイメージを抱けているかといえば、そうではないはず。
「個々のドローンの情報、そしてそれらの偵察や攻撃から身を守る手段をまとめたパンフレット」を柱とする本作品におけるキーワードは、「具体」だと思いますが、どこかSF的(すなわち、フィクション的)なイメージのある「ドローン」にリアリティーを添加しています。
人が能動的にアクションを起こすためには、そのトリガーとして、具体的なイメージ(リアリティー)が必要だと思いますが、本作品はそのような視点を思い起こさせてくれます。
正直なところ、これを見て「ドローン」対策のために行動を起こす気になるほどではありませんが、「このような視点から物事を“考える”」というアクションのトリガーとしては、一定の役割を果たしうると思いました。


「Symbiotic Machine」 (アート部門/新人賞)

本作品は、池などの藻類の光合成によりつくられるエネルギーを活用して動作するバイオマシンで、自然環境との「共生」というのが一つのポイントとなっています。
この点を評価する贈賞理由はもっともだと思う一方で、会場で見ながら感じた率直な意見を述べておきます。
それは、科学(この場合は、おそらく工学系)の普通の学会にならべられるパネル展示と大差ないというものです。
これが「芸術系」の場に存在することに、感覚的な違和感がありました。
科学と芸術の境界に位置する領域と言えばそれまでですが、本作品については、境界までまだ何か足りていないのではないか、と感じました(オブジェクトのデザインの問題なのか?
本作品は機能美に偏っていて、造形美にこだわりがあるようには見えなかった)。
個人的に、サイエンスは大好きなので、そういう意味で非常に興味深くてまじまじと見てしまいましたが、これを「メディアアート」と呼ぶのか?
というか、「サイエンス」は「メディアアート」に包含されているという関係と捉えるべきなのか?
そんなことを考えさせられる作品でもありました。


「Ingress」 (エンターテインメント部門/大賞)

エンターテインメント部門の大賞は、近年、かなり大がかりで、ほとんどの場合は、ワールドワイドな広がりを持っています。
必然的に、企業が絡む大型企画の受賞が続いています。
今回はGoogleのモバイルアプリケーションです。
作品において、物理的な大きさや、広がりというのは重要な要素であり、ある意味で必然の流れとも言えますが、この部門の大きな傾向となりつつある感はあります。
だからこそ、今後その流れをぶった切る異端児のような作品が現れることを密かに期待しています。
作品そのものについては、僕自身やったことがないので割愛しますが、とても有名なものなので、ネット上に大量に関連記事があります。
興味のある方はそちらをどうぞ。
個人的に思ったことを言っておくならば、「技術が進歩して想像されていたものの一つを具現化させた」という感じです。
発想そのものは全く新しいところはなく、重要なのは、現実の人間を巻き込むことに成功したという点でしょう。


「のらもじ発見プロジェクト」 (エンターテインメント部門/優秀賞)

これはもう単純に、「フォント萌え」なんだなと。
野良猫のように、そのへんの街角に見られる手書き文字(野良文字)の魅力に迫っていく作品でした。
これは、コンセプト自体も面白かったし、企画内容も非常にしっかりしている印象です。
フォントデータとして利用可能とし、それをもとの文字の持ち主に利益還元していくというのは、後世に伝え、同時に一次制作者の役に立つという、極めて優れた仕組みで、類似の動きが広がりを見せると良いと思います。
スタートはただの個人的な「萌え」だったのだと思いますが、それをしっかりと練り上げて、確かな存在意義を与えた点は、高く評価されるポイントだと思いました。
膨大な「萌え」が氾濫する現在において、そこから頭一つリードするために参考になるアプローチだと思います。


「handiii」 (エンターテインメント部門/優秀賞)

3Dプリンターとスマホを活用した、安価でデザイン性に優れた筋電義手です(もしくは、これを広めていくための一連の活動)。
会場に実物が並んでいたわけですが、まずそのメカニックで普通にカッコいいビジュアルは、かなりたぎるものでした。
そして、人によっていろんな作品等が頭によぎったのではないでしょうか。
「攻殻機動隊」に登場するようなサイボーグ的なビジュアルの義手であり、「鋼の錬金術師」のようなカッコいいオートメイルのイメージにも近いコンセプトです。
義手や義足は今後の技術革新が大きく期待される分野で、オリンピック(パラリンピックではなく)でも、走り高跳びなどは、将来的に義足の選手の方が記録を伸ばせるとも聞きます。
そのような社会の流れにも対応しており、時宜にかなった作品です。
また、3Dプリンターという非常に強力なツールのプラスの側面を見事に具現化したものだとも言えます。
そして、スマホを制御装置として活用し開発、製造コストを下げたのもスゴイことです。
スマホは、電話の発展形ではなく、コンピューターの派生形なんだと改めて感じるところです。
いろんな要素をギュッと凝縮させながらも、その根底にしっかりとアート的発想が根差している点も良いと思いました。


「5D ARCHIVE DEPT.」 (エンターテインメント部門/新人賞)

福岡・九州朝日放送の地域プロモーションTV番組として制作された映像作品です。
そのテーマは、「伝統的な音」というものですが、各地に残る昔ながらの生活を感じさせる伝統的な音、空間に、九州発のアイドルが歌って踊るという要素が加えられ、さらに未来から来た美少女キャラクターがそれらを記録し後世に残すという、字面だけ追うとなかなかカオスな企画です。
しかし、実際の映像は非常にセンスに溢れ、目でも耳でも楽しめるし、心地よいし、適度に刺激的なものでした。
これだけ盛りだくさんなのに、詰め込み感はなくて、非常にうまくまとまっている点は、ある意味で驚きです。
現在、過去、未来の日本の要素を詰め込み、しかも「メディアアート」「エンターテインメント」としてしっかり成立している優れた作品だと思いました。



「アニメーション部門」と「マンガ部門」については、ここではあまり触れませんが、それぞれの大賞は以下の通りです。


「The Wound」 (アニメーション部門/大賞)

ロシア人による短編アニメです。
この部門の大賞は、あまりはっきりした傾向はないように感じます。
近年も、日本の劇場長編アニメ、日本のテレビアニメ(まどマギなど)、海外の長編アニメ、そして今回のような海外の短編アニメ。
なお、本作品は、商業色がかぎりなく皆無、完全にアートよりの作品でした。
個人的に強く惹かれるものではありませんでしたが、アニメーションの多様性を感じるものでした。


「五色の舟」 (マンガ部門/大賞)

マンガ部門も、まったく傾向不明です。
一昨年はじめて海外マンガが受賞したと思ったら、昨年はジョジョ、そして今年はなかなか重みのある(あまり大衆的ではない)作品です。
今年のマンガ部門は、全体としてちょっと文学的(女性的感性が強め?)のものが多めの気がしましたが、本作がその筆頭かと思います。
そして、特筆すべき点は、マンガ原作でない作品が大賞を受賞したということかもしれません(はじめて?)。





◆全体の印象◆


まずは、はっきりと書いておきましょう。

完全に個人的な意見ではありますが、今回のメディア芸術祭受賞作品展を見た率直な感想は「以前と比較して、かなりつまらない」というものです。


昨年のブログでは、「エンターテインメント部門」、「アニメーション部門」は面白かったが、「アート部門」はそれまでと比べて微妙というふうに書きました。

今年については、「アート部門」は引き続きさらに微妙になり、「エンターテインメント部門」、「アニメーション部門」も微妙になってきました。

昨年のブログでは、この「微妙」の理由として考えられるものを列挙しましたが、それを以下に再掲しておきます。



1.展示作品のレベルとしては例年通りだが、そろそろ刺激に慣れてしまった(目が肥えたと言うべきか、感受性が鈍ったと言うべきか)。

2.応募作品のクオリティーの低下。作品数は増加の一途をたどっているので、もしこれが該当するのなら、社会的要因が考えられる(しかも、わりと世界規模で)。

3.審査のクオリティーの低下。大量の作品の中から良作が拾われにくい状況になってしまった。

4.展示のクオリティーの低下。つまり、展示品のチョイスや展示方法の問題。




さて、これを今年の状況を含めて再検証してみます。

まず、「1」は当然無視できない要素だと思います。ただ、欲を言えば、素人が慣れる速度より、新しい刺激が生まれる速度が上回って欲しいとは思いますが。

「4」は、展示方法が戻った(昨年だけ大きく違った)ので、理由としてはずせると思います。展示方法が戻ったからと言って、微妙なものは微妙でした。

「3」については、あとで改めて触れますが、あまり影響ないような気がします。

「2」は、かなり大きいと思います。その証拠に、今年、18回目にしてはじめて、大賞の「該当なし」(アート部門)が出ました。これはかなり大きなポイントだと思います。



ここで、会場で購入した「受賞作品集」から、選考委員の方々の言葉を引用してみましょう(いずれも一部抜粋)。



「今回のアート部門においては、慎重な議論の結果、大賞は該当なしという苦渋の決断を行った。1800点を超える作品応募があったにもかかわらず、大賞に値する作品がなかったのかと訝る声もあるかもしれない。しかしながら、前述したような優れた作品との出会いがもたらす喜びは審査過程においてあまり感じられず、前年と比べると低調な印象を絶えず持ち続けた。これについては他の審査委員も同様だと想像している。その結果が、審査委員全員が一致して大賞として声を合わせることができずに、優秀賞5点となった結果にも現れている。」
(植松由佳/アート部門審査委員)


「今までと変わらず質の高い作品が多く集まった、僕にとっては3回目となるアート部門の審査はこれまでと同様に楽しく、また困難を極めた。ただ、以前の2回と比べると何か「驚き」が少なかったように感じた。ここでいう「驚き」とは、新しいテクノロジーとともに時々刻々と変化していくこの世界を、誰もが思いもよらなかったような視点から捉え、作品化した作家が与える「衝撃」のことである。(中略)1年後の今、応募作品の多くはもちろんさまざまな意味で「アップデート」されているわけだが、それらが以前にあったものの「アップデート」のようにしか見えないことが多かった。世界中からこれだけの数の応募があったにも関わらず、そのような「驚き」が少なかったことは振り返ってみると不思議であり、また、昨年のグラフィックアートのような、特定の分野で「面白いことが起きている」というような発見もあまりなく、良くいえば「メディアアート」がひとつの表現様式、すなわちジャンルとして安定してきたともいえるのかもしれない。」
(三輪眞弘/アート部門審査委員)



この意見が総意とは言えませんが、過去の審査講評ではここまで明確にネガティブな評価はほとんどありませんでした。
もちろん、過去にも辛口の講評を書く人はいましたが、それはある種の叱咤激励で、今回のものとは本質的に違うように思います。
引用した二人に関しては、講評で少し触れるという程度ではなく、むしろメインとして扱われています。
「大賞なし」という判断が熟慮の末のものであったことが良く分かりますが、やはり大きな決断だったのでしょう。


そして、「受賞作品集」に掲載されていたすべての講評、鼎談を読んだ限り、僕が会場で感じたことは、審査委員でもおおよそ共有されていた感覚だったのだろうと推察されます。

※ただし、講評、鼎談において、「アート部門」以外はあまりネガティブな内容の意見は多くなかった。

とすると、先に列挙した4つの原因のうち、「2」の影響が主たるものであるのだろうと言えます。



この点について、もう少し考えたいと思います。




◆「応募作品のクオリティー低下」の理由◆

「応募作品のクオリティー低下」というのも仮説みたいなものですが、以下は、その前提で話を進めます。

つまり、「もし、メディア芸術祭において、応募作品のクオリティー低下が起こっているとして、その原因としてどういうものが挙げられるか?」ということです。


絶対的な情報量、知識量が不足しているので、多分に素人の推測、感覚的な意見が含まれていますが、それを込みで話を進めます。



先の引用の中にあった「アップデート」「安定化」というのは、実は会場で強く感じた部分です。

講評を読んで、審査委員でもそう感じていたのか、と思ったわけですが、それならばその原因はどこにあるのか。


考えられるのは、「メディア芸術祭が過去のメディア芸術祭に縛られつつある」というものです。

実は、僕が昨年の作品展(第17回)を受けて書いたブログの中に、以下のようなものがあります。


メディアアートの「データベース」なるものが、いつの間にか作品群の背後に出現していて、そこを参照してつくられたのが「今年の作品」。


「データベース」を利用した再生産の流れを外部から観測者として眺めるのが「メディアアート」の本来の立ち位置なのかと思うが、いつの間にか「メディアアート」そのものがこの再生産の流れに組み込まれてしまった。
「ミイラとりがミイラになる」という感じである、と昨年のブログで書いています。


この傾向が、より顕著になったのが第18回なのだと思うわけです。

「メディアアート」というのは、そもそも明確な定義なきカテゴリーです。
審査委員の中にも、「メディアアートとは?」と書いている人がいるように、根本的にふわっととらえどころのないものです。

その中で、さらに「メディア芸術祭」は非常にニュートラルなものです。
文化庁が運営して、企業の協賛などありません(企業も応募できる以上、極めて妥当ですが)。
実現可能な中で、最大限中立的な作品展だと言えます。

そうすると、もはや、何を「物差し」として作品を考えればよいのかわからなくなってきます。
そうすると、制作者が、過去の「メディア芸術祭」を参照するようになってくるのは、ある意味では必然だと言えます。

「物差し」が不明瞭であるが故に、過去のメディア芸術祭がその代用品として利用されている。
これが、ネガティブな意味での「アップデート」「安定化」につながっているのではないでしょうか。

自由であるが故のコンセプトの迷走です。
一方で、これはもはや宿命的な命題です。


メディア芸術祭の中で、特に「アート部門」はこの傾向がもっとも強いカテゴリーです。

そもそも、メディアアートの中に「アート部門」があるのはいかがなものか?という意見はかなりあると思われます。

現状では、その制作意図がより純粋にアートによっている(前景化)という意味での「積極的なアート部門作品」と、他の部門だとしっくりこないから消去法でたどりつく「消極的なアート部門作品」があるように思いますが、少なくとも「アート部門」「エンターテインメント部門」「アニメーション部門」「マンガ部門」という現在のカテゴライズが妥当なのかは再考の余地ありと思われます。

メディア芸術祭において、このカテゴライズはかなり肝になっていると思うので、遅きに失することのないようにして欲しいものです。



あくまで個人的な見解ですが、現在のサブカルチャーにおいて、このようなカテゴリーはもはや限界という感もあります。

pixiv、ニコニコ動画をはじめ、現在のサブカルシーンで多くみられる「タグ」という方式はその証左になると思います。
つまり、「ある作品を、ある一つのカテゴリーに紐づけすることは困難」というのが実際のところだと思います。

事実、メディア芸術祭でも、設定されている4つのカテゴリーのうち、複数に該当すると思われる作品は多くあります。
よって、メディア芸術祭においても、登録時に、複数カテゴリーにエントリーできるようにし、カテゴリーの数を増やすという方式をとってみるのはどうでしょう。

「カテゴリーの仕方がマッチしていない」ではなく「カテゴリーという考え方がマッチしていない」という可能性は、大いにありうると思います。



ここで、先にあげた命題を改めて見直します。

「もし、メディア芸術祭において、応募作品のクオリティー低下が起こっているとして、その原因としてどういうものが挙げられるか?」

これに対して、「自由であるが故のコンセプトの迷走」という可能性をここまで書いてきました。


しかし、可能性として、無視できないものがもう一つあります。

「メディア芸術祭」は、「将来、ここに登場した作品群を見るだけでその時代の文化及び歴史的展開が読み取れるアーカイブとして信頼される芸術祭」(第15回の岡崎氏講評より)、すなわち、この芸術祭自体がそもそもある種のメディアとして機能するよう意図されている側面があります。
つまり、その一年間を反映したものとして存在することが求められています。

そして、これまでの芸術祭を見る限り、この意図はしっかりと組み込まれ成立しているように感じます。

ということは、芸術祭が「迷走」した場合、実は、現実が「迷走」している可能性があります。

つまり、芸術祭という鏡に映った像を見て「迷走」を感じ取った場合、鏡の質的問題(鏡が曇った、鏡がゆがんだetc)の可能性はあるものの、そもそも鏡像のもと(オリジナル)、すなわち「現実の社会」が「迷走」している可能性があるわけです。

メディア芸術祭という「鏡」は、「迷走」している「現実の社会」をただ忠実に反射しているだけなのかもしれません。


現時点でこれ以上のことは言えませんが、このことを念頭に来年以降どうなっていくのか見ていきたいと思います。




◆「受賞作品展」のクオリティーについて◆

一般人は、国立新美術館で開催される「受賞作品展」を通してのみ「メディア芸術祭」と触れることとなります。

よって、この「受賞作品展」のクオリティー追求は、今後の発展のためにも非常に重要な意味を持つと言えます。

しかし、この「受賞作品展」にはいくつもの難題があります。

そもそも会場に収めなければなりません。

作品数、展示方法には当然、物理的制約が発生します。

メディアアートは、その性質上、物体があればそれですべてというわけではありません。

ゆえに、作品の本質を観覧者に伝えることは簡単ではありません。

また、「受賞作品集」を読むと、会場にはなかったけれど非常に興味を惹かれる作品も多くあります。

メディア芸術祭が、その時代を後世に伝えるメディアとして機能するためには、単純に「量」も無視できない要素です。


物理的制約が薄れた現代を投影するメディア芸術祭において、このような物理的制約に縛られるのは、皮肉なことですが、とりあえずは、展示スペースを広げて、展示内容の充実を図ってもらえると個人的に嬉しいところです。

当然、コストの問題は出てきますが、企業協賛は不可能であり、税金をこれ以上投入するのも避けたいはずなので、普通に入場料をとる方向で良いと思います。

現在は無料であり、敷居が非常に低くなっていますが、そろそろ定着してきた頃合いだと思うので、方針転換で良いと思います。

「受賞作品集」も、しっかりとした紙にフルカラー350ページ(厚さ2.5cm)で1500円は、他の美術展だとなかなか考えられない価格設定ですし。

※昨年、今年と、会場のアンケートに「入場料」に関して問う項目があったので、内部では検討しているようですが。




◆「受賞作品集」について◆

価格設定が良心的な「受賞作品集」ですが、とりあえず毎回購入して全部読んでいます。

内容は、受賞作品(展示されていないものも含む)についての作品概要と贈賞理由、審査委員の講評、鼎談などです。

シンプルですが、内容は質、量ともに充実しています。

そして、帰ってからこれを読むのが結構面白い。

特に、贈賞理由は興味深くて、審査委員がその作品に何を見出したのかを知るのは、作品そのものを見るのと同様に刺激的です。

個人的に、メディア芸術祭を楽しむためには、「受賞作品展で作品を見る」と「受賞作品集を熟読する」の二つが不可欠であるように思います。

そのくらい、「受賞作品集」も高いウェイトを占めています。

これは、第三者の目を通した、ある意味でメタフィクショナルな鑑賞方法です。

ゲームを中心に、現代のサブカル界隈では、「キャラクターとして楽しむ(登場人物と同化)」「プレイヤーとして楽しむ(作品の外部に位置する観測者として見る)」の二面性が見られますが、このメディア芸術祭においても、「自分の目で楽しむ」「第三者の目を通して楽しむ」の二面性があるような気がします

これらは互いに補完しあうものであり、その意味でもメディア芸術祭における「受賞作品集」は、それ自体が大きな存在意義を持っているように思います。






というわけで、今回もずいぶん長々と書いてしまいました。

このようにいろいろ考える機会を与えてくれるという点だけみても、メディア芸術祭の価値はかなりのもので、それを気軽に見に行ける環境に感謝です。

今回の最大のトピックは、「アート部門の大賞は該当なし」だと思いますが、この点にはメディア芸術祭のプライドを感じます。

この点は、むしろ希望であり、今後のメディア芸術祭の発展を期待したいところです。

そんなわけで、来年のメディア芸術祭も楽しみにしています。

長々とおつきあいありがとうございました。







sho