20230622
 
「働くことと贈与の話」(I,me,my)
 
時々、不定期に開催されている
お話会に参加した。
 
テーマは「働く」。
 
最初に
「働く」とは?
という「しつもん」がありました。
 
わたしはそれを
ライスワーク
ライクワーク
ライフワーク
ライトワークの4つに分けています。
 
神戸にある研究所では
Business1.0、稼ぐために稼ぐ
Business2.0、もっと稼ぐために無料化する
Business3.0、無料化するために稼ぐ
Business4.0、無料化するために無料化する
というように分類しています。
 
今回は
何らかの「報酬」を得るための仕事と
何の見返りも求めずに与える仕事の
2つに分けて、お話が展開した。
 
「報酬」がある仕事と
「無報酬」の仕事
という2つの分類です。
 
別の言葉で表現すると
「対価」をいただく仕事と
「対価」をいただかない仕事
という2つの分類です。
 
前者は
自分らしく
好きで
得意で

楽しくできることで対価をいただくのが
おススメとのことでした。
 
さらには
できるだけ多くの人に
喜んでいただくこと。
 
このときに
「何」を望んで働くのか?
 
ここが重要で
「成長」や「お金」は
目的ではなく手段なので
その答えにならないとのことだった。
 
成長そのものには意味はなく
お金そのものには意味はない。
 
「何」のために成長したいのか?
得られたお金を「何」のために使うのか?
 
ここが「目的」にあたるところで
 
つまり「何」のために働くのか?
という問いへの「答え」に相当する。
 
ここで
「自分とは何か?」を探究する
インドのヨガのワークの紹介があった。
 
それは
「わたし」とは何か?
「わたし」の範囲を
明らかにするワークでもありました。
 
具体的には
I=本当の自分自身
Me=職業、肩書、役割り、能力、才能、性格
My=所有、所属、物
という3分類で
自分に関することを書き出していき
 
MeとMyは
自分だと思い込んでいる自分で
実際には自分ではないことを覚るワークです。
 
自分の周囲にまとわりついている
自分ではないものを剥がしていった先に
最後に残る真ん中にあるもの=わたし
とのことだった。
 
わたしは・・・職業、能力、才能、特徴
わたしの・・・所有物、関係性
これらは「わたし」ではない
とのことだった。
 
よく
職業=アイデンティティに
なっている人がいますが
それは、その人自身ではない。
 
「わたし」=「I」は
肉体がかわっても変わらないもの。
名前がかわっても変わらないもの。
 
つまり
「名前」も
「肉体」も
「わたし」ではない。
 
それらすべてを剥ぎ取って
最後の最後に
最終的に真ん中に残るもの=「わたし」なのです。
 
個人的には
その「わたし」を生きているような人と
これからも出会っていきたいし
何かを一緒に創造していきたいと想っています。
 
このワークでは
これが自分だと思うものを書き出す。
 
ところが
その書き出したものは
どれも「自分」ではないことが告げられます。
 
人によっては
「自分」だと思い込んでいたものが
そうではないということになるので
そこに恐怖を抱く人も出てくるワークです。
 
なぜなら
自分が無くなる感覚があるからです。
 
その周辺のものを
全部、削り落していった先に残るもの
それが「わたし」とのことだった。
  
では
その「わたし」のエリアには
「何」が残るのか?
 
このワークを紹介してくれた人は
そこには何も残らなかった。
「無」だったと言っていました。
 
すべてを剥がしたとき
自分らしさは
才能でも個性でもない
 
これを理解したとき
すべてを受容できるようになった
と言っていました。
 
「個性」を伸ばす教育とか
「才能」を開花させる教育と言われて
久しいのですが
 
できれば
ここまで明確に理解しているような人から
教育を受けたいと思いました。
 
このワークを紹介してくれた人は
才能や個性や役割も
一時的に着ている服に過ぎないことを
理解することができたと言っていました。
 
つまり
「一時的に着ている服」なので
それは「わたし」ではない。
 
また
「一時的に着ている服」が
ボロボロになったとしても
 
それは「わたし」ではないので
「わたし」そのものは傷つかない。
 
このことを「理解」しない人が
「被害者」の視座に立って
「傷ついた」と訴えるのです。
 
「魂は傷つかない」
このことを知り、覚り、悟るだけでも
まるっきり世界の見方が変わります。
 
周辺は変化するのですが
中心は変化しない。
 
「自分ではないもの」は変化するのですが
「わたし」は変化しない。
 
その「わたし」に氣づくこと。
 
それがとても重要です。
 
今世では
その才能をいただいた
それは、ひとつの特徴
それは変化する。
 
このワークを紹介してくれた人は
役割りも、才能も
自分が決めることができる
変えることができる
という「氣づき」をシェアしてくれました。
 
あなたのために
わたしは存在します
これが役割りだという感覚を
得られたと言っていた。
 
これは
「BeDoHave」の教えと似ている。
 
その人がやっていることや
その人が持っているものは
その人自身ではない。
 
それらは「周辺」であり変化する。
 
また
墓場まで持っていけるものではない。
 
ここで
仏教の観点からの解説が入る。
 
この「My」に相当する
わたしの・・・で表現されるものは
すべて「欲」ということだそうです。
 
わたしの家
わたしの車
わたしの食事・・・
 
わたしのと思った瞬間に
そこに執着が生じる
 
だから
わたしのものを最小化することが
自由への道
 
ほとんどのものは
死後、持っていけない
一時的に預かっているだけで
わたしのものは存在しない
 
ところが
この仏教的な観点を得るまでは
 
この「わたしは・・・」の
領域を増やすことが
社会で活躍することや
豊かさだと思い込んでいた
という告白があった。
 
そこに書き出されるものは
「100%他者との比較」
という指摘もありました。
 
わたしは
あまり「他者との比較」とか
「勝ち負け」のような価値観で
生きていないこともあり
 
最初は
「100%他者との比較」
というのがピンと来なかったのですが
 
続いて、以下のような解説がありました。
 
「わたしは明るい性格」ですと言うとき
それは「暗い他者」を前提とする、と。
 
これは
「わたしはお金持ちです」と言うとき
それは「貧乏な他者」を前提とするのと同じで
すべてが、その構造の中にある。
 
「他者がいないと成立しないものは自分ではない」
という解説もありました。
 
これは、なかなか深い話で
よく「自分とは何か?」という問いに対して
「他者との関係性」のようなものを
持ち出してくる人がいるのですが
 
それは「自分自身」ではありません。
つまり「わたし」ではありません。
 
自分でないものを削っていくと
真ん中に残るものが
本当の自分なのです。
 
「働く」とは
その真ん中から湧き出てくるもののこと
という説明もありました。
 
それは
わたしの言葉で言うと
「BE」にあたります。
 
この
「BE」を
「仕事」にすること。
 
ここがとても重要なのだと思います。
 
外にエネルギー源があるのではなく
内側にあるピュアな情熱
それを見つけること。
 
昨夜、樂園学会でも
内発的動機と外発的動機の話がありました。
 
「外」のために何かをするのではなく
「内」側から、それをやること。
 
その結果として「外」のためにもなっていること。
 
これが「BeDoHave」の教えの本質でもあります。
 
ここが逆転していて
「Have」のために「Do」しているようなものや
そもそもの「BE」が抜け落ちているものに
わたしは、とても敏感で
 
そういうものは
正直を言うとNo, thank you.なのです。
 
他者とのご縁でしか成立しないもの
そこをゼロにしていく。
 
職業や肩書きから入ると
そこで思考してしまう。
その範囲の中で思考してしまう。
 
例えば
デザイナーだと
デザイナーの思考をして
デザイナーの仕事をしてしまう
 

そこから外に出て
そこから自由になること
という話もありました。
 
肩書きは無意味。
周囲があなたを認識するために必要。
 
強みを知ることも無意味。
周囲があなたを認識するために必要。
 
ライオンは自分の強みを知らない。
それでも生きている。
 
肩書きの中で仕事をつくるのではなく
やりたいことを仕事にする。
というアドバイスもありました。
 
本当に好きなことをやり続けることが
とても重要
 
自分が自分を幸せにすること
その時間を創る
 
その時間の中で
他者がしあわせになればいい
というアドバイスもありました。
 
これは
「まず自分、次に周囲」という
順序順番の話であり
原理原則の話でもあります。
 
この逆が
人のため・・・
誰かのため・・・が先行して
自分が置き去りになるパターンです。
 
「役割り」や「肩書き」など
「自分」ではないものが先行すると
そうなりがちです。
 
父親だから・・・
母親だから・・・
兄だから・・・
姉だから・・・
夫だから・・・
妻だから・・・
 
社長だから・・・
部長だから・・・
課長だから・・・
 
先輩だから・・・
後輩だから・・・
 
男だから・・・
女だから・・・
 
その前に
そのもっと手前に
まず「自分」があるのです。
つまり「BE」があるのです。
 
本を書くのは
誰かのためではなく
自分が楽しいから書いている
自分が書きたいから書いている
 
それが結果的に
誰かのためになり
誰かの喜びになっている
 
誰かを喜ばせるために・・・
これだと途端に苦しくなる
というシェアもありました。
 
自分のものだと思うものを
追いかけるのをやめた方がいい
という話もありました。
 
「Me」や「My」を追いかけない。
 
「仕事」で
それらを追いかけてしまうと
遅かれ早かれ
そこに「意味」を
見出せなくなる時が来るからです。
 
あるいは
偽りの意味や意義を
捏造していくことになるからです。
 
早めに
このことに氣づけた人は
ラッキーなのかもしれません。
 
散々、積み上げていった挙句の果てに
死ぬ間際になって氣づいてしまうと
愕然としてしまうからです。
 
ストックとフローの話もありました。
ストックを減らしていき
フローを増やしていく
 
なぜなら
豊かさの本質は
ストックではなくフローにあるからです。
 
ストックを積み上げていくのが
豊かさだと勘違いしがちですが
豊かさの本質はフローにある。
 
複数のアイデンティティを持って
複数の時間を生きることも
おススメしていました。
 
ひとつの名前で
ひとつの職業で生きるのではなく
 
複数の名前で
複数の立場で
複数の仕事をして生きる。
 
ポイントは3つ。
真ん中から出てくるものを仕事にする
得をしない
流す、循環する。
 
ここまでの話が「交換」の仕事。
つまり、対価を得てする仕事。
 
この後
もうひとつの2つ目の仕事として
見返りを求めず
ただただ一方的に与える仕事の話になる。
 
「見返りを求めず
ただただ一方的に与える」
 
この感覚が
あなたの豊かさを創る根本になる
とのことだった。
 
今、借りてる状態。
与えられて、沢山、もらってる状態。
 
人間だけが
親がいないと生きていけない。
 
他の生物は
生まれた瞬間から自力で生きていける。
 
人間だけが
脳の成長を重視して
未熟児で生まれる選択をした。
 
生まれたときから
周囲の世話になって生きている
 
それを借りている状態。
それを返す必要がある。
 
その方法が
「見返りを求めず
ただただ一方的に与える」こと。
 
つまり「贈る」こと。
 
交換ではなく贈る。
何も貰えない前提で贈る。
 
「贈る」を沢山すると豊かになる。
仕事も巡ってくる。
 
世の中には
お金、対価で支えられない仕事がある
それは誰かが担うことになる。
 
近隣住民が飢餓状態のときに
自分だけフランス料理を食べても
おいしくない。
 
まずは贈る
この感覚が大事。
 
とのことだった。
 
また
贈ったことを氣づかれてはいけない
とのことだった。
 
つまり
匿名で贈ることが重要とのことだった。
 
その理由は
何かを贈るときに
喜んでいただけるという期待が膨らむと
それは「交換」になるからです。
 
それは
誰かからの「感謝」をいただくために
「贈る」ことになるからです。
 
だから内緒で匿名でやる
そっと、しあわせを置いてみる。
 
氣づかれる前提でやらない
ただただ、そこに置く。
 
この態度・在り方が
重要なようです。
 
あなたはここ最近
匿名で寄付をしたり
匿名で寄付をされたことが
あるだろうか?
 
あるいは
そういう機会に
恵まれたことがあるだろうか?
 
「交換」は
「資本主義」の考え方で
 
くれるなら、あげる
ではなく
 
ただただ
あげるのが大事。
 
あげる=しあわせ
受け取る人がいるから贈ることができる
 
贈ることで
同時に贈られている。
 
あげることそのものが
すでに報酬になっているのです。
 
お布施に近い。
そこに幸せを置くこと自体が幸せ。
それが、いつか誰かに届く。
 
ある質問に対して
次のような回答がありました。
 
相手に豊かさが渡ることが大事。
それを自分がやったかどうかは
どうでもいい。
 
わたしがやったとか
自分の手柄とか
それは、どうでもいい
それは「交換」的発想。
 
「贈る」ということにおいて
「交換」的発想の外に出ないと
それは「交換」になってしまう。
 
現代は
資本主義に覆われているので
一般の人がその「外」に出るのは
なかなか難しいのかもしれません。
 
仏教は
釈迦が生み出したのではない
 
釈迦はテーマを設定した
人生は、なぜ、苦しいのか?
そこから抜け出すには?
という「問い」を投げかけた。
 
それに対して
8000のお経が書かれた。
 
そのお経には
誰が書いたかは一切書かれていない。
 
俺が書いたって言わない
そこが、おしゃれ。
という話もありました。
 
他にも
沢山、いろんな話がありました。
 
「有名」になることを追うのではく
むしろ「無名」であることを選択する。
 
これは「承認欲求」のようなものを
「卒業」しておかないと
その方向には向かえない。
 
どこまで
「自己」受容ができており
自分で自分を認めることができているか?
 
あるいは
いかに完全に自分を癒し切れているか?
 
ここが問われるのだと思います。
 
いずれにしても
「世界は無料化に向かう」。
 
この「トレンド」(潮流)は
ますます無視できなくなるでしょう。
 
「2つ目の仕事」を
いかに増やしていけるか?
 
ますます
ここが問われてくるように思います。
 
「実力」がある人から順番に
「2つ目の仕事」に向かい
その割合を増やしていけるのかもしれません。
 
わたしも
「2つ目の仕事」に
触れられる機会を増やしていけたらと想います。
 
ということで
御蔭様で今年も
「622」コンプリート。
 
「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。
 
I, ME, MY, MINE, MYSELF & BY MYSELF 🤔 | 
What's the difference? | Learn with examples
https://youtu.be/EjWFwayR4ds
 
---

20230621

「西村勇哉さんのお話を聴く」

心理学から未来学
そして人類学を挟んで樂園学へ。

まず
「対話」についての話がありました。

対話には4形態あり
「会話」
「ディスカッション」
「内省的な対話」
「創造的な対話」があり

関係性構築の先に
創造的な行為が起きる
とのことでした。

デヴィッド・ボームの
「ダイアローグ」からの引用もありました。

「ダイアローグ――
対立から共生へ、議論から対話へ」 
単行本 – 2007/10/2
デヴィッド・ボーム (著), 
ピーター M センゲ (その他), 金井真弓 (翻訳)
https://amzn.to/3NhVSJh

物事を上手く伝える方法論ではなく
それが生じる状態づくりに
フォーカスがあたっていました。

ネイティブアメリカンの対話の観察の話。
そこにファシリテーターはいない。
いつの間にか始まって
いつの間にか終わる形式で
フェードイン&フェードアウトになっている。

そこに仕切るような人は不在で
終わりも決まっていない。
終わっても
何が決まったのかは確認しない。

それでいて
そこから、それぞれが
自分がすべきことを理解して
行動のフェーズに入って行く。

この逆が
話し合いで物事を決めること
何かを決めて、指示に従って動くこと
という話があった。

「話し合い」で
すべてが解決すると思い込んでいる人たちや

やたらと
その場を仕切りたがる傾向がある人や
他者との合意形成ができない人は

もっともっと
「対話」を学び
その実践の場に参加した方が
いいのかもしれない。

U理論モデルからの引用もありました。

U理論[第二版]――
過去や偏見にとらわれず、
本当に必要な「変化」を生み出す技術 Kindle版
C・オットー・シャーマー (著), 
中土井僚 (翻訳), 由佐美加子 (翻訳)  形式: Kindle版
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その場にいる人たちは
ただ座っている訳ではなく
内省的な声が生じている。

外からは
それが見えないので
いきなり行動が生じたように見える
というような解説がありました。

外からは見えない領域
=「ブラックボックス」。

このメカニズム(原理)を紐解き
観ていくのは面白い。

「見える世界」に偏りがちな
「現実」主義者や
「合理」主義者ほど
もっと、この領域を観た方がいい。

出現する未来から導く ― 
U理論で自己と組織、
社会のシステムを変革する Kindle版
C・オットー・シャーマー (著), 
カトリン・カウファー (著), 
由佐美加子 (翻訳), & 1 その他  
https://amzn.to/43TT3Fu 

人を伸ばす力―
内発と自律のすすめ 単行本 – 
1999/6/10
エドワード・L. デシ (著), 
リチャード フラスト (著), 
桜井 茂男 (翻訳)
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「内発的動機付け」の3要因について
自律性
有能感
関係性の3つが上げられていた。

この3要因が揃うことで
自然に動き出し
自然に行動するようになる
とのことだった。

この対極にあるのが
「外発的動機付け」で

それは
報酬
評価
承認
目標などの条件がある。

わたしは
「外発的動機付け」で動くような人とは
組まないことにしています。

また
「やる氣」が出ないみたいな
「意味不明」な
「言い訳」をするような人とも
おツキ愛しないことにしています。

「外発的動機付け」が
「内発的動機付け」を駆逐するというのが
人間心理であるのは理解できますが

「内発的動機付け」を
自己完結的に
マネージメントできない人とは
基本的に組まないことにしています。

それよりも
「やる氣満々」な情熱的な人や
「パッション」がある人と
一緒に何かを創造する方が楽しいからです。

このあたり(2008年あたり)で
「エネルギーの創り方」はわかったが
「ベクトルの創り方」がわからなかった
という告白がありました。

そこで「未来学」に向かう。

ところが「未来学」には
小さな方法論が散漫にあるだけで

それをすると
なぜ、そうなるのか?
という「原理」(メカニズム)が
語られておらず
そこは「ブラックボックス」になっていた。

具体的には
外的要因から
内発的動機が生じ
ある「心的プロセス」を経由して
未来創造行動が生じる。

この「心的プロセス」が
「ブラックボックス」になっていた。

「未来の歴史―
古代の預言から未来研究まで」
 単行本 – 2000/12/1
ジョルジュ ミノワ (著), 
Georges Minois (原名), 
菅野 賢治 (翻訳), 平野 隆文 (翻訳)
https://amzn.to/3NjZpXN 

人類は誕生の頃から
予見する生物で
人間は予見したい生物。

未来を知りたいという欲求から
「理想の未来はかくあるべき」という主張へと発展し
「理想郷」を求めるようになると著者は言う。

しかし
「理想郷」は常に「反理想郷」へと
転化していくことになる。

占い
預言
占星術
ユートピア
歴史学
社会科学
未来学

この中で
ユートピアだけがわからない
という告白があった。

「Utopia」は
1516年に出版された
トマスモアの著作のタイトルで

1929年に出版された
カールマンハイムの著作
「イデオロギーとユートピア」から
https://amzn.to/3CHm23g

ユートピア意識とは
まわりの「存在」と
一致していない意識である。

という引用がありました。

ここから
「不一致性」という特徴を掴みます。

「不一致」の増大
あるいは「不確実性」の増大が
ユートピアが持つ方向性で

未来学は
予測の上に展開される社会可能性で
不確実性を下げていく方向性を持つ。

つまり
今ないもの(不確実性の増大)と
実現可能性(不確実性の低減)という
矛盾(緊張構造)がある
という指摘があった。

ここから
「未来」の定義の話になる。

それは
単なる時間軸上の未来だけではなく
空間としての未来がある
という話がありました。

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)
真木 悠介  | 2003/8/20
https://amzn.to/3JpIKB0

からの引用で

アマテラス・ツクヨミ・スサノオ
天・夜・海
場・時・場

「夜」という時間のカテゴリーが
「国」という空間として表象されている。

「よみがえり」が
ヨミの国から帰り来ることから
時間=空間として扱っていたことを指摘している。

ここには
こちらから、あちらに行き
あちらから、こちらに帰るというような
空間的移動としての生死のイメージがある。

さらに
万葉集には
時間という概念が出てこない。
連続した時間という概念がない。
観念としての時間がない。

古今和歌集になって
ようやく観念的時間が登場する
という指摘もあった。

時間意識としての「未来」が存在しない時代には
空間的未来が存在していた。

時間=空間とした場合
「空間に現れる未来」を
フィールドワークすることが可能になる。

これは
海外旅行に行くと
毎回、感じることで

海外に
「未来」や「過去」を観ることがある。

それは
空間的な旅行であると同時に
時間的な旅行でもあり
「タイムマシン」に乗って
移動していく感覚がある。

ここから
「現在、現れている未来」の
研究の話に入って行く。

よき予感
よき予兆

予感=まだ起きていない

ここから
アート人類学
デザイン人類学
起きてくるプロセスの研究

空間的未来という概念

とても面白い領域に入ってきた。

スライドの中に
「未来とは、未だないものを指している。
しかし、その未来が描かれるのは現在である。」
という一文がありました。

この一文に
とても刺されました。

「未来」は
「いまここ」にあるのだ、と。

これは、完全に
わたしの領域でもあります。

ここから
「言語以前」の話に入っていきます。

言語の起源 Kindle版
ダニエル・L・エヴェレット (著), 
松浦俊輔 (著)  形式: Kindle版
https://amzn.to/3XiqbnO

言語の非明示性。

「会話は伝えたいことよりも常に言葉足らずで
言外の前提を何らかの方法で解釈することを
聞き手に任せる」

この「聞き手」に頼り切ってしまって
完全に「聞き手」に依存して
抽象度の高い、曖昧な言葉や
指示代名詞だらけで会話されるのが
わたしは、とても苦手で

基本的には
できるだけ解像度が高い言葉を用いて
会話ができる人としか
お話をしないことにしています。

また
「視座」が低い人とは
あまり、お話することがない。

マズローの欲求説の話もありました。
「欠乏欲求」よりも強い欲求として
「存在欲求」 (Being-needs) があり

「BE欲求」(存在欲求)に生きるとき
人は寝食を忘れて、それに没頭することができる。

つまり
寝食忘れて取り組むような欲求を見出し
寝食忘れて取り組むような活動をしていくことこそ
「人間」なのだと。

ここは同感で
マインドシェアの中が
「食べること」と
「寝ること」しかないような
「欠乏欲求」に基づいて生きる
「動物」のような人と一緒にいても
あまり、面白くない。

その上に
「自己実現欲求」があり

さらに
その上に
「超越」がある。

わたしの興味関心は
この「超越」にあります。

それ以下の「欲求」には
興味関心がありません。
https://x.gd/transcendence

「2つの未来」
未来対処=時間的未来
未来創造=空間的未来

予測=対処
今ない&実現=創造

「対処する未来」は
時間軸上の未来にあり

「創造する未来」が
創造されるのは現在にある。

「対処のための未来」と
「創造のための未来」がある。

このカテゴリー分けを観たときに
ここ10年間、進んでいないことが
なぜ、停滞しているのかを
再認識することができました。

わたしは
「時間的未来」に
生きていないから

「予測」はできても
「対処」はしないのです。

それよりも
「創造」的なアプローチが
わたしには似合います。

これは
マズローが語る
「超越」とも関係が深い。
https://x.gd/transcendence6

終盤で
「環境⇒身体⇒想像⇒創造」
というサイクルが回っている図解が
示された。

「創造」の前に
「想像」があるという話は
ジョンレノンのイマジンを想起させる。

ほぼ最後の段階で
ダブルバインドの話が出る。

人間は
ダブルバインドに挟まれると
精神崩壊する。

だからと言って
ダブルバインドを外すと
幸福が訪れる訳ではない。

また
幸福は求めていくものではなく
副産物でしかないという説明がありました。

健康な人格―
人間の可能性と七つのモデル 
単行本 – 1982/2/1
D.シュルツ (著), 
中西 信男 (翻訳), 古市 裕一 (翻訳)
https://amzn.to/46iqGlM 

からの引用で

「健康な人間は、
未来へのビジョンによって前方にひっぱられ
しかも、そのビジョンは、人格を統一し
その人間に高い緊張をもたらす。

幸福それ自体は目標ではない、
むしろ、幸福とは
志望や目標を追求しているときに、
うまく人格が統合された際に得られる
副産物と言えよう。」
(オルポート)

というスライドがあった。

掴んで得られる幸福ではなく
掴んでないのに生じ続ける幸福があり

ユートピアも実現度よりも
追求プロセスが重要で
そのプロセス中に幸福がある
という結論に導かれ

最後に
ライナー・マリア・リルケの言葉
(スライド)で締めくくられた。

「そして、われわれ
昇る幸福に
思いをはせるものたちは、

ほとんど驚愕に近い感動を
覚えることであろう、
降りくだる幸福のあるときを
知るときに。」

ライナー・マリア・リルケ

なかなか味わい深い終わり方だった。

1960年代
ユートピア論が衰退
言ってたことが起きないから
無意味化された

代わりに
未来学が流行る
言ってた通りになるから

その結果
起きないような
夢のようなことが
「夢物語」として阻害された
という話が印象的だった。

歴史的経緯を踏まえながら
「ユートピア」と
「未来学」を

「バックキャスト」と
「フォアキャスト」の中に
対比的にプロットしていく様子が
とても、分かりやすかった。

また
「ユートピア」と
「未来学」にある矛盾を
大きくひとつに包み込み
その中に「幸福」を位置づけるのは

「宇宙論」と「人生論」の中に
「幸福論」を位置づけていて
なかなか凄いプレゼンテーションだった。

実は、この直前に
不思議研究所の森田健さんの
映像を観ていました。

https://www.youtube.com/playlist?list=PLPSx4IN0fv7PQSEg2d_YEBggOzVDZ5ITw

このシリーズで
森田健さんは
「占い」(六爻占術)や
「未来予測」や
「幸福」について語っています。

また
自宅に1人分の楽園を創っており
その「紹介」もしています。

わたしは
こういうシンクロニシティを
見逃がしません。

森田健さんが提示するものは
それを受け取る側の「視座」によって
様々な解釈がなされます。

おそらく
予め、そのように
「設計」されているのだと思います。

このあたりも含めて
森田健さんの研究と
その報告(レポート)も
目が離せないものがあります。

御蔭様で
アダムとイブが
楽園を追放された
「本当の理由」も
より深く認識することができた一夜でした。

ということで
御蔭様で今年も
「621」コンプリート。

「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。

20230531

「加藤大地さんのお話を聴く」

「教育」や
「竹建築」に興味関心があることもあり

カンボジアで
earth treeビレッジを建設中の
加藤大地さんのお話は
何度か聴いている。

今回は
高橋歩くんが
インタビューアーの形での対談。

同じ人でも
誰がインタビューするかで
全く違ったものになる。

個人的に
高橋歩くんの
インタビューの運び方やスタイルが
とても好きなので

このシリーズは
できるだけ
リアルタイムで
参加することにしています。

今回は
静岡で「729」に高橋歩くんの
トークライブを主催する人から
メッセージが来ていて
イベント開始時間になっていることを思い出し
30分遅れで入室。
(ナイスタイミングでのDMに感謝!)

お話は
「市場先行」なのか
「プロダクト先行」なのか
というようなところだった。

ここで言う
「市場」とは
「顧客」であり
「ユーザ」であり
また、あらゆる「関係者」のことを指す。

「市場先行」の場合
まず市場調査から始める。

要するに
「関係者」の実態調査から始める。

つまり
「女性原理」からスタートする。

逆に
「プロダクト先行」の場合
「男性原理」からのスタートとなる。

「男性原理」からのスタートで
「プロダクト先行」になった場合
「我」の押し付けになるケースもある。

要するに
「余計なお世話」になる場合もある。

あるいは
必要がないものをつくり
必要とされていないものを提供するハメになる。

要するに「押し付け」になるケースがある。

高橋歩くんのいいところは
「現場」主義であり
「現地」主義なところにあり

「現地」の声や
「現場」の声を聴いていくことは
とても大事なことで

この逆が
プロダクトやサービスが先にあり
それを「市場」に投入していく形で

この場合
プロダクトやサービスが
「市場」と合致しないケースがある。

もし、このズレを事前回避できるのであれば
それが予防的措置となり
対症療法的なことをしなくて済む。

カンボジアに小学校が
沢山、建てられていて

小学校で学ぶ体制が
整えられているにも関わらず
学校に来ないこどもがいて

その理由は
お兄ちゃんが、弟の面倒をみるため
学校に行けないとか

医療体制が整っていても
ガソリンを買えないから
病院に行けなくて
学校にも行けないとか

ただ「体制」を整えても
ユーザーの「態勢」が整っていないと
機能しないことがある。

この
「市場先行」なのか
「プロダクト先行」なのか
というところをインタビューしていた。

日本の教育は
「プロダクト先行」になりがちで
「市場」のことは後回しになっている。

それも含めた
いわゆる「教育の弊害」がある。
あるいは「学校の弊害」がある。

だからなのか
「不登校」も含めて
後々に各種の問題が発生している。

そんなこともあり
「プロダクト」や「サービス」の
「はじまり」や「動機」についての
インタビューがあり

さらに
「現地」や
「現場」で起ってきたことについても
インタビューがあり

「はじまり」から
「現在地」までのインタビューが続く。

コロナで「外」が閉ざされて
「内」に向かわざるを得なかったことから

「内」側だけで
「内部完結」するものを探求した結果
「竹」という素材と
「建築」が浮上して
「竹建築」に向かったとのことだった。

その結果
カンボジア人スタッフ27名
日本人メンバー20名と共に
カンボジア史上最大の竹建築に
取り組むことになる。
https://npo-earthtree.com/about-earth-tree/

このあたりは
とても「ディレクター」的な発想で

いわゆる
「冷蔵庫の中」の材料で
「何」ができるか?
ということの探求であり

「外」から
「何」かを持ってこようとする
「プロデューサー」的な発想とは異なる。

その一方で
これからのローカルを考える場合
「プロデューサー」的な発想が求められるし

これからのグローバルを考える場合
「ディレクター」的な発想が求められる。

今までは
「プランナー」も含めて
この「逆」になっている傾向もあり

それはそのまま「文化破壊」にも
繫がりかねないものでもありました。

また
「グローカル」を創る場合
その両方が求められる。

中盤
2023年8月23日(水)~2023年8月27日(日)
4泊5日で実施する
WDS主催の
カンボジア・ツアーの詳細の話。
https://wds.world/tour_cambodia2023Summer

カンボジアの魅力は
「3つの時代を行き来する感覚」
と言っていた。

市内は
今の日本に近くて
綺麗なカフェが建ち並ぶ。

村は
50年前60年前の日本と似ていて

アンコールワットは
800年900年前にタイムスリップする。

「旅」のいいところは
文字通り「時空間」の移動だ、

人は行く場所や
置かれた場所や環境によって
自然に考え始めることがある。

インドのバラナシで
生と死について考える。

エルサレムで
宗教について考える。

カンボジアで
しあわせについて考える。

最終的に
しあわせに死ねたら最高。

カンボジアには
そのヒントがあり
それを考えることができる。
という話も印象に残った。

わたしは
かなりな脳内妄想族タイプなこともあり

実際に、肉体を伴って
その「場」に行かなくても

「頭」だけあれば
いつでも・どこでもで臨場感たっぷりに
あらゆることについて
考えることができるタイプで

興味関心の幅も広いので
四六時中、何かについて考えている。

「体感」しなければ
物事を理解できないタイプではなく

「情報空間」だけで、
物事を考えることが可能で
そこに「身体性」を伴う必要性はない。

なので
「考える」ために
ある「場所」に行くという発想がない。

むしろ
「何も考えないため」とか
「無心」になるために
ある「場所」に向かうことはある。

こちらの方が
「身体性」を伴う必然性を感じる。

また
そのことを
この30年間「仕事」にしてきた。

一方では
考えに考えに考え抜くことが「仕事」であり
これには「身体性」を必要としない。
「頭」と「情報空間」があれば
それでいい。

ところが
もう一方では
自分の考えをゴミ箱に捨て去って
「無心」になり
「何」も考えないことが
「仕事」なのです。

逆説的なのですが
こちらの方が
「身体性」を必要とするのです。

その上で
このツアーの詳細について説明を聴くと
とても興味深いものがありました。

「カンボジアに
行ってみるのもありかな」
と、思えたのです。

このツアーは
チャリティツアーになっており
利益は「寄付」に回って
循環する仕組みになっている
という説明もありました。

すべてが「無料化」するくらいにまで
「寄付」の仕組みが回っていくと
さらに面白いことになると
個人的には想っています。

未だに
「寄付」で回る仕組みについて否定的な、
やや時代遅れな感覚の人もいますが

ここ30年くらい
様々なNGOやNPOの活動を観てきて
実際に活動に参加したり
「寄付」をしたり
「寄付」を集めたりしてきて思うのは

もし「寄付」だけで100%回るのであれば
「お金」を稼ぐ必要がない
ということです。

もっというと
「プライス」のない世界を
創ることが可能になります。

「プライス」のない世界というのは
とても理想的で

ガソリンを買うお金がないから
病院に行けないとか

お金がないから
医療を受けることができないとか

親が働きに出て
弟の面倒を見ないといけないから
学校に行けないとか

お金がないから
食べることができないとか

そういう
「お金」にまつわる問題は
すべて消えていくからです。

「お金」にまつわる問題を
「お金」で解消しようとしても
そもそもの原因が「お金」なので
根本的な解決にはならない。

「お金」にまつわる問題を
「お金」で解消しようとしても
それは対症療法的なアプローチであり
一時的な解決にしかならないからです。

アインシュタインが言うように
何か「問題」を解決しようとするとき
その「問題」が発生しているのと同じ次元で
その「問題」を解消することは
できないからです。

このあたりについては
最低でも「システム」の視座に立って
物事を観ていく必要があります。

また
それが「システム」そのものに
起因する問題の場合

その「システム」よりも
上の次元(視座)に立たないと
根本的な解消をすることはできません。

つまり
「お金」にまつわる諸問題は
現状のシステム以下にある
ビジネスでは解消できないのです。

むしろ
そのビジネス自体が
諸問題を生み出し
諸問題を持続可能にしてしまうのです。

これが
いわゆる
「ザ・資本主義」問題なのですが

この「問題」を
綺麗に紐解けている人は少ない。

その証拠に
世界の諸問題を
「ビジネス」で解消できると
本氣で考えている人も
まだまだ存在するからです。

ここでも
やはり「視座」が問われるのです。

クラウドファンディングの話も出ました。
1000人から
1000円を集めて
100万円にする設計にした話で

1口1万円にせず
1口1000円にしたことで
なかなか目標金額に到達しなかったが
応援者の数は確保できたことで
最初の5か月で420人集まり
そこからのシェアがあり
ラスト1か月で700人になり
その後1500人になったとのことだった。

このあたりの
「お金」を追うよりも
「人」(関係者数や関係人口)を追うところが
いいなと思いました。

好きな歌詞として
竹原ピストルさんの
「俺たちはまた旅に出た」の紹介もありました。

金に困ったときに
真っ先にギターを手に取るのが
プロフェッショナル。

真っ先に
バイト雑誌を手に取るのが
アマチュア。

という一節から

自分も(お金で)困ったことがあった。
だからこそ
今やっていることで勝負しないと
プロフェッショナルではない。
という話がありました。

竹原ピストル
「俺たちはまた旅に出た」
https://youtu.be/0N91TUko6vI

これは
「BeDoHave」の教えにも繫がる話で

また
「目的」と「手段」の統合にも
つながる話でした。

現代社会は
ややもすると
「目的」と「手段」が分離しがちで

だからなのか
「本来の目的」を忘れて
「本来の目的」を観なくなってしまい
「手段」ばかりに注目がいきがちです。

これは日本人にありがちなのですが
「仕事」は何をしているのか?
ということを、真っ先に聞いてくる人が多い。

その「人」を知る前に
「収入源」を聞いてきたり

「収入源」が不明な人を
「謎の人」と観てしまう傾向がある。

あるいは
「収入源」が不明な人を
「何」をしているのかわからない人だと
観てしまう傾向がある。

また
「無職」であったり
「何」もしていない人や
「生産性」のない人を認めない傾向や
社会圧のようなものがある。

だから
自殺してしまう人が多いのかもしれません。

なぜなら
その「存在」を
社会も周囲も認めようとしないのですから。

要するに
「Do」とか
「Have」によってでしか
その「人」を観ることができなくなっているのだ。

そこまで
「マインド」が
「お金」に
やられちゃっているのだ。

物事の見方も含めて
良くも悪くも
「お金」に支配されている。

だから(未だに)
「お金」の外に出ることができない。

ここから
「脱・洗脳」をするような
「仕事」をしている人に
わたしは興味関心があります。

参加メンバーからも
「BeDoHave」に繫がる話や
「目的」があって
「手段」開発が未完了という話題があった。

これに対して
「手段」開発が未完了であっても
「目的」そのものに成り切って
「目的」そのものを生きていく内に
「キャッシュポイント」が現れる
という話があった。

これは、まさに
「BeDoHave」そのものの話で

まず「BE」(在り方)が先にあり
「HAVE」(お金)は
あくまで「結果」なのだ。

にもかかわらず
「BE」(在り方)を無視して
「HAVE」(お金)を追いかけて
「DO」(行動)したとしても
大した「HAVE」にはならない。

それどころか
最も重要な「BE」(在り方)が
損なわれる結果(HAVE)となる。

この1週間
若い世代の人たちの話を聴く機会が多く

そこで共通していたのは
「手段」開発が
やや未完了ではあるのですが

「BE」はハッキリしており
どう生きたいのか?
どう在りたいのか?
その「理想の在り方」は明確だった。

「自然体」でいたい。
「自然体」でありたい。

こころのままに
こころの素のまま感じて動く。
それを「仕事」にしたい。

というような話を
この1週間で
複数の人から聴かされる機会がありました。

わたしは
こどものまま大人になってしまった感があり
「存在」そのものを
「仕事」にしてきたのですが

ピュアなものを保ったまま
そのまま大人になるような人が
若い世代からも出てくるのが
とても楽しみです。

「障がいの概念」についての
質問もありました。

カンボジアに
「障がいの概念」がないと聴いていて
実際は、どうなのか?と。

これに対する「回答」については
ここでは書かないことにします。

「問い」や「テーマ」を持って
「現地」を観に行く。
あるいは「旅」をするというのは
とてもいい機会だと思います。

「障がい」には
大きく2つあって

「ハード」面と
「ソフト」面がある。

たまたま
わたしは大学の専攻が
社会学だったこともあり
「社会福祉」や「障がい」について
「原理」「原則」も含めて
専門的に学ぶ機会があり

また
「現場」「現物」「現実」を
観る機会がありました。

物事には
「適材適所」があり

この「ミスマッチ」があると
活かせるものも
活かすことができなくなります。

このあたりを
いかに「マッチング」させていくのか?

この「設計」から考えていくのが
「社会学」の面白いところなのですが

今夜も
沢山のヒントをいただいたので

このあたりもまた
自分が主宰する研究所の
研究材料として
研究に勤しみたいと想います。

ということで
御蔭様で今年も
「531」コンプリート。

「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。

20230527

「cocca 5周年パーティ」

2022年12月16日の
忘年会に行こうとして
行けなくて

その後、月日が経過して
2022年5月になって
「510」に
ようやくcoccaに行くことができた。

その5月に5周年を迎える
周年イベントが開催されるということで
「527」に再び足を運んでみることにした。

最初にcoccaを運営する3人から
それぞれプレゼンテーションがありました。

1人目は
北川浩明さん
(株式会社文化工学研究所 建築家)。

coccaの全体の概要から
具体的な活動までを網羅した
プレゼンテーションをされていました。

cocca Barで
みんなでひとつの
アート作品を創ったことがきっかけで
この「共同創造」から
後に「ダンボール継ぎ手遊び」の開発と
商品化に至ったとのことでした。
https://bunkaeng.com/portfolio/tsugite-asobi/

coccaのコンセプトは
元々は広島に集った20数名の会議で
決まっていったそうで

そのリアルな場として
神戸に、この場所が開かれ

このリアルなフィジカルな場があることで
5年間、続いているとのことだった。

2人目は
今津修平さん(株式会社Muff 建築家)。

耕作放棄地と化した
里山での活動をメインに
プレゼンテーションをされていました。

あることがきっかけで
三宮から車で40分の場所に「山」を買って
その「場」をIMAYAMAと名付けて
様々な方々と一緒に活用している
とのことでした。

竹が沢山あったので
「竹水」を採取できるのか
氣になりました。

https://cocca.space/category/%e9%87%8c%e5%b1%b1%e3%83%bb%e8%87%aa%e7%84%b6%e7%92%b0%e5%a2%83/

3人目は
濱部玲美さん(株式会社KUUMA 企画編集者 )。

レストラン・汀(みぎわ)での活動をメインに
プレゼンテーションをされていました。

3人のプレゼンテーションの後
神戸のネイリストから
「ゴール」や「目的」や
「マネタイズ」についての質問がありました。

これに対して
3人が、それぞれ回答されていました。

最初は、全くお金にならない
後から、お金がうまれる
プロジェクト以前のプロセスをやっている
という回答や

マネタイズはいつでもできる
それをすると
提供する側とされる側になるから
やりたくない
ここで活動する人が増えたらいい
という回答や

マネタイズはフェーズ
初期段階では考えない
マネタイズは急がなくていい
むしろプロセスを大切にしたい
という回答や

締め切りと予算があるPJではなく
BARN系、燃やしていく系。
それはマネタイズとか考えるとできない
という回答や

予期しないことを走らせてみる
経験を買っている
その経験が活かされて
マネタイズは他所でできる
という回答や

山の活動は
マネタイズしないと決めた
そう決めないとできない
実験的にするにはマネタイズしないのがいい
という回答や

社会実験としてやっている
入口の提供
長期軸で考えている
という回答や

PJ主導型と
仕事ではないPJがあり
仕事から入るのではなく
自主活動から入るPJ
という回答や

活動ではなく
プラットフォーム
という回答や

事例紹介はゴール提示ではない
今やってることの紹介
生態系に近いプラットフォーム
という回答などがありました。

また
南京町でgalleryをしている
田村圭介さんが来場していたこともあり
都市部の屋上を使って農を試みるプロジェクト
「Sky Cultivation(スカイカルチベーション)」の
紹介がありました。

「Sky Cultivation」や
「空きスペースの活性化」は
キャッシュポイントがないため
マネタイズからしか
物事を観ることができない人から
分かりにくい活動だと
評価されがちとのことだった。

活動そのものは
具体的でわかりやすいのですが
「収益性」でしか
その活動を評価できない人からすると
わかりにくいのかもしれません。

また
「お金」を介在させることでしか
「関係性」や「存在」を
認められなくなっているという話もありました。

マクドナルドでは2005年4月から
TVCMで「100円あったらマックへ行こう」という
キャッチコピーが使われていた時期があります。
https://www.mcdonalds.co.jp/campaign/thankyou50th/history/happy/27/

これは
100円を払ったら
マクドナルドに入っていい。

100円を払ったら
マクドナルドにいていい。
という「許可」を与えるメッセージでもある。

こういうメッセージ(広告)や
「プライス」ありきの世界に
飼いならされてしまった結果

「プライス」がなかったり
「無料化」されているものを
「理解」ができない人が
出てきているのかもしれません。

空氣や水も含めて
本来、この地球上のものに
「プライス」はついていなかったにも関わらずです。

このことを裏返すと
たとえ「100円」であっても
「プライス」を掲げておくことで
人は、そこに参加しやすくなるということです。

但し、そこでやってくる人は
「プライス」ありきの世界の住人
ということになります。

世界が無料化に向かう潮流の中
わたしたちは、今ここで
もう一度、「プライス」について
考えてみるときに来ているようにも思います。

服部天神にある
喫茶店「ピーコック」の紹介もありました。
https://peacock64.com/

お客さんを巻き込みつつ
お金を発生させないことで
関係性を精算しない。
そんな活動の紹介があった。

2018年に入り、
「まち」を自分で作ってみようと
「くじゃく町会議」を連発。

小さな文化経済生活圏、
共有と分配のコミュニティなど
流行のワードを連呼。

その勢いに乗って
「貨幣経済を終わらせる!」と宣言し
途方に暮れるも、
好奇心の強い人たちが周りに集まり始める。
https://isshoukenmeiwowarae.net/about

というプロフィールがあった。

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今回の
イベントのサブタイトルは
COCCA -カッコを開いてつないだ共創の実践-

イベントのテーマは
#共創プラットフォームって必要?
だった。

これを読んで
改めてWEBサイトを観てみよう
と思った。

そこには次のように書かれてあった。

カッコを開いてつないだ共創の実践

社会には、たくさんの"カッコ"があります。
それらは、塀や壁のような物質的な境界であったり、
規則や賞味期限などの制約、
または民族や会社組織のような文化的特徴や
達成目標を共有した共同体などなど。

その、目に見えない"カッコ"は
わたしたちの生活の至るところに存在し、
わたしたちはそのたくさんの"カッコ"のなかで
物事を見たり考えたりしていることが多くあります。

しかし、
多様な生態系のなかでは、
すべては有機的につながって相互に関係しあっています。

"カッコ"を開いたらどうなるだろう?
そしてそれをつなげたらどうなるだろう?

それらの時間や空間や人に関わるいろんな取り組みは、
きっとユニークで、ユーモラスで、
クリエイティブな生活や生産活動を
たくさんつくりだしていくきっかけになるのではないか。

わたしたちは、
多世代や多分野の人々を
有機的に混ぜ合い、共有しあい、活かし合い、
社会のカッコを開き繋げるプロジェクトをつくり続け、
その連鎖を次世代に継承していきます。

と書かれてあった。

https://cocca.space/about/


"カッコ"を開いたらどうなるだろう?
そしてそれをつなげたらどうなるだろう?

これは
2022年の12月から
ここ半年間、個人的に
ずっと考え続けているテーマそのものだった。

固く固く固く閉ざされた「扉」・・・。
この「閉ざされた扉」を開くには
どうすればいいのだろうか?と。

あるいは
高く高く高く築き上げられた「壁」・・・
この「閉鎖的な壁」を無くすには
どうすればいいのだろうか?と。

一見、オープンに見えるようでいて
実は完全に境界線を引いているような
そういう「見えない壁」を解体していくことが
ここ半年ほど、個人的なテーマになっていた。

スピリチャルの世界では
よく「Open your heart」と言われます。

アイリーン キャディの
「心の扉を開く」が出版された頃
これが、わたしの愛読書のひとつでした。

「Opening Doors Within」

心の扉を開く―聖なる日々の言葉 
単行本 – 1998/4/15
アイリーン キャディ (著), 
山川 紘矢 (翻訳), 羽成 行央 (翻訳), 川瀬 勝 (翻訳)
https://amzn.to/3BWUZ3E

Opening Doors Within: 
365 Daily Meditations from Findhorn
 (Findhorn Classics) ペーパーバック – 
2019/9/10
英語版  Eileen Caddy (著), David Earl Platts (編集),
 Jonathan Caddy (はしがき)
https://amzn.to/3BXQfdZ

アイリーン キャディに触れたり
フィンドフォーンに触れたりすると
「共同体」や「共同創造」ということを
意識するようになります。

わたしの瞑想のセミナーのテキストでも
このことに少し触れています。

もし
「共同体」や「共同創造」について
もっと深いレベルで理解したい場合

アイリーン キャディや
フィンドフォーンに触れてみることを
おススメします。

「OPEN THE HEART」
(こころの扉を開く)

これは
ハワイの師匠のメッセージでもあり
作品のタイトルでもあり
メインの仕事のひとつでもありました。

残念ながら
現代人の多くは
一見、表面上は
どんなに社交的で
どんなにオープンマインドな人であっても
こころを閉ざしてしまっている人が多い。

別の言葉で表現をするならば
ハートのチャクラが閉じている人が多い。

まるで「鍵」がかかっているかのように・・・。

この「扉」を開いて
「境界線」を溶かしていくこと。

これが、この半年間
わたしの個人的なテーマのひとつでした。

この宇宙を開放系と観るか?
それとも閉鎖系と観るか?

後者の有限性に立脚してしまうと
すべてに「境界線」を設けることになります。

つまり「個」を固く閉ざしてしまうことになります。

そこには
絶対に他者を立ち入らせなくなります。
頑なに他者の侵入を拒絶することになります。

つまり
「鎧」を纏って
「過剰防衛」をすることになります。

逆に
この宇宙を開放系として観たとき
「個」=「全」
「全」=「個」という無限性が立ち現れてきます。

「靈氣(レイキ/Reiki)」の肇祖である
臼井甕男氏は、
鞍馬山に籠って断食と瞑想をした結果
このことを悟ったと言われています。

その結果
「個」の境界線を溶かすことに
成功したのだと思われます。

医療においても
また生物や細胞などの観方においても

この宇宙を開放系とみなすのか?
それとも閉鎖系とみなすのか?

「宇宙論」が問われます。

もちろん
この「地球」を、どう観るのか?

ここでも「宇宙論」が問われます。

参加者の1人に
東京からの移住者がいた。

彼は「ガイアの法則」という本を読み
次の新しい文明が東経135度から始まると知り
1年半前に神戸に移住してきた。

ここでもやはり
「境界線」のことが
「自然との調和」という言葉で語られていた。

ガイアの法則 
単行本(ソフトカバー) – 2020/8/3
千賀 一生 (著)
https://amzn.to/3WFfPxS

千賀一生氏、待望の最新刊、
〈ガイアの法則S(super)〉とも言うべき
人類最大の発見(ちから)
縄文秘力(Jomon Code)を顕す
『0(ゼロ)フォース
1(私)が∞(超私)となる神域(ゾーン)の実在』
との同時発刊で、装いも新たに
普遍なる原理が再び解き放たれる!

宇宙に、聖なる16ビートが存在することを
告げるガイアの法則――
地球の歳差運動1スピン2万5776年、
その1/16から割り出される1611年は
人類の文明が繁栄する周期のリズム、
さらにその1/16、約101年もまた
人類に多大な影響をもたらす重要な
スピンのリズムである

---

次の地球を考えるとき
「有限性」に立脚するのか?
それとも「無限性」に立脚するのか?

ここが大きな分かれ目になるのだと思います。

「有限性」に立脚することで
立ち現れてくる問題は

「無限性」に立脚することで
自然に消滅していくからです。

もしかすると
この「無限」の世界
あるいは「無限」の扉は
東経135度から開いていくのかもしれません。

あるいは
「神の扉」を意味する
「神戸」から開いていくのかもしれません。

----

今回の司会進行役は
汀(みぎわ)のオーナー
Remmyさんだった。

汀(みぎわ)は
神戸・北野坂の交差点に
1年半前にオープンした
レストラン。

オープン当初から
毎日のように
お店の前を通っていて

以前から
とても氣になっていた
アートを感じさせるお店だった。

汀(みぎわ)というのは
辞書的には
海・湖などの水の陸地と接している所。
みずぎわ(水際)、なぎさ(渚)のことで

陸でもあり
水中でもあり
その両義性を持つ場
という意味があります。

まさに、わたしが大好きなキーワード
「両義性」。

わたしの「呼吸」のクラスでは
このことを、お伝えしています。

ここでも「境界線」という
キーワードが浮上します。

0でもあり1でもあるような
白であると同時に黒でもあるような
「あわい」の領域。

わたしが
何よりもビーチが大好きな理由も
ここにあります。

この「量子」的な存在こそ
ずっとずっとずっと
わたしが追い求め続けてきた
「テーマ」のひとつでもあります。

また、これは
とても「609」的でもあり
また同時に「1111」的でもあります。

頑なに「個」を閉ざすのではなく
もっとオープンに「個」を開放し
その「境界線」を無くし
すべてと混ざり合い
すべてと溶け合っていく世界。

それは
「肉体」次元を超えていくような世界です。

あるいは
「有限性」を超えていく世界。

そして「無限」の領域に入って行く世界。

「フリーエネルギー」は
そこに流れます。

そのとき
人は完全に癒されるのです。

---

食とアートの交差点
汀(みぎわ)のWEBサイトには
次のように書かれています。

食べること。
ぱくぱくと、
命をいただき体のなかに、入っていくこと。

アート。ばらばらと、
異なる点が輪郭をもち、生み出していくこと。

表裏一体なこのふたつは、
どちらも生きていくうえで、とても大事なこと。

神戸 北野坂をあがると出会う、と或る交差点。
そこに佇む汀。
食とアートが混ぜあいながら
食べることと、生み出すことを繰りかえしています。

https://snack-migiwa.com/about

ここでも
身体は開放系であることが示されています。

本来は空っぽである「からだ」。

しかも
そこには
「壁」があるようで「壁」はない。

ずっと外部に対して開かれている。

ここを閉ざすのが「免疫系」。
「免疫システム」が
自己と非自己を分けていきます。

もっと言うと
非自己を抹殺し、排除していきます。

この
「免疫」は
「胸腺」と密接な関係があります。

そこで
「OPEN THE HEART」なのです。

つまり
ハートのチャクラを開くこと。

ハワイの師匠の師匠の師匠が
マウイ島に住むラム・ダスでした。

ビー・ヒア・ナウ―
心の扉をひらく本 (mind books) 
単行本 – 1987/11/1
ラム・ダス (著), ラマ・ファウンデーション (著), 
吉福 伸逸 (翻訳), & 2 その他
https://amzn.to/3BWoVgq

ここでも副題に
「心の扉をひらく」とあります。

別の言葉で表現するならば
自分を完全に癒し切ること。

すべては、ここから始まるのだと思います。

この最初のステップを踏み忘れたまま
次のステップに進もうとしても
必ず、踏む忘れた、振り出しに
引き戻されることになるからです。

わたしのメンターのメンターのメンターは
このことを「Be Do Have」として
伝えてきました。

わたしは
そのメンティのメンティのメンティとして
この「バトン」を次の人へ手渡す用意があります。

それは、実は
「神戸」から始まっています。

今から30年前のことです。

30年前の1993年に
わたしは「神戸」に呼ばれました。

それは完全な導きでもありました。

そこから30年が経過し
再び、わたしは「神戸」に導かれました。

そして
約半年前に
神戸のあるエリアに導かれます。

そこは
大阪で言うと
中崎町のようなエリアでした。

この感触を得た瞬間
すべての扉が開かれるような
ヴィジョンを観ました。

それは
閉ざされた空間に開けた
「窓」のようでもありました。

そこに差し込む
太陽の光は
希望の光そのものでした。

わたしは
ようやく開くべき扉を
見つけました。

「Opening Doors Within」

内なる扉を開くこと。

すべては、ここから始まるのです。

ということで
御蔭様で今年も
「527」コンプリート。

「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。

https://amzn.to/3BWoVgq

---





















































































 

20230526

「金曜会」

毎週金曜日の夜に
密かに開催されている
通称「金曜会」。

15分遅れで会場入りしましたが
今回も1番乗りでした。

キッチンでは
今回も
神戸の研究所の所長が
えのきだけを煮込んでいました。

前回は
「404」のタレントだけでしたが

今回は
まず、神戸のランナーが来場。

そして
神戸のマダムと「女子トーク」。

続いて
三宮のプロモーターが来場。

昨夜、深夜3:00まで
飲んでいた様子が
投稿されていて

「はっぴーの家ろっけん」
というキーワードがあったことから
その様子を伺う。

そこで
映像作家の人と
秘密会議をしていたそうで

話を聴いている内に
「521」に
city gallery 2320で開催されていた
黒田麻紗子展「中空観測会」の会場で
偶然、遭遇した人(ファミリー)と
同一人物のような感じがしたので

スマホを取り出して
写真を観ていただいて確認したところ
ズバリ的中していた。

そこに
さらに追い打ちをかけるように
本棚から1冊の本を出してきた。

いい親よりも大切なこと 
~子どものために“しなくていいこと"
こんなにあった! ~ 
単行本 – 2016/12/16
小竹 めぐみ (著), 小笠原 舞 (著)
https://amzn.to/3N9jtgJ 

この本の表紙を観た瞬間
すべての記憶が蘇ってきて
すべてが繫がる。

何かでバズっていて
それをtwitterでシェアしたら
本人とtwitterで繫がって
氣になっていた人だった。

「下町ゲストハウス とまりぎ」を
準備中とのことで確信を持てました。

そこで「529」に
「自由研究」のイベントをするそうで
なかなか興味深い。

「529」は
サウナのイベントと重なっているのですが
それ終わりでJOINするのもいいかもしれない。

それにしても
この「長田」のシンクロニシティは
何か奥深いものを感じます。

元々は「510」に
COCCAで開催されていた
中井結花さんの
「3泊4日長田移住」という
プレゼンテーションを聴いたことが
きっかけでした。

このとき
わたしは、ようやく
ローカルに接続した感触を得ました。

そこで、早速
「521」に長田を訪問して
中井結花さんの足跡をなぞって
街歩きをしてみたのです。

ちょうど
WAGOMUでイベントが開催されていたのも
いいシンクロニシティでした。


そして、今日
「526」に、早速、その話題なのです。

「510」→「521」→「526」。

そして、「529」。

そのリズムは

11→5→3と加速しています。


そうこうしている内に
神戸のプロモーターがやってくる。

前回は「新開地」の話題になり
今回は「長田」の話題。

その古い歴史を知る人の話も
もちろん参考になるのですが

わたしはやはり
「今」を知りたいし
「最先端」を知りたい派でもあります。

「古い歴史」も
もちろん大切ですが

「未来」は
もっと大事だと考えるからです。

長田の街歩きの話から
住吉大社の話になった。

ここで
三宮のプロモーターから
「収益化」(マネタイズ)の話が出る。

これに対して
神戸のプロモーターからは
やや抵抗感のある話が出る。

わたしは
前々からわかっていたのですが

この両者は
「同じもの」を別の観点から観ています。

別の基準と言い換えてもいい。

あるいは
別の行動原理と言い換えてもいい。

これは
わたしの研究所において
よく起こりがちなことなのですが

世の中には
「収益」(マネタイズ)を目的にするものと
そうではないものがあります。

ここを「混同」してはいけない。

その上で
「収益」(マネタイズ)を
目的にしていないけれど
結果として収益が出るものもある。
ということを「理解」する必要があります。

逆に
最初から
「収益」(マネタイズ)を
目的にしていながら収益を出すことができず
赤字になるものもあります。

この「違い」を理解する必要があります。

つまり
最初の動機の違いです。

あるいは
最初の目的の違いです。

このあたりを綺麗に分離した上で
その解像度を上げておく必要があるのです。

逆に言うと
このあたりを「混同」したままに
何かを言われても困るということです。

そもそもの
最初のボタンが異なっているからです。

三宮のプロモーターには
今回も「火曜日」の状況について
聞きました。

また
「夢」を語り
「夢」を聴いていただくことで
どんなフィードバックが得られているのか?
について聞きました。

ここから
いつ、学校の先生になろうと思ったのか?
なぜ、学校の先生になったのか?
についてインタビューをする。

ここから
本音の本音で
「本当にやりたかったこと」や
「本当にやりたいこと」について
インタビューをする。

すると
それは、わたしが
学生の頃にやっていたことと
完全に一致していた。

わたしは学生時代に
某・編集部に所属して
街の人にスポットをあてて
インタビュー記事を書いていた。

また
「BAR」もやっていた。

三宮のプロモーターは
そういうことをやりたかった
と言っていた。

つまり
街の人をインタビューして
記事を書いて

昼間、カフェをして
夜は、BARをやりたい、と。

神戸の研究所の所長は
それ「水曜日」にやりましょう!
と即答していた。

そう言えば
前回「マコモ茶」について
やってみたいことを発言したときも

間髪入れずに
それ「火曜日」にやりましょう!
と即答していた。

「スモール」なものは
「スモール」な場所で
「ポップ」に「ライト」に
始めることができます。

アメブロ界隈を眺めていると
そういう小規模なもので溢れている。
感覚として、とても軽いのです。

その一方で
バリバリのスタートアップ界隈を
眺めていると

みなさん
それなりの「覚悟」を持って
やや重ためな感じで始めている感じがします。

これは
「撤退リスク」の重さの違いもあります。

物事には
1度、始めてしまうと
そう簡単にはやめることができないものと

いつでもやめられるオプションが
最初から用意されているものがある。

いつでもリスクなく撤退できるものは
始めるのに、それほど躊躇することはない。

まず、やってみた方が速いからです。

そして
それを、続けていくのか
それともストップするのかは
あとから考えればいいからです。

ただ
「次はこれ」「次はこれ」
「今はこれ」「今はこれ」と
次々に違うことをするのは
ややダサイ感じがします。

そこに
一貫性も継続性も感じられないからです。

伊勢神宮がカッコイイのは
ずーっと「同じこと」を
やり続けているからです。

しかも
それが「寄付」で成り立っている。

世の中には
「収益」を目的として
「ビジネス」でやり始めて
続かないものがある一方で

そもそも
「収益」を目的としていなくても
結果的に収益が上がり
継続するものもあります。

ここでもやはり
「目的」や「動機」が
とても重要なのだと思います。

そして、もし
大きな大きな目的=「器」が
そこに用意されているのであれば

その中に
小さなサイズで
「無目的」なものを置いて
「無目的」に、何かを始めてもいいのです。

なぜなら、それは
やがて「大きな大きな大目的」に
つながっていくからです。

ということで
御蔭様で今年も
「526」コンプリート。

「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。


#カフェバーサカヅキ
#下町ゲストハウスとまりぎ
#はっぴーの家ろっけん
#asobi基地
#こどもみらい探求社
#じゆうけんきゅう


 

20230510

『3泊4日の長田移住』
中井結花さんのお話を聴いてきた。

前々から行きたかった
COCCA(コッカ)に
ようやく行ける日がやってきた。

イベントスタートの少し前に
会場に到着すると

会場の前で
COCCA(コッカ)のオーナーが
立ち話をしていて

会場の中には
3人の若者たちがいた。

中に入ると
「今日は雑談スタイルです」と
軽く案内があった。

しばらくすると
オーナーが入っていて
DJブースに立って音楽をかけ始める。

そして
19:00スタートだけど
19:20スタートにしよう。
こんな感じでゆるくやってます。
と言って、どこかに消えていった。

そうこうしている内に
編集者の方が
ノートPCを持って降りてきた。

それで
COCCAの運営メンバーから
この場所の成り立ちの説明と
今回のイベントのコンセプトについて
説明がありました。

どうやら
ゲストから持ち込まれるテーマについて
参加メンバーで討論していく
というイベントで

イベントページをよく読むと
確かに、そのように書かれてあった。

参加メンバーは
運営メンバーが2人
大学教授が2人
学生が3人
編集者が1人
そしてわたしの合計9人。

部屋のキャパや
テーブルのサイズに
ちょうどいい人数だった。

イベントが始まる頃には
学生以外の男連中は
みんなお酒を持ち込んでいた。
さらに軽食やおつまみも
持ち込んでいた。

それを見て
半分は「飲み」のスタイルなんだと判断した。

昔昔
大阪の谷9で似たような活動を
「毎日」されていた編集者の人がいて

わたしも
その部屋の合鍵を渡されていて

毎日が収録のような日々を送り
それは同時に
毎日が飲み会&宴会の日々でもありました。

神戸にも
そんな場所や場がないかな?
と想っていたら

2023年に入って
突然、そんな場に頻繁に出入りする
ライフスタイルになってきた。

つまり
氣がつけば
みんなのリビングルームにいるような
そんなライフスタイルになりつつあり

「自宅」は不要なのではないか?
あるいは「街」=「自宅」
という世界の住人になりつつあります。

さて
長い長い長い「前置き」を置きましたが
ここからが「本題」。

まず
わたしが魅かれたのは
『3泊4日の長田移住』というタイトルです。

よく
「プチ移住体験」とか
「暮らすように旅をする」みたいな
やや安直なコピーを見かけますが

元々、広告代理店で
コピーライターをしていたわたしからすると
それらのコピーはやや弱くて
あまり刺さらない感じがしていた。

そこに来て
「3泊4日」と「移住」という
「180度真逆」な
「短期」と「長期」を掛け合わせて
ミックスしたようなタイトルのセンスに
とても興味を持ったのです。

しかも
そのエリアが「長田」。
大阪で言うと「西成」のような響き。

つまり
「おしゃれ」の真逆のワードを
持ってきている。

ここまで削ぎ落された
3つのキーワードで
ひとつの文章を構成して
それをそのまま
イベントのタイトルにしてしまうセンスに
とても魅かれたのです。

それをキャッチした
わたしの直観は大ヒットしていて

その後の
スライドショーを用いた
プレゼンテーションも
とても秀逸でした。

何が秀逸だったかと言うと
写真を見せる前に
短いタイトル(キャプション)を
先出ししていて

その
短いタイトル(キャプション)が
「セリフ」の抜出しになっていたことです。

具体的には
 
松村先生「長田に泊まってみない?」
私「おもしろそう!ちょうど春休みだし!」

山口さん
「はっぴーの家のろっけんで
響くんから鍵を受け取ってください」

響くん
「ろっけん見学してみない?」

おばぁちゃん
「慣れ親しんだ街で暮らせて感謝している」

首藤さん
「長田は靴製造が盛んな町だった」

私「ディープなところといえばギャラリーかな」

向井さん
「奥さんは長田を拠点とした作家活動をしています」

こうちゃん
「僕は大阪出身なんです」

店長さん
「長田はやめとけと言われて即決した」

山口さん
「いちまいごはんやってます」

山口さん
「おでんがおいしい銭湯があるよ」

番台さん
「仕事をしながら番台を続けた」

番台さん
「響くんの相談にのってるんだ」

というような感じで
1行1行、とても味がある
コピーになっている。

どのセリフを聞いても
そこに行きたくなる。

つまり
もう「行動」のフェーズに
半分移行している。

これこそ
コピーの鏡という感じだった。

中井結花さんは
建築の専門家だけど
建築を通して観る街歩きとか
旅行や観光業の分野でも
大活躍できる素質があるのかもしれません。

このプレゼンテーションの中でも
わたしが氣に入ったのは
「建築」を「建築」として
独立した単体で切り出して捉えることはせず

「建築」は街の中に存在し
その街や住人たちとの相互作用の中に在る
という前提で「建築」を観ている
その「まなざし」でした。

また
「宇宙の成り立ち」をよく理解していて
「エントロピー」や
「秩序」から「無秩序」に向かう建築と
それを再構築していく建築について
その誕生から死、そして再生までを捉えて
プレゼンテーションされていました。

無に向かう地方都市
人工物の間から自然が表出する。
放置しておくと廃墟になる。
建築がそれを更新する可能性。



一通りプレゼンテーションが終わった後
「街の人々と建築の関係」という議題が
投げられた。

これに対して
建築関係の大学教授や
建築関係の学生たちが
次々に「しつもん」をしていく。

その「しつもん」の答えを聴く前に
どんどん「しつもん」が
テーブルの上に乗せられていく。

つまり
一切「対話」せず
永遠に「会話」が続いていく。

これを「雑談」と表現していたのだと
この時点で理解する。

わたしは
「会話」には一切興味がなく
「対話」にしか興味がなかったこともあり
最後の最後まで無言のまま聞いていた。

ただ
「建築」や「建築家」という
「色眼鏡」を通して
「街」や「建築」や「都市開発」について
様々な意見を聴くことができたのは
とても新鮮だった。

わたしは
「建築」を
「生物学」的に観ていきたいタイプなのですが

参加メンバーの大半は
「建築」は「建築」として
「物」として
「ハード」として
エンジニアリング的に観ていきたいようでした。

また
大半の人が
主従関係として
建築は主になりえない。
先に建築ありきで街は生まれない。
という意見や立場だったように思います。

ところが
中井結花さんは
わたしと同じく

「物」を「物」として観るだけでは
満足がいかないタイプのようで

プレゼンテーションは
完全に「人」寄りで
その「ソフト」面重視になっていた。

この「ソフト」は
果たして「ハード」によって
醸成することができるのか?

というのが
中井結花さんからの
投げかけだったように思います。

あるいは
なぜ「長田」では
他所から来る人たち(stranger)を
温かく受け入れ、
迎い入れることができるのか?

それは
「建築」とどのような関係があるのか?
という投げかけだったように思います。

これに対し
長田が港町だったこと。
港町だから外国人が多かったこと。
運動会も日本語と英語で案内されていたこと。

つまり
こどもの頃から
「多様性」に慣れ親しんでいたことが上げられた。

大阪もそうなのですが
割合、どんな変な人でも
受け入れられる素地がある。

大阪は、なぜ、そうなのか?
なぜ、何でもBig welcomeされるのか?

このあたりの
大阪の文化の話を
大阪人の話題になったときに
する機会がとても多かったので

わたしは
「定番」の
「定説」を持っていて
毎回、その「ストーリー」(歴史)について
語る語り部になっています。

このあたりについて
他所から来る人たち(stranger)に対して
とても排他的な京都人は
どのように地元愛を語るのか?
このあたりも少しだけ興味があります。
あくまで少しだけですが。

いずれにしても
その「恒常性」(ホメオスタシス)と
「建築」の関係性について討論が続いた。

わたしも
大学時代の研究テーマが
「恒常性」(ホメオスタシス)や
「サイバネティクス」だったこともあり
みなさんの議論を興味深く聴いていました。

その中で
ようやく「経済」の話が出てきました。

そのきっかけは
恒常性がある人はブレない
元に戻ることができる。

欠如があるから生産する
という論点からだった。

実際、
「文化」のありようは
「経済」と切っても切り離せないものがあり

これは「建築」という
「文明」と「文化」が交わる領域においても
例外ではなく

このあたりについて
大学教授から
貨幣が物々交換から始まったというのは
大間違いだと主張する
デヴィッド・グレーバーの「負債論」の話題や

生まれながらにして
最初から原罪(負債)を背負わされてしまう
キリスト教の文化や教義についての話題になる。

ここから
「宗教」建築と
「聖地」の問題には踏み込まなかったものの
この先の話題は、わたしの大好物でもある。

負債論 貨幣と暴力の5000年 単行本 – 2016/11/22
デヴィッド・グレーバー (著), 
酒井 隆史 (翻訳), 高祖 岩三郎 (翻訳), 佐々木 夏子 (翻訳)
https://amzn.to/3nQEHpD 

このあたりから
何かが欠けていて欠如しているから
その穴埋めとして「建築」がある
という話と

今、建築界で最もホットな世界的潮流は
いかに余計な機能を無くしていくか?
というミニマルな方向に向かう住居の話題になる。

具体的には
キッチンのない住居。
お風呂のない住居。

確かに
自炊しない人にとって
キッチンは余計なスペースであり

その人がもしファッション好きだった場合
キッチンよりも、そのスペースには
クローゼットが欲しいかもしれない。

また
ランニングが趣味な人の場合
通勤前にランニングをして
その後、シャワーを浴びて出勤するので
家に風呂は必要がない場合もあります。

わたしも
一時期、家でシャワーを浴びずに
スポーツジムでサウナ&シャワーな
ライフスタイルだったので
家に風呂が必要がなかった。

もっと言うと年間の半分くらい
ホテル暮らしなライフスタイルなので
「家」そのものが必要ないのかもしれません。

ホテルにおいても
大風呂を用意しておけば
個室の風呂は不要なのかもしれません。

ところが
今のワンルーム建築や
ホテルの建築には
まだまだユーザーサイドに立っておらず
何か先回りし過ぎた
押し付け感があるのは否めない。

建築家は
アーチストではないので
そういう先回りしたような
「押し付け」や
「自己主張」はよくないという意見が
複数(大半?)の人から出たことも
とても興味深かった。

デザイナーもそうですが
すべてクライアントがいて成立する
クリエイティヴ・ワークなので

そこでは
ある種の「女性性」が求められるのです。

一方
アーチストの場合は
まず自分ありきの
自分発信になっているので
「男性原理」も「女性原理」も
どちらも選択的に使うことができます。

わたしは
「請負い」仕事は一切やりたくないので
「建築家」や「デザイナー」には
成らなかったのかもしれません。

それよりも
自分がやりたいように
自由にやりたいので
この点においては
アーチスト志向なのです。

このあたりについて
「建築」で何かを変えるとか
「建築」で人を変えるとか
「建築」で街を変えるという発想や考え方は
「傲慢」だという意見が出た。

「外」を変えるとか
「人」を変えるとか
「〇〇」を変えるというワードそのものが
やはり「傲慢」な態度なのでしょう。

何かを広める、普及するというのも同じで
それは「男性原理」そのものでもあります。
あるいは「我」と言ってもいい。

ここから
いかに「我」(エゴ)を始末して
「謙虚」な態度や姿勢になれるのか?

つまり
「結果」として
そうなればいいよね。
=そうならなくてもいいよね。
という「謙虚」な態度や姿勢。

ここまで書いてきて
「京都」が持つ
「京都人」による排他性は
「傲慢」で
「高飛車」な態度ではなく

むしろ
「謙虚」さから来る
一歩「後ろ」に下がった態度なのではないか?

逆に
「大阪」が持つ
「大阪人」のあの前に前にでしゃばる
とてもおせっかいな在り方は
「傲慢」そのものなのではないか?

完全に
エゴ(我)の塊なのではないか?

とも言えるし
その「180度真逆」だとも言えるという
何とも「609」的な結論に至るのでした。

またそれは
「404」的な
両性具有的でもあり
量子力学的でもあるような在り方の追求
という結論に至るのでした。

こうして
わたしの個人的な研究対象でもある
「404」→「609」→「1111」も
さらに一歩、前に進んだ感がありました。

ということで
御蔭様で今年も
「510」コンプリート。

「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。



【( ( ) ( ( A f #023;『3泊4日の長田移住』】
・日時:2023年5月10日 (水)19時〜 

『COCCA f;function/fermentation.』…
誰かの種を、深く掘り、
それらが様々な関係性を生みながら、
発酵していく場。
雑談ができる公開討論会という感じです。

今回、種をくれるのは、中井結花さん。
どんな場になるのか、楽しみです!

プロフィール
中井結花(なかいゆか)
1999年3月31日生まれ
2023年3月 京都橘大学現代ビジネス学部都市環境デザイン学科卒業
卒業制作「地方都市のホメオスタシス」
2023年4月〜HANAarchitects&associatesにて研修中
学外活動
diploma×kyoto'23学校代表班副班長
AAF第13期スタッフ

20230503

「エイトスターへ」

男女7人で
エイトスターへ。

東京のプロモーターから
瞑想会2日目は
ウォーキングに変更したい
という提案があり

午前中
五柱の龍神を祀る
田無神社で正式参拝をする。

その後
代々木公園でランチ。

ここで
この後、行く予定の
エイトスター・ダイヤモンドの
お話をする。

初めて
エイトスター・ダイヤモンドの
お話を聴いた人もいて

ちょうど
ダイヤモンドを買おうと思っていたので
エイトスターにしようかしら
という人もいた。

ランチをしながら
半分、冗談で
今日、この中から
ダイヤモンドを買う人が
出てくるのかもしれないね
と言って

約束の14:00に
東京・四谷にある
エイトスターダイヤモンドに向かう。

新しく改装された店舗に
初めて訪問したのですが

地球儀も
サイババも
ショールームから
無くなっていた・・・。

また
数々の逸品も
カウンターから撤去されていた。

他にも
以前、お店にあったものが
消えて無くなっていた・・・。

大好きな壁紙も剥がされて
ピンク色の壁になっていた・・・。

いつ行っても変わらない
「時間」が止まったような
あの頃のお店ではなく
全く別の店になっていた・・・。

かつての
あの温かいエネルギーではない
お店になっていた・・・。

正直を言うと
少しさみしい感じもしましたが
すべてが削ぎ落されて
とてもシンプルになっていた。

店内に他の客はいなくて
3時間、わたしたちだけで
貸し切りになりました。

30年間
このお店に通い続けていますが
「貸し切り」になったのは
これが初めてのことでした。

まず
一般的なダイヤモンドと
エイトスター・ダイヤモンドの
カット(形)の違いについて説明があった。

その後
実際にエイトスター・ダイヤモンドの
選定の時間になる。

ここで
東京のプロモーターの
お氣に入りが見つかり
体感覚とEAVのダブルチェックをする。

以前は成されていた
意識レベルの説明や測定は
一切なかった。

最も重要な
「物質」を超えたレベルの話は
完全に省略されていた。

それでも
女性陣のダイヤモンドを目の前にした興奮ぶりに
傍から見ていて男女の違いを感じました。

昨夜
東京スカイツリーを眺めながら
東京のプロモーターに
「しつもん」のメモをとっていただいており

34年間従事する店員の人に
ひとつずつ「しつもん」をする。

・オンリーワンはいつ誕生したのか?
・ブレッシングワンはいつ完成したのか?
・オンリーワンとブレッシングワンの違いは?
・意識レベル無限大はいつ完成したのか?

というようなことについて
「しつもん」をする。

わたしは
田村社長と同じく
「いつ?」ということを
とても重要視するのですが

店員からは
具体的な年月日の回答は得られず

なぜ、それが完成にいたったのか?
どのように、それが完成にいたったのか?

という
WHYとHOWとして
答が返ってきて

WHENについては曖昧なまま
そのときに登場した
「人」についての説明だけだった。

こうして
ひとしきり説明が終わって
そろそろ帰ろうかというタイミングで

今回
エイトスターに立ち寄ることを知らず
たまたま、御一緒した
瞑想メンバーの1人が

ひとつのダイヤモンドを指さして
「わたし、それを買います」と
価格を聞く前に宣言する。

この男氣のある
買いっぷりに一同、驚く。

実は
わたしが2回目に
エイトスターを訪問したとき
「同じ体験」をしています。

それは
1997年6月のことでした。

その日
全くの予定外&想定外で
赤坂に住む友人と一緒に
エイトスター・ダイヤモンドに
立ち寄ることになりました。

その友人は
エイトスターに初めて行って
ダイヤモンドの説明を聞いたあと
即決で「買います!」と言って
いきなり買っちゃったのです。

ちょっと寄っていきましょう
という感じで
ふらりとお店に入って
そのまま即座に即決でダイヤモンドを買う。

この「勢い」にわたしは驚いて
その瞬間的に「わたしも買う」と決めました。

この魂の友の導きにより
予定よりも7年前倒しで
エイトスターを手に入れることになったのです。

今から振り返ってみると
ある仕事を前倒しするために
天が、あらゆる手を尽くして
人を采配し
2回もエイトスターの地に
導いてくださったのだと思います。

そんなこともあり
早いもので
わたしもエイトスター・ホルダーになって
四半世紀=25年が経ちました。

また
エイトスター・ダイヤモンドと出会って
30周年を迎えました。

御蔭様で
この30年間
「ダイヤモン道」を
歩み続けることができました。

人生の約半分くらいを
エイトスター・ダイヤモンドと共に
過ごしてきました。

この間
ずっと「EAV50」の波動を保ち続け
ずっと「EAV50」の波動で
生き続けることができたことは
とてもラッキーでした。

また
ずっとずっとずっと
「意識指数1000」よりも上の世界に
導き続けられていることは
もはや言葉では表現できないものがあります。

いずれにしても
これからも
「ダイヤモンド」の道を
真っ直ぐに歩いていきたいと想います。

ここに導いてくださった
すべての存在に感謝します。

ということで
御蔭様で今年も
「503」コンプリート。

「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。

「ダイヤモンドとはそれは誰の心にもあるもので、
ダイマインド(Die Mind)、
すなわち、欲望を滅したときに
自我・心は平安になるという意味だ。

そして、
ダイヤモンドのように純粋な美しい心・気持ちとなる。
それが、神の心、ディアマインド(Dear Mind)だ。

したがって、
私にとってダイヤモンドは、物質的なものではない」

サティア・サイババ

永遠のダイヤモン道 単行本(ソフトカバー) 
– 2012/12/18
田村タカ熾鴻 (著)
https://amzn.to/3B5pUKI 

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20230425

「森本アリさんのお話を聴く」

音楽家であり
旧グッゲンハイム邸洋館管理運営者でもある
森本アリさんのお話を聴く。

2016年頃
ハワイ島に住む友人が
ハワイを引きはらって
老後は「塩屋」に移住したい
と、言っていた。

その頃から
「塩屋」のことが氣になりつつ

電車の窓から眺める限りにおいても
オンライン上で見る限りにおいても
なぜに「塩屋」なのか?
ということは、よくわからなかった。

2020年に入って
別のインフルエンサーが
一時期「塩屋」に移住して
いろいろとイベントを実施していて

そのときに
その家のリビングの窓から見える
「海」の風景を観て

少しは
「塩屋」もいいのかも
と、思い始めていた。

同時期に
神戸のプロモーターが現れて
明石から東、芦屋から西の間あたりの場所で
「街歩きイベント」を実施することになった。

この3年間でも
かなりのエリアを制覇しているのですが
まだ「塩屋」には1回も行っていない。

ですが
やはり氣になる「塩屋」です。

そんなタイミングで
「塩屋」の大先輩にあたる
森本アリさんのお話を聴けるということで
イベントに参加する。

冒頭で
ドイツ系アメリカ人の
ジェイコブ・グッゲンハイムが
所有したとされてきた本洋館が

実は
2020年に
イスタンブール出身のユダヤ人、
ジェイコブ・ライオンスが
この家を建てた記録が確認されて

本当は
「ライオンス邸」なのだが

すでに多くの人によって
「グッゲンハイム邸」と認識されており
地図上もそうなっているので
今更、訂正できないという話があった。

前半は
森本アリさんのお話で
とても大量の写真を用いて
スライドショー的に
「塩屋」の魅力について語ってくれた。

どの瞬間も
「塩屋愛」に充ち溢れていて

やはり
この「愛」から発信されていることが
数々の企画やイベントの成功要因なのだと
思った。

40年間放置されてきた
平屋の市営住宅で
自然発生的に企画が起ち上がった
塩屋でつくるブドウとワインの話も
興味深いものがありました。

空き家問題や
耕作放棄地問題などなど
その問題の解消事例として
「食」や「農」という側面から
考えるきっかけにもなりました。

中でも特にわたしの目をひいたのは
町民たちでつくった「かるた」。

この「かるた」の中に描かれる風景の
正にその場所に絵札の拡大版が
貼られていたりして

こういった
ゲーミフィケーションや
サインの提示&掲示の方法に
グッとくるものがありました。

わたしは
旅行に行くときに
その目的地の風景を用いた
アート作品を自作して持参し

正に、その場所に
許可なく勝手に作品を設置して
「小さな個展」を開催し
その風景を撮影することがあり

「作品」と
「リアルな場所」をリンクさせていくような
アートワークに、とても興味があります。

他にも
町の中に
「こども編集部」が
設置されているのも面白い試みだと思いました。
https://kodomo-henshubu.com/

「メディア」だけでなく
「政治」や「教育」や
「商品開発」なども含めて
大人たちが独占しているような
様々な分野で「こども」版を
リアルに運用していっても
いいのかもしれません。

そこから
「大人」が学ぶこともできるからです。

後半は「Q&A」があり
様々な街に暮らす
様々な参加者がいることを知る。

その昔
屋形船でバイトをしていて
今、淀川の堤防の上に立つ家に
暮らしている人や

うどん屋を経営しつつ
2階でライブハウスを運営する人や

高槻JAZZストリートなどの
音楽祭の裏方をする人などなど。

その中で
イベントや企画の成功要因についての
しつもんがありました。

その回答として
人口のサイズと行政のサイズの一致
ということが言われていて

町民が一体となって
街づくりをしていくには
人口5000人から7000人くらいがいい
とのことだった。

おそらく
それ以上、大きくなりすぎると
「都市計画」も含めて
すべてが密室政治的に決められていって
氣がついたときには
町民が望まない理想的でない風景に
なってしまうのだと思います。

かと言って
人口の規模が小さすぎると
財政的な問題も
生じてくるのかもしれません。

このサイズの不一致問題は
あらゆる分野で起きている
問題のひとつなのかもしれません。

また
「港町」は住居が密集していて
「街」をつくりやすいとのことでした。

これが
「山」になってくると
住居が遠く離れてしまって
排他的になりやすく
開かれた形ではまとまりにくい、と。

個人的には
街と一体になった
音楽イベントが、とても興味深かった。

高槻JAZZストリートも
街と一体になったイベントで
そのほとんどが「無料」になっており

わたしは
「無料」モデルの研究者でもあるので
長年、通い倒しているのですが

「塩屋」にも
そんなイベントがあったとは知らず
もし知っていたら
必ず行っていたと思います。

そのイベントは
あまりにも人が来場し過ぎたことで
2014年から2016年の3年間だけの
期間限定イベントとなったそうです。

「町」のキャパがあるので
SNS時代は特に
あまり大々的な宣伝活動ができない。

だから
イベント直前に
紙媒体で町内だけに
フライヤーを配布するような形で
イベントを開催する。

こうなってくると
そこに住んでいる
「人」とのつながりが鍵になってくる。

キングコングの西野亮廣さんも
検索の時代は終わっていて
これからは「人」検索の時代になる
と言い続けていますが

わたしも
インターネット上に存在しない人や
検索にヒットしない人たちと
「密会」して遊ぶことが多い。

行くお店も
看板のないお店や
インターネット上に存在しない店や
検索にヒットしない店ばかり。

オンライン上で
「見えない場所」に
「オフライン」で行くのが
いいのです。

そういう場所も含めて
わたしは「圏外」と呼んでいます。

そちらに軸足を置き始めると
「見える場所」が
どんどん退屈になってくる。

そんな中
「塩屋」が見せてくれる風景は
どこかにありそうで
どこにもないような
何とも言えないリアルがそこにある。

公共空間で
アートな活動をしている
豆腐屋さんの紹介もありました。

正体が知れてるバンクシーという感じで
その活動を町民たちが手伝う風景が
そこにある。

このような
「プレイヤー」が現れる街こそ
わたしが求める街でもあります。

また
「プランナー」が
思い存分、街を遊び倒せるような
そんな公共空間のある街も
わたしが求める街でもあります。

そして何よりも
「住民」にとって潤いのある街こそ
わたしが求める街でもあります。

また
「徒歩」圏内完結型の
「コンパクトシティ」も
わたしが求める街でもあります。

これからも
もっともっと
「塩屋」の魅力について
知っていきたいと思った一夜でした。

ということで
御蔭様で今年も
「425」コンプリート。

「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。

塩屋の魅力を伝えたい-
森本アリさん 
https://youtu.be/EwZdvAzroyw
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20230422

「22」

「422」のイベント終わりで
そのまま通称「22」に参加。

「22」は
夫婦・カップル限定という
参加のハードルがあり

また
外側からは
どんな内容のイベントなのか
わからないようになっています。

そこで
この半年間に渡って
このイベントの主催者や参加者に
「どんなことをやっているのか?」
インタビューしていました。

そのインタビューの中で
このイベントは
「まだ始まっていない」と聞いたことで
ますます「22」に参加したくなり
それが「422」に実現した。

イベント会場に入ると
本棚の目立つ場所に
ルークバージスの
「欲望の見つけ方」があったので
早速、手に取って、ページをめくる。

やはり面白そうな感じなので
1ページ目から読み始める。

その文体も
その内容も
わたし好みだったため
どんどん読み進める。

ある程度
読み進めたところで

静岡から参加している人から
「その本は、要約すると
どんな内容ですか?」という
「しつもん」が発せられた。

まだ
始まりの導入あたりしか
読めていないのですが

「模倣の欲望理論」についての本で
「人は他人の欲しがるものを欲しがる。
欲望はその人自身の内側からはわいてこない」
ということについて書かれているのだと思う
と、応える。

もっと詳しく語るならば
生理的欲求、安全の欲求以外は
すべて何かのモデルの模倣であり、
自発的な欲望というのは虚偽だということであり

その「虚偽」を
さも自らの内側から湧き上がる欲求と表現して
それを「実現」したいと表明して
だから「助けて」「手伝って」というのは
どうなのだろうか?と。

内側から湧き上がる「濃い欲望」と
周りが欲しているから欲しくなる「薄い欲望」があり
自分の欲望であれ、他人の欲望であれ
そのどちらの欲望なのかを見極める必要があります。

この本について
お話をしていたところに
三宮のプロモーターが入ってきて
ルークバージスや
ミメーシス(模倣=擬態)の理論で知られる
ルネ・ジラールは逆SEOが効いていて
なかなか検索に上がってこないという。

ただ
松岡正剛さんは
流石に、そのあたりについて
押さえているとのことだった。

ルネ・ジラール
世の初めから隠されていること
https://1000ya.isis.ne.jp/0492.html

ルネ・ジラールの 
「欲望の三角形」の概念。

人の欲望というものは 
主体的なものでなく 
往々にして他者の模倣であり
人が欲しいものを欲してしまう。

その時、他者は 
同一の対象を欲望するライバルとなり
「主体」(subject)
「他者」(model)
「欲望の対象物」(object)の関係が
三角形を形成する。

人間(Subject)は、
Modelを倒してそれに成り代わりたい
という欲望を根底に抱えており
自分をModelに近づけるための手段として
Modelが所有しているObjectを手に入れたくなる。
これは、SubjectによるModelの模倣行動であり
自尊心を保つために無意識的に行われる。

わたしは
「モデル」や「役者」(俳優)のようなことを
やっていたことがあるだけに

一般の人よりも
「主体」(subject)
「他者」(model)
「欲望の対象物」(object)について
考える機会が多かった。

資本主義社会は
この「欲望の三角形」を
無限に増殖させていくことで
ドライブしていく。

ここに
一種の暴力が発生する原因があり
この先に戦争がある。

精神分析家のメラニー・クラインは
欲望という感情の下には
「羨望」「嫉妬」「貪欲」といった 
ドロドロした情動が渦巻き

羨望は、怒りであり 
対象物を奪い取るか 
壊してしまう衝動が生まれる。

嫉妬は 
愛情が絡んだ二人の人間関係における争奪であり

貪欲は 
ヒトが必要とする以上のものを望む
激しくて飽くことを知らぬ渇望だと分析する。

また
人間が最も深いところに抱え込んでいる感情が
羨望だと分析する。

「22」は
その起源や由来からしても
これら諸々を治めていくような
テーマを持つイベントなのかもしれません。

人間が抱え持つ
「怒り」や「暴力性」。

人類は
その歴史において
これらを、どのように治めてきたのか?

また、今後
これらを、どのように治めていくのか?

これは
「404」のテーマでもあり
「609」のテーマでもあり
「1111」のテーマでもあります。

「22」初参加にして
この根源的なテーマに迫ることができたのは
とても幸先がよかった。

ということで
御蔭様で今年も
「422」コンプリート。

「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。

欲望の見つけ方 お金・恋愛・キャリア Kindle版
ルーク バージス (著), 川添 節子 (翻訳)  
https://amzn.to/41P67KT 
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20230422

「422」

アースデイ(別名:地球の日、英語: Earth Day)

初めて行われたのは1970年4月22日で、
現在では、EarthDay.org
(旧称:Earth Day Network)の調整のもと、
世界中で幅広い種類のイベントが開催され、
193カ国以上で10億人以上の人が参加している。

毎年、この日には
国連本部にある「日本の平和の鐘」が鳴らされている。

2009年の国連総会で、
4月22日を「国際母なる地球デー(英語版)」
とすることが採択され、
翌2010年から実施されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

物事を「地球」という視座や抽象度まで引き上げると
そこに、あらゆるものが包摂されてくる。

そこで
わたしたちは
毎年アースデイに
「422」というイベントを開催しています。

具体的には
近所の山の中に入り
そこで焚火キャンプをすることで
「近所の寄合」をしています。

なぜ「焚火」になったかというと
それは、人類が今の文明や社会に至る
起点となるもののひとつだと思えたからです。

人類はあるとき道具を用い始め
やがて「火」の発見に至ります。

ここから
その「火」の文明は
原子力エネルギーや
核ミサイルに至ります。

そこで
「422」では
その「はじまり」に立ち返って
そこから「未来」について
語り合う時間を持つのがいいかも
という発想になりました。

そこで、今年も
三宮のプロモーター主催で
「422」を実施しました。

「404」もそうでしたが
「422」も昨年に比べて
さらにクオリティが上がっており

やはり
比較対象があることや
経験値があることや
誰彼をも呼んでいないこともあり

狙い通り
ボリュームよりもクオリティに
向かいました。

前回は
「断食」前提で集まろう!
みたいな企画案があったのですが

今回は
ある程度「持ち寄り」的な
アナウンスをしたこともあり
ユニークな食材が集まり
極上の料理が振舞われました。

それも
「火」が入ってから消えるまで
ほぼずっと無限に提供されました。

前回は夕方スタートでしたが
今回は現地11:00スタートにして
ランチタイムの開催にしたことも
功を奏したのかもしれません。

また
雲ひとつない「快晴」だったことも
心地良さと爽快感を味わうことができ
これこそ「地球の日」だなと思いました。

「楽園」のような美しい地球を
丸1日、味わい切って
潜在意識の底の底まで

もっと言うと
集合無意識層の底の底まで
「楽園」を創造するのが
「地球の日」に相応しい活動のように
想いました。

この場所は
「空」が開けていることもあり
「星空」を観ることができそうなので
「宿泊」型でやってみたい
という提案も出ました。

また
紅葉が美しいみたいなので
その時期にも開催してほしい
というリクエストがありました。

「422」の地球を越えるとしたら
あとは太陽や宇宙です。

紅葉の時期には
「404」の裏・イベントとして
「1111」も企画中です。
※4月中に現地下見ツアーをしてきます。

その前に
その中間ポイントとして
「609」というイベントを実施予定です。
※5月中に現地下見ツアーをする予定です。

つまり
「404」
「422」
「609」
「1111」と
とても重要な年間イベントが続きます。

世の中が
デジタルやオンラインに向かって行き
すべてそこで完結していく
トレンドにあるからこそ

わたしたちは
「リアルワールド」に立ち
「圏外」に出ていき
「デジタルデトックス」をして

「自然」の中に入り
より「アナログ」な世界に包まれて
ゆっくり&ゆったりとした1日を堪能する
イベントを企画しています。

ということで
御蔭様で今年も
「422」コンプリート。

「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。

4K 波の音と焚き火映像でくつろぐ 2時間48分
https://youtu.be/ilO52FER7iU

「422」は
人類が道具を持ち、
その後の文明を起こしていく起点となった
「火」(はじまり)を意識するために

近隣の人たちと少人数で近所の山に入って
「焚火」を囲むイベントを実施しています。

「未来」や「樂園」を創造するために
あえて太古に戻って
文明の起点に戻って
「火」を起こして「焚火」をして
その「炎」を囲むところから始めてみたい

ということで
毎年「アースデー」は近所の山の中で
「焚火キャンプ」をすることになっています。

これが
わたしたちの
「狼煙」の上げ方のひとつなのです。

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