20230531

「加藤大地さんのお話を聴く」

「教育」や
「竹建築」に興味関心があることもあり

カンボジアで
earth treeビレッジを建設中の
加藤大地さんのお話は
何度か聴いている。

今回は
高橋歩くんが
インタビューアーの形での対談。

同じ人でも
誰がインタビューするかで
全く違ったものになる。

個人的に
高橋歩くんの
インタビューの運び方やスタイルが
とても好きなので

このシリーズは
できるだけ
リアルタイムで
参加することにしています。

今回は
静岡で「729」に高橋歩くんの
トークライブを主催する人から
メッセージが来ていて
イベント開始時間になっていることを思い出し
30分遅れで入室。
(ナイスタイミングでのDMに感謝!)

お話は
「市場先行」なのか
「プロダクト先行」なのか
というようなところだった。

ここで言う
「市場」とは
「顧客」であり
「ユーザ」であり
また、あらゆる「関係者」のことを指す。

「市場先行」の場合
まず市場調査から始める。

要するに
「関係者」の実態調査から始める。

つまり
「女性原理」からスタートする。

逆に
「プロダクト先行」の場合
「男性原理」からのスタートとなる。

「男性原理」からのスタートで
「プロダクト先行」になった場合
「我」の押し付けになるケースもある。

要するに
「余計なお世話」になる場合もある。

あるいは
必要がないものをつくり
必要とされていないものを提供するハメになる。

要するに「押し付け」になるケースがある。

高橋歩くんのいいところは
「現場」主義であり
「現地」主義なところにあり

「現地」の声や
「現場」の声を聴いていくことは
とても大事なことで

この逆が
プロダクトやサービスが先にあり
それを「市場」に投入していく形で

この場合
プロダクトやサービスが
「市場」と合致しないケースがある。

もし、このズレを事前回避できるのであれば
それが予防的措置となり
対症療法的なことをしなくて済む。

カンボジアに小学校が
沢山、建てられていて

小学校で学ぶ体制が
整えられているにも関わらず
学校に来ないこどもがいて

その理由は
お兄ちゃんが、弟の面倒をみるため
学校に行けないとか

医療体制が整っていても
ガソリンを買えないから
病院に行けなくて
学校にも行けないとか

ただ「体制」を整えても
ユーザーの「態勢」が整っていないと
機能しないことがある。

この
「市場先行」なのか
「プロダクト先行」なのか
というところをインタビューしていた。

日本の教育は
「プロダクト先行」になりがちで
「市場」のことは後回しになっている。

それも含めた
いわゆる「教育の弊害」がある。
あるいは「学校の弊害」がある。

だからなのか
「不登校」も含めて
後々に各種の問題が発生している。

そんなこともあり
「プロダクト」や「サービス」の
「はじまり」や「動機」についての
インタビューがあり

さらに
「現地」や
「現場」で起ってきたことについても
インタビューがあり

「はじまり」から
「現在地」までのインタビューが続く。

コロナで「外」が閉ざされて
「内」に向かわざるを得なかったことから

「内」側だけで
「内部完結」するものを探求した結果
「竹」という素材と
「建築」が浮上して
「竹建築」に向かったとのことだった。

その結果
カンボジア人スタッフ27名
日本人メンバー20名と共に
カンボジア史上最大の竹建築に
取り組むことになる。
https://npo-earthtree.com/about-earth-tree/

このあたりは
とても「ディレクター」的な発想で

いわゆる
「冷蔵庫の中」の材料で
「何」ができるか?
ということの探求であり

「外」から
「何」かを持ってこようとする
「プロデューサー」的な発想とは異なる。

その一方で
これからのローカルを考える場合
「プロデューサー」的な発想が求められるし

これからのグローバルを考える場合
「ディレクター」的な発想が求められる。

今までは
「プランナー」も含めて
この「逆」になっている傾向もあり

それはそのまま「文化破壊」にも
繫がりかねないものでもありました。

また
「グローカル」を創る場合
その両方が求められる。

中盤
2023年8月23日(水)~2023年8月27日(日)
4泊5日で実施する
WDS主催の
カンボジア・ツアーの詳細の話。
https://wds.world/tour_cambodia2023Summer

カンボジアの魅力は
「3つの時代を行き来する感覚」
と言っていた。

市内は
今の日本に近くて
綺麗なカフェが建ち並ぶ。

村は
50年前60年前の日本と似ていて

アンコールワットは
800年900年前にタイムスリップする。

「旅」のいいところは
文字通り「時空間」の移動だ、

人は行く場所や
置かれた場所や環境によって
自然に考え始めることがある。

インドのバラナシで
生と死について考える。

エルサレムで
宗教について考える。

カンボジアで
しあわせについて考える。

最終的に
しあわせに死ねたら最高。

カンボジアには
そのヒントがあり
それを考えることができる。
という話も印象に残った。

わたしは
かなりな脳内妄想族タイプなこともあり

実際に、肉体を伴って
その「場」に行かなくても

「頭」だけあれば
いつでも・どこでもで臨場感たっぷりに
あらゆることについて
考えることができるタイプで

興味関心の幅も広いので
四六時中、何かについて考えている。

「体感」しなければ
物事を理解できないタイプではなく

「情報空間」だけで、
物事を考えることが可能で
そこに「身体性」を伴う必要性はない。

なので
「考える」ために
ある「場所」に行くという発想がない。

むしろ
「何も考えないため」とか
「無心」になるために
ある「場所」に向かうことはある。

こちらの方が
「身体性」を伴う必然性を感じる。

また
そのことを
この30年間「仕事」にしてきた。

一方では
考えに考えに考え抜くことが「仕事」であり
これには「身体性」を必要としない。
「頭」と「情報空間」があれば
それでいい。

ところが
もう一方では
自分の考えをゴミ箱に捨て去って
「無心」になり
「何」も考えないことが
「仕事」なのです。

逆説的なのですが
こちらの方が
「身体性」を必要とするのです。

その上で
このツアーの詳細について説明を聴くと
とても興味深いものがありました。

「カンボジアに
行ってみるのもありかな」
と、思えたのです。

このツアーは
チャリティツアーになっており
利益は「寄付」に回って
循環する仕組みになっている
という説明もありました。

すべてが「無料化」するくらいにまで
「寄付」の仕組みが回っていくと
さらに面白いことになると
個人的には想っています。

未だに
「寄付」で回る仕組みについて否定的な、
やや時代遅れな感覚の人もいますが

ここ30年くらい
様々なNGOやNPOの活動を観てきて
実際に活動に参加したり
「寄付」をしたり
「寄付」を集めたりしてきて思うのは

もし「寄付」だけで100%回るのであれば
「お金」を稼ぐ必要がない
ということです。

もっというと
「プライス」のない世界を
創ることが可能になります。

「プライス」のない世界というのは
とても理想的で

ガソリンを買うお金がないから
病院に行けないとか

お金がないから
医療を受けることができないとか

親が働きに出て
弟の面倒を見ないといけないから
学校に行けないとか

お金がないから
食べることができないとか

そういう
「お金」にまつわる問題は
すべて消えていくからです。

「お金」にまつわる問題を
「お金」で解消しようとしても
そもそもの原因が「お金」なので
根本的な解決にはならない。

「お金」にまつわる問題を
「お金」で解消しようとしても
それは対症療法的なアプローチであり
一時的な解決にしかならないからです。

アインシュタインが言うように
何か「問題」を解決しようとするとき
その「問題」が発生しているのと同じ次元で
その「問題」を解消することは
できないからです。

このあたりについては
最低でも「システム」の視座に立って
物事を観ていく必要があります。

また
それが「システム」そのものに
起因する問題の場合

その「システム」よりも
上の次元(視座)に立たないと
根本的な解消をすることはできません。

つまり
「お金」にまつわる諸問題は
現状のシステム以下にある
ビジネスでは解消できないのです。

むしろ
そのビジネス自体が
諸問題を生み出し
諸問題を持続可能にしてしまうのです。

これが
いわゆる
「ザ・資本主義」問題なのですが

この「問題」を
綺麗に紐解けている人は少ない。

その証拠に
世界の諸問題を
「ビジネス」で解消できると
本氣で考えている人も
まだまだ存在するからです。

ここでも
やはり「視座」が問われるのです。

クラウドファンディングの話も出ました。
1000人から
1000円を集めて
100万円にする設計にした話で

1口1万円にせず
1口1000円にしたことで
なかなか目標金額に到達しなかったが
応援者の数は確保できたことで
最初の5か月で420人集まり
そこからのシェアがあり
ラスト1か月で700人になり
その後1500人になったとのことだった。

このあたりの
「お金」を追うよりも
「人」(関係者数や関係人口)を追うところが
いいなと思いました。

好きな歌詞として
竹原ピストルさんの
「俺たちはまた旅に出た」の紹介もありました。

金に困ったときに
真っ先にギターを手に取るのが
プロフェッショナル。

真っ先に
バイト雑誌を手に取るのが
アマチュア。

という一節から

自分も(お金で)困ったことがあった。
だからこそ
今やっていることで勝負しないと
プロフェッショナルではない。
という話がありました。

竹原ピストル
「俺たちはまた旅に出た」
https://youtu.be/0N91TUko6vI

これは
「BeDoHave」の教えにも繫がる話で

また
「目的」と「手段」の統合にも
つながる話でした。

現代社会は
ややもすると
「目的」と「手段」が分離しがちで

だからなのか
「本来の目的」を忘れて
「本来の目的」を観なくなってしまい
「手段」ばかりに注目がいきがちです。

これは日本人にありがちなのですが
「仕事」は何をしているのか?
ということを、真っ先に聞いてくる人が多い。

その「人」を知る前に
「収入源」を聞いてきたり

「収入源」が不明な人を
「謎の人」と観てしまう傾向がある。

あるいは
「収入源」が不明な人を
「何」をしているのかわからない人だと
観てしまう傾向がある。

また
「無職」であったり
「何」もしていない人や
「生産性」のない人を認めない傾向や
社会圧のようなものがある。

だから
自殺してしまう人が多いのかもしれません。

なぜなら
その「存在」を
社会も周囲も認めようとしないのですから。

要するに
「Do」とか
「Have」によってでしか
その「人」を観ることができなくなっているのだ。

そこまで
「マインド」が
「お金」に
やられちゃっているのだ。

物事の見方も含めて
良くも悪くも
「お金」に支配されている。

だから(未だに)
「お金」の外に出ることができない。

ここから
「脱・洗脳」をするような
「仕事」をしている人に
わたしは興味関心があります。

参加メンバーからも
「BeDoHave」に繫がる話や
「目的」があって
「手段」開発が未完了という話題があった。

これに対して
「手段」開発が未完了であっても
「目的」そのものに成り切って
「目的」そのものを生きていく内に
「キャッシュポイント」が現れる
という話があった。

これは、まさに
「BeDoHave」そのものの話で

まず「BE」(在り方)が先にあり
「HAVE」(お金)は
あくまで「結果」なのだ。

にもかかわらず
「BE」(在り方)を無視して
「HAVE」(お金)を追いかけて
「DO」(行動)したとしても
大した「HAVE」にはならない。

それどころか
最も重要な「BE」(在り方)が
損なわれる結果(HAVE)となる。

この1週間
若い世代の人たちの話を聴く機会が多く

そこで共通していたのは
「手段」開発が
やや未完了ではあるのですが

「BE」はハッキリしており
どう生きたいのか?
どう在りたいのか?
その「理想の在り方」は明確だった。

「自然体」でいたい。
「自然体」でありたい。

こころのままに
こころの素のまま感じて動く。
それを「仕事」にしたい。

というような話を
この1週間で
複数の人から聴かされる機会がありました。

わたしは
こどものまま大人になってしまった感があり
「存在」そのものを
「仕事」にしてきたのですが

ピュアなものを保ったまま
そのまま大人になるような人が
若い世代からも出てくるのが
とても楽しみです。

「障がいの概念」についての
質問もありました。

カンボジアに
「障がいの概念」がないと聴いていて
実際は、どうなのか?と。

これに対する「回答」については
ここでは書かないことにします。

「問い」や「テーマ」を持って
「現地」を観に行く。
あるいは「旅」をするというのは
とてもいい機会だと思います。

「障がい」には
大きく2つあって

「ハード」面と
「ソフト」面がある。

たまたま
わたしは大学の専攻が
社会学だったこともあり
「社会福祉」や「障がい」について
「原理」「原則」も含めて
専門的に学ぶ機会があり

また
「現場」「現物」「現実」を
観る機会がありました。

物事には
「適材適所」があり

この「ミスマッチ」があると
活かせるものも
活かすことができなくなります。

このあたりを
いかに「マッチング」させていくのか?

この「設計」から考えていくのが
「社会学」の面白いところなのですが

今夜も
沢山のヒントをいただいたので

このあたりもまた
自分が主宰する研究所の
研究材料として
研究に勤しみたいと想います。

ということで
御蔭様で今年も
「531」コンプリート。

「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。