20230622
 
「働くことと贈与の話」(I,me,my)
 
時々、不定期に開催されている
お話会に参加した。
 
テーマは「働く」。
 
最初に
「働く」とは?
という「しつもん」がありました。
 
わたしはそれを
ライスワーク
ライクワーク
ライフワーク
ライトワークの4つに分けています。
 
神戸にある研究所では
Business1.0、稼ぐために稼ぐ
Business2.0、もっと稼ぐために無料化する
Business3.0、無料化するために稼ぐ
Business4.0、無料化するために無料化する
というように分類しています。
 
今回は
何らかの「報酬」を得るための仕事と
何の見返りも求めずに与える仕事の
2つに分けて、お話が展開した。
 
「報酬」がある仕事と
「無報酬」の仕事
という2つの分類です。
 
別の言葉で表現すると
「対価」をいただく仕事と
「対価」をいただかない仕事
という2つの分類です。
 
前者は
自分らしく
好きで
得意で

楽しくできることで対価をいただくのが
おススメとのことでした。
 
さらには
できるだけ多くの人に
喜んでいただくこと。
 
このときに
「何」を望んで働くのか?
 
ここが重要で
「成長」や「お金」は
目的ではなく手段なので
その答えにならないとのことだった。
 
成長そのものには意味はなく
お金そのものには意味はない。
 
「何」のために成長したいのか?
得られたお金を「何」のために使うのか?
 
ここが「目的」にあたるところで
 
つまり「何」のために働くのか?
という問いへの「答え」に相当する。
 
ここで
「自分とは何か?」を探究する
インドのヨガのワークの紹介があった。
 
それは
「わたし」とは何か?
「わたし」の範囲を
明らかにするワークでもありました。
 
具体的には
I=本当の自分自身
Me=職業、肩書、役割り、能力、才能、性格
My=所有、所属、物
という3分類で
自分に関することを書き出していき
 
MeとMyは
自分だと思い込んでいる自分で
実際には自分ではないことを覚るワークです。
 
自分の周囲にまとわりついている
自分ではないものを剥がしていった先に
最後に残る真ん中にあるもの=わたし
とのことだった。
 
わたしは・・・職業、能力、才能、特徴
わたしの・・・所有物、関係性
これらは「わたし」ではない
とのことだった。
 
よく
職業=アイデンティティに
なっている人がいますが
それは、その人自身ではない。
 
「わたし」=「I」は
肉体がかわっても変わらないもの。
名前がかわっても変わらないもの。
 
つまり
「名前」も
「肉体」も
「わたし」ではない。
 
それらすべてを剥ぎ取って
最後の最後に
最終的に真ん中に残るもの=「わたし」なのです。
 
個人的には
その「わたし」を生きているような人と
これからも出会っていきたいし
何かを一緒に創造していきたいと想っています。
 
このワークでは
これが自分だと思うものを書き出す。
 
ところが
その書き出したものは
どれも「自分」ではないことが告げられます。
 
人によっては
「自分」だと思い込んでいたものが
そうではないということになるので
そこに恐怖を抱く人も出てくるワークです。
 
なぜなら
自分が無くなる感覚があるからです。
 
その周辺のものを
全部、削り落していった先に残るもの
それが「わたし」とのことだった。
  
では
その「わたし」のエリアには
「何」が残るのか?
 
このワークを紹介してくれた人は
そこには何も残らなかった。
「無」だったと言っていました。
 
すべてを剥がしたとき
自分らしさは
才能でも個性でもない
 
これを理解したとき
すべてを受容できるようになった
と言っていました。
 
「個性」を伸ばす教育とか
「才能」を開花させる教育と言われて
久しいのですが
 
できれば
ここまで明確に理解しているような人から
教育を受けたいと思いました。
 
このワークを紹介してくれた人は
才能や個性や役割も
一時的に着ている服に過ぎないことを
理解することができたと言っていました。
 
つまり
「一時的に着ている服」なので
それは「わたし」ではない。
 
また
「一時的に着ている服」が
ボロボロになったとしても
 
それは「わたし」ではないので
「わたし」そのものは傷つかない。
 
このことを「理解」しない人が
「被害者」の視座に立って
「傷ついた」と訴えるのです。
 
「魂は傷つかない」
このことを知り、覚り、悟るだけでも
まるっきり世界の見方が変わります。
 
周辺は変化するのですが
中心は変化しない。
 
「自分ではないもの」は変化するのですが
「わたし」は変化しない。
 
その「わたし」に氣づくこと。
 
それがとても重要です。
 
今世では
その才能をいただいた
それは、ひとつの特徴
それは変化する。
 
このワークを紹介してくれた人は
役割りも、才能も
自分が決めることができる
変えることができる
という「氣づき」をシェアしてくれました。
 
あなたのために
わたしは存在します
これが役割りだという感覚を
得られたと言っていた。
 
これは
「BeDoHave」の教えと似ている。
 
その人がやっていることや
その人が持っているものは
その人自身ではない。
 
それらは「周辺」であり変化する。
 
また
墓場まで持っていけるものではない。
 
ここで
仏教の観点からの解説が入る。
 
この「My」に相当する
わたしの・・・で表現されるものは
すべて「欲」ということだそうです。
 
わたしの家
わたしの車
わたしの食事・・・
 
わたしのと思った瞬間に
そこに執着が生じる
 
だから
わたしのものを最小化することが
自由への道
 
ほとんどのものは
死後、持っていけない
一時的に預かっているだけで
わたしのものは存在しない
 
ところが
この仏教的な観点を得るまでは
 
この「わたしは・・・」の
領域を増やすことが
社会で活躍することや
豊かさだと思い込んでいた
という告白があった。
 
そこに書き出されるものは
「100%他者との比較」
という指摘もありました。
 
わたしは
あまり「他者との比較」とか
「勝ち負け」のような価値観で
生きていないこともあり
 
最初は
「100%他者との比較」
というのがピンと来なかったのですが
 
続いて、以下のような解説がありました。
 
「わたしは明るい性格」ですと言うとき
それは「暗い他者」を前提とする、と。
 
これは
「わたしはお金持ちです」と言うとき
それは「貧乏な他者」を前提とするのと同じで
すべてが、その構造の中にある。
 
「他者がいないと成立しないものは自分ではない」
という解説もありました。
 
これは、なかなか深い話で
よく「自分とは何か?」という問いに対して
「他者との関係性」のようなものを
持ち出してくる人がいるのですが
 
それは「自分自身」ではありません。
つまり「わたし」ではありません。
 
自分でないものを削っていくと
真ん中に残るものが
本当の自分なのです。
 
「働く」とは
その真ん中から湧き出てくるもののこと
という説明もありました。
 
それは
わたしの言葉で言うと
「BE」にあたります。
 
この
「BE」を
「仕事」にすること。
 
ここがとても重要なのだと思います。
 
外にエネルギー源があるのではなく
内側にあるピュアな情熱
それを見つけること。
 
昨夜、樂園学会でも
内発的動機と外発的動機の話がありました。
 
「外」のために何かをするのではなく
「内」側から、それをやること。
 
その結果として「外」のためにもなっていること。
 
これが「BeDoHave」の教えの本質でもあります。
 
ここが逆転していて
「Have」のために「Do」しているようなものや
そもそもの「BE」が抜け落ちているものに
わたしは、とても敏感で
 
そういうものは
正直を言うとNo, thank you.なのです。
 
他者とのご縁でしか成立しないもの
そこをゼロにしていく。
 
職業や肩書きから入ると
そこで思考してしまう。
その範囲の中で思考してしまう。
 
例えば
デザイナーだと
デザイナーの思考をして
デザイナーの仕事をしてしまう
 

そこから外に出て
そこから自由になること
という話もありました。
 
肩書きは無意味。
周囲があなたを認識するために必要。
 
強みを知ることも無意味。
周囲があなたを認識するために必要。
 
ライオンは自分の強みを知らない。
それでも生きている。
 
肩書きの中で仕事をつくるのではなく
やりたいことを仕事にする。
というアドバイスもありました。
 
本当に好きなことをやり続けることが
とても重要
 
自分が自分を幸せにすること
その時間を創る
 
その時間の中で
他者がしあわせになればいい
というアドバイスもありました。
 
これは
「まず自分、次に周囲」という
順序順番の話であり
原理原則の話でもあります。
 
この逆が
人のため・・・
誰かのため・・・が先行して
自分が置き去りになるパターンです。
 
「役割り」や「肩書き」など
「自分」ではないものが先行すると
そうなりがちです。
 
父親だから・・・
母親だから・・・
兄だから・・・
姉だから・・・
夫だから・・・
妻だから・・・
 
社長だから・・・
部長だから・・・
課長だから・・・
 
先輩だから・・・
後輩だから・・・
 
男だから・・・
女だから・・・
 
その前に
そのもっと手前に
まず「自分」があるのです。
つまり「BE」があるのです。
 
本を書くのは
誰かのためではなく
自分が楽しいから書いている
自分が書きたいから書いている
 
それが結果的に
誰かのためになり
誰かの喜びになっている
 
誰かを喜ばせるために・・・
これだと途端に苦しくなる
というシェアもありました。
 
自分のものだと思うものを
追いかけるのをやめた方がいい
という話もありました。
 
「Me」や「My」を追いかけない。
 
「仕事」で
それらを追いかけてしまうと
遅かれ早かれ
そこに「意味」を
見出せなくなる時が来るからです。
 
あるいは
偽りの意味や意義を
捏造していくことになるからです。
 
早めに
このことに氣づけた人は
ラッキーなのかもしれません。
 
散々、積み上げていった挙句の果てに
死ぬ間際になって氣づいてしまうと
愕然としてしまうからです。
 
ストックとフローの話もありました。
ストックを減らしていき
フローを増やしていく
 
なぜなら
豊かさの本質は
ストックではなくフローにあるからです。
 
ストックを積み上げていくのが
豊かさだと勘違いしがちですが
豊かさの本質はフローにある。
 
複数のアイデンティティを持って
複数の時間を生きることも
おススメしていました。
 
ひとつの名前で
ひとつの職業で生きるのではなく
 
複数の名前で
複数の立場で
複数の仕事をして生きる。
 
ポイントは3つ。
真ん中から出てくるものを仕事にする
得をしない
流す、循環する。
 
ここまでの話が「交換」の仕事。
つまり、対価を得てする仕事。
 
この後
もうひとつの2つ目の仕事として
見返りを求めず
ただただ一方的に与える仕事の話になる。
 
「見返りを求めず
ただただ一方的に与える」
 
この感覚が
あなたの豊かさを創る根本になる
とのことだった。
 
今、借りてる状態。
与えられて、沢山、もらってる状態。
 
人間だけが
親がいないと生きていけない。
 
他の生物は
生まれた瞬間から自力で生きていける。
 
人間だけが
脳の成長を重視して
未熟児で生まれる選択をした。
 
生まれたときから
周囲の世話になって生きている
 
それを借りている状態。
それを返す必要がある。
 
その方法が
「見返りを求めず
ただただ一方的に与える」こと。
 
つまり「贈る」こと。
 
交換ではなく贈る。
何も貰えない前提で贈る。
 
「贈る」を沢山すると豊かになる。
仕事も巡ってくる。
 
世の中には
お金、対価で支えられない仕事がある
それは誰かが担うことになる。
 
近隣住民が飢餓状態のときに
自分だけフランス料理を食べても
おいしくない。
 
まずは贈る
この感覚が大事。
 
とのことだった。
 
また
贈ったことを氣づかれてはいけない
とのことだった。
 
つまり
匿名で贈ることが重要とのことだった。
 
その理由は
何かを贈るときに
喜んでいただけるという期待が膨らむと
それは「交換」になるからです。
 
それは
誰かからの「感謝」をいただくために
「贈る」ことになるからです。
 
だから内緒で匿名でやる
そっと、しあわせを置いてみる。
 
氣づかれる前提でやらない
ただただ、そこに置く。
 
この態度・在り方が
重要なようです。
 
あなたはここ最近
匿名で寄付をしたり
匿名で寄付をされたことが
あるだろうか?
 
あるいは
そういう機会に
恵まれたことがあるだろうか?
 
「交換」は
「資本主義」の考え方で
 
くれるなら、あげる
ではなく
 
ただただ
あげるのが大事。
 
あげる=しあわせ
受け取る人がいるから贈ることができる
 
贈ることで
同時に贈られている。
 
あげることそのものが
すでに報酬になっているのです。
 
お布施に近い。
そこに幸せを置くこと自体が幸せ。
それが、いつか誰かに届く。
 
ある質問に対して
次のような回答がありました。
 
相手に豊かさが渡ることが大事。
それを自分がやったかどうかは
どうでもいい。
 
わたしがやったとか
自分の手柄とか
それは、どうでもいい
それは「交換」的発想。
 
「贈る」ということにおいて
「交換」的発想の外に出ないと
それは「交換」になってしまう。
 
現代は
資本主義に覆われているので
一般の人がその「外」に出るのは
なかなか難しいのかもしれません。
 
仏教は
釈迦が生み出したのではない
 
釈迦はテーマを設定した
人生は、なぜ、苦しいのか?
そこから抜け出すには?
という「問い」を投げかけた。
 
それに対して
8000のお経が書かれた。
 
そのお経には
誰が書いたかは一切書かれていない。
 
俺が書いたって言わない
そこが、おしゃれ。
という話もありました。
 
他にも
沢山、いろんな話がありました。
 
「有名」になることを追うのではく
むしろ「無名」であることを選択する。
 
これは「承認欲求」のようなものを
「卒業」しておかないと
その方向には向かえない。
 
どこまで
「自己」受容ができており
自分で自分を認めることができているか?
 
あるいは
いかに完全に自分を癒し切れているか?
 
ここが問われるのだと思います。
 
いずれにしても
「世界は無料化に向かう」。
 
この「トレンド」(潮流)は
ますます無視できなくなるでしょう。
 
「2つ目の仕事」を
いかに増やしていけるか?
 
ますます
ここが問われてくるように思います。
 
「実力」がある人から順番に
「2つ目の仕事」に向かい
その割合を増やしていけるのかもしれません。
 
わたしも
「2つ目の仕事」に
触れられる機会を増やしていけたらと想います。
 
ということで
御蔭様で今年も
「622」コンプリート。
 
「全部丸ごと」ありがとうございます。
「無限の広がり」ありがとうございます。
 
I, ME, MY, MINE, MYSELF & BY MYSELF 🤔 | 
What's the difference? | Learn with examples
https://youtu.be/EjWFwayR4ds
 
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