グアム観光つづき8
では、重いお話です。
グアムは、その位置から幾度と戦争で戦火に見舞われています。
今回は先に、その歴史の解説です。
【マゼラン上陸】
グアム島が初めてヨーロッパと接したのは1521年3月6日とされています。それは世界一周の航海の途にあったマゼランがグアム島を発見し、ウマタックに上陸したことがきっかけでした。マゼランはスペイン国王の命による世界一周の航海中、3隻の船団を修理するために3日間、グアム島に立ち寄ったのです。そこで新鮮な果物や野菜や水を島から調達したマゼランはその対価として鉄を島民に与えました。まだ新石器時代のような暮らしをしていたチャモロ人にとって、鉄は大きな値打ちを持っていたのでした。
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【スペイン統治の始まり】 |
【キリスト教の布教】
その時から100年余り後の1668年、神父ディエゴ・ルイス・デ・サンビトレス率いるイエズス会の宣教師団が、ヨーロッパ文明、つまりキリスト教や交易などをこの地に確立するためにやって来ました。それまでグアム島は、航路の中継地としての領土でしたが、これを機に本格的にスペインに征服されることになるのです。宣教師たちはチャモロ人に「メイズ」(トウモロコシ)の栽培を教えたり、家畜を持ちこみ、その飼育法や皮のなめし方などを教えたりしたほか、衣服も西洋風に変えさせました。キリスト教が定着すると、村々ではカトリック教会が活動の中心となったのです。
【スペイン・チャモロ戦争】
近隣の島々へも広がっていったカトリック教ですが、「先祖崇拝」を強く禁止するなど、カトリックの教えがチャモロの伝統的価値観や習慣と相反することがわかると、徐々にカトリックの教えに反発するようになり、1668年スペイン・チャモロ戦争へ発展していきます。スペインはカトリック教に反抗的な全ての村を焼き払い、酋長を厳しい罰を与えました。そして1695年チャモロ人が降伏した時、10万人いたといわれるチャモロ人が5,000人以下に減ってしまったのです。
【米西戦争】
1898年スペイン軍によるアメリカ戦艦の沈没をきっかけに米西戦争が勃発しました。スペイン領であったグアム島もアメリカ海軍の砲撃を受け、同年アメリカによって占領されることになります。大敗を喫したスペインは多くの植民地を失い、同年パリ条約によってグアムもアメリカの領地となりました。アメリカ海軍による統治は農業、保健衛生、教育、土地管理、税制、公共事業などに数々の変革や改善をもたらしました。グアム島はアメリカ海軍の石炭補給および通信連絡の拠点として使用されていましたが、1941年、真珠湾攻撃後間もなく侵攻してきた日本軍の手に落ちることになるのです。
【日本占領時代】
1941年、日本は真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発を機にグアムを占領します。その後31ヶ月間にわたった日本の占領時代にグアム島民は日本の生活習慣を強要されることになりました。日本軍はグアム島を「大宮島(偉大なる神のいる島)」と、ハガニア(アガニア)は「明石」と改名されました。この日本軍占領時代を、チャモロ語では「日本の時代」を意味する「テイエイポン・チャパネス」と呼んでいます。
日本軍は歴代の統治者と同様に、島民に日本語を使用することを強制しましたが、チャモロ人がアメリカに対して抱き続けていた忠誠心から、日本語が使えたチャモロ人はほんのひと握りだったと言われています。またチャモロ人の住居の自由は保証され、住みたい場所に住むことができました。
【アメリカ時代への回帰】
アメリカ軍がマリアナ諸島に向かって反撃を強めるに従い、チャモロ人に対する日本人の態度は日毎に厳しくなっていきました。島民たちは強制労働をさせられ、島の東部にあるキャンプに集められます。この意図はわかっていませんが、結果として、この移動が大多数のチャモロ人の命をアメリカ軍の艦砲射撃から救うことになりました。 1944年、アメリカ軍がグアム島に上陸。数千人ものチャモロ人、米兵、日本兵の命を奪った3週間に及ぶ激戦の末、グアム島は平静を取り戻し、再びアメリカの統治下に入りました。 1950年にアメリカの自治属領(準州)となり、今日までアメリカ軍の太平洋戦略上の基地として活用されています。
【近年】
1967年、パンアメリカン航空が日本から航空路の運航を開始し、これによりグアムに近代的な観光産業がもたらされました、以来、グアムでは経済の多様化と拡大が続いています。軍需、観光、および関連産業(建設、小売、銀行、金融サービスなど)の拡大に加え、経済改革もまた島民の雇用に重要な役割を果たすとともに、グアムという世界市民的な社会が期待するビジネスの選択肢も広がりつつあります。グアムの豊かな歴史的遺産こそが、グアム島の今後の発展の拠り所とすべき枠組みとなっているのです。
では、ここからは私達が行った平和慰霊記念公園です。
ここで使う画像は、私が撮ったものではありません。
どうしても、撮れなかったんです。気持ちの問題で、カメラを向けられなかったんです。
なので、ネットの画像から流用させていただきます。
詳しくはこちらhttp://www.tsuru.ac.jp/~omori/guam/memorial.htm
〈我無山平和寺〉
ここはお寺です。下記の文はネットから使わせていただきます。
「平和寺の中にはボロボロになったヘルメットや靴、ビン、もとは何だったのか分らない鉄片などが置かれていた。
ガラスケースの中にあるものもあれば、その上に何のカバーもなしに置かれていたものもあった。
また壁には陸軍中将小畑英良の写真や日本の国旗とアメリカの国旗もあった。
起工式や落成式などの様子も写真があるので、作られた経緯は分かる。」
画像の形式の問題で、その遺品はUPできませんでした。が、ちょっと、画像を入れる気にはなれないです。
平和寺のすぐ近くにある慰霊碑です。
その慰霊碑の横にも小さな慰霊碑が並んでいます。
中には、台風被害で壊れた物もあるようです。
マメにお供えされている様子もあれば、朽ちた感じの物も見られました。
[上部右の文章]
陸軍省軍務局戦備課塚本清彦中佐は
太平洋戦争たけなわの時戦局の将来と日本
の前途を憂い 時の首相に対して戦争の終結と
首相の退陣を要求した そして 即日戦禍の
グアム島に転属せしめられ戦禍の露と消えた
数日の後同志であった私も二等兵として比島に
送られた それは昭和十九年のことであった
生き残りの私は塚本清彦君の武人として
愛国者として勇者としての生涯をたたえて
ここに南海の華と散った多くの戦友を偲びつつ
この碑を建立する
昭和五十三年十月 松前重義
[
木の慰霊碑もありました。
文字は分からないんですけど、
この慰霊碑の近くにあるそうなんですが、
日本軍の塹壕や水槽もあるそうです。時間が遅かったので、見に行く事hは出きませんでした。
この画像から、供え物が新しいことから、頻繁に慰霊に来ている人がいるのかもしれないですね。
グアム島最後の激戦地 叉木山戦闘司令部壕跡らしいです。
今はジーゴという地区なんですが、
ここにたどり着くのが、なかなか大変でした。
遅いランチの後、YAMAHAディーラーに寄って、ここに来たわけなんですが、
島の北側は米軍基地なんですね。
そして、この慰霊記念公園は、道案内の看板等は無いんです。
迷って、基地の入り口に入ってUターンしたり、しながら近辺をグルグル回ってたどり着いたものですから
閉園時間15分前だったんです。
それでも、管理人らしき人は、快く受け入れてくれました。
帰りも、ちょっと時間が過ぎてしまいましたが、待っててくれました。
私以外には社員の男性と女性との3人で行ったんですが、
この男性社員も、ここへ行きたいと言ってましたので、一緒に行きました。
彼もまた、カメラを向けられないと言ってましたね。
私も、どーしてもここへ行って、手を合わせたかったんです。
今の、一応平和と言われる日本の礎となった人たちの魂がこの地にもあるのです。
若い観光客のほとんどは、行かない場所です。
行かないんではなくて、知らないんです。
出来るだけ、沢山の日本人に知ってほしいです。
そして、過去の現実を知って、見て、今の時代を噛みしめて欲しいんです。
グアムへ行く際は、是非立ち寄ってください。分かりにくいけど…。
さあ、これで1日目が終了です。
あと、もう一回、ちょっと重い話がつづきます。
グアム観光のつづき7 ちょっとブレイク
引き続き、重い話…ではなく、ちょっと関係無さそうな所へ行きました。
って言うか、タロフォフォ地区から逆戻りする感じで北上していきまして、
その途中にあったYAMAHAのディーラーに立ち寄りました。
で、その店の横にあった店員の物らしきSUZUKIのGSX-Rです。R1じゃない!
ちょっと面白いな~って思ったんで撮ってみました。
やたらと小さいミラー。
チタンサイレンサー。
ノーマルっぽいけど??こんなの国内仕様であったかな?
しかも、ナンバープレートが!
どこに付けてるか分かりますよね?
なかなか、イカしたマシーンですね。
でも、グアムって、この手のバイクで楽しめる道は有るのかな?
サーキットもね、、1つだけあるんですけど…、無理なんです。
そのうち、分かる時がきます…。
出張から帰ってきたところなので、
今日は、この辺で…。
次は本当に重いかも…。
まだつづくグアム観光6
今回は、タロフォフォ地区です。
こちらは、山側にあるタロフォフォの滝。
タロフォフォの滝(タロフォフォ・フォールズ・リゾートパーク)
入り口には、放し飼いの豚が…。
これがタロフォフォの滝。
グアム最大の滝です。
滝の横から、ジャングルの中、徒歩で約15分の所に
あの、昭和の日本人ならば、誰もが知っている、立ち上がる時に言うセリフ
「よっこいしょーいち」で有名な
横井庄一さんが潜伏していた、横井ケーブがあります。
さすがに、行きませんでした。公開されているのは実物ではなく
レプリカなんだそうです。
でも、5分ほどこの中を歩いたんですけどね…。
で、、ちょっと残念な看板が立ってるんです。
因みに、このタロフォフォ・フォールズ・リゾートパークの外
(すぐ隣)では、アウトドアの実弾射撃が出来るんです。
でも、危なそうなので私は行かなかったんです。
アクシデント発生!
退場して車に戻ると…、
私じゃないんですけど、もう一台のレンタカーがパンク!
汗だくでスペアタイヤに交換。そう、南国は暑いんです!
おまけ。
山側から再び海側へ。タロフォフォ湾です。
ここは、珊瑚が見えますねぇ。
では、長い解説を。
タロフォフォ村 人口約3000人
タロフォフォ村も自然が豊かなエリアで、タロフォフォ川の上流には景観の綺麗な滝を見ることができます。またローカルのサーフィンスポットとしても人気がある「タロフォフォ湾」は、1940年代の太平洋戦争での敗北後の横井庄一さんなど多くの日本兵が脱出を試みた湾でもあります。
このエリアの見所といえばやはり「タロフォフォ川」で、海沿いの4号線からは雄大なタロフォフォ湾が望め、山側ジャングルに入れば「タロフォフォの滝」、近くには元日本兵の横井さんが潜伏していたとされる横井ケーブなどもあります。
タロフォフォの滝について
タロフォフォの滝は、グアム南東部のタロフォフォ湾から数キロ山奥に入ったところにあるグアム最大の滝です。ここはタロフォフォ・フォールズ・リゾートパーク内にあり、入場料$20(大人)/$7(子供)を支払い、200m程のロープウェイを下ってアクセスします。
タロフォフォ川の支流にあるこの滝は3段で形成されており、1番大きな滝は、幅約20m、高さ約9mほどあります。近くの吊り橋からも全貌を一望でき、滝つぼでは水遊びもすることができます(更衣室はないのでトイレでの着替えとなります。また滝からの飛び込みは禁止となっています)。
横井ケーブ(タロフォフォ滝の敷地内)
「タロフォフォの滝」をさらに300mほど奥へ進むと、「横井ケーブ」があります。このケーブは太平洋戦争時代から約28年もの間、元日本兵だった横井庄一さんが終戦を知らず潜伏生活を送っていた有名な洞穴です。現在、展示されているものはレプリカとなりますが、横井さんの当時の生活ぶりをうかがうことができます。
横井ケーブについて
横井ケーブは、太平洋戦争時代から約15年もの間、横井庄一さんが潜伏生活を送っていたとされる洞穴です。場所はグアム南部のタロフォフォ村の「タロフォフォの滝」から300mほど山道を約15分ほど歩くと「横井ケーブ」にたどり着きます。
横井ケーブに向かう山道の入り口には、小型のグアム歴史資料館がありグアム島でのチャモロ人が歩んできたジオラマが展示されています。ジオラマはスペイン統治時代や日本統治時代など、グアムがまだ植民地としてチャモロ人が鞭で叩かれ奴隷として虐げられる様子や、太平洋戦争時の横井庄一陸軍伍長の潜伏期間の様子なども再現されています。
横井ケーブを目指して密生した竹林の中を入っていくと、地面に穴があいたハシゴのようなものが見えてきます。この直径1mほどのハシゴは下っていけるようになっていて、中に入っていくと床に竹が敷かれた長さ3m、高さ1mほどの空間になっています。決して十分な広さとはいえない。高さ1mだと立ち上がるのも容易ではない。横井さんはこんな環境で15年も生活してきたのかと考えると驚かされる。
「横井ケーブ」はレプリカ ?!
本物の「横井ケーブ」はタロフォフォの滝から近い別の密林地帯にあるようですが、密林の奥深くにあり、とても観光ではたどり着ける場所ではないらしい。確かに15年も見つからないでいられたのだから簡単に行ける場所であるはずがない。
「タロフォフォの滝」の近くにあるこの「横井ケーブ」は、本物の「横井ケーブ」を再現したレプリカとして作られたものです。
本物の「横井ケーブ」の入り口は、レプリカよりさらに小さい直径50cm。密集した竹林の根元に竹で編んだ蓋で隠されていたという。中は2mほど掘り込んであり、竹で作った棚や物置、床は布団代わりに白く乾いた竹皮で敷き詰められていたという。
横井伍長の生命力は相当なものである。しかし横井さんは、なぜ28年もの間、グアムのジャングルで隠れ続けていたのだろうか?
横井庄一さんは、太平洋☆☆終結から28年間、グアム島のジャングルで自給自足の生活を送っていました。
横井庄一さん
1941年に太平洋☆☆が勃発し日本がグアムを一時☆☆したが、その期間は2年7ヶ月と短いものだった。1944年にはアメリカ軍の猛攻撃に敗れ奪還されてしまう。横井庄一さんは、この1944年からグアム島の歩兵第38連隊に伍長として配属していた。
同年7月21日にグアム南西のアサン、アガット海岸からアメリカ軍の上陸を許してしまう。その後8月11日まで日本軍の抵抗は続いたが、約1万8千人の日本兵が☆☆や自決で命を絶った。しかし米軍の制圧後も、日本兵の一部はジャングルへと逃げ込み翌年9月になってもゲリラ戦を続けるものもいた。
圧倒的なアメリカ軍の火力前に日本軍に残された戦術は、潜伏することでありアメリカ軍の戦いは日本兵を探すことであったという。アサン地区には現在も洞窟が残っているものもあり、当時は数百もの穴を採掘したとされている。
その当時グアムに残っていた日本兵はポツダム宣言で日本軍の無条件降伏が発令されたことを知る余地がなかった。横井さんはジャングルや自ら作った洞穴などで生活、グアム派遣から約28年後の1972年1月24日に現地の猟師に発見され、同年2月2日に日本に帰還することとなりました。
横井さんは帰国後、空港に出迎えに来た(旧)斉藤厚生大臣に「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰ってまいりました」と伝えたと言う。またその後の記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりました。」と発言した。これは「戦陣訓」が徹底的に頭に焼き付いていた証である。
横井庄一さん帰国後の第一声
敵軍へ捕まることの強烈な恥の感覚、捕虜になることを戒める「戦陣訓」が、投降を潔いとしない多くの日本兵をジャングルに潜伏させたり、自決の判断になってしまったのかもしれない。横井さんは「生きて本土へは戻らぬ決意」で配属されたと考えると、帰国の際の第一声の「帰って参りました…恥ずかしながら、生き永らえて帰って参りました」というコメントは、横井さんにとっては大変な恥辱であったろう。しかし、あまりの時代錯誤のコメントに聞いたものは誰もが驚愕した。ちなみに、この「恥ずかしながら帰って参りました」はその年の流行語となった。
戦後の日本の変化に対して横井さんが適応できるかと心配されたが、驚くほど素直に現代の日本に馴染み、妻:美保子とも、めでたく結婚。その後、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、1974年6月には第10回参議院議員通常選挙に立候補したというから驚きだ。
1997年に心臓発作で死去。享年82歳。
当時、グアムのジャングルに潜んでいたのは、もちろん横井さんだけではなかった。ゲリラ戦を展開しアメリカ軍を道ずれに相討ちしたもの多くいたという。戦後15年目の1960年には、16年間ジャングルに潜んでいた「皆川文蔵、伊藤正両軍曹」が島人に発見されている。
1964年には厚生省による「皆川文蔵」を含む日本調査団を結成しグアム島ジャングルを「日本兵がまだ2名生き残っている」という米国通信社の情報により、3週間探索が行われたが誰も見つけることができなかった。このときの調査がより徹底的に行われていれば、横井伍長はその後7年間ジャングルに潜むこともなかったのかもしれない。
「英雄」横井庄一
28年間、ジャングルで自給自足生活を送ってきた横井さんに、日本では強靭な生命力をたたえることはあっても「英雄」と呼ばれることはない。しかしグアムでは横井さん対し英雄視する一面もあります。
「横井さんはグアムでは英雄であり、尊敬されている。自分を自然に適応させ28年ものジャングルで生き延びた。そして彼は祖国を愛していた。」と、また「日本では英雄とされていないようだ。英雄というよりむしろ好奇の目で見られている。」と現地のチャモロ人が語る。タロフォフォ滝で配布しているパンフレットにも確かにこう印刷されている。「英雄 横井ケーブ」と。
決して忘れてはならない歴史のひとつですね。
ようやく、ランチタイムです。
ここはガイドブックに載ってるらしいんですが、店の名前は忘れました(^_^;)
でかすぎる気が…。さすがアメリカです。
私が注文したフェイスタプレート。↓
画像では分かりにくいですが、かなり多いんです。
左のカップのサイズは日本ではLサイズ位です。
大きさが分かるでしょうか?
右のサラダも、具がデカイんです。
トマトは、日本で言う普通のサイズですので、
この後、店の人がアイスクリームを店を出る間際にサービスしてくれたんですけど、、
入りませんって!
で、お気づきでしょうか?
ここでランチって(といっても午後3時前くらいでしたけど)
そう、長々と観光記事をつづけてますが、まだ
半日です!
もう、1週間くらいの感じかも知れませんが…。
ここで、パンクした車の組はテンションが下がって「帰る」とな…。
我々も島をほぼ半周してますので、あと行きたい所までの時間を考慮し、
北側への移動を開始します。
つづく…。
次が1日目の最後になる…、
予定。