これでいいのだ -3ページ目

まだまだ旅は終わらない







I would rather make mistakes in kindness
and compassion than work miracles in unkindness and hardness.

不親切で冷淡でありながら奇跡を行うよりは、親切と慈しみのうちに間違う方を選びたい


                            by マザー・テレサ



この心は何のためにあるのか?
その手は何のためにある、この見識は何のためにあるのか?
今、日本は大事な分岐点にいる。
心無い虐めを根本から一掃できるかどうかの分かれ道にいる。
人はみな誤りを犯すものではなかったのか?
理由があれば人をどこまでも責めてよいのだろうか?

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STAP現象騒動の闇はとても深くて、全貌がよく見えません。
そして騒動の渦中の人、小保方晴子さんによる手記「あの日」が出版されました。
当事者の視点で綴られることによって、これまで理研の会見やマスコミで語られてこなかった様々な<事実>が明らかになってきた。
けれどもこれは小保方さん目線の証言なので、客観的事実かどうかまではこれだけでは解らない。
この本の大きな要点はこういう事なのである。

・「STAP細胞」は再現実験においても再現されている(P.238)
・「STAP幹細胞」こそ万能性を有する細胞であり、これは若山博士の担当であった。

亡くなられた笹井博士が命名した「STAP細胞」とは前段段階の成果で、これは独立して行われた丹羽博士の検証でも再現されたとあり、本の中では「体細胞が多機能性マーカーを発現する細胞に変化する現象」と表現されている。
我々のイメージで「STAP細胞」と思い込んでいたのは「STAP幹細胞」だったのである。
「STAP幹細胞」の証明は、若山博士によるキメラマウス作製に委ねられており、若山博士は再現実験を拒否しており、さらに理研は、再現実験成功の基準をキメラマウス作製と定めたので、再現実験失敗と報じたのである。
小保方博士の担当でないものを、小保方博士が作れる道理はないのである。

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もし仮にこの本に書いてあることが、見え透いた嘘ならば、反論もあるだろう。
けれどもそもそも当初から、この騒動は実態を見せないまま展開している。
提出した論文にことごとく齟齬が指摘されているのも事実である。けれども何かおかしい。
博士号も剥奪された。これも何かおかしい。
他の同じような不正に対する処分は軽く、他に博士号が取り消された例はないようだ。
論文にそのような問題があるのなら、当時の教官や指導者は何をチェックしていたのか?
業界そのものにデータの改竄や不適切行為が日常的に行われている可能性も考えられるのですが。



知の迷走と感情の暴走



小保方博士とあえて呼ぶのは、社会の制裁に対する抗議の意味があります。
論文や研究において、この方が潔白であるかどうかは、厳密に云えば、やはりわからない。
科学の世界で不正と認定されるのと、一般社会で認識される悪意ある不正とは別のものなのです。
つまり理研の調査委員会によって、不正認定されたが、小保方博士が悪意をもって研究の捏造を意図したかどうかは、誰にも解らないことなのである。
この騒動のおおよその見当はいくつかある。世紀の大発見の看板を掲げての研究費捻出か、研究の横取りか、研究そのものの消去だろう。いずれにしてもろくなものではない。
けれどもそれよりも解さないのは、主にネット上でのバッシングなのである。
事の真相を知っている人はいるかも知れないが、専門家でも意見が別れているこの騒動の核心を一般人が知るよしもないのだが、小保方博士を捏造犯と決めつけての心無い批判、人格否定のバッシングが惨すぎる。

子どもたちも見ているのである。理由さえあればどれだけ酷い言葉のつぶてをぶつけても咎められないという事になるならば、子どもの世界でのいじめにも歯止めは効かないだろう。
いじめの現場では、それを正当化する屁理屈が感情の暴走を許してしまうのです。








異なる正義のせめぎ合いと命の重さ



現在のエネルギーや医療や保険、そういった社会の根幹産業を握っている者からすれば、安価なフリーエネルギーや万能医療の技術が世に出れば、困ることになる。資本主義においては、一般大衆の利益と支配者層のそれは一致しない。そんな事は考えてみれば容易に想像のつくことでしょう。病院も製薬会社も、薬を大量に使用する事によって莫大な利益を上げております。そこでは患者は命あるものではなく、利益を生み出す道具なのかもしれない。

STAP現象騒動に於いて、二つの疑問があります。
・なぜここまで不可解なのだろう?
・なぜ小保方博士がそこまで責められているのだろう?

この騒動の発端から一年以上、ネット上では今日も、ああでもないこうでもないと議論が繰り広げられ、堂々巡りを繰り返している。研究の捏造については、専門家の間でも客観的な結論には至っていない。
つまり現時点では、冤罪の可能性があるにも拘わらず、小保方博士に対するバッシング攻撃は、今日もどこかで止むことがありません。便乗して攻撃している発言もあるでしょうが、そのように攻撃を誘導している勢力の意図を感じております。
わたしも出来れば真相を知りたい。けれどもこの騒動を眺めているだけでも、ものすごく消耗してしまい、考えがまとまらなくなってしまう。その闇が深いからです。

この騒動の中心で日夜、精神的攻撃を受け続けている小保方博士の心中はいかばかりでしょうか。
生身の人間が耐えられるレベルを超えています。緊急事態と云えるでしょう。
もちろんわたし自身にも、思い込みはあります。この騒動をこう捉えています。
これは万能細胞を世に出さないための妨害である。小保方博士はその為の見せしめにマスコミやネット活動を通じて、社会的に抹殺されようとしている。笹井博士の出来事についても、司法解剖しないで済むような工作をされた形跡がある。
実に不可解です。最終的には、小保方博士の命も危ない。
わたしはこの様に考えておりますから、何を見るのでも自説を裏付けるような証拠を無意識的にも探しているのも確かです。
しかし同時にこうも思っています。たとえ小保方博士か、あるいは理研全体の研究捏造があったとしても、このようなマスコミやネットを通じての個人攻撃はあってはならないと。

ここでは今、<正しさの深化>の真っ只中にいるのではないでしょうか?
それぞれがそれぞれの正しさに従っているけれども、究極の正しさとは何なのか?
ここに様々な<正しさ>がせめぎ合っております。
自分の好き嫌いや利害関係を行動の基準としている人。この人たちからすれば、彼女の容姿や装飾品やその経歴や、研究上の齟齬、その何もかもが嫌悪の対象であるでしょう。また、自分の立場を揺るがすと感じるならば、だれであれ、真実がどうであれ、攻撃の対象になり得るでしょう。

事実を積み上げていけば必ず真相にたどり着くはずだと考えている人。常に正確であろうとしていますから、悪意があってもなくても、不正や捏造や経歴や研究の齟齬には敏感です。この人たちの傾向として、手順の正確さに拘ります。けれども人のいたみには鈍感です。鈍感というよりそれを見ようとはしない。あなたが悪いからでしょと言い切ってはばからない。

けれども、こういう正しさの基準に留まるならば、社会から惨いいじめがなくなる事もまたないでしょう。
理由さえ確保できれば、相手が苦しもうが死のうがお構いなしに、責めることが正当化できると、決めてしまっているからなのです。子ども達の事件で、暴力に歯止めが効かないのも、自分が気にくわない相手は、酷い目にあってもいいんだと、大人がそう生きてしまっているからでもあるでしょうね。子どもは大人の写し絵でもあります。





「あの日」より引用の章



P.1
あの日に戻れるよ、と神様に言われたら、私はこれまでの人生のどの日を選ぶだろうか。一体、いつからやり直せば、この一連の騒動を起こすことがなかったのかと考えると、自分が生まれた日さえも、呪われた日のように思えます。
P.7
助けてもらったのはいつも心の弱い私の方だった。何もしてあげることができなかったという無力感と友人に訪れた運命の理不尽さに対するぶつけようのない怒りと哀しみ。「この理不尽さに立ち向かう力がほしい。自分にできることを探したい」この思いはいつしか私の人生の道しるべになっていった。
P.7
医師の道も考えたが、間接的にでも多くの人の役に立てる可能性のある研究の道を選ぼうと思った。将来は広く人類に貢献できるような研究をすることを夢に描き、応用化学科への進学を希望していた。工学と医学を融合させた、組織工学による再生医療に強い興味を持っていた。
P.68
「なんのために研究しとるのか考えてみ。みんなのためや。研究は皆のための仕事や。思い通りにいかんでも、心正しく一日一日頑張れば、それでええんや」
P.101
若山先生が作った細胞を、若山先生ご自身が調べて「おかしい」と言っている異常な事態に、同じ分野の研究者だけでなく報道機関の誰も疑問を持たない。それは、社会風潮の中で誰が悪人で誰が善人であるかの構図が、すでに作り上げられてしまっていたことを証明していた。
悪を作り上げて必要以上に強調し、できるだけ叩きのめしす行為が正義となっていることを知らしめるような改革委員会の記者会見が延々と続いた。若山先生の豹変、改革委員によるあまりに重い提言への責任、世間からの強い批判は、抱えきれないほどの絶望として、私にのし伸しかかってきた。あまりの重圧に感覚が鈍麻していくのを感じ、そのままゆっくり体が透明化して消えていくような錯覚に陥った。
P.136
科学の女神の神殿を永遠に作り続ける作業のように思えた。
「STAP現象は新たな柱の土台になるよ」こんなにも美しく崇高で永遠のもの。この世界で変わらない唯一のもの。変化のある不変のもの、科学。携われることは幸せだと思った。「夢の若返りも目指せるかもしれない」
P.141
この日、目覚めた世界は昨日までの私の知らない場所だった。自分の偽者がテレビに映っているような非現実感と、個人情報がどんどん大々的に報道される現実。混乱と不安で涙がこぼれた。まったく知らない別世界に急に投げ込まれてしまったような恐怖を感じていた。
P.158
研究者としての成長をずっと見守り育ててくれた恩師たちでさえ、こんなふうに言うのかと、ひどく傷つき、悲しいと感じるより先に、ただただ涙がこぼれた、みんなで決めた悪には、どんなひどいことを言ってもやっても許される社会の残酷さ。尊敬していた著名な研究者たちからのマスコミを通じて伝えられる糾弾、それに乗じた有象無象の辛辣なコメントは、体のあらゆる感覚を奪っていった。
P.165
専門家を名乗る人たちが生き生きとバッシングコメントをしていた。ネット上では記事に対するコメント欄の「詐欺師」「死んで詫びろ」という言葉が連なり、テレビに出ているコメンテーターも一般の人たちも、まるでできるだけ強い言葉で私を痛めつけるのがこの世の正義だと考えられているかのようだった。「消えてしまいたい」「死にたい」という思いが押し寄せ、抗うことができなかった。これまでの日々を思い出し、「研究者の仕事はみんなのため、心正しくいればいいんや」という祖母の言葉が、頭を巡った。
私の心は正しくなかったのか。
これまでの生き方全部が間違っていたのか。そう自問し、ただただ涙がこぼれた。むせび泣くような体力はもう残っていなかった。
P.175
委員長である石井先生には複数の論文に疑義がかかったため、調査委員長を辞任したという知らせが三木弁護士から入った。私には疑義に対しては調査中であることなどを理由に、自身のホームページなどで情報を発信することを禁じられていたのに対して、調査委員らは自身のホームページなどで即座に説明を行ったことで、「研究者としての姿勢が正しい」と評価された。そして、すべて不正ではないという判定がすぐに発表された。私の不正判定との違いについての理由は、「昔はそれでもよかったから」であると、理事の一人から説明を受けた。
P.183
2014年の間に私の名前が載った記事は一体いくつあっただろうか。そしてその中に真実が書かれた記事は果たしていくつあっただろうか。私は全国新聞やNHKは真実を公平に報じていると信じて疑わなかった一国民だった。しかし想像だにしなかった側面を垣間見ることになる。
私個人に対する取材依頼は連日のように来た。「記事化を考えています」「何日までに返事をください」というメールを脅し文句のように感じられた。返事をすると都合のいいところだけを抜粋して記事に使用され、返事をしないと「返答がなかった」と報じられた。
特に毎日新聞の須田桃子記者からの取材攻勢は殺意すら感じさせるものがあった。脅迫のメールが「取材」名目でやって来る。メールの質問事項の中にリーク情報や不確定な情報をあえて盛り込み、「こんな情報も持っているのですよ、返事をしなければこのまま報じますよ」と暗に取材する相手を追い詰め、無理やりにでも何らかの返答をさせるのが彼女の取材方法だった。
P.213
私は重すぎる責任に堪えかねる日々だったが、理研に出勤すると、「対外的な対応と心の中に応援は違うから」とこっそりと言いに来てくれる人もいた。「STAP細胞があろうが、なかろうが、ずっと友達だから」と言ってくれる人もいた。
P.215
タクシーの運転手さんは報道陣に一斉にカメラを向けられ、驚いた様子だったが、「気をつけてね」と優しい言葉をかけてくれた。その翌日もたまたま同じタクシーに出会い、理研まで乗せていってくれた。人から笑顔を向けてもらうのがとても久しぶりのように感じた。
P.218
手は実験を覚えていた。マウスの組織から細胞を取り出し、酸処理をして、培養を行う実験を開始して数回目、緑に光る細胞塊を久しぶりに見た時、やはり自分が見たものは幻でなかったのだと思い、もう一度この子たちに会えてよかったと、久しぶりに肩の力が抜け、顕微鏡写真を撮ると、その場に倒れ込んだ。
P.220
笹井先生がお隠れになった。8月5日の朝だった。金星が消えた。私は業火に焼かれ続ける無機物になった。
P.221
私には、連日、「お前がかわりに死ぬべきだった」「よく生きていられますね」「後追いを期待しています」という匿名のメールや手紙が大量に届いた。
P.224
検証実験に戻った。熱く焼けた大きな石を呑み込み、内臓が焼け焦げているようだった。水分以外摂取することが難しくなっていた。体重は30キロ台にまで落ち込み、自分が死んでいくのを感じた。
でも気を遣ってくれている周りの人に心配をかけたくなかった。心のギブスを、何重にも巻き、カチカチに固め、気力だけで出勤していた。
P.224
ある立会人の立ち会い最終日、すべての実験が終わった後、「ありがとうございました」と告げると、「あなたがされていることは、公然のいじめと同じ。見ているのが辛かった。どうか体だけはこれ以上壊さないで」と、声をかけてくれた。近くにいるはずなのに、遠くのスピーカーから流れてくる音声が聞こえてくるように、くぐもった音として耳に入ってきた。この時にはもう返答する思考力も保てず、曖昧にうなずくことしかできなかった。
実験していても、目も見えにくくなり、音も聞こえにくくなっていた。体中が針で刺されるように痛い。立っていられない。音も感じられなくなっていた。
P.235
私の検証実験はキメラマウスができないまま終わりを迎え、季節は冬になっていた。処方されていた薬を飲んでも、ほとんど眠れなくなっていた。浅い眠りの中で毎回見る夢があった。
「逃げたいやつは逃がしてやれ。でも自分は最初からお前と一蓮托生や。調査結果に何が出てこようと驚かんから安心し」と丹羽先生の声が聞こえる。「責められる対象になるのは僕だけで十分。他の人はできるだけ巻き込まれないようにしてあげよう。師匠と弟子の絆は簡単に切れたりするものじゃない。誰が何と言おうと最後まで味方ですよ」と笹井先生の声が聞こえ、毎回ここで自分の嗚咽で目が覚めた。顔は涙でびしょびしょで。「先生、ごめんなさい。先生たちみたいな研究者になりたかったです」と涙でぼやけた天井に向かって語りかけ、止めどなくあふれる涙が、夜が明けるまでに止まりますようにと、自分に願いを込めて再び目を閉じた。
P.236
私はもうもたない。もう限界を超えた。この心はもう治らない。これまでの混乱の毎日が走馬灯のように頭を巡った。処分されるべきかもしれない、とも思った。広い砂漠の中にポツンと一人置き去りにされたような気持ちだった。
辞表は検証実験の部屋で書き、12月15日、当時の事務所長に提出した。
P240
誰かの役に立つ仕事に就くのが夢だった。その道をまっすぐに追ってきたはずだった。これまでの人生のあらゆる場面を思い出し、いつのどの判断が間違っていたのか、どうしていたらよかったのか、私はここまで責められるべき悪人なのだと思うと、この世に自分が存在してしまっていることが辛く、呼吸をすることさえ悪いことのように思えた。












病んでいる世界の宗教裁判



この問題を自分事として捉えて受け止めようとすると、ものすごい重圧を感じます。
ひとりの上司に叱責されるだけでも、ネットで名指しで罵倒されるだけでも、血圧等に変化が現れます。これだけの衆目を集めて、批判の対象にされるならば、それは想像を絶するものがある。
研究の問題とは一度切り離して、これに対処しなければならないはずです。
けれど、だれも助けることができない。
P.7
助けてもらったのはいつも心の弱い私の方だった。何もしてあげることができなかったという無力感と友人に訪れた運命の理不尽さに対するぶつけようのない怒りと哀しみ。「この理不尽さに立ち向かう力がほしい。自分にできることを探したい」この思いはいつしか私の人生の道しるべになっていった。

小保方博士は御自分で自分を責め続けて苦しんでおられる。
人生には理不尽なことがあり、それに対して我々が無力なのは小保方博士が綴っている通りである。
病院で処方される薬も心身を痛めつけます。
どちらも即刻止めなければならないものなのです。

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小保方博士が潔白であろうと、なかろうと、これは現代の魔女狩り裁判です。
あの暗黒中世の宗教裁判のリベンジであると受け止めています。
あの時の<いたみ>と<後悔>と<闇>を晴らし、癒やす時が巡ってきたのです。
好悪や善悪の正しさの基準、それを超えるチャンスなのです。
魔女も悪魔も我々の内側におります。
正しさの次のステージは、<存在>そのものにあります。

我々の世界は、独占と支配の哀しき歴史であり、我々はその奴隷の立場を甘んじてきた。
かつての奴隷制の時代とは違いますが、巧妙に支配構造が隠蔽された社会が成り立っております。
支配するものもされる者も、みな同じように病んでしまっているのです。
ですから<いじめ>からも<戦争>からも決して解放されることがありません。
この社会に於いて人の命は、貨幣の価値よりも低いものでしかないのです。
目の前で人が苦しもうが、放射能やワクチンで人が死のうが平然として、正しいことを言い続けられます。
医療行為の中で、殺人が合法的に行われる仕組みの真っ只中にいます。
これは病んでいる証拠でしょう。

この騒動は、小保方博士や関係者に留まる問題ではないでしょう。
見果てぬ夢である<平和>も<共生>も自分の中から見つけられるものです。
もうすでに抱いているものです。
互いの<存在を生かすこと>が我々の正しさの目標なのです。




「この理不尽さに立ち向かう力がほしい。自分にできることを探したい」(P.7)




それは、自分に向かって石を投げてくる人間を赦し、同時に自分も赦されることでした。
赦すことによって、自分も癒やされます。
みな等しく愚かな存在であることを受け止める理解のことでした。
理不尽さも魂を磨く慈悲の理であると識ることでした。
自分を責めすぎることは間違っています。
人はだれも、人のことを裁けないからです。自分のことも裁いてはなりません。
逆境を生きるチカラに変える奇跡は慈愛のことでした。生かされていることの感謝でした。

人生への愛。この愚かな世界をそれでも、見捨てないでここに居たいという気持ち。
支配するものも、支配されるものもいない世界へ移行するための試練の時です。

実験の過程で緑色に光るものを見つけたとき、うれしかったでしょう。
人の心の内側にもあるはずなんです。光るものが。
みなその光るものを観つけられるまで、彷徨い続け、愚かな旅を続けなければならないのです。


この本の中で、とても美しい記述があります。
亡くなられた笹井芳樹博士が残された言葉だそうです。
このような真摯な魂の輝き。科学者の志。科学の探求も宇宙の美しいものを探す旅でしょう。
責めることや、争うことなど忘れてしまい、いつもいつも美しい夢を心に抱いていればよいのです。


P.135
「僕はね、科学者は神の使徒だと思っているんだ。科学の神様はね、ときどきしか見せてくれないんだけど、チラッと扉の向こうを見せてくれる瞬間があってね、そこを捉えられる人間は神様に選ばれているんだよ。だから真の科学者は神の使徒なんだ。その美しい神の世界を人間にわかる言葉に翻訳するのが科学者の仕事なんだよ。神に仕える身として日々を過ごすんだよ」











ジプシー・チェリーの渡る虹


※北のリムジンガン(림진강)

※南のイムジンガン(임진강)


信じ難いニュースが報じられていますね。それともやはり北朝鮮だからと云うべきなのかも知れませんけれども、張成沢(チャン・ソンテク)元国防副委員長(67)が昨年12月12日、処刑されていたと。北朝鮮で政権No.2の人物だそうです。
処刑の理由は定かではありませんが、張氏の部下2人(李竜河 リリョンハ第1副部長と張秀吉 チャンスギル副部長)が、金正恩(キムジョンウン)第1書記の指示を即座に実行しなかったことが契機らしいと。「張成沢部長に報告する」と即答を避けたのだという。
激怒した金正恩氏は<泥酔状態>で処刑を命じたという情報はどこまで確かなものなのか。
北朝鮮が公表した写真では、張成沢氏の顔や手の甲が腫れ上がっており<処刑直前に拷問><遺体に機関銃銃弾90発><猟犬の群れをけしかけられて処刑><火炎放射器で焼却観測>という文字も躍っています。情報が錯綜しているようですが、いずれにしても恐ろしい。
それだけではない。張成沢氏の粛清後、張氏の親族の大半を処刑したことも複数の北朝鮮消息筋が26日、明らかにしている。
張氏の姉と夫の全英鎮(チョン・ヨンジン)駐キューバ大使、おいの張勇哲(チャン・ヨンチョル)駐マレーシア大使と張大使の20代の息子2人は昨年12月に平壌で処刑。全大使夫妻と張大使夫妻はいずれも銃殺。この他、張氏の2人の兄(いずれも故人)の息子や娘、孫に至るまで直系親族は全員処刑。
報復を断じるために親族まで葬り去る。それは昔からのことのようです。
張成沢氏は、故・金正日総書記の妹・金慶喜氏の夫にあたるのだそうですが、まさに絵に描いたような恐怖政治。とても正気の沙汰とは思えなませんが、どうしてこうなってしまうのでしょうか。
これが北朝鮮の現実のようです。



日本列島は世界の縮図=雛形説とは





世界地図を宣教師から初めて見せられた時、ユーラシア大陸を差して「ここが日本か?」と織田信長が宣ったと伝わっておりますが、たしかに似ております。これを発見した人はすごいですよね。誰が発見したかというより、こういう情報は天界から降りてくるものだと思われますけれども、こうして眺めて見ますれば、たしかに世界の地形と日本のそれとは不思議な類似性があります。


下関海峡=ジブラルタル海峡

津軽海峡=ベーリング海峡

千葉房総半島=朝鮮半島

東京=香港・上海

富士山=エベレスト(チョモランマ)

琵琶湖=カスピ海

大阪湾=黒海

愛知知多半島=アラビア半島

下関海峡=ジブラルタル海峡





これは日本雛形説、または日本雛形理論と呼ばれているもので、神道系新興宗教である大本教の教義が発祥のようです。たんに地形的な位置関係が似ているというでけではなくて、気候や出産物までがそれぞれリンクしており、さらに日本が雛形であるわけですから、日本で起こることは対応している世界の国々にやがて起こると言われております。本当でしょうか?

・日本が世界の中心
・日本は地球文明発祥の地
・日本人は特別な使命があるプロトタイプ(原型)の人間
・日本語は宇宙語で最古の言葉であり、将来は世界共通言語になる

付随してこういう事も語られているようです。
これはいわゆる選民思想であるとか、優生思想(=劣等な子孫の誕生を抑制し優秀な子孫のみを残す思想)とどのように違うのか?
これら遺伝子エリートの発想は、優れたものだけが生き残る価値があるというものであり、多様性を尊ぶ大自然の在り方とは相容れないものでしょう。雛形説の方はそうではなくて<役割り>ということではないかと。
自然界は一つの個性が成立するために他の個性を必要とする開かれた円環の和であります。選民思想のように閉じてはいないのです。自然界においては個性の優劣はなく全てがありのままに大切にされている。
選民思想が自然界の姿とは真逆であるのに対して、日本が世界の雛形であるというのは、共生している自然・宇宙の理を体現することを願いとして、それをまず日本において為し原型を形作る<係り>なのだと思われます。
弱肉強食で強いエリートだけが生き残るのではなくて、日本という国は<和>をもって国を治めることを託された<世界のへそ>なのではないかと。食物連鎖を見ましても勝者はいません。環=和=輪を描いております。優劣ではないと思うのです。百獣の王を見てピラミッドの頂点だと人間の目には映るけれども、それはまたバクテリアに分解されるのです。
人知を越えた不可思議な理によってそのようになっている。だから日本に起こったことは世界にも起こる。なので日本の治安が乱れれば世界もまた穏やかではいられないのではないだろうか。なぜだかリンクしているようです。
またこれは日本人とはなにか?という問題とリンクしております。





日本人とはなにかを教えてくれる人=ジプシー・チェリー






ジプシー・チェリーこと綾城ミサさん。昨年12月2日にCDデビューされました。
フィンランドの父、日本の母から生まれ日本で育ちました。肌の色は白いです。髪は美しい金髪です。日本人離れした容姿かもしれませんが誰よりも日本人です。
車椅子で病弱な幼少期を過ごしましたが、なんと学生闘志家として学園で暴れていたそうです。ゲバ棒・鉄パイプ・火炎瓶が飛び交っていた時代です。頭カチ割られて吹き出した血を相手の目潰しに使った件は想像して笑いをこらえました。数々の武勇伝は聞いていて飽きません。講演や映画の原作にして対価を頂けるレベルです。
許せないものを許せないとはっきりと仰る。「日本には原爆がある(※保有しているという主張)」と仰る辺りが玉に瑕ですけれども、それだけ核による世界の危機に真剣に向き合う感性をお持ちです。原発があり原発事故がありましたから当たらずとも遠からずですが。
学生時代の恩師の女性を自宅に引き取って最期までお世話するような方です。喫茶店経営を経まして現在は整体師。自宅には自ら書いた油絵やアテネの彫刻が飾られております。若かりし頃の自画像は大変美しいです。結婚はされておりませんけれども娘さんがおります。御自身も娘さんもガンを抱えているそうですが、病院での医療を拒み、毎日忙しく飛び廻っています。
マザー・テレサをこよなく敬愛し、首からクロスを下げておりますが、何処かの住職様(※清水寺だったかも)によりますと大日如来に守護されているのだとか。
それはともかくも、この度学生時代に書いた詞を元にした曲を出されまして「人生は楽しい」と充実した日々を送っている生涯青春時代が続いているような方なのです。大和撫子とは言い難いですけれども、誤解をおそれずに云えば<大和魂>をお持ちです。
心に誠をもち、潔く、働き者で情に厚く、不退転の意志があり、何よりも愛を貫こうとされています。
<ジプシー>とは、この方の生き様です。<チェリー>とはサクランボ=桜=日本を表しております。御自身の宿命と半生とを名前に込められたのです。



※こちらのボーカルはCoverになります

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冒頭で北朝鮮事情を綴っているのは、綾城ミサさんの亡くなられた愛しい方とリンクしているからなのです。新宿歌舞伎町に事務所を構えていたようです。身体の大きなそして優しい方だったようです。その方の出自は、アナスタシアかデューク・フリードかというお話です。そのことについて詳しくは綴ることができません。
お互いに外来の血をひくもの同士、心惹かれあった。ガン治療の為の手術。その後悔。亡くなる三日前に病室を抜け出して二人で海を見に行った思い出。やせ細った身体で運転してくれたそうです。病院では家族相当の扱いで、先生を説得した上で叶えた覚悟のドライブでした。そして歌を作ってくれていたこと。なのにその歌詞を金庫にしまったまま長いこと忘れてしまっていたこと。その歌の権利を買い取ってくれていたこと。愛しい人のお骨をイムジン河に……。
フィクションというのは人間が頭で考えるものですけれども、現実は時にそれを遙かに超えてしまいます。
この方の半生を原作にして映画にすれば三部作くらいにはなるのではないでしょうか。遺伝子のことをいえば外来ですけれども、考えてみますと日本で人類が発生したわけではないのです。そもそも日本人とよばれている民族は全て必ず他の地から来たということになります。
北から南から島国のこの日本にやってきた民族。その混血が日本人のルーツなのであり、日本文化の申し子が日本人ということになります。ですからわたしは在日という言葉を使いたくないのです。それは区別してしまう言い方であり、現実に差別を生む元になっています。








日本人が「イムジン河」を歌う意味



さて作詞家の松山猛さんが朝鮮学校で耳にした事がきっかけとなって、日本で歌われることになります朝鮮半島の名曲「イムジン河」ですが、ザ・フォーク・クルセダーズ(The Folk Crusaders)のメンバーであった加藤和彦さんのこんな言葉が残っております。
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この歌は松山が作詞したものでもなければ私が作曲したものでもない。はるか北の大地から、不思議な運命で我々のもとに届いた。しかし「イムジン河」に命を与えたのは、我々であると思う。誰がこの曲の原曲を口ずさみたいであろうか。誰がこの曲の原曲の歌詞に涙するであろうか。不遜を承知でこんなことを言う。「イムジン河」は「イムジン河」であって、「リムジンガン」ではないのである。
(※引用終)
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この美しい唄は、1957年発表といいますからもう55年近く経っていますね。いかにも朝鮮に古くから伝わる民謡に聴こえますけれども、当時の関係者はそう思っていたのですが、じつは北の優位性をうたい、南の貧しさを哀れむプロパガンダ楽曲でありました。1968年にフォークルがこの曲を発売するにあたりまして、在日本朝鮮人総連合会から発売元の東芝レコードに対して次のような抗議文が届きます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.「イムジン河」が朝鮮民主主義人民共和国の歌曲「臨津江(イムジンガン)」であり、作詞・作曲者はとも存在しているにもかかわらず作者不明とされた上に、第二・第三節の詩の内容を勝手に変更した点について事実を認めた上で謝罪すること
2.朝日・毎日・読売の各紙とニッポン放送の番組を通じて謝罪を公表すること
3.日本語の歌詞をオリジナルに忠実に改訳すること
4.原曲の作詞・作曲者名を明示すること
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発売禁止処置ではなくて、発売自粛ということになり、フォークルがのちに「イムジン河」を正式にリリースするのは、1995年のことです。冒頭の動画で北山修さんが「生きててよかったですね」と言っているのはそういうことなのですね。
松山猛さんは、オリジナルにない二番と三番とを書きました。北と南とを結ぶ歌詞です。
別れたままではいけない。それでは悲しすぎる。再び歩みよってほしいという切なる祈りの歌詞になっております。
<虹>が歌詞に出てまいります。虹は架け橋の象徴です。それは見える世界と見えない世界とを結ぶ橋でもあります。哀しいかな、人間の世界には雨も降ります。けれどもその雨は虹を渡るための雨でなくてはならないでしょう。
松山猛さんが出会い、フォークルが発表した「イムジン河」はまさに日本人ならではの曲だと思います。北と南を結ぶ架け橋としてのきっかけが日本の役割であるとそのように示されているかのようです。本当に日本は世界の雛形なのかもしれません。
近年、北山修さんがさらにこの「イムジン河」に新たな歌詞=命を吹き込んでおられます。
日本人だなあと思います。
日本は<虹>を願う国でなければならないとそう思っています。


「臨津江(イムジンガン)」(※北で歌われている歌詞)
一、
림진강 맑은 물은 흘러흘러 내리고
リムジンガン マルグン ムルン フルロフルロ ネリゴ
臨津江の清き水は 流れ流れて下り

물새들(뭇새들) 자유로히(자유로이)넘나들며 날건만
ムルセドゥル(ムッセドゥル) チャユロヒ(チャユロイ)ノムナドゥルミョ ナルゴンマン
水鳥たちは自由に 行き来して飛び交うが

내 고향 남쪽땅 가구퍼도(가고파도) 못가니
ネ コヒャン ナムチョクタン カグポド(カゴパド) モッカニ
わが故郷は南の地 行きたくとも行けないので

림진강 흐름아 원한 싣고 흐르느냐
リムジンガン フルマ ウォナン シッコ フルヌニャ
臨津江の流れよ 恨みをのせて流れるか

二、
강건너 갈밭에선 갈새만 슬피 울고
カンゴンノ カルバテソン カルセマン スルピ ウルゴ
川向こうの葦原では オオヨシキリ《鳥の名》だけが悲しく鳴き

메마른 들판에선 풀뿌리를 캐건만
メマルン トゥルパネソン プルプリルル ケゴンマン
やせた原野では 草の根を掘っているが

협동벌 이삭마다 물결우에 춤추니
ヒョプトンポル イサンマダ ムルキョルエ チュムチュニ
共同農場の穂が 波の上に踊るので

물결우에 춤추니 림진강 흐름을 가르지는 못하리라
ムルキョルエ チュムチュニ リムジンガン フルムル カルジヌン モッタリラ
波の上に踊るので 臨津江の流れを 分けることはできまい

「臨津江(イムジンガン)」(※南で歌われている歌詞)
二、
임진강 하늘 높이 무지개 서는 날
イムジンガン ハヌル ノピ ムジゲ ソヌン ナル
臨津江の空高く 虹のかかる日

옛 친구 들판에서 내 이름 부를 때
イェッチング トゥルパネソ ネ イルム プルルテ
昔の友人が原野で 私の名前を呼ぶとき

내 마음 고향 모습 추억 속에 사라져도
ネ マウム コヒャン モスプ チュオク ソゲ サラジョド
私の心故郷の姿が 思い出の中に消えても

림진강 흐름을 가르지는 못하리라
リムジンガン フルムル カルジヌン モッタリラ
臨津江の流れを 分けることはできまい






あなたに会いたくて、もう一度会いたくて



この日本国内で朝鮮の方々と日本人がいがみ合っているのもまた現実なのですが、わたしは綾城ミサさんに日本にいる朝鮮の方々をどう思っていらっしゃいますか?と問いかけてみました。
「尊敬しています。」と返ってまいりました。即答でした。そこには何のわだかまりもありませんでした。一つには学生運動の頃に上野に住んでいた朝鮮の方々に助けられたという体験もあるのだそうですけれども、批判もなく好きとか嫌いとかではなく<尊敬>という言葉には正直驚きました。諸々の出会いが深く大きかったのだと思われますが、このように信頼を寄せていれば争う心が起きるはずもありません。
わたしにははっきりとは解りませんけれども、人間は霊的な存在なのだと思っています。あの世の世界から、会いたくて会いたくて、それがたとえ敵同士でもいいからそれでも会いたくて、人間は人生を望んで来るのではないだろうか。かつて生き別れたあの人とこの世で和解したくて虹の橋を渡ってここにきたのではないだろうか。今いがみ合っている相手こそ会いたかったあの人だということもあるかもしれない。また虹の橋を渡るその時までが限られた出会えるかけがえのない恵まれた時間なのです。



        「イムジン河」(※日本語歌詞)
        一、
        イムジン河水清く とうとうと流る 水鳥自由に 群がり飛び交うよ
        我が祖国 南の地 想いははるか イムジン河水清く とうとうと流る
        二、
        北の大地から 南の空へ 飛び行く鳥よ 自由の使者よ
        誰が祖国を 二つに分けてしまったの 誰が祖国を 分けてしまったの
        三、
        イムジン河空遠く 虹よかかっておくれ 河よ想いを 伝えておくれ
        ふるさとを いつまでも 忘れはしない イムジン河水清く とうとうと流る


ノンマルトの故郷






台湾の歴史を唄っていると言われる名曲



美しい国、親日家の国、みんなおだやかな笑顔の国という印象の台湾。もし行くならこの国だろうというような大好きな国なのです。記録的な大寒波によって、日本やアメリカだけでなく、台湾でも80人以上の方々が亡くなられてしまいました。被災された方々のご冥福をお祈りいたします。
もう20年くらい経ってしまいましたけれども、サラ・チェンという台湾の方がNHKの歌番組で唄ったのが「雨夜花(ウーヤーホエ)」という曲でした。
いかにもアジア、いかにも台湾、これぞ民謡歌謡曲といった牧歌的で哀愁ただよう曲調にやられました。はじめて聴くのになぜか懐かしいノスタルジックでタイムトリップする感覚といいますか。その録画はベータマックスのテープに今も残っておりますが、残念ながら動画サイトにはアップされておりません。けれど「雨夜花」で検索しますとたくさんヒットします。やはり台湾を象徴するような人気曲のようです。
テレサ・テンが日本語詩も含めたバージョンを唄っていますね。わたしはそれが入っているCDアルバムを持っています。
この名曲「雨夜花」は1934年(昭和9年)に誕生しております。
作曲者の鄧雨賢(とううけん 1906年7月21日 - 1944年6月11日)の有名な4作品を「四月望雨」(=「雨夜花」「望春風」「月夜愁」「四季紅」)と呼ぶようですけれどもその中の一曲です。詞の内容は、夜の街に生きる幸薄い女性の哀しみ、儚さを綴っておりますが、これは作詞家の周添旺(しゅうてんおう 1906年-1944年)が、実際にホステスから聞いた身の上話に心打たれたことが名曲誕生のきっかけになっているようです。台北に出稼ぎに行ったまま帰ってこない同郷の少年を探していた少女が身を持ち崩して夜の街に生きるしかなくなってしまった、そういうお話でした。この唄に台湾という国自身、台湾の歴史、日本統治化の台湾人の心情を重ねてみる人もいるようです。

       「雨夜花」
        周添旺:詞 / 鄧雨賢:曲
       一、
       雨夜花  雨夜花 受風雨  吹落地
       雨の夜の花 雨の夜の花 風に吹かれて地に落ちる
       無人看見 暝日怨嗟 花謝落土 不再回
       誰も見ていてくれないから日々うらめしい
       枯れた花は地に落ちふたたびび咲きはしないのに
       二、
       花落土  花落土 有誰人 通看顧
       花は地に落ちて 花は地に落ちて 誰が愛でてくれるでしょう
       無情風雨 誤阮前途
       無情な風雨がわたしの前途を誤らせる
       花蕊凋落 欲如何
       花が枯れ落ちるのをどうすればいいの
       三、
       雨無情 雨無情 無想阮的 前程
       雨は無情 雨は無情 私の明日を思ってはくれない
       並無看顧 軟弱心性
       もろくなった心も顧みてくれない
       乎阮前途 失光明
       私は前途の光を失ってしまった
       四、
       雨水滴 雨水滴 引阮入受難池
       雨水が滴る 雨水が滴る 私を受難の池に誘い込む
       怎樣乎阮 離葉離枝
       なぜ私を葉や枝から離してしまうの
       永遠無人 通看見
       永遠に振り返ってくれる人はいないのでしょうか









この唄がことさらに叙情的なメロディになっているのは、昔ながらの郷土伝承の旋律を大切にしているからでしょう。作曲家のそのような思いが強かったようです。
当時は日本による台湾統治が始まり、西洋音楽がどんどん入り込んできましたが、特権階級層の音楽ではなく大衆に根付く音楽を指向したのでした。
そして日中戦争から太平洋戦争へと戦局がますます厳しくなってまいりまして、皇民化運動(台湾人の日本人化。戦時体制・戦争遂行化の施策)が始まりますと、「雨夜花」は「誉れの軍夫」という日本語の歌詞が付けられていきます。日本の童謡「汽車ぽっぽ」のように兵隊さん万歳、何としても一丸となって戦争に勝つんだというような内容です。台湾人志願兵21万人が南方戦地へと送られます。うち犠牲者は3万人。
美しいメロディの唄ですけれども、時代に合わせてそのような変容をみせてまいります。しかしこちらのバージョンはほとんど動画サイトでも見られません。
同じ旋律でも歌詞を違えてしまえば、全く別の歌になってしまう。心の在り方一つなのです。人の世は不条理で理不尽なことに満ちております。




       「雨の夜の花」
        西条八十:訳詞


       一、
       雨の降る夜に 咲いている花は
       風に吹かれて ほろほろ落ちる
       二、
       白い花びら しずくに濡れて
       風のまにまに ほろほろ落ちる
       三、
       更けてさみしい 小窓の灯り
       花を泣かせる 胡弓の調べ
       四、
       明日はこの雨 止むやもしれぬ
       散るを急ぐな 可愛い花よ
       五、(台湾語歌詞)
       雨夜花  雨夜花 受風雨  吹落地
       無人 看見 暝日 怨嗟 花謝  落土 不再回
       六、(repeat)
       雨の降る夜に 咲いている花は
       風に吹かれて ほろほろ落ちる

      (※いくつかパターンがあるようです。)
       一、
       雨の降る夜に 咲いている花は
       風に吹かれて ほろほろ落ちる
       二、
       白い花びら しずくに濡れて
       風のまにまに ほろほろ落ちる
       三、
       明日はこの雨 止むかもしれぬ
       散るを急ぐな 可愛い花よ
       四、
       雨の滴は 枝から落ちる
       とわに別れと ほろほろ落ちる


       一、
       雨の降る夜に 咲いてる花は 
       濡れて揺られて ほろほろ落ちる
       二、
       紅がにじんで 紫ぬれて
       風のまにまに ほろほろ落ちる
       三、
       明日はこの雨 やむかもしれぬ
       散るをいそぐな 可愛い花よ
       四、
       雨に咲く花 しんからいとし
       君を待つ夜を ほろほろ落ちる


       「誉れの軍夫」(※時局歌)
        栗原白也:詞

       一、
       赤い襷に 誉れの軍夫
       うれし僕等は 日本の男
       二、
       君にささげた 男の命
       何で惜しかろ 御国の為に
       三、
       進む敵陣 ひらめく御旗
       運べ弾丸 続けよ戦友(とも)よ
       四、
       寒い露営の 夜は更けわたり
       夢に通うは 可愛い坊や
       五、
       花と散るなら 桜の花よ
       父は召されて 誉れの軍夫








ノンマルトは滅ぼされるだけの存在なのか?



さて英ケンブリッジ大学(Cambridge University)の人類学者マルタ・ミラゾン・ラー(Marta Mirazon Lahr)氏の研究によりますと、一万年以上前の人骨に集団虐殺の痕跡を発見ということなのです。
英科学誌ネイチャー(Nature)に発表された研究です。「定住型の社会が形成される前の時代、村落や共同墓地が築かれる前の時代に起きた集団間闘争を示す証拠で、まさしく他に類を見ないものだ」ということなのですが、今更驚くべきことではありませんけれども、人類の歴史は侵略と殺戮のくり返しで、文明社会といわれましても飽きもせずに殺し合うことを止められない。これが哀しいかな現実です。
近代では中国によるチベットと東トリキスタンへの侵攻。大虐殺。大量の強制中絶。度重なる核実験による環境・人体への放射能汚染があります。政治犯として処理される強制連行や死刑。
日本のマスコミでは殆ど報道されることがありません。国同士そのような取り決めがあるからなのですが、
そこには人が想像できうる限りの残虐性、想像を超えて実行可能な暴力や愚かさや醜さがあふれています。事実は小説よりも奇なりを地でいっているのです。そこで行われているとされる記述を読めば、誰もが戦慄します。悪魔なんて架空のものだと思うでしょう?
けれども人間の中に悪魔が住んでいます。その悪魔が現実世界に解き放たれてしまう瞬間があるのです。



ノンマルトとは、古代ローマの軍神マルスの否定形で<戦わぬ民>を意味する造語です。殆ど一方的に住む場所を奪われ、家族を奪われ、故郷も文化も人権さえも踏みにじられている人々のことを表しております。
そしてノンマルトとはだれか?侵略者はだれか?どこにいるのか?ということなのです。
現代では文字通りの虐殺だけではなくて、経済活動を通じての格差拡大や搾取がまかり通っております。それは形を変えた侵略なのです。どの国も近隣諸国からの驚異にさらされていて、混迷する領土問題は解決の糸口さえ見い出せません。それぞれの主張と正義と歴史の経緯がぶつかり合い絡まり合い、ローマ法王もエリザベス女王もそろって、昨年は最後のクリスマス宣言を発している世界状況です。
日本はいかにも平和ボケな日常ですけれども。




日本から見ますれば、中国も韓国も北朝鮮もとんでもない国に見えます。そう見える人が多いと思われます。たとえば日本人は、和を尊ぶと申しますけれども、その半面に和を乱す者に対する制裁は徹底したものがあるのも現実です。村八分という言葉はとても恐ろしい響きがあります。わたしが思いますに、抱えている国民性や問題の違いはあれど、どの国もどうしようもなく混乱していて、そこに優劣を見出しても切ないということです。日本人の遺伝子は優秀で、他の国のそれは劣っているというのは情報として確かなことなのでしょうかね?
本当に自信があって強い人間は、他人を殊更に貶めるようなことは言わないものなのですけれども。それが真のことだったとしましても。

日本人の現在の和とはどのようなものでしょうか?
まるでそれは同じであることが正義であるかのようです。戦時中もそうでした。戦後であっても実はそれは変わらないのではないでしょうか?
いじめの渦中にあっては、それが多数派ならばそれに従うのが有無を言わさぬ正義なのです。本当のところはどうなのか?これでいいのか?そういう内なる疑問、聖なる声は喧噪の中に打ち消されていきます。それが日本人の誤った和なのではないでしょうか?
けれども本来の<和>とはそのような多数派に与するというものとは全く違うものでしょう。日本人は多数決主義に毒されております。そこにある<命>や<魂>を観つめようとしていません。
日本人は、ある一定の多様性を認めるようなポーズをとりますけれども、まだ本当の意味での<和>を国民性として実現していないと思われます。そしてその実現こそが、世界を救う大きな鍵だと思われ、それは小さな一人ひとりが握っているわけです。
日本人優劣遺伝子説は信じがたいですけれど、国技に外国人力士を活躍させるお国柄ですから、世界における日本の役割として小さからぬものを担っていると思われます。
まるで獣のように蹂躙されているチベットの僧侶の中には、それでもけっして恨まずに、憎まずに現実を受け入れて修行の糧にしている人々もいるようです。


もっとも哀しいのは、ノンマルトが、戦わぬはずの民が武力という修羅の道を選択することです。
民族浄化などと恐ろしい言葉も聞こえてきますが、危険は外の世界だけにあるのではないでしょう。自分の内側に悪魔がいます。闘争と破壊、戦争への傾きもまたあります。あらゆる対立心は、社会を戦争へと駆り立てていくことになる危険なものです。
ノンマルトも侵略者も自分の内側にいるということです。自分なのです。憎い敵も極悪非道なる暴君も外の世界にみえるのは自分自身の投影です。
人間はだれもみな死んでニライカナイ(遙か東にあるとされる生命の源の異界)へ還っていくのですから、この世に君臨する王者の謳歌はつかの間の幻です。
人は一体なにを望んでいるのでしょうね。かけがえのない命よりも、豊かな体験を実現する魂よりも、一切れのパンがそんなに大事なのでしょうか。
ノンマルトの役割は、天上界のビジョン=故郷をこの世において実現すること。それがノンマルトの目指している幸福なのでしょう。



わたしの大好きな台湾の唄「雨夜花」なのですが、この唄が好評でしたので物語り版というのも作られたのだそうです。当時二枚組のレコードとして物語版もリリースされたようです。動画サイトで検索しますとドラマの「雨夜花」がたくさんヒットしますが、その原作なのですね。
この素晴らしく美しい旋律を世に残したこの方を先生と呼びたいですけれども、作曲者の鄧雨賢(とううけん)は、中学校で教鞭をとりながら作曲を続け、1937年(昭和12年)には、東田暁雨(筆名:唐崎夜雨)と改名します。当時は日本植民地時代でした。昭和19年6月終戦の前年に39歳の若さで肺炎により亡くなっております。この歌は日本人カフェや酒場で様々な替え歌が作られるほどの人気があったようです。
どの国にもすばらしい文化があります。文化交流が虹の架け橋になりますように。






明日はこの雨やむかもしれぬ 散るをいそぐな可愛い花よ



むかしと違いまして今は情報がすぐにでも世界の隅々まで駆けめぐる時代です。
一世年前から人類は基本的には進歩していないようです。弱肉強食の暴力の構造に対して人間は無力であります。さらに云えばわれわれの経済活動がどこかの後進国から富を搾取している現実もあります。われわれが無関心でいることは世界のどこかで残酷な搾取や侵略を許していることと同じです。暴力を為すものは現実にいますが、構造的な暴力には一人ひとりが荷担しております。心の中に潜んでいる悪魔はわれわれの心の隙間をついてほくそ笑むのです。日本の平和な日常は虐げられている犠牲者の涙の上につかの間の均衡を保っているにすぎないようです。かなしいけれども「散るよいそぐな」と祈ることしかありません。
道が拓かれるとしたらこの偽りの日常を変えていくしかないようです。一つひとつの選択を吟味することによって。



       「雨夜花」(※替え歌)
       一、
       誰もしらない 南のはてに
       ながれながれて 咲く恋のはな
       二、
       女に生まれた 短いいのち
       知っておくれか やさしい人に
       三、
       お酒ものみます 浮気もします
       みんなあなたがいけないからよ

       一、
       雨夜花 雨夜花
       ウーヤーホエ ウーヤーホエ
       受風雨 吹落地
       シューフィンホー ツェロォテェ
       無人看見 瞑日怨嗟
       ポーランクァキ ムイリィウァンツゥェ
       花謝落土 不再回
       ホエシャロィトォ プーツァイホエ
       二、
       花落土 花落土
       ホエロートー ホエロートー
       有誰人 可看護
       ウーシャーランタン クゥアコィー
       無情風雨 誤阮前途
       ポーチィンフィンホー ゴーゲンツェントー
       花蕊墜落 要如何
       ホエルイラァロー ベェルーホー











幽玄の彼方に思いやりの道



わるいところと、問題のあるところはすぐに目につきます。しかしそれにばかり焦点しておりますと、ついついよい処を見失ってしまいがちです。まずはよいところを見ていきたいものです。ということで、中国も美しいものをたくさん産み出している国ですよね。たくさんの賢者、優れた文化があります。あまり一般には知られていないかもですが、中国の国営で製作しているアニメーション(あえてアニメとは云わない)はそれはそれは見事なものです。そこには高い精神性すら感じてしまいます。
まあよい面をみていきますと自然とよくない面もあぶり出されてまいりますけれども。中国経済の失策という声が聞こえてきますね。経済成長率は毎年7%を続けているはずなのにどうしたことなのでしょうね。看板と実態がちがってきているようです。中国・韓国・北朝鮮・香港・台湾、そして沖縄あたりともつながっておりますから関係が。北朝鮮が水爆実験と発表した不穏な動きにも当然関連があります。中国経済の失速が。世界が滅びるとしましたら、このへんから火がつきそうですけれども。


たくさんの若い尊い命が犠牲となりました長野県軽井沢町スキーバスツアー転落事故。
その運行会社がバス事業を始めたのは、2014年の5月といいますからまだ2年に満たないようです。本業は警備事業だそうです。
国土交通省は、関越自動車道の居眠りによる大事故の後に、制度を改めております。
それは、旅行会社の主宰する高速バスツアーを廃止するという事と、バス事業者の運行する新高速乗り合いバスに一本化するというもので、それはその改革によって、管理十分な大規模なバス運行会社によるバスツアーの実現に目的があったはずなのです。
改革の方向性はよかったのですが、現実には制度の徹底が為されずに大きな惨事を招いてしまいました。
事故原因は、いまだはっきりとは究明されておりませんが、直接的なものは、高齢運転手の疲労状態にある深夜運転にありそうです。バス業界は、運転手不足でそこには大変な競争があるそうです。低運賃を実現するための適正に欠く運転手の確保と薄給と酷使、バス運行会社の杜撰すぎる管理実態と。
理屈の上では、乗客の命を預かるバス会社が<安全最優先>でなければならない事はわかっていたでしょう。けれども資金繰りや利益の確保、従業員の生活のためには、なりふり構っていられない実情があり、経営陣は精神的に追い詰められていて、気の緩んだ運営が日常化していた。それが事故の背景にあります。
また乗客がシートベルトをしていなかった可能性も高いのですが、しかし本当に背景にある問題はなんだったのか?ということなのです。
なぜバス会社がそのような杜撰極まりない業務をせざるを得なかったのか?





日中の架け橋未完のシナリオ『二つの太陽』





1963年の作品で『牧笛(ぼくてき)』といいます。製作には重要なポストに日本人アニメーターが関わっております。水墨画アニメーションといって、セルを何層も重ねて透過光効果を使いおそろしい手間をかけて作られております。採算度外視の世界です。ご覧の通りの素晴らしき幽玄の世界です。少年が笛を吹くクライマックスシーンはディズニー映画『ポカホンタス』の「カラー・オブ・ザ・ウィンド」のシーンに影響を与えていると思われます。
もう二十年以上前の話になりますけれども、DVD登場以前はレーザーディスクが映像マニアのマストアイテムの時代がありました。今にしましたら、片面1時間しか入らないうえにLPサイズの円盤はでかすぎますよね。その初期にパイオニアの企画で世界のアート系アニメーションのシリーズがありまして、もっとむかしに上映会に参じて観ていた作品がソフト化されるとあって、がんばって収集したものです。その中でもどうしても欲しかったのがこの中国の水墨画アニメーションでした。けれどもどんなに店頭で探しても見つかりません。タイトルは「牧笛 中国アニメーション vol.1」でしたが、これをやっと見つけたのは浜松町の廃盤セールでしたっけ。いい時代になりました。現在は動画サイドに行けば簡単に見つかりますからね。
ジャケットが大きな分、ライナーの情報も豊かなものでした。そしてこの「牧笛」という作品には、人形アニメーションの父と呼ばれる持永只仁という日本人が重要なポストに関わっていることを知りました。アメリカ作品の「ルドルフ 赤鼻のトナカイ」も氏の関わった作品の一つでした。
持永さんは、中国アニメ界にも韓国アニメ界にも大きな足跡を残しておられます。そして中国のアニメーション監督・特偉氏と『二つの太陽』という企画を共同製作する約束をしていたのだそうです。どういうお話なのでしょうかね、意味深なタイトルではあります。文化大革命やら、商業主義への偏向によって企画は凍結されておりましたが、もう故人となったお二人の意志を継ぐべく、この企画が動き始めてもいるようです。どうかこのような文化交流が平和の架け橋になりますように。
人間は不思議な生きものですよね。このような美しいものを産み出しながら、別の手を汚れた血で真っ赤に染めます。中国が侵攻したチベット、そして東トルキスタン。。
現在とてもむつかしい局面に入っております。許しがたい相手と自分との関係をどのように結びなおすのか?
相手を滅ぼす方向に動けば、共倒れになることは自明だからです。




善良な一般市民が世界を滅ぼすかもしれない



今われわれを取りまいている悪しき傾向とは、何もかもが他人事であるということではないか?と感じています。問題なのはミスばかりするあの人である。杜撰過ぎる管理体制である。利益最優先の企業であり、国民の幸福が眼中にない政治家たちであると。そしてわたしはきちんとやっている。法律に触れたこともないし、間違わないのだと。いつもいつも自分を正義の側に置きたがる。なぜでしょう?
ただただ安心していたいのでしょう。どんなに安心だけを求めても現実は世界の混乱の真っ只中にいるのですけれども。
何もかもをある個人の問題、ある企業の問題、ある国だけの問題というふうに片付けましても、しかしそれは物事の背景にある本当の原因には全く無力な状態でしかないのではないでしょうか?
個人の問題であれ、社会的な問題であれ、実感をもって<自分事として>捉えることがないのが、われわれのごくふつうの風景なのです。
それがいわゆる常識人の考え方であり、善良な一般市民の立ち位置であり在り方です。けれどもそんな常識では社会はよくなるどころか、ますますわるい方向へと追い詰められていく。これまでのそういった姿勢や取り組みではまだまだ足りないのだと、世界の危機的状況に呼びかけられているのだと思うのです。


全てが他人事であり、思いやりのない客観的すぎる視点や批判は空しさを生むだけなのです。
今そこに個人の問題として表れてているもの。今そこにバス会社の問題として顕れているもの。今そこに中国のや北朝鮮や韓国の問題として現れているもの。どこに問題があるのだろうか?それに対してどういう対処や対策があるだろうか?どんな道が残されているだろうか?
思いやりと云いますけれども、思いやりとは事態と自分とを結ぶことなのです。自分事として考えること。
あなたの苦しみ我がくるしみ。彼のかなしみ、我がかなしみ。
これは道徳的な観念の問題ではありません。
世界が運命共同体であるならば、同苦同悲・同苦同哀の心を失う時に共に滅ぶことを意味します。
人類が生き残れるかどうかの分かれ道なのであり、切実な現実の問題なのです。




大地の涯でおもう故郷





北の涯から南の涯まで



これテレビで耳にしますよね。CMソングで「海の声」。歌うは浦島太郎こと桐谷健太さんです。名優の域ですね。歌声が心に染みてまいります。作詞:篠原誠、作曲:島袋優(BEGIN)、編曲:山下宏明。
人は海をみるとなぜか故郷をおもうものです。前回ご紹介した北の国の唄「オホーツクの舟歌」は失われた故郷(国後島:クナシリトウ)を切実におもう挽歌でもありました。「霞むクナシリわがふるさと」とうたっております。
日本は、北と南の最果ての地で、今だ解決されぬ哀しみを抱えております。
一つは北方領土の問題です。終戦直前に当時のソ連軍が、北方四島(歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島)に侵攻し実行支配しました。
日本としましてはロシアが中立条約を一方的に破棄した、ロシアからすると日本が先に条約を破棄したと主張しているようですけれども、それ以来、ロシアと日本は平和条約を結べておらず、双方の平和に暗い影を落としております。
解決策として、2島先行返還・3島返還・共同統治・面積2等分などの案があるようです。
しかしまず、政治的背景を横において、この問題をながめました時にその根幹に感じますものは、そもそもそこがダレの土地であったのか?ということなのです。それは日本人とはナニか?という問題にもからんできます。
北方領土が日本固有の領土である、故に四島とも返還されるべきであると、日本政府は主張するわけですけれども、そこには先住民族がいたはずなのです。アイヌの民です。さらにそれ以前には、オホーツク系とされる民族がいたといわれています。日本人が上陸したのは、1600年代だったようです。
つまり国後島を故郷と呼ぶべき民は、日本人だけではないということなのです。


芭蕉布 / 芙美子



わたしの両親は、鹿児島出身です。母方の家族は満州に渡りまして、祖父は満州鉄道の機関士をやっていたようですが、終戦後引き上げてきたと。まあそのように聞いていたのですけれども、最近になって亡くなって実は父は、奄美大島の出身であると母から聞かされました。理由は定かではありませんが、出身地をかくし公には鹿児島出身としていたわけです。
その奄美大島をめぐりまして、琉球王国の成立した15世紀半ば以降、琉球勢と本土勢とが何回も合戦していたそうです。その琉球王国自体も16世紀初頭、薩摩藩の琉球侵攻により首里城を開城しております。
その後の太平洋戦争では、本土に先駆けたアメリカ軍の空襲により、那覇市の実に90%が壊滅、唯一の地上戦=沖縄戦が民間人を巻き込む形で行われました。
その犠牲者の数は尋常ではありません。米日両軍民間人を合わせた戦没者は20万人と言われております。第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊の悲劇は、多くの映画やドラマで描かれております。1946年には、ひめゆりの塔という慰霊碑が建立されました。
そして沖縄におけるアメリカ軍基地問題は、普天間飛行場の辺野古移設を巡って現在にまで尾を引いています。




こうして、日本にだけ限ってみてみましても、人間の歴史というものは、領土を拡大していくために、生き残るために、先住民族の殺戮に明け暮れる。そのくり返しのようです。北の涯から南の涯まで、その血塗られた足跡が現在進行形で続いている。これが現実です。
そうしてみますと、日本がロシアに対しての北方領土返還の主張が、正当なものかどうか疑わしくなってきます。終戦前後の経緯だけに限ってみれば、日本の主張がもっともだとしても、もっともっと遡って歴史を俯瞰しました時に、そこには先住民族を駆逐して実行支配してきた歩みがあるからです。
そしてある区切られたスパンの正当性のみを闘わせて、互いに譲り合うことなく領土拡大・領土返還の主張がぶつかり合っております。
そもそもが奪い合い、必要ならば殺し合うことも厭わない価値観のステージに人類はおりますので、そういった境地の延長線上で、どんな妙案をひねくりだしたところで、現実的な解決には至らないのではないのではないでしょうかね。
つまりこういった閉塞した現実を打開するためには、これまでとはちがった取り組み方、対処方が必要であると呼びかけられている。この厳しい現実に。
人類がこれまではとちがう価値観のステージに上がるしか希望はないでしょう。
どこの国が問題だ。悪いのは向こうである。絶対に許せない。そのような考えに凝り固まっていましても解決に向かいません。とても人間とは思えない所業を繰り返しているのは、歴史を俯瞰すればどこの国もそうは変わりがないからです。
そして家族を愛し、国を想い、故郷を恋うる気持ちも、どこの国の人間も変わらないと思うのですが。




「琵琶湖周航の歌」et cetera



未草=ヒツジグサという花があります。スイレン科スイレン属の水生多年草です。未(ひつじ)の刻(午後2時)頃に花を咲かせるのが名前の由来だそうですが、蓮の花に似ておりますね。
さて最後に紹介する「琵琶湖周航の歌」という美しい唄があります。第三高等学校(現在の京都大学)寮歌・学生歌として知られ、1971年(昭和 46年)に加藤登紀子さんがカバーして、より広く知られるようになった唄です。
吉田千秋という人が作曲した「ひつじぐさ」が原曲となっているのですけれども、この作曲者の吉田千秋氏と、作詞者の小口太郎氏は互いに面識がないのだそうです。
三高ボート部員だった小口氏が、故郷諏訪湖に思いを馳せながら書いた詩を「ひつじぐさ」のメロディに乗せてみたところ、ぴたりとはまって、それ以来、三高伝統の寮歌になったようです。
この史実は長いこと知られることなく埋もれておりまして、それまでは作詞:作曲小口太郎とされていたようです。昭和46年といいますから、加藤登紀子さんがこの唄をレコーディングした年に、やはり三高卒業生の堀準一氏が、「ひつじぐさ」が元になっているようだと知りまして、その楽譜を入手したのが昭和54年だそうです。
大正2年、雑誌「ローマ字」にイギリスの詩「WATER - LILIES(睡蓮)」を翻訳して発表。
大正4年、音楽雑誌「音楽界」8月号に混声四­部合唱の楽譜として発表。その楽譜を通して愛好家の間で歌われるようになりました。まだラジオ放送もない時代でした。熱心に雑誌に投稿していたのは、吉田千秋氏が結核を抱える身体であったため、自作を演奏したり歌ったりする体力がなかったからのようです。


大正6年6月28日、第三高等学校二部のクルー達が、冊子に掲載されて「ひつじぐさ」のネロディに、小口太郎氏の詩をのせて歌ったのが「琵琶湖周航の歌」の誕生の瞬間です。その場所は、琵琶湖周航時の今津の宿でした。
大正8年に、作曲者の吉田千秋氏は、24歳に亡くなっております。「ひつじぐさ」のメロディが「琵琶湖周航の歌」に転用されたことも、広く世間に愛されていることも知ることがなかったようです。
というわけでこの歌は、替え歌に近い形で生まれています。原曲の「ひつじぐさ」とはかなりメロディが異なっておりますし、口伝のためメロディ自体の変化や、歌詞も当初は4番までしかなかったと言われていたり、文芸部による「改訂」や漕艇部による「再改定」と様々な人の手が入っているようです。まさに生きている唄という感じがいたします。著作権とは縁のない古き良き時代のエピソードですね。折にふれて書いておりますけれども、著作権というものが、利益を一極集中させて、ビルや御殿が建つというよう現実は歪んだものだと思っています。それはその歌を愛する人々に還元させていくべきものでしょう。それが時にはアーティスト自身にも大きな圧力をかけていきます。富が集中したからといって幸せになるとは限らない。宝くじの高額当選者のその後を見ましても、それは解ることなのです。
まあともかくも「オホーツクの舟歌」も羅臼の地元に伝わる唄を採譜・採詞して生まれておりますけれども、わたしの大好きなこの二曲の唄の誕生が、とても似ているので驚いています。
どちらの唄にも、これで一山当ててやろうというような野望は微塵もありません。ただただ人を思い、故郷を想い、美しい旋律と詞を綴っております。



さてそして、この動画の「琵琶湖周航の歌」は大変マニアックです。
実は大正末期から昭和にかけて、歌詞の改訂が行われていますので、現在歌われています歌詞と異なる部分がありますが、それを改訂前のまま歌っております。そしてそれだけでなく、最近はあまり歌われない6番をアカペラにして冒頭に持ってきております。これは素晴らしいアレンジとハーモニーでしょう。

現在の歌詞1番「昇る狭霧」→ 改訂前「煙る狭霧」
現在の歌詞2番「赤い椿の」→ 改訂前「­暗い椿の」

なぜこの唄が広く愛され、歌い継がれているのか?
この唄の歌詞は、儚き現世の夢に翻弄される人生の旅路を表現しているように感じるのです。
一番の歌詞は天上界から地上界に生まれてくることを象徴的に表しているのではないでしょうか。「われはうみの子さすらひの」われは海を母とする大自然の子、地上の世界に輪廻していく、それは魂の旅のようである。「滋賀の都よいざさらば」地名を言っておりますが、これは実在界のことでしょう。四番の歌詞にある「瑠璃の花園珊瑚の宮古い伝えの竹生島」、これは「滋賀の都」と同じで、魂の還るところを差しているように感じます。「仏の御手に抱かれて眠れ乙女子安らけく」、この世の命あるものは、仏の御手に抱かれているから生きていられる。しかし生きている間、儚きこの世のあれこれに翻弄されて人はそれを忘れてしまう。六番の歌詞「汚れの現世遠く去りて黄金の波にいざ漕がん」、この世の価値観を点検し、それを離れて、自然界の理に焦点して生きよう。「語れ我が友熱き心」、共に生かされている同伴者よ、魂の約束を果たしていこう。この歌はそのように唄っているように聴こえてくるのです。


       一、
       われは湖(うみ)の子さすらひの 
       旅にしあればしみじみと
       昇る狭霧(さぎり)やさざなみの 
       滋賀の都よいざさらば
       二、
       松は緑に砂白き 
       雄松(おまつ)が里の乙女子(おとめご)は
       赤い椿の森蔭(もりかげ)に 
       はかない恋に泣くとかや
       三、
       浪の間に間に漂えば 
       赤い泊火(とまりび)なつかしみ
       行方さだめぬ浪枕(なみまくら) 
       今日は今津か長浜か
       四、
       瑠璃の花園珊瑚の宮 
       古い伝えの竹生島(ちくぶじま)
       仏の御手(みて)にいだかれて 
       ねむれ乙女子(おとめご)やすらけく
       五、
       矢の根は深く埋(うづ)もれて 
       夏草しげき堀のあと
       古城(こじょう)にひとり佇(たたず)めば 
       比良(ひら)も伊吹(いぶき)も夢のごと
       六、
       西国(さいごく)十番(じゅうばん)長命寺(ちょうめいじ) 
       汚(けが)れの現世(うつしよ)遠くさりて
       黄金(こがね)の波にいざこがん 
       語れ我が友熱き心 
       語れ我が友熱き心








地の涯のニライカナイへ




ニライカナイとは、沖縄や奄美群島に伝わります理想郷のことのようですけれども、それはどこにあるのでしょうか?
おそらくは地の涯にあるのでしょうね。地の涯とは人間が不毛な領土拡大と争い諍いの悪夢から目覚めるところです。そこは人の魂がやってくるところであり、還っていくところでもあるでしょう。残念ながら政治は、世界の混乱に対してほとんど無力です。われわれの日々の生活の中にこそ、どうしようもなく絡まり合った世界の混乱を解く鍵があるはずなのです。この毎日の理不尽な現実にあって、怒ることなく、憎むことなく、ニライカナイに還るにふさわしい日々を送られれば可能性は拓かれるのではないでしょうか。人類の社会が存続する可能性が。どうにも廻りには、常識人の仮面を付けた悪ばかりがおりますけれども気のせいでしょうか。今、自分のいるここをニライカナイにするしか道はないようなのです。もういい加減不毛な混乱はごめんです。でも人間はなかなか懲りないのですけれどもね。世代が変わると体験がリセットされて、また同じことのくり返し。哀しみといたみの歴史から学ぶことが肝心だと思います。








名曲の調べは川の流れのように



この「オホーツクの舟歌」が童謡の「早春賦」の冒頭辺りを彷彿とさせることにふと気がつきました。羅臼に伝わる歌がどういう曲だったかわかりませんけれども、「早春賦」が1913年(大正2年)ですから、「早春賦」を参考にしていて似ていてもおかしくありません。その「早春賦」はまたモーツァルトの「春への憧れK.596」との類似性が指摘されているようです。まあ知らずに偶然似ていてもおかしくないわけです。
耳に心地よい名曲は、同じ黄金律を内包しているということかも知れませんね。
天界にある黄金の旋律がそれぞれの創作の場に降りてきたと考えるのも、浪漫があります。時代を越えて川の流れのように連鎖しているのでしょうか。みな素晴らしく美しい音楽です。