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至福と共にあらんことを




その会場では、読者からのこのような質問がありました
「ストーリーをまとめていく上で、根本的な “ 思い ” とはなんでしょうか?」
ジョージ・ルーカス氏は苦笑しながらこう答えました

「むずかしい質問だな。まず “ 直感 ” がある。
その直感をストーリーに放り込み、プロットを作っていくうちにキャラクターが浮かび上がる。
この最初のインスピレーションを逃さずに書いていくことが私の最大の闘いです。」



    これはもう、けっこうむかしの話になりますけれども、
    1985年3月29日木曜日4:00pmから5:30pm 会場はプレスホールセンター(プレスセンタービル10F)
    同年7月7日公開の映画『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』の宣伝のために、
    来日した映画監督であり、プロデューサーのジョージ・ルーカス氏を囲みまして、
    CIC映画主催、集英社、週刊プレイボーイの後援で、
    パネル・ディスカッションが開かれたのですね。その会場での一コマです
    日本側のパネラーは、本宮ひろ志氏と北方謙三氏
    テーマは「ヒーロー」でした


この質問をした読者とは、わたしのことであり、
読者応募の抽選に当たりまして
ラッキーなことに当日の会場にいたわけなのですけれども、
ルーカスさんに質問のできるコーナーがやってきて、
たしか二人目だったと思いますが、
これはもう手をあげるしかないと思いまして
清水の舞台を飛び降りるとは、
まさにこんな心境なのだろうと思いながら
もう心臓が破裂するくらいにドキドキドキドキしてしまっていたわたしなのですが、
司会の今野勉さんのその時の微妙な表情、
こんな気の弱そうな人に当ててしまって大丈夫かな、みたいな、
その表情は、なぜか今でもはっきりと思い出すことができますねえ



いまやっと世界がひとつになった



セミナーの締めくくりに司会の今野勉さんからこのような問いかけがありました
「そうですね。ルーカスさんには『スター・ウォーズ』だけではなくて『アメリカン・グラフィティ』がある。あんな映画をもう一度つくる予定はないんですか?」

「あれは私の成長の過程で生まれたもので、いま、また違ったものを作ってもおもしろくないと思っています。
それよりも私は、現代社会に何かを投げかける映画をつくりたい。映画をつくりながら、いろんな国に行き、いろんな人と出会いました。そしてスリランカの映画館が私の作品を上映しているのを見て、この地球はなんて狭いんだろうと思った。
いま世界はひとつになろうとしていて、それをいろんなメディアが増幅している。これはとても重要なことです。」


この方が映画界や世界中に影響を及ぼした革命的なことは、本当に様々あるわけで、
特殊効果の技術的なことであるとか、今更いうまでもないのですけれども、
やはり、スター・ウォーズという一つの映画ジャンルを打ち立てたこともそうですね
コアなファンであるほど、好きな感情だけでは到底収まらないものが、
どうしたってあるわけですが、
一作一作の評価がどうであるとか、こうであるとかということを越えていて、
もうこのお祭り映画という器、そのものが、愛されているのだという気がするのですが


ルーカス氏のおこした悩ましい革命に、
過去の作品のアップデートというものがありますよね。はじめは特別編として、新たなCGの技術によって、あるカットのグレードアップといいますか、修正してしまうというものでした
これがその後、新たにソフト化されるたびに、どこかのカットが書き換えられるという流れになってきました。このことが実に悩ましいのは、公開当時のオリジナルversionがリリースされなくなってしまったという点でしょう
もしかしましたら、ルーカス氏の中で、このシリーズが内なるドラゴンのように、自我を縛り付けるものへと、ある部分そのようになってしまっているのかもしれないなと思うことがあります。
創造主・制作者としてのクリエイティブな思いだけではなくて、愛しい存在ではあるけれども、この映画をありのままには愛せなくなってしまっているのではないだろうか?




過去を上書きして至福を求めよう



その質問を発した本人ですら、よくわかっていないあいまいな問い掛けに、
ルーカス氏は本当に真摯に答えてくれましたねえ。とても感謝しています。いい思い出になりました
物語を構想する上で、そのベースになるものにはいったい何があるのだろう?
やはり神話というものを念頭に置いて考えているのだろうかと。そこには世界や人間に対する愛があるのだろうか
そういうことを思っていて、そういうことをわたしとしては問い掛けたかったのでした
ルーカス氏は<最初の直感>という表現をしてくれました
この方に限ったことでは、もちろんありませんけれども、なぜあの映画シリーズがこんなに愛されているのか。そしてこの方が大きな大きな成功を収めたのか?
それは、ご自分の直感に従って<至福>を追い求めているからなのです
きっとそういうことだと思うのですよね


ルーカス氏が、自身の映画シリーズでやってみせてくれたように、人間の過去というものもまた、上書き可能なものなのですよね。過去はアップグレードができるものなのですよ。
けれども、情けなかったり、後悔だらけの記憶を、過去を、それをありのままに受け入れて愛するということも大切なことですよね
映画は制作者側だけのものではないと思うのです。ぜひあの時のオリジナルのままのversionの映画を、そのままでもう一度観てみたいと思っておりますが
ルーカス氏があのセミナーで、語っていたように<世界に何かを投げかける映画>それは現代の神話という形で、その後の新三部作を世に送り出してくれました。これは大きな贈りものとなりました。そして今度は、ルーカス氏の手を離れたことは残念ですけれども、その後の新たな三部作が制作されていると
どうしたってわくわくしてしまいますねえ
この映画シリーズ全体としての無言のメッセージというものがあるかもしれません
それはひたすら<至福>を追い求めよ、ということなのです
それはルーカス氏の足跡でもありますし、スター・ウォーズシリーズのベースになった、ジョーゼフ・キャンベル氏の教えでもありました
こちらは、キャンベル氏の生前の貴重な番組『神話の力 vol.4 死と再生』より抜粋します


人生において、この上ない喜びや生きている実感、つまり私たちがいう至福を感じることができるのは、恐怖や誘惑を克服した時というわけです。そういう人を惑わしたり、束縛したりするものから、解脱して初めて、人生の至福が得られるのです。
至福を求めるべきなんですね?
求めれば至福に到達します。
結婚がそうです。結婚式は、これを現しています。中世のころ色々なものの象徴として用いられたのは、糸を繋ぐつむぎ車です。それは運命のつむぎ車です。つむぎ車には、中央の軸の部分と、ふちの輪の部分があり、もしあなたが、ふちの部分にいたら、車が廻るにつれ、上がったり、下がったりします。でも中央にいれば、動く事はありません。
健やかな時も、病める時も、という結婚の誓いは、このことを意味しています。
運命がどう転がろうと私はゆるがず、あなたと共に生きます、ということです。
私の至福は、あなたそのものであり、あなたの富でも、名声でもないからです。



私が至福や喜びについて考えるようになったのは、サンスクリット語の影響です。サンスクリット語は、非常に精神的な言葉です。古代インドの人々は、すでに超越的な存在について、全てを識っていたんです。
サンスクリット語には、超越の大海原へ私たちを連れていってくれる、三つの言葉があります。
<存在><完全な意識><歓喜>という意味の言葉です。
私はこう考えました。私の存在が妥当なものかどうかは解らない。自分の意識が完全なものかどうかも解らない。でも私の歓喜がどこにあるかはわかる。だから、歓喜を手放さずにいれば、それが私の存在と完全な意識をもたらしてくれるだろうってね。
人は中々、至福を見つけられません。どうすればいいでしょうか?
日々色々な体験をする中で、ふとわかる瞬間があります。自分の喜びはナニかが、直感的にわかるんです。それをつかむことです。それは他人には判りません。自分自身で見極めるしかありません。
私は至福を追求していると、時々、見えない手に助けられていると感じるんですが。
ああ、私もいつもそう感じます。実に不思議ですね。いつも目に見えない手に助けられるので、こう信じるようにすらなりました。至福を追い求めれば、私たちは、はじめから自分が進むはずだった道を進むようになる。そしてどういうわけか、自分が送るべき人生を送るようになるとね。至福の世界にいる人々と知り合うようになると、彼らは、あなたのために扉を開けてくれます。ですから恐れずに、至福を追い求めるんです。そうすれば、思いがけない処で扉が開くでしょう。
見えない手に助けられるという感覚を持たない人もいますね。
ええ、それを感じない人もいます。そういう人には同情を覚えます。かわいそうな人です。すぐそこにある至福という永遠の命の泉に気づかず、つまずきながら歩いている人を見ると気の毒に思います。
すぐそこに?
ええ
永遠の命の泉が?
そうです。
ほんとうに?
すぐそこにあります。
そことは?
どこにでもです。
至福という永遠の命の泉は、いつでも、どこにでも、みつかるんです。


マスターヨーダかく語りき



      ドラゴンとは、二つの動物の統合である    
      農耕の象徴の蛇と狩猟の象徴の鷲、
      相反するものが統合する時、それは螺旋を描き大空へ舞い上がる

                           by ジョーゼフ・キャンベル





The Power of Myth: 25th Anniversary Collection
Twenty-five years ago, renowned scholar Joseph Campbell sat down with journalist Bill Moyers for a series of interviews that became one of the most popular programs in PBS history. In dialogues that span millennia and far-flung places, the two men discuss myths as metaphors for human experience, touching on topics as diverse as world religions and pop culture. Includes newly recorded introductions by Moyers for each episode. 6 episodes, 5 ¾ hrs, 3 DVDs, SDH, viewer’s guide. Mature audiences.

映画『スター・ウォーズ』は、劇場作品オリジナルの企画でありました
往年の映画『フラッシュ・ゴードン』の版権取得を断念してから、
まったくのゼロから考えたようです
土台は、ルーカスが幼いころに親しんだ冒険活劇・・・
そこに、比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルとの出会いがあって、
神話の要素が加わることにより、
現代の神話の趣を持つようになってきました
その物語が語っているものとは、何だったのか?
それを識らないと、これはわたしの中で輪が結ばれないのですけれども、
これだけ惹かれてしまうということは、何かそこに理由があるのではないかと、あれやこれやと
思索を巡らしてしまうわけですが、

 オビワンやヨーダの語るフォースが何かとても神秘的で、
 この映画に深みを与えておりますね
 冒険活劇にこのような概念を持ち込むことこそ不思議なことです
 フォースが全てを結びつけているんだと、
 生命がそれを生みだし、育んでいる
 フォースは識るためと守るためにだけ使いなさい
 戦って偉大にはなれんぞ、と
 しかしこの映画は戦いがメインではありますが、
 物語的には何を描いていたかを
 ごくシンプルにいえば、
 家族に躓いた一人の男が、
 最期には、その家族によって救われる物語です
 おそらくわたしは、ここに引きつけられているようです
 ここでこう考えます
 人間というものは、完全な闇、あるいは、完璧な光の存在に
 なれるものだろうか?
 少なくとも、人間的思考においては、そんなことは不可能というものでしょう
 それが良いことだと思うからといって、
善のみを未来永劫永遠に選ぶ、ということなどあり得そうもありません
物語の最後で、主人公のルークが見せた行動
最大の敵を目の前にして武器を投げ捨てる
あれは、<対立を放棄する>ということを意味しているのでは、なかろうか?と
世界は対立に満ちています
この世界が混沌としているのは、
悪しきものと、善きものとが果てしなく対立しているからでしょう




ヨーダ語録

In a dark place we find ourselves, and a little more knowledge lights our way.
暗闇に閉ざされたときは少しの知識が光をかざしてくれるんじゃ

No! Try not! Do, or do not. There is no try.
やってみるではない!「やる」か「やらない」か、あるのはそれだけじゃ

You must unlearn what you have learned.
今まで学んできたことを棄ててしまえ

Ohhh.Great warrior? Wars not make one great
偉大な戦士じゃと?人は戦いで偉大にはならんぞ

For my ally is the Force, and a powerful ally it is.Lige creates it, makes grow.Its energy surrounds us and binds us.Luminous beings are we, not this crude matter.You must feel the Force around you. Here, between you, me,the tree...the rock...everywhere.!!Yes...even between the land
わしにはフォースがついておる。強い味方じゃ。生命がそれを生み出し、育む。そのエネルギーが我々を包み、結びつけている
生命とはエネルギーだ。肉の塊ではない。お主は、お主を取り巻くフォースを感じねばならぬ。ここにも、わしとお主の間にも…あの木々にも、岩にも…そう、あらゆる場所にな

Yes, run! Yes, a Jedi's strength flows from the Force. But beware of the dark side. Anger, fear, aggression; the dark side of the Force are they. Easily they flow, quick to join you in a fight. If once you start down the dark path, forever will it dominate your destiny, consume you it will, as it did Obi-Wan's apprentice.
よし、走れ走れ!ジェダイの強さはフォースを源泉とする。しかし、暗黒面に気を付けよ。怒り、恐れ、攻撃性、フォースの暗黒面はそこにある。容易にそこに付け込まれ、すぐさま取り込まれるぞ。囚われたら最後、お主の運命を支配し離さなくなるだろう。オビ=ワンの弟子のようにな

You will know... when you are calm, at peace, passive. A Jedi uses the Force for knowledge and defense, NEVER for attack.
いずれわかるようになる。お主が心の平和を得たときに。ジェダイの騎士はフォースを知識と防御にのみ使う。決して攻撃のためではない

To be Jedi is to face the truth, and choose. Give off light, or darkness, Padawan. Be a candle, or the night.
ジェダイになるというのは真実に直面し、選ぶことじゃ。光、あるいは闇を放つんじゃ、パダワン。キャンドルになるか、あるいは夜になるかじゃ

Fear is the path to the dark side. Fear leads to anger, anger leads to hate, hate leads to suffering.
恐れはダークサイドにつながるんじゃ。恐れは怒りに導き、怒りは憎しみに、憎しみは苦痛へつながる












パペットであるヨーダのキャラクターの発想をさらに進めて、          
オールパペットというか、                            
アニマトロニクス(アニメーション&エレクトロニクス)により製作された映画が 
ありまして、その映画『ダーク・クリスタル』は、やはり地球を舞台としない、  
類いまれなる映画なのですが、                        
さらに神話的要素が濃くなっておりました                   
穏やかな賢者の種族ミスティック族、そして欲深で凶暴なスケクシス族によって、 
世界は闇と光とで、対立している構造になっている               
そのどちらでもないゲルフリン族という人間に似た種族が、           
闇と光、善と悪を統合する鍵となっていて、物語は進行します          
ミスティックとスケクシスとは、かつての姿=ウルスケク族へとアセンションして、
宇宙へ旅立っていく、というような物語なのですが、               
やはり神話をベースにすると、同じようなことが描かれていきます        
人間とは、混沌としたカオスに、善と悪という対立した営みを現していきますが、 
それを統合するところに人間としての権能があるようです            






大いなる神秘を解明しようとするならば、あらゆる側面から探求せねばならない
ジェダイの教条主義的な狭い視野ではだめだ
賢明で完璧な指導者になりたいと願うなら、フォースの広い視野を身につけよ
フォースの全てを受け入れるのだ





この言葉もまた、真理であるでしょう
シスの暗黒卿=ダース・シディアスが、アナキンを暗黒面に、引き入れようとする場面で、
語る言葉なのですが、人間の中に闇へと傾いていく衝動があるのも、また事実なのです
神話的にいえば、人生とは、内なるドラゴン退治なのではないか?と
自分の中にある闇を認めて、それをも尊ぶ
光だけが尊いのではなく、闇にもまた意味がある

自分も<世界の悪の一部である>と識る智恵
そして、闇には堕ちないという決意

ドラゴン退治の意味するものは、異なるものの統合、なのです
闇を否定して対立し葛藤するのではなく、
それをあるがままに認めてしまうしかないのです
ジョーゼフ・キャンベルが語っていた「世界はあるがままで素晴らしい」という言葉
お釈迦様は、最期に「世界は美しい、人生は甘美なものだ」と語ったとされています
それは何を意味するのか?
人間はその内面において、その人生において、
世界の闇と光とを統合することが望まれる存在なのであって、
だからこそ、この混乱した世界はそのままで素晴らしく、美しい
なぜなら、そこにあなたがいるから
わたしがここにいるから
その存在そのものが、大いなる希望とするならば、
キャンベルの言葉にも、うなずくことができる気がするのです


デス・スター内部の皇帝と謁見する部屋は、暗く暗黒面をイメージさせるものでしたが、
興味深いことに、皇帝もダース・モールという悪役も、
最期は深い深い奈落の底へと落ちていきました
闇そのものと同化してしまった者の末路は、心の奥底のブラックホールに
のまれてしまうということでしょうか





ジョーゼフ・キャンベルは、宇宙は音楽であり、生命は神話という音楽に
合わせて舞っている、と表現しています
とてもダイナミックで美しい表現です
宇宙の運行も、世界の情勢も、いっときも止まることを許されず、
人間もその踊りを止めることができない
自分の悪しき傾きを中々、ふり返るということができない
それはとても悲しいことです
人生の終わりがくるまで、ただがむしゃらに走り続けて、最期の最後に
気がつければまだいいけれども
この人生の喧噪の真っ只中で、ふと立ち止まることができたなら、
どんなによいだろうと思います

闇を学ぶことによって望まれているのは、大いなる<ゆるし>だと思われます
選ばれしものと予言されていたアナキンが闇に堕ちるのも、だから意味がある
光の学びだけでは、それはまだ宇宙の片面でしかないからです
だれもが、様々な仮面をつけて、この人生をやっておりますけれども、
この自分が暗黒面の仮面をつけていることに、気づいて、
それを自らの意志で脱ぎ捨てて、
裸の人間としての表情を取り戻すことができたら、
どんなに良いだろう、と思うわけなのです
悪を外にだけ見るのではなく、自分の内面において観ること
おそらくそれは、ゆるしの感情がなければ、むつかしいことでしょう
内面の葛藤と対立を越えて、世界の闇を自分事として引き受ける
そこに初めて、新たなる希望が生まれてくるわけです

人間の闇と光について、
シリーズで、主に映画を通して観つめてきました
これで現時点でのふり返りはおしまいにできそうです
また新たな学びを得れば書いていきますが
ご訪問、感謝いたします m(_ _)m




こちらに引用するのは、                        
キャンベルとビル・モイヤーズとの番組で紹介されていた、        
合衆国政府に宛てた、シアトル酋長の返信です              
1852年頃のことになります                       
マスコミによる嘘のキャンペーンは本当に様々にありますけれども、    
テレビや映画などで、アパッチと呼んで、いかにもインディアンが野蛮人であると
描いてきたことも、その一つでしょう                  
すっかり騙されておりました                      
本当に無知で野蛮なのは、どちらなのかを考えさせられます        



    ワシントンの大統領は土地を買いたいという言葉を送ってきた
    しかし、あなたはどうして空を売ったり買ったりできるだろう、あるいは土地を
    その考えは我々にとって奇妙なものだ
    もし我々が大地の新鮮さを持たないからといって、
    あるいは水のきらめきを待たないからといって、それを金で買えるものだろうか?
    この大地のどの一部も、どの砂浜も、暗い森のどの霧も、どの牧草地も、
    羽音をうならせているどの虫も、
    あらゆるものが私の部族の思い出と経験の中では尊いものだ
    我々は血管に血が流れているのを知っているように、
    木々のなかに樹液が流れているのを知っている
    我々は大地の一部であり、大地は我々の一部だ
    薫り高い花々は我々の姉妹だ。クマ、シカ、偉大なワシ、彼らは我々の兄弟だ
    岩山の頂き、草原の霧、ポニーの体温、そして人間、みな同じ家族なのだ
    せせらぎや川を流れる輝かしい水は、ただの水ではなく、我々の祖先の血だ
    もし我々が自分たちの土地を売るとしたら、
    あなた方はそのことをよく覚えておかなくてはならない
    湖の水面に映るどんなぼんやりした影も、
    私の部族の出来事や思い出を語っているのだ
    かすかな水の音は私の父の父の声なのだ
    川はどれも私の兄弟だ。それらは私ののどの乾きを癒してくれる
    それらは我々のカヌーを運び、我々の子供に糧を与えてくれる
    だからあなた方は川に、あらゆる兄弟に与えるような親切を施さなければならない
    我々が自分の土地を売るとしても、大気は我々にとって貴重なものであることを、
    大気はそれが支えるあらゆる生命とその霊を共有していることを忘れないでほしい
    我々の祖父のその最初の息を与えた風は、また彼の最後の息を受け取る
    だから、我々が自分たちの土地を売るとしたら、
    あなた方はそれを特別なところ、神聖なところにしなくてはならない
    人間がそこに行って、
    草原の花々によってかぐわしいものになった風を味わえる場所に
    あなた方は、我々が自分の子供たちに教えたのと同じことを、
    あなた方の子供たちに教えるだろうか?
    大地が我々の母だということを
    大地に降りかかることは大地の息子たちに降りかかることを
    我々はこのことを知っている
    大地は人間のものではなく、人間が大地のものだということを
    あらゆる物事は、
    我々すべてを結びつけている血と同じように、つながり合っている
    人間は生命を自分で織ったわけではない
    人間はそのなかでただ一本のより糸であるに過ぎない
    人間が織り物に対してなにをしようと、
    それは自分自身への働きかけにほかならない
    よくわかっていることがひとつある
    我々の神はあなた方の神だ。大地はその神にとって大事なものであり、
    大地を傷つければ、その造り主に対する侮辱を重ねることになる
    あなた方の目的は我々にとって謎だ
    バッファローが全部殺されたらどういうことになるのか?
    野生の馬をみな飼い慣らしたら?
    森の深い深い奥が大勢の人間の匂いでいっぱいになり、
    緑豊かな丘の景色が電話線で乱されたら、どうなると思うのか
    茂みはどうなってしまうのか、消えてしまう!
    ワシはどこに住むのか、消えてしまうだろう!
    そして脚の速いポニー狩りにさよならを告げるのはどういう気持ちか
    命の終わりと生き残りの始まり
    最後のひとりになったレッドマンが未開の原野といっしょにこの世から消え去り、
    彼の思い出といえば、大平原を渡る雲の影だけになってしまったとき、
    これらの海岸や森林はまだここにあるのだろうか
    私の同族の霊が少しでもここに残っているだろうか
    我々はこの土地を愛する
    生まれたばかりの赤ん坊が母親の乳房を愛するように
    我々が自分たちの土地を売ったなら、
    我々が愛してきたのと同じようにそれを愛してほしい
    我々がその面倒を見たのと同じように、面倒を見てほしい
    あなた方の心のなかに土地の思い出を、
    受け取ったときと同じままに保ってほしい
    あらゆる子供たちのために、その土地を保護し、愛してほしい
    神が我々すべてを愛するように
    我々が土地の一部であるように、あなた方も土地の一部なのだ
    大地は我々にとって貴重なものだ
    それはあなた方のためにも大事なものだ
    我々はひとつのことを知っている
    神はひとりしかいない
    どんな人間も、
    レッドマンであろうとホワイトマンであろうと、お互いに切り離すことはできない
    なんといっても、我々はみな確かに兄弟なのだ。

神話という音楽に舞っている生命





幼心の君を演じた、タミー・ストロナッハの動画です







Follow your bliss
至上の幸福に従え


 by ジョーゼフ・キャンベル





比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの歩みは、
神話や宗教の中に、法則を観つける旅であったようです
おとぎ話であるとか、日々寝ている間に見ている夢で、
あるとか
それらが同じ源から来ていること
人生には成し遂げるべきものがあること
それらのヒントが古代より受け継がれてきた神話の中に
あることを解き明かして、
その著作は本当に多くの人に影響を与え続けています
有名な様々な映画の物語の根底には、
キャンベルの語り続けてきたエッセンスが土台に
なっているようですけれども、
とりわけ、ミヒャエル・エンデやジョージ・ルーカスの
映像作品に、それが色濃く反映されているように
感じています
映画の中で、言葉で語られているのではなくて、
大部分は、映像と音楽の中で、
それが表現されている黙示録のようになっております








最初のスター・ウォーズ以降に本当にたくさんのSF映画、ファンタジー映画が作られましたけれども、日本でも便乗作品のような企画が立ち上がりました
それはそれで、愛すべき作品であるのですけれども、
現場での技術面や制約面を横に置いて、ながめてみましても、
やはり決定的に、それらの作品とこのスター・ウォーズのシリーズとが違うのは、
その物語の基本構造において、神話的要素をしっかりと土台にして、
人間とは、あるいは生命というものは、宇宙において、どのような存在であるのか、
という視点をもって語られていて、
すでにその点において、その見事なビジュアルや音楽を抜きにしたとしましても、精神性があまりにも違いすぎるようです
『スター・ウォーズ』や『ネバーエンディング・ストーリー』にそういうことが語られているとは、その娯楽性の高さからいっても、相当に意外ではあるのですが、
やはり、ダーズ・ベイダーという悪役を、ただのダークヒーローとしては、終わらせずに描いた
シリーズを通してみますと、この物語が、家族の愛憎と葛藤のそれであると分かってくるのでした
アナキンという人間は、たった一人の家族である母と、幼いころに別れて、その母を助けることができなかった悔やみから、闇を力を渇望するような設定になっていました
闇に堕ちることになるきっかけがどういうものなのかは、とても興味があったのです


人生の始まりは、むしろ善良で思いやりのある人物だった
けれども、命がかならず果てるという現実を受け止めきれなかった
その弱さから闇に堕ちて、人間性を失ってしまうということは、同時に悪しき社会の部品に堕してしまうのだ、ということを象徴的に表されておりました
人間は誰でもこのどうしようもない社会の悪の一部であるということなのですが、
そのアナキンが、その闇から脱出するきっかけが、生き別れていた息子であり、娘であった
という物語は、胸を打つものがあります


もっとクールな映画を求めていた人には、気に入らないかもしれませんが、
よくできている物語です
彼の父としての自覚が、家族の存在が、心の中で抑圧されて眠っていたものを、
蘇らせたのでした
ダーク・サイドの象徴であるベイダーの仮面を息子と一緒に脱ぎ捨てる場面は、
とっても素晴らしく、心に染みる見事なシーンでした
まさに、忘れることのできない名シーンとなりましたが、つまり、おそらく最初の発想としては、冒険活劇映画の復活という、少年の描く夢のようなものだったと思われますけれども、
そこにキャンベルとも出会いが、ルーカスの中で大きなものとなり、神話的要素を盛り込むことによって
それが本当に現代の神話として見事に結実したと云えるでしょう
何でも、大学でキャンベルの講義を受けたのが出会いだったようです


ルーカスの映画を通じて、キャンベルの講演を間接的に拝聴しているような気になっているのですが、
国営放送でも、スター・ウォーズを紹介する目的で、キャンベルの生前の貴重な番組を放送しておりまして、
それは私も見まして、たいへん感銘を受けました
なぜか動画サイトでは、それが削除されまくっていましたが、
現在はまた、観られるようになっておりますよ
ありがたいことです
その番組では、キャンベルの足跡のそのエッセンスに、だれでも手軽にふれることができます
もういくつも、びっくりするような真理が語られているのですが、
中でも、う~ん本当だろうか?と考えさせられたのが、

世界はすでに、ありのままで素晴らしい

というくだりでしょうか
聞き手は、ビル・モイヤーズの『神話の力』という番組のVol 2 「神と人間」より、抜粋します





現代の人間は表面的な価値を追い求めるのに、
必死で本質的な価値を忘れています。今を生きるという喜びこそ大切なのに、
それを忘れているんです。
人間は神について考えたがります。神とは言葉であり、思想であり、概念です。
しかしそれが意味するものは、あるゆる思考を超越したナニか、なんです。
究極的な神秘というものは、思考を越えています。




 捉えられないんですね?
 定義することはできない。
 すると私たちは一体なにができるんでしょう?


そうした超越した存在を私たちは、神と呼ぶだけです。




 女性も悪へ導くものとして、
 ずいぶん悪者にされてきましたよね。
 神話では、女性が堕落を呼ぶものとして、
 描かれていたりします。



無理もありません。女性は生命を意味するものだからです。人間は女性によって、この世に生まれます。対立と苦難に満ちたこの世に投げ込むのは、女性というわけです。しかし、生きることに苦痛が伴うからといって、それを拒否したり、こんなものはない方がよかったと言ったりするのは、非常に子供じみていると思います。
実は、ショーペンハウアーもそういう事を言っているわけですがね。彼はその著作の中で、生命はない方がよかったものであると書いています。生命というものは、実に恐ろしいものであるというんです。なぜなら、生きるということは、
他のものを殺して食べる、ということを本質的に含んでいるからです。つまり人生そのものが苦しみに満ちているわけですね。安らかなのは、死後だけ。でもいくらこの世が辛くても、
わたしはいつも、世界について、楽観的な見方をしています。世界は素晴らしいです。あるがままでね。



 そう考えると、
 この世の悪や不正を容認することにはなりませんか?



自分も悪の一部なんです。自分も誰かに害を及ぼしているんです。
以前、インドに行ったときに、私たちは、シュリー・プリシラ・メロンという有名な教師に会いました。彼は、インド南部のトリダングラムに住んでいたのですが、そこへ行ったんです。そこで彼と間近に会うことを特別に許されました。
彼はまず、わたしに質問はありますか、とたずねました。インドでは常に、教師が問いに対して、答えるという形を取ります。自分から教えるのではなく、質問に答えるだけなんです。
そこでわたしは、こうたずねました。ヒンズー教の思想では、全宇宙が神聖なものであり、神の顕れだとされています。だとすれば、この世界のどんなものでも否定できない、というわけでしょうか?
残酷さ、愚かさ、卑しさ、無分別をも肯定しなければならないのでしょうか?
すると彼は言いました。

あなたと私のために、全てを肯定しなければなりません。


彼の弟子だったことのある友人たちから、後日聞いた話では、彼らも初め、私と同じ質問を、彼にしたのだそうです。私は、その友人たちと、世界の全てを肯定することについて、楽しく話を交わしました。

つまり、誰にも裁く権利はない、ということです。


それはキリストの教えの一つでもあると思います。

なるほど、古典的なキリスト教の教義では、この世は忌むべきもので、
人生は死後、天国で償われるものだったりします。
でもいやなものも全て肯定し、この世を肯定すれば、
原罪の中に、永遠が実現されるわけですね?

その通りです。
永遠というのは、あの世にあるものでもなければ、時間に支配されるものでもありません。

永遠は、まさに今ここに、時間と切り離されて、存在するものなのです。

今ここに?



そうです。
もし、今ここで永遠を見出さなければ、どこにも見出せないでしょう。今ここでが肝心です。
釈迦は、まずこう説いています。生きることの全ては、苦しみである。たしかにその通りです。
人生は苦しく、哀れで、空しいものです。命には限りがあり、失われていくばかりです。

悲観的な見方ですね。

私が言いたいのは、それでも全てを肯定すべきだということです。この世をあるがままね。
あるがまま。この世は、今あるがままで素晴らしいんです。
ジェームス・ジョイスは、こう文章に残しています。「私は、歴史という悪夢から目覚めたい。」
目覚めるためには、恐れないことが必要なんです。

ところで、天国というものは、私たちの内にあるんでしょうか?

天国も地獄も、あらゆる神々も、私たちの内にあります。
これは、紀元前9世紀のインドの哲学書ウパニシャッドに、すでに著されていた考え方です。
あらゆる神、あらゆる天国、あらゆる世界が、私たちの内に存在しています。
それらは、夢が拡大されたものです。
夢は、肉体の色々な器官の衝突し合うエネルギーが、イメージとして現れたものです。
神話も夢と同様のものです。
神話というのは、肉体の各器官の衝突し合うエネルギーを象徴的に現したものなんです。


 私たちに真理がつかめるでしょうか?

 どんな人でも、深みのある体験をすることはできます。
 本当の自分、本当の至福に触れるような瞬間を
 持つことは可能です。
 宗教家たちは、私たちは、天国へ行くまで、
 つまり死ぬまで、真にそういう体験は、
 できないと言います。
 でも私は、生きている間でも、
 そういう体験は可能だと信じています。

至福はここにあり。




      天国では、神を目にすることはできても、
      自分自身の体験は、得られないでしょう。
      そういう処ではありません。

      深い体験が、得られるのは、この世においてなんです。

      今ここで。

      その通りです。




      映画『スター・ウォーズ』で、様々な動物の姿をしたエイリアンが登場しますが、
      また色々な不思議な言語が交わされたりしていますけれども、
      あれは、全ての動物と共に人間も生かされているというメタファーだったり、
      するのかも知れませんし、
      一見似たような映画は数多いのですが、
      とにかくこのスケールの大きさは、他に類を見ないほどです
      キャンベルは、神話というのは、古代より語りつがれてきた音楽であると言いました
      宇宙とは、壮大な交響曲を奏でている音楽である、という表現は、
      想像したこともないものだったので、感動をおぼえましたが、
      そういった目で、『スター・ウォーズ』や『ネバーエンディング・ストーリー』を
      ながめて観ますれば、
      実にその通りに、神話という音楽に合わせて、生きとし生きるものが、
      闇と光の生命の営みの舞を踊っているように感じられてきます
      この映画の剣術は、戦いでもあり、同時に舞踏でもあります
      陰と陽とを、統合しようとする壮大な宇宙の音楽のようでもあります
      この自分の人生も、そんな宇宙の交響曲のどこかの一小節を、
      善悪に翻弄されながらも、
      今ささやかに奏でている存在なのでしょう。

宇宙は果てしのない交響曲




















          怖くて入りたくない洞窟のなかに      
          あなたの探している宝物が眠っています
          by ジョーゼフ・キャンベル




内なる竜退治の旅と英雄的帰還
比較神話学者キャンベルと映画監督ルーカスとの出会い



宗教に関する会議で日本を訪れていたキャンベルは、あるアメリカ人学者が神道の神官にこう言うのを耳にしました。「私たちは神道の儀式に数多く参加して神社もたくさん見ましたが、あなた方の思想も教義も理解できません。」
すると神官はしばらく考え込みこう答えました。「私たちには、思想も教義もないと思います。私たちは舞を舞うだけです。」
キャンベルも神話について、そう言いたかったのかもしれません。彼にとって神話は、思想でも教義でもなく、時代を越えて受け継がれてきた音楽なのです。
キャンベルは、1987年に83歳でなくなるまで、およそ20冊の著作を世に送り、研究者だけでなく、芸術家などにも影響を与えました。中でも『千の顔を持つ英雄』や『神の仮面』は古典的的名著です。ジョーゼフ・キャンベルにとって、神話は宇宙の詩であり、人間の意識の底に深くにしみ込んだ音楽でした。人間は神話という音楽に合わせて舞っているのです。
by ビル ・モイヤーズ 『神話の力』Vol.1 英雄伝説より



映画『スター・ウォーズ』を構想中だったジョージルーカスが、キャンベルの講演をきいて、神話的要素を物語りにもり込んでいったという話が伝説にもなっていまして、
だとしますともしかすると、キャンベルとの出会いが、ダース・ベイダーをただの悪役として終わらせずに、人間性を与えていった大きなきっかけになったのかも知れませんね。
キャンベルによりますと「英雄とは、困難なものに人生を賭けて挑戦し、それを成し遂げる者」であり、
「英雄は旅立ち、成し遂げ、生還する」という行動パターンを持っていますので、シリーズを通したベイダーの人生を思いますと、まさにその通りに描かれています。
劇中で「選ばれしもの」と予言されたアナキンが、闇に堕ちてベイダーとなりながらも、
闇からの脱却を成し遂げる。
これはキャンベルの語る英雄の旅そのものなのでした。


シリーズ3作目にあたる『ジェダイの復讐』の当時、わたしはすでに父を亡くしており、婚約者には去られ、仕事にも行き詰まっておりまして、さらに家族ともうまくいかず、友人と呼べる人もいないという、三重苦四重苦の八方塞がりの状態でありました。今にして思いますとなんでそんなことでと思うわけですけれどもね。
引きこもりではなかったけれど、精神的にはそのようなもので。なぜかもう人生はおわったと決めているような精神的ゾンビ状態であり、私生活だけでなく、政治・経済、世の中の一切に興味がなく、かろうじて関心があったのは、アニメ特撮などの空想作品のみでした。
心が真っ暗にふさがっていて、そのかすかな隙間である映画から世界を垣間見ているといったような。
学校でも家でも高校時代までいっさいの勉強を拒否してきたわたしが、アカデミックな環境と無縁だったのに、キャンベルの言葉にふれることになるのは、ジョージ・ルーカスの映画がきっかけなわけです。
わたしはこの映画を通じて、とても知りたかったことを識ることになるのでした。





Follow your bliss and the universe will open doors
for you where there were only walls

もっともしあわせを感じるものについて行きなさい
たとえ八方ふさがりのところでも         
宇宙はあなたに扉を開いてくれるから  

    by ジョーゼフ・キャンベル

 


この『スター・ウォーズ』という映画が不思議だなと思うのは、どこにも属していない、どのジャンルに属するのか定かではないということがあります。
ふつうにいえばSF映画だし、ファンタジー映画なのだけれども、厳密にはSFともいいがたく、ファンタジーと呼ぶには近未来の現実が描かれていて、政治的要素も加味されていますから。
やはりシリーズを通してみても現代の神話と呼ぶにふさわしく、これはスター・ウォーズという孤高のジャンルなのだと個人的には思うわけなのです。
空前の大ブームを世界中におこしたのは、活劇&メカの魅力&登場するものがどれも古くてしかも目新しかったというのがあります。
それまでありそうでなかった、古今東西の冒険活劇の集大成、いわば、ちゃんこ鍋であるけれども、なぜこれが世界中が魅了され受け入れられたのか?
それは物語の根底に神話的要素があるからではないのかと。
人間は神話と呼ばれるものによって、心の奥底でつながっていると思うからです。


キャンベルの語る言葉で、もっとも驚き感銘を受けたのは、宇宙は音楽であるという表現にでした。
宇宙という言葉も音楽という言葉も、ありふれていて知ってはいるわけですが、その二つを結びつけて考えたことがありませんでしたから、これには本当に新鮮な感動めいたものがありました。
そうか!そうだったのかと。
この『スター・ウォーズ』という映画は、知的でシビアな層にはアピールしない傾向があるかもしれない。この映画で描写されているものは、どれも幼い少年の願望を満たすもので満ちあふれていますからね。それがメインです。
ヨーダという賢者がなにかを語ってはいても、とくに体系的な哲学というわけではなく、知的好奇心を充分に満たしてくれる映画ではたしかにない。少なくとも表面的には。
この映画で重要なのは、云うまでもなく音楽のチカラなのですが、あのオーケストラによる交響曲の響きがなかったとしたら、同じ映画でもひどく魅力のないものとして映っている可能性が高いです。
そうそう、スペースオペラという表現がありましたね。オペラとは、大半が歌唱で占められた舞台劇のことですからこの映画を言いあらわすのにぴったりかもですね。
でもこの言葉は、質の悪いSFの蔑称として使われることもあるようです。






だれでもそうかもしれませんが、わたしの幼いころよりの疑問、そして成人してからずっと答えをさがしていたものがあります。たぶんに現実逃避の気があったかもしれませんが、
それは、何で人間はこのように生きていて、そして世界は何でこのようにおそろしいまでに混乱しているのだろうか?そのすべてに何の意味があるのだろうか?ということでした。
これらに対して、キャンベルはいともあっさりと、このように述べておりました。

宇宙に意味を求めて、なんになるでしょう  
一輪の花に意味を求めてなんになるでしょう
それはそこにあるだけです          
それでいいんです             


そして、人生の意味は存在そのものにあると語っています。なるほど。意味を求めているのは、思考の働きであると。でも本当に人が求めているのはそういうものではないんだと。現代人は人生の意味を求めていると言いながら、もっとも大切なことを見失っていると。
それは、生きている実感であり、体験なんだと。人生の意味というものだけを求めていても、人は決して満たされることはないと、キャンベルは語っていました。










私は今、自分の経験からだけでなく、他の人たちの経験からも確信していることがあります。あなたがもっともしあわせを感じるものについて行く時…それを深く実感するという意味ですが…自分の芯から突き動かされて行動している時、楽しいことばかりではないかも知れません。しかしやはりそれをすることであなたはしあわせであり、苦労の奥にも喜びがあるのです。
本当のしあわせに従って行くと、扉のなかったところに扉が、考えもしなかったところに扉が、他の誰でもなく、あなたのための扉が開きます。
…ですから、私が言える一番のことは、もっともしあわせを感じるものについて行きなさいということでしょう。もしそれが単に楽しいことや刺激的なことだとしたら、本当のしあわせではありません。必要なのはあなたを導いてくれるものです。本当にしあわせを感じることを見つけなさい。それは自分の心に深く入ってゆくことでもあります。




そして、ジョージ・ルーカスが描いたこの映画を改めてながめて観ますと、絵と音楽というものによって宇宙と人間の営みというものを表現していることが分かります。
宇宙は、壮大な交響曲なのであり、人間は闇と光に翻弄されながら、その音楽に合わせて舞っている存在なのだと、キャンベルの言うように、そんなふうに感じられてきます。
キャンベルが語っているように、人生とは、内なる竜退治なのだと。この竜とは、自我を縛り付け、押さえつけているのもを象徴しています。これを打ち負かすことによって、内なる生命力と人はつながることができるのだと。
アナキンは見事、ベイダーという内なる竜を打ち負かし、英雄としての旅から帰還したわけです。










真の敵は、皇帝(イルミナティの背後にいる存在)でもなく、ましてやベイダー(世界の金融を牛耳っているユダヤの民)でもない。内なる竜なのだと。
内なる竜と対峙して、それと決別することによって、人は人生を取り戻す。人生を取り戻した人間によって、はじめて世界はよきものとなっていく。人の心の内奥はつながっていると思うからです。
世界の混乱は、内なるものの反映だからであり、自分も世界の悪の一部なのです。
だれにも裁く権利はないんだと。
そして、復讐と新たな征服欲。これがダークサイドの本質なのです。
人は圧政によって滅びるのではなくて、内なる竜というダークサイドにのまれて滅びるのでしょう。
問題を社会にだけさがしていて、世界の悪と戦って革命をおこして勝利しても、世界の混乱に決着は決してつかない。ただ支配者が変わるだけのことなのです。それは歴史が証明しています。
人の世の諍いに、始まりも終わりもない。それは人間とともに存在していて、果てることはない。一人の人間の生活の中で心の葛藤がなくならないように、世界の混乱もなくなることはない。ただそれが限りなく小さくなる可能性があるだけでしょう。
もし一切の葛藤を抱く事がなくなったら、その人はもう人間以上のものであり、フォースにとけ込んでいく存在です。そして闇と光のフォースの渦が宇宙の原動力なのかもしれませんが。
やはり宇宙は、壮大な音楽を奏でているだけのものなのかも知れません。
わたしは、まだ若いころにこの映画に出会えたことを本当に感謝しています。




我々はもはや独力で冒険をする必要はない   
古今の英雄が道を拓いてくれている      
迷宮は知り尽くされている          
我々はただ英雄の後を辿ればいい       
そうすれば恐るべき怪物に会うはずの所で   
神に出会う                 
人を殺すはずの所で己の自我を殺す      
外界へ旅するはずの所で自分の内面に辿りつく 
そして孤独になるはずの所で全世界と一体になる

                       by ジョーゼフ・キャンベル  







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ダース・ベイダーアゲイン



むかしむかしの、そのまたはるかなむかし                        
たしかTV JOCKEYという番組だったと思いますが、はじめて『スター・ウォーズ』の映像を
この目でみたときは、ぶったまげました                      
すごいとは聞いていましたが、予想をうらぎることのない、そのクオリティの高さ!  
今年12月公開の新作のスポットと、当時とその印象が決定的にナニがちがうかというと、
どのカットにおいても、                              
見たことのないキャラクターがいて、これまで見たこともないけれども、        
見たくて見たくてたまらなかった Sense of Wonder のイメージにあふれていたということ
そのすべてのカットが革命的にすばらしかったのです                


それは観たこともない映像であると同時に、                         
どこかで見覚えのあるなつかしさの感じる世界でもありましたけれども              
あれからもうすでに40年くらいの月日が経ちましたけれども、                 
ついに日本は『スター・ウォーズ』も『E.T.』も、それに匹敵する作品を作ることができませんでした
それはクリエイティビリティの問題ではなくて、                        
映画産業の基盤としての成熟度の差なのだと思われますけれども
まさに『スター・ウォーズ』は夢の世界から渡来した脅威の黒船でした              
たしか日本の公開は本国米国より送れること一年経ってからだったと記憶していますが      、
この映画はまた過剰に煽られて宣伝されており、世間の期待は否が応にも高まっていたはずです
世界で大ヒットした大傑作がやってくるみたいな感じで                     


そのせいなのでしょうか                               
当時の劇場鑑賞で今でも思い出すことがあるのですが、                  
ただ一機のこった主人公の機体からプロトン魚雷が発射されて、              
帝国軍のデス・スターという惑星要塞基地が大爆発をおこすクライマックスシーンなのですが、
いかにもがっかりしたという感じの失望の声をあげた観客がいたものです         
モフ・ターキン総督の横顔のショットから、次の瞬間要塞がはじけ飛ぶ、まさにその瞬間に、
はあ~と、ため息がもれたのでした                          
名作映画だというふれ込みで観にきたのに、なんなんだこれは?と            
ただのお子様向けの冒険活劇ではないか?と                       
おそらくは『2001年宇宙の旅』をこえるようなSF映画をイメージして来たのに、       
だまされたぜ、みたいな                                  


この映画以降、すっかりSF映画やファンタジー映画花盛りの状況になってきまして、
映画界がすっかり低年齢化してしまったなどと嘆かれてもおりました       
たしかにこの映画は、好きな人にはたまらなく愛すべきものになるけれども、    
冷めた大人にはアピールしないようなところがある感じです           
けれどもシリーズ化されるにつれて、この物語が内包しているものの意味が    
次第に明らかにもなってくるのでした                     


のちにシリーズの4作目と位置づけられることになる、この第1作目をみたときに、      
とっても不思議だったのが、                               
フォース(=Force)の概念でした                            
それは劇中でこのように説明されています                         
フォースとは生物が作り出しているエネルギーの場であり、それがあらゆる生命をつないでいると
当初の字幕では「理力」(=ことわりのチカラ)と訳されておりましたが           
なぜ不思議だと思ったのかというと、                           
もう活劇だけでお腹いっぱいで充分に面白いこの映画に、                  
このような神秘的なものを持ち込む必要性がわからなかったのです               



この映画シリーズが果たした功績は、                           
映画技術・デジタル技術において様々に大きなものがありますけれど、            
ダース・ベイダーという希代の大悪役に、人間性を与えたことがその最大の功績だったのでないかと
このキャラクターは、もうあの立ち姿とあの声だけであっても充分に観客を魅了して、     
古今東西の悪党イメージの中でもトップクラスの存在感があるでしょう            
こんな格好いい大悪党を誰もがまっていたという感じなのですが、              
ただそれだけでも良かった、充分に魅力的なキャラクターに生身の血肉を与えた        
善良で母親思いの健気な少年だった人物が、やがて闇のチカラを渇望し、悪の権化へと変貌する
そして最期には見失っていた人間性に回帰すると                     
実に人間の弱さ、内なる闇に支配され、チカラに傾倒していく人間の儚さを与えたのです



     この映画は、宇宙を舞台にした冒険活劇を楽しませてくれるだけではなくて、
     その物語は、
     ●フォースとはなにか?
     ●それをあやつれるのはだれか?
     ●人間社会で争いがおこるのはなぜか?
     ●それをいかにしたら止めることができるのか?

     そういうことを軸に展開していきます
     その後のスピンオフのシリーズ作品とは、一見同じような設定に見えますけれども、
     やはりですから、決定的に描いているものの深さが異なってきます
     シリーズを通してみると、
     主人公はダーズ・ベイダーことアナキン・スカイウォーカーであることがわかる
     これも見事な構成というしかなく
     ベイダーの息子であるルークという農家の青年が、帝国と反乱軍との戦争に
     巻き込まれていく処から、
     物語は語られていきますが、
     フォースには、ダークサイドとライトサイドがあること、
     主人公はそのどちらでも選べるということ
     本当の望みはナンなのか?ということが問われていきます
  
           

シリーズの最終章、第三作にあたる『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』が、いよいよ公開される
という時期になって、わたしはすでに発売されていた、その小説版を先に読むか       、
映画をみてから読むのか、大いにまよっていました                     
ふつうだったら、鑑賞前には絶対に読んだりはしない、読むとしても観てから読む派です    
しかし今回は、どうしてもがまんできなくって、                      
公開前に読んでしまいました                               
そして、、、                                      
ハン・ソロかベイダーかが、絶命するとは予感していましたけれども、            
まさかこの物語で、ここまで胸うたれるとは思いもしませんでした              
けっこういい年した人間が、この小説を読んで布団の中でひそかに頬をつたうものがあったのでした


ダース・ヴェーダーもまた、おびえていた。息子に自分の顔を見られることが、長い間二人を隔てていた装甲仮面をはずすことがおそろしかった。この真っ黒な装甲仮面こそは、ここ二十年以上にもわたる彼の存在の証だったのだ。特有の声、特有の吐息、表情を見せぬ仮面、それは、すべての人間との接触を絶ってきた壁。だが、彼はそれをはずしたいと願い、死ぬ前にひと目、自分の息子をこの眼で見たいと願っていた。

彼は、老人がちょっと鼻を動かすのを見て、彼がはじめて自分の鼻で臭いを嗅いでいるのに気づいた。彼はまた、老人がかすかに頭をあげて音を……人工的な電子装置を通さぬ生の音を……はじめて聞くのを見守った。ルークは、いまここで聞こえる音は爆発の轟音だけ、漂う臭いは電気火災の刺すような臭気しかないのをかわいそうだと思った。だが、それでもこれは、なにも透さぬ触知できる、なまの感触にはちがいなかった。

ダース・ヴェーダーは息子が泣いているのを見て、それはきっと自分の顔のあまりのおそろしさにおびえているのだろうと思った。それは、ちょっとの間、ヴェーダーの苦悩を深めた。

この少年は善だ。そして、この少年はおれの息子だ。だとすれば、おれの中にもまた、善があるのではなかろうか。彼はふたたび息子に微笑みかけ、そしてはじめて、この子に愛を感じた。そしてまた、長い長い歳月の間忘れ去っていたことだが、彼は、自分自身への愛を覚えたのであった。
突然、彼はなにかの臭いを嗅いだ。それは彼の鼻をくすぐるように刺激した。野の花の香りに違いない。春なのだ。きっと……。
そして雷鳴。彼はちょっと首をかしげてその音に聞き入った。そう、あれは春雷だ。春の嵐だ。それが野の花のつぼみを開かせるのだ。

彼はルークに大丈夫なんだよと言ってやりたかった。本当はこんなに恐ろしくはないんだよ、心の奥はこんなではないんだよとルークに知らせたかった。ちょっと言い訳っぽい微笑みをかすかに浮かべながらルークに向かって首を振り、心の中に棲んでいた目に見えぬ凶暴な獣は追いはらったのだと説明しようとした。「われわれは輝きの存在なんだよ、ルーク……こんな粗雑なものではなく」
ルークもうなづいた。そのとおりだよ、わかったよと言ってやりたかった。老人の恥を水に流してやり、今はなんとも思っていないよと言ってやりたかった。そしてすべてを……だが、彼は一言も言えなかった。

ヴェーダーはふたたび弱々しく言った。ほとんど聞きとれぬほどである。「さあ、お行き、息子よ。わたしをここへ置いていくのだ」
そのとたんにルークは叫んでいた。「だめだ。おれは連れていく。おれはこんなところにあなたを残したりしないぞ。おれはあなたを救うんだ」
「もう、おまえは救ってくれたのだよ、ルーク」彼はささやいた。



公開前夜だったでしょうか、オールナイトニッポンでも特番が組まれておりまして、      
ジャバ・ザ・ハットというキャラで番組がもり上がっていました               
これから太ったやつはみんなジャバと呼ばれる、とかいってましたっけね           
そんな番組を一生懸命ラジカセで録音したりして、                     
なつかしいですね                                    
小説は小説、映画は映画なのでした                            
小説では描写があったルークの内面の葛藤が映画にはありませんでした            
この戦争を終わらせるために、暗黒面の力をいっとき使いその後にそれを捨て去ることはできないのか?
もしこの自分がベイダーを倒し、そして自分自身がベイダーになって皇帝に仕えるという悪夢  
あるいはベイダーを倒した後に、皇帝すらも倒して、その玉座に座る自分のイメージ・・・


    フォースのダークサイドとは、底なしのブラックホールのようなものなのかもしれません
    それを操っているつもりでいても、やがてそれに取り込まれてしまう
    自分の善良な意志も人間性も、己の果てしない欲望にのまれてしまって何もかも失うことになる
    闇そのものと一体化してしまう
    ダース・ベイダーと皇帝が決定的にちがっていたのは、そこかもしれません


    ベイダーことアナキン・スカイウォーカーという人物は、
    社会の体制という外なる闇と、欲望という内なる闇に飲み込まれてしまっていました
    彼は体制を守るものとして、強いようでいてそれに逆らうことはできない存在なのであり、
    自由な人間としての善良な意志を失っている状態でした
    それもこれも闇の力を渇望したために自ら人間性を放棄してしまっていた
    ベイダーの仮面はそれら人間性を失っていることの象徴です
    それを自分の意志で脱ぎすてる
    これは素晴らしく感動的なシーンでした
    ここには内なる人間性の復興を謳いあげた大いなる希望があるからです
    社会を変えるのではない
    自分を変えるのだ
    暗黒面に取り込まれてしまう己の愚かさを識り、これと決別する意志
    そういう人間が多ければ多いほど、
    その分だけ社会が変わっていく可能性が大きくなる・・・




    けれども人間は、生身の肉体を抱いている限り、
    永遠にダークサイドと決別し続けるなんてことはできそうにありません
    ライトサイドとダークサイドとの狭間で葛藤し続けるのが、人間なのかもしれませんね

     シリーズの中で、「Darth Vader Again」というセリフがとても印象に残っています
    ベイダーが父親だと知って、どうしても父とは対決できないと躊躇しているルークに
    霊体のオビ・ワンが語りかける言葉なのですが、
    これは単にベイダーと対決せよというだけではなく、
    これの意味するところは、内なる闇からは逃げることはできない、
     おまえは内なる闇と対峙することなく、一歩も前に進むことはできないのだよと
     そういうことなのだと思っていて、
      とても大切にしている言葉なのです。



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