赤岩隧道再訪記【3】(三重県北牟婁郡紀北町東長島) | 穴と橋とあれやらこれやら

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初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

キリがないんで、連載を再開します。お待たせしました(誰も待ってない?

 

【2】より続く。今回、文章量過多。

 

 

 

男性と別れて、隧道反対側目指して移動開始。

 

これは隧道が貫く山を県道から見た景。現在地はこちら

この岩山を、隧道は左右に貫いている…いや、いた。

 

わたくしは今右側の奥から歩いてきた。わかりにくいが、ここは片上川が海へ注ぐ地点で、水門の下を抜けて熊野灘に流入している。

 

 

 

 

そんな片上川の歩道橋から、今から進んでいく右岸方向を。

もしかして「ある」んじゃないか?と期待していたものを探したら…

 

 

 

 

うわ、マジであった!

あれ、橋台の跡じゃないかね?

 

あそこ、実は隧道が抜けてきた先にほぼ近い位置。隧道を抜けてすぐに片上川を渡る道がかつてあったんじゃないかなって想像していたのだが、マジで?

 

 

 

 

さっそく現場へ急行してみたが、

うーん、こっちで見るとよくわからんな。そして対岸には何の痕跡もない。

 

実はわたくし、ここの直前に訪ねた呼崎の総石造桁橋を見て、ある仮説を描いていた。「隧道を抜けて片上川を渡り、そのまま呼崎の石橋を通って最短距離で役場や紀伊長島駅のあるエリアにアクセスできるというルートだったのでは?」って。

 

 

 

 

そう考えたくなる位置関係は、こんな感じ。

「文」マークの東小学校も昭和初期の地図(後で出します)では描かれていないので、学校敷地に道があったんじゃ?とか。

 

…ってまあ、単に素晴らしい石桁橋を見つけたがための、何の裏付けもない妄想に過ぎないんだけど。

 

 

 

 

ところで上の地図で、「橋(仮想)」と「隧道」という2つのテキストボックスの間に浮かぶ岩がある。これが赤岩と呼ばれる岩で、隧道名もここからの命名だと思われる。

 

この赤岩隧道、みんな大好きあの番組、「道との遭遇」で過去に採り上げられた、らしい(見てないので知らなかった)。

 

本題に対してサブ扱いではあるが、この「紀北町の」赤岩隧道の出自についての現時点での「公式解」はこの動画にある内容なのかと。

88歳の地元古老が小学2年生の時に体験した津波の時にはすでに在ったと。

この動画の公開が2024年なので収録も同年だとすれば、古老が言及されているのは昭和19年の「昭和東南海地震」による津波被害のことだろう。なので、遅くとも昭和19年には既に存在していたということだ。それと、「資材を運ぶために掘られた」「先代が一人で鑿で掘った」という証言。

 

この動画内で語られている出自関連はこれだけだが、CBC NewsXサイト内の番組公式ページでは、製材所を営んでいた人物(=先代)が人道用として掘り、大八車で材木を運んでいたなど、より詳しく書かれている。興味ある方はぜひ一読を(直リンク禁止なので…)

 

 

うん、これが「公式解」かと思うのだが、実はもうひとつ別の説も目にしたことがあって。それは、「国鉄紀勢東線建設工事用軌道の隧道」そのように掲載した誌面(の画像)もネット上で見つけてたのだが、改めて調べたら出てこない…(わたくしこんなん多い)

 

13ものトンネルとオメガカーブをもって攻略した難所・荷阪峠区間の建設には、海に面したここから資材運搬のための軌道が使われたというのは、確かに説得力ある。正確には、実際に工事用軌道があったのは間違いないようだが、赤岩隧道の出自がそれなのかどうかは未知、ってことだ。
 

 

 

 

改めて昭和初期の地図を、ちょっと広域で見てみよう

明治40年代測量、大正~昭和初期に修正された5万分の1の地形図。

紀伊長島駅が描かれているので、遅くとも同駅が開業した昭和5年時点の修正が反映されている。隧道は描かれてないので、めっちゃ小さく書き加えた。

 

当時の片上川の流路は、片上池から下流は現在と異なっており、呼崎の石橋が架かっている現・萩原川が元々の流路のようだ。赤岩のところで熊野灘に注ぐ現在の最下流部分は後年に開削されたもののようで、つまり隧道が掘られた当時、抜けた先には川自体がなかった可能性が高い。

 先述のように、この地図にはもともと隧道は描かれていなかったが、昭和5年時点でまだ存在してなかったから、であるとしても、古老の証言「昭和19年にはすでにあった」とは矛盾しない。また、もし紀勢東線の建設工事用軌道だったのだとしたら、すでに開通済みであるために、役目を終えた工事用軌道は描かれなくて当然といえる。まあ、このへんはもう…わからん(笑)。

 

というわけで、どちらの説においても、隧道の出自そのものについては、駅のあるエリアへの最短アクセスを目論んだものではなかったようだ。

 

いずれの説にも共通しているのは、隧道を抜けたあとは北に転じ、片上池に沿って通っていた、らしいこと。製材所由来説では製材所の位置が池の西端あたりとされているので、なんとなくのルートが想像できるが、紀勢東線工事用軌道説の場合は色んなルートが考えられる。

 

 

あと余談だが、先の古地図には左上の赤羽川沿いから下りてくる林用軌道が描かれている。この林用軌道由来なのでは?と考えたこともあったが、それについては傍証も得られていないため、可能性は低いのかなと。

 

さらに余談だが、わたくしかつて別の場所で、この林用軌道の遺構と思われるものを見つけている(ちょっとだけ)。再訪調査したいそれは、またいつかの機会に。

 

 

 

いや、確証もないのに文章長すぎやって。

目の調子悪いのに書く気が失せた理由、わかっていただける?(笑)

 

 

 

力尽きたので、ここで分割。

今回は概況開陳の回と割り切って、【4】に続く。

 

テーマ分けに困るけど「遺構その他」で。