【前篇】より続く。
隧道海側に見つけたのは、
いかにも…な道。明らかに岩を削って付けられており、しかもちゃんと入口が確保されているっていう。
これが隧道ができる前の旧道(旧々道)と即断はできないが、その可能性はある。
当然ながら、
行く。
写真で見ると怖そうに見えるが、
実際それほどでもない。高所が苦手だとキツいかもしれんけど。
左カーブを回り込むと、
その先には手すりと、わかりにくいがごく小さなコンクリ橋。ちゃんと整備されている。
…って、イヤイヤイヤ。あそこに手すり付けるのに、さっきの断崖パートはスルーかーい。まあ我々的には楽しいけどさ(笑)。
で、これが、
ミニコンクリ橋。
なかなかスパルタンな道だけど、踏みしめる岩には十分なグリップがあり、その点での不安は皆無。
岩棚に登って、見上げてみれば…
うわ、なんかすげえ岩!
そして、
道らしい道はなくなった…と思う。確か。
これが旧道(旧々道)であるかは疑わしいかも。前回お見せしたように、輪島側には道の痕跡が見られなかったし…。
もちろん波の浸食や
度重なる地震などで崩落して消えた可能性もあるけど。
こんなんとか改めて見ると、
今回の震災でも起こったが、いわゆる「隆起」の痕跡じゃないんだろうか。違う?
近年大きな地震が頻発していた能登地方だが、有史以前から考えれば相当数の地震が起こってきたはずで、それら地殻変動と波による浸食の痕跡がこうして目に見えているのではないかと…知らんけど。
とりあえず道もなくなったので、
撤収することに。
うーん、
この景はヤバいな。
この海沿いの旧道も、もしかして1792(寛政4)年に開削された麒山道(この記事内参照)の一部なんだろうか。八世乃洞門からは1.3kmほどしか離れていないし、もしかしたらほぼ同時期に拓かれた道なのかもしれない。
だとしたら、
この真浦隧道も、実はさらに古い隧道の拡幅改修された姿、なんて可能性はないのだろうか。
なんの根拠もない妄想だけど、江戸期の隧道だとしてみれば、
80m超えのこの延長はなかなかアツイ。
繰り返すが、なんの根拠もない妄想。
でも、そんなことをつらつら考えるのも一興かなと。
この震災で、
ここに写っている道路一帯がほぼほぼ崩土の下となってしまった。
少なくともこの旧道はおそらく復旧されないと思われるので、やはりなんでも写真を撮っておくっていうのは大事なことだなあと改めて感じた。
この後篇は隧道記事とは呼び難い内容だったけど、まあご容赦いただいて。とにもかくにも、被災地域の一日も早い復旧・復興を願う。