千束橋 (静岡県駿東郡小山町竹之下) | 穴と橋とあれやらこれやら

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初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

 

2012年3月17日、神奈川県西部彷徨。この日のネタで記事にしているのは、後半のめがねみちトンネル善波隧道

 

 

今宵ご紹介するのは、前半で一時的に静岡県に入り込んだ際に出会った橋。JR御殿場線・足柄駅前に架かる橋である。場所はコチラ

 

 

 

東より正対。

四角四面な、カッチリした橋。嫌いじゃない。

 

 

 

 

 

 

ルーティーンの親柱チェック、まずは左側。

「ちつかはし」。

 

 

 

 

 

 

続いて右側。

えー…「昭和六年十二月竣功」かな。

 

 

 

 

 

 

南側からのサイドアングル。

二径間の桁橋だった。

 

 

 

 

 

 

目に付いたのは、橋脚の処理。

コンクリ橋脚を石で補強したとは考えづらいので、おそらくはもともと石積みの橋脚だったのだろうと。

 

…知らんけど。

 

 

 

 

 

橋上からは、

御殿場線の橋梁も見える。

 

しかし、この日は(も)終日荒天やったなあ…。当時のわたくしには荒天の神が降りていて(笑)、こんなことはしょっちゅうだった。

 

 

 

 

 

 

 

西側より正対。

そうそう、川の名は鮎沢川だった。

 

 

 

 

 

 

 

左の親柱で、漢字のお名前判明。

「千束橋」。

 

 

 

 

 

 

 

右の親柱は

やっぱりお誕生日だった。先ほどとは違う書体。

 

 

 

 

 

たもとにあったコチラ。

後ろの木製立て札、よく見たら面白そうなことが手書きで書いてあるんだが、判読できない。

 

わずかに見えるのは「戦跡 千束橋」というタイトルと「●軍が退く際に」というワンタームのみ。記事を書くにあたり気になったので調べてみたら、書かれている内容が判明した。

曰く「太平記 竹之下合戦(建武二年) 官軍が退く際に橋を落としたので、足利軍が薪を千束投げ入れて橋の代わりにして渡ったという。」

 

建武二年は1336年、いわゆる「建武の新政」として日本史で習った時期。そのころからこの場所には橋が架かっていたということで、歴史あるこの橋、果たして何代目なんだろうか。

 

 

 

 

 

 

反対側のたもとには

石仏が二体と、石碑?がひとつ。でもこの天気なんで、全然チェックせず。

 

晴れた日に見たらまたイメージも違うのだろうけど、この重苦しいモノトーンがこの橋の印象となった。

 

 

 

以上。