【1】より続く。
あの大木の根元、
そこには…
お地蔵様が三体いらっしゃった。
皆おだやかなお顔をされていた。住民の方のお手製らしい頭巾や前掛けが微笑ましいが、残念ながら今ではマメに手入れされているようではなかった。
そのお地蔵さまはもとより、橋自体をも抱いたこの大木、
どうやらイチョウの樹らしい。果たして樹齢はどのくらいなのか…。
その歴史は平安時代ごろまで遡るという神子畑の鉱山。本格的な採掘は15世紀ごろからとのことだが、このイチョウの太樹はその栄枯盛衰の多くを見てきたのだろうなあ…などと考えると、思わず背筋が伸びる。
この辺とか
どうなってんのかね?
改めて、渡ってきた方を振り返り。
右側の欄干は太樹のたもとで途切れているが、左側の欄干は続いている。
つまりは、
こういうこと。…伝わってるかな?(笑)
この橋は、ちょうど神子畑川に支流が合流するところに架かっており、ニュアンス的には中洲となる写真手前側は、神子畑小学校の校庭へと通じる小径となっている。
なので、最初から気になっていた
コイツ。
コイツはねえ、実際のところ橋脚であり陸地である、というべきなのだろうが、しかし。
もともとの地面がどこまであったのかはわからないけど、上の橋を支えるためにゴツイコンクリートで固められている様子は、やはり「橋脚」と呼びたい。それよりも、
もっと気になるとこ、ないですか?
わたくしはありますよ。
あの「巨大橋脚」の右側、流入している支流部分。
橋上から見ると、こう。
向かって左の欄干、
校庭への小径で途切れた先に、また短い欄干が復活しているのがわかるだろう。あれが、支流部分のはず。だがご覧のように左側はすぐに校庭。かんじんの流れは見当たらない。
…そろそろおかしな予感がしてきませんか?(笑)
まあ、詳しくは最終回に(笑)。
つまりは、こういうことですよ。
橋メイニアなら、このパターンは「以前川があったけど埋められた」時に見るヤツだ!とひらめくだろう。
気になるが、ここはガマン。ルーティーン通りに
橋と正対。
どストライク。たまらん好きだ。
そしてこれまたルーティーン通り、親柱チェック。左側は竣功年だった。
そして右側は
「中島橋」。
今さらやけど、漢字ではこういう表記であります。しかし…この「セパレート欄干」、イイわ~。
時系列では、この後まず神子畑小学校跡を見学。その後いよいよ…
【3】に続く。