【前篇】より続く。
「今日はこんなもんでカンベンしといたるわ!」ってことで、一旦隧道から脱出、反対側へと回ることとした。
ノートさんとの2ショット。
二代目・下荒井隧道、京福大野側坑口。
改めて説明しておくと、これは京福電鉄越前本線(現・えちぜん鉄道勝山永平寺線)の、昭和49年8月に廃止された区間(勝山~京福大野)に唯一存在した隧道だったもの。探索時で廃止から36年が経過していたことになる。・・・もちろん現場ではそんなこと知る由もなかったが。
坑口前から線路が延びていたであろう方向を見ても、
一切の痕跡ナッシン。
36年の歳月は伊達ではない・・・。
ところで・・・「二代目」って言葉が気になる方は、もうしばらくお待ちください(笑)。
ところ変わって、反対側にやって参りました。国道157号の下荒井トンネル勝山側、右への細道を入り空き地に駐車。
付近で見つけたものは、
当日の現場においては、完全にウラが取れた瞬間だった。
そこからは、たかだか2分ほどだった。
おぉおおお・・・!
京福大野側の唐突感も素晴らしかったが、勝山側のこのオーラってばもう・・・。ちなみに坑口手前の民家?の位置には、かつて下荒井六呂師口駅があったという。もしかしたら、駅関連の建物が転用されてるのかも。
接近して正対。
遠目には石造か煉瓦造に見えたが、こうして見るとコンクリート造であるのがわかった。
年季の入ったコンクリ物件は、時に物凄いオーラを放つもの・・・ってことをその後現在に至るまでに学んできたが、この時のコイツは正にそれ。いかに倉庫代わりに使われている残念状態であっても。
このトンネル、建造は大正13年。
時代は煉瓦からコンクリへの移行期。当時においては最先端の材料で造られたわけだが・・・。
コンクリートという自在に成型できる部材を手にしたにもかかわらず、隧道の意匠そのものは煉瓦隧道や石造隧道のフォーマットを踏襲している。すなわち、帯石や笠石、切石を模したアーチ環、ピラスター・・・。これはまさに、移行期の隧道に共通するポイントである。
アーチ環の頂部、いわゆる要石に相当する部分である。
アーチ環から上方に帯石まで。Y字型に伸ばされたこの形状は、コンクリートだからこそ表現できたものではなかっただろうか。
まあコレは現在の感想。当時はそんな見識もなかった(笑)。
そして何といっても見逃がせないのがコレ、
この赤色も鮮やかな社章入りの扁額である。
京福電鉄の社章であるこの菱形の意匠は、京福の前身である京都電燈時代から引き継がれているもの。
実は、この意匠が入っている物件を過去にも紹介したことがあるのを憶えてらっしゃる?コレなんだけど。ちょっと感動しない?しないか(笑)。
京都電燈改め京福電気鉄道という社名は、京都と福井というかつて鉄道事業を行っていた土地の名前を一字ずつ取ったもの。現在では京都でしかやってないが。
で、扁額の四文字は絶妙に判読できないのであった・・・。自信あんのは左端の「安」だけ。あとは読めそうで読めないのよね。右端は「吉」、右から二番目は「維」・・・?
で、洞内は、
完全に個人?の物置状態。
進入は憚られたので、自粛しておいた。
これは後で撮ったものだが、
廃線跡の勝山方向を望んだ景。
さて。
そもそも「二代目」っていうフレーズに違和感を持った方もおられるだろう、そうだろう(笑)。
先述のとおり、この隧道は大正13年建造。しかしこの区間が開通したのは、実は大正3年のこと。どういうことかといえば、開業から10年後に線形改良のために路線付け替えが行われたのである。その際に建造されたのがこれ。
つまり、冒頭では唯一と書いたが、実はこの隧道にはわずか10年しか使われなかった初代隧道が別に存在している、ということなのであった。
当日は確信がなかったものの、なんとな~くそんな鉄時代の知識を思い出してそれなりに調べてみたんだったと思う、確か(笑)。
結果、
こういう擁壁に守られた、明らかな平場を見つけた。位置的には国道の下荒井トンネル勝山側坑口の直上あたりじゃなかったか。
ただ当日は他に行きたいところがまだあったし、あまりに予備知識が少なすぎたので、ここで撤退。いつかの機会にリベンジせねば、という因縁の場所になってしまった。
リベンジを果たしたのは、1年10カ月後。その様子は、実は拙ブログ最初期に記事にしております。知ってました?(笑)
冗長な全4回記事ですが、ぜひどうぞ。
以上、完結。