【7】より続く。
曽々木隧道への進入は断念、
踵を返して向かうは…あの場所。
曽々木隧道、真浦側坑口…ってか、洞門?
そう、「あの場所に立つ!」と誓った、約束の地(大げさ・笑)。あの麒山道からここを睨みつけていたのは、ちょうど1時間前のこと。
曽々木隧道と八世乃洞門に挟まれたこの明かり区間、距離的には80mくらいだろうか。
そして向き直れば、
痛ましい。
その時受けた印象を言葉にするのは控えておくが、あえて違う言い方を探すと…まるでフランケンシュタインのような八世乃洞門の姿が。
そして、首をかしげたまま佇む「落石注意」の向こうには、きっと現役時代には誰ひとり気にもとめなかったであろう、地味な橋。
右の親柱。
「ひろきばし」。
左の親柱。
「昭和三十八年一月架」。
八世乃洞門が昭和36年、曽々木隧道が昭和37年完成ということは、この橋の竣工をもって国道が開通したことになる。…いまでは廃道やけど。
海側からのサイド気味アングルで。
これはいわゆる桟橋ですな。しかし地味な橋やな~。
麒山道が遊歩道として現役だった頃、この数十mだけは車道を歩かざるを得なかったわけか…。てか、この橋は間違いなく麒山道を踏んづける形で架けられたことになるな…。
先ほどの「落石注意」を嘲笑うかのように、
路上にデカイ石が鎮座。
波風に洗われるためか、こんなにもキレイな路面の上に、マッシヴな巨石がひとつ。この不条理な光景は、インパクトがあった。
橋上から眺める、
この日は穏やかな日本海。
そんな気はまるでしない…が、ここは紛れもなく廃道上。
そして、真浦側の親柱チェック。
「尋岐橋」。
こういう漢字か~。どういう謂れなのか気になる。
こっちの竣工年、もちろん同じなのだが、
曽々木側とまるで字体が違う。こういうのも地味に珍しいな…。
さて、いよいよ大詰め…
先程は側面から、
今度こそ正面から対峙する、
八世乃洞門…のなれの果て。
このような姿の隧道を、未だかつて見たことがない。やはりこれは、致命的なダメージを受けた曽々木側坑口を、なんとか「強制的に自立させておく」ための措置なのかと。
高さ制限標識が付いている、ということは…やはりこの「強制自立」状態で供用されている期間があったのだろう、新トンネルの完成まで。もちろん鉄扉は、現役を退いてからだと思うが。
1時間少々前に越えられなかった段差を見る。チョロそうに見えるね(笑)。
やはりそうだ、手前の函型コンクリート(なぜかボックスカルバートとは呼ばない気がした)は被災後に設置されたものだろう。気色悪く変形したシェッド部分との間には、コンクリートが充填されているのが見て取れる。
それにしても、
コッチはなんで鉄扉がフルオープンなのかね?
どうせコッチは誰も来ないと思ってる?いや、入っても構わないようになってるのか?
まあ、お誘いは
喜んでお受けしますよ、もちろん。
この感じ…あえて言えば、高速道路下のほとんど使われていないカルバートなんかに近い。ただ、違っているのは…
函型コンクリートを抜けて、
本来の隧道との継ぎ目。
ここでがらっと印象は変わる。やはりこれは隧道「だったもの」なんだよな…。
ここでふと思い出したが、ここを抜けた先は真浦ポケットパーク。そちら側はだれでも簡単にアクセスできるので、先ほど駐車していたときにも休憩ついでに見に行っている人が時々いた。
そんな人に、洞内にいるわたくしに気づかれるのもめんどくさい。いかに、まったく立入禁止を侵さずにそこへ到達したとは言え。
なので…ここまでで止めておいた。
旧・八世乃洞門。それは数奇な運命を受け入れて、今も静かにうずくまっていた。
【9】に続く。